幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「あん」ドリアン助川著 "生きる意味がある! そう信じて生きれば意味が生まれる!”

2019-02-12 01:05:44 | 本の紹介
・世の中には、生まれてたった二年ぐらいでその生命を終えてしまう子供もいます。そうするとみんな哀しみのなかで、その子が生まれた意味は何だったのだろうと考えます。今の私にはわかります。それはきっと、その子なりの感じ方で空や風や言葉をとらえるためです。その子が感じた世界は、そこに生まれる。だから、その子にもちゃんと生まれてきた意味があったのです。
  ハンセン病におかされた者だけではなく、きっと誰もが、自分には生きる意味があるのだろうかと考える時があるかと思います。
その答えですが・・・生きる意味はあるのだと、私には今、はっきりわかります。もちろん、だからといって目の前の問題が解決されるわけではなく、生きていくことは苦しみの連続だと感じられる時もあります。
私ね、とても嬉しかったのですよ。裁判で勝って、私たちを閉じ込めた法律が禁止されて、自由に外を歩けるようになった時、だって、それを目指してみんなで何十年も頑張ってきたのですから。
だけど、その喜びは苦しみと背中合わせでした。
・・・
店長さん。あなたももちろん、生きる意味がある人です。
 ⇒小児病棟で遊びのボランティアをしばらくしていました。白血病やがんに罹っている子どもたちが多くいました。子どもたちと一緒に遊ぶのですが、違うところは、髪の毛が抜けている子どもがいること、点滴のチューブを付けている子どもがいることでした。子どもたちも遊びたいのです。闘病生活は大人でも苦しいものです。ましてや子どもにとっては遊ぶこともなかなかできません。その子どもたちに様々な遊びを提供していました。でも、2~3割の子どもたちは亡くなっていました。また良くなっても不自由さを抱えて生きなければならない子どもたちもいました。亡くなるこどもたちの人生に意味があったかどうか? 意味があったと思いたいです。それは子どもたちが精いっぱい生きたこと、それが蒔いた種となり、多くの人の心の中で成長し花を咲かせることなのだと思いました。

・徳江さんが、何度も何度も断られても、どら焼きの仕事をしたいと。
 ⇒やはりやりたいと思ったら断られても何度も挑戦することなのでしょう。

・草津の施設に重監房があり、反抗的だった人を所長の判断で送ることができた。病棟ではなく粗末な施設で、93人が入所させられ、その内23人が亡くなった。
 ⇒言うことを聞かない人や抵抗する人に対して強制的に隔離して懲罰を架していたことを知り、愕然としました。

・入所者どうしが結婚する条件は男性が断種することであった。それは隔離して無くするとの目的からだった。
 ⇒らい菌はなくなっており、子どもがハンセン病になることはないのですが。精神疾患者にも強制断種させてきましたが、この考えが優秀な民族を残していくとのナチスの思考にも通じるように思いました。

・井深八重さん
 ⇒ハンセン病と診断され施設に入所するが誤診だとわかっても施設を離れず、看護師の勉強をしてハンセン病患者さんの看護に一生を支えました。

・「わたしが・棄てた・女」遠藤周作著
 井深八重さんがモデルと言われています。

・「生きがい」神谷美恵子著
 ハンセン病患者さんのメンタルケアを担当され続けました。衣食住が確保されていても、入所者の顔には覇気がないのはどうしてだろう?と考え、人は誰かのために、何かのために、社会に役立っているとの思いがないと生きづらいとの考えに辿り着きました。

・「砂の器」松本清張著
 ⇒ハンセン病に罹った父親と子どもが村を追われ旅します。同じような苦しみを体験した人も多かったのだと思います。
 
 らい予防法(1953年公布)は隔離するが方針でした。特効薬が見つかり、らい菌は消えましたが、法は存続し続け隔離が続きました。入所者たちが団結して国と戦いましたが、苦しい闘いが続き、1996年に廃止されました。この法律の違法性も熊本裁判所で認定されました。

