幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した」 "人の中にある差別や利己的な考えがヒトラーを生み出した”

2019-02-24 02:00:00 | 本の紹介
マイケル・ボーンスタイン&デビー・ボーンスタイン・ホリンスタート(娘)
感想
その時その時の選択が生死を分けていたと。
収容所から解放されて家に戻ったら、他の人が住んでいたとか。
戻ってきた人を追い出そうとする人もいたとか。
人の心にある差別や利己的な心がヒトラーを生み出したのでしょう。
解放されたから全てがよくなったかということでもなかったようです。

生きようとする精神力があった人はそれから新しい人生を切り開かれていかれたようです。
主人公の母親(夫と長男はアウシュヴィッツで解放の4か月前にガス室へ)は子どもを連れて米国移住を決断したとのことでした。
杉原千畝さんに救われた親戚もいたとありました。

この本はジャーナリストの娘さんが親戚の人の話や、記録を調べて、4歳の子どもがなぜ生還できたかを調べたとのこと。
ソ連がアウシュヴィッツから人々を救う記録映画に映っていたのを見て、記録に残したいと思い、娘に相談したと。
でもこの記録映画は、記録映画のために、再度収容所での服を着てもらい撮影したとありました。

本より
・ナチス政権はポーランドの全てのゲットーや町にユダヤ人評議会を設立せよと宣言したのだ。そこに所属する人間はドイツに協力し、ドイツがユダヤ系住民への支配を強めたり、秩序を保ったりする手助けをしなければならない。評議会のリーダーは住民からほどなく裏切り者扱いされ、ユダヤ人の敵とみなされるようになった。でも、僕の父さんには選択権がなかった。ユダヤ人コミュニティの長老たちから議長に指名されたからだ。

・ナチスの警察の将校を買収(!)しようというそのあまりに大胆な行為に、シュミット(将校)はあやうく笑いかけた。「私がこのカネをとり、銃弾をおまえの頭にぶち込むとはなぜ思わない?」
強暴な警察団はジャルキ(町)から近隣の町へと移され、二度と戻ってこなかった。

・アウシュヴィッツの絶望の日々にもほんの小さな光はあった。僕らの場所には日中、子守としてユダヤ人の囚人が一人割り当てられていた。その親切な男の人は、床の塵の上に絵や字を書いて、物語を聞かせてくれた。体が衰えても、心まで衰えることはないのだと、その人は教えてくれた。彼は僕らに言葉の綴り方や読み方を教えてくれたけれど、すべては秘密裏にこっそり行われていた。子どもに勉強を教えているのがばれたら、その人は確実に殺されていただろう。

・母さんは僕のことを考えた。自分が守ってやらなければ、アウシュヴィッツで一週間も生きられないかもしれない小さな息子のことを考えた。母さんは最後の力を振り絞り、絶望を脇に追いやった。絶望したければ、もっとあとですればいい。でも今は、残された一人の息子を全力で守らなければ-。

・僕はふらふらになっていた、歩くなど-いや、立ち上がることすら-とてもできそうになかった。おばあちゃんっは藁の寝床から僕を抱き上げた。藁は汗で湿っていた。診療所の入り口にも見張りはいなかった。
目覚めるとそばにおばあちゃんが立っていて、その隣に医師がいた。医師はドイツ人で、ナチスの制服を着ていたけれど、その表情から、親切な人なのだとわかった。医師は僕に、ひどい病気なので少なくとも五日間は-途中で僕が死んでしまわないかぎり-診療所にいるようにと言った。メンゲレはもうすでに、ほかの高位の将校らとともに収容所を去っていた。
イスラエルのヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館が所蔵する資料の中に、アウシュヴィッツで入所者についての手書きのリストがあり、僕の当時の状況に関する記述もあった。「distorophie(ジフテリア?)」というラテン語の医学用語。

・アウシュヴィッツに貨物列車で移送された数十万人の子どものうち、生きて収容所を出られた八歳以下の子どもはわずか52人だった。みんな世界一の隠れんぼも名手だ。