国際的には1956年カトリック・マルタ騎士会の主催する「ハンセン病患者の経済及び社会復帰に関する国際会議」が、世界51か国の代表250名を集めて、ローマで開催されました。
http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/kaga25.htm より
会議は三日間にわたって開かれ、最終日にはおおよそ次のような決議がなされた。
○らいに感染した患者にはどのような特別規則をも設けず、結核などほかの伝染病の患者と同様に取り扱われること。従ってすべての差別法は廃止さるべきこと。
○らいが問題となっている国においては公衆に真の性質を理解させ、この病気に結びついている偏見及び迷信を除去するような啓蒙手段を講ずること。
○患者は、その病気の状況が、家族などに危険を及ぼさない場合には、その家に留めておくべきこと。他。
この国際決議文によって世界のハンセン病対策は大きな変化を遂げた。
 世界各国はこの国際決議によって経済力のある菌陰性患者は療養所から退所させ、ハンセン病の治療を在宅治療に切り替え始めた。ハンセン病先進国のノルウェーでは、当時既に患者の絶対数が七名にまで減少していたが、即座に隔離政策を廃止、社会看護法に切り替え、長年の隔離に対して誤った対処をした補償として、国が、医療・生活も最後の一人まで看取っている。
 また、会議の中で、日本の長年に渡る隔離政策および「らい予防法」に対し、厳しい非難が寄せられ、人権上からも速やかに廃止すべきである、と日本政府は強い勧告を受けた。
 このローマ国際会議は全国の患者にとってまさに福音であった。国際的にも隔離の誤りが認められ、社会復帰への道が拓けたかのように思われた。
 ところが厚生省がその重い腰を挙げ、菌陰性者の軽快退所基準を示したのは、それから二年も過ぎた昭和三十三年のことである。この退所基準も当初は入所者には知らされず、施設職員にのみ流布するという陰険なやり口であった。
 一部希望者には藤楓協会を通じて退所支度金三万円、技能取得金四万五千円を支給したが、「らい予防法」が現存する限り、ハンセン病患者は国民健康保険を始め、あらゆる保健から除外されており、社会生活を営む上で必要な措置は講じられていなかった。
 これはハンセン病療養所が国費で賄われていることに起因するものらしいが、つまるところ、本格的な社会復帰は初めから考慮されていなかったのである。
 それでも、愛生園のなかにも希望者がおり、この制度の適用を受け、退所する者が続出した。また、藤楓協会の支度金、技能習得金を受けないで、一時帰省を申請し、そのまま社会復帰する者も多く見られるようになった。
 ところが、復帰した者の実際の社会生活は悲惨であった。後遺症が残る者は常に人々の視線に晒され、根強い偏見が残っていることを考えると、家族の元に帰ることははばかられた。したがって多くの者が都会に潜行し、底辺労働に従事するようになった。しかし長期に渡る療養生活のため、健康や体力に自信がもてず、肉体労働で肉体を酷使して身体を壊すと、今度は国民健康保険が使用できないため一般病院での診察を断られてしまう。
 こうして、せっかく社会復帰を果たしても、何か病気にかかると、たちまち療養所に舞い戻るという、その繰り返しの生活を送る者が多く見受けられるようになった。

ボランティアを28年ほど続けています。それは税金などのお金だけでなく、大切な時間も社会のために使いたいとの思いからです。
 生まれる前に神様が言いました。あなたはどちらの社会に生まれたいですか? 希望する社会に送り出します。その代わりしっかりとその社会で受けることを引き受けてください。
 社会A;ある一定の割合で障害者や子どものときに重い病気になり亡くなることもあります。そういう使命を担うか、健常者として(あるいはそういう病気にならない)生まれるかはわかりません。健常者として生まれたらあなたの人生自分のためだけに使うことができます。障害を持って生まれると社会の支援もなく苛酷な人生を送ります。
 社会B;健常者として生まれたら、あなたの大切なお金や時間を障害を持って生まれた人にために使わなければなりません。障害者として生まれたら社会のさまざまな支援を受けることができます。
さあ、あなたはどちらの社会に生まれたいかを神様に言いますか?
私は社会Bに生まれたいと神様に言いました。それを思い出してボランティア活動を続けています。そう信じることにしました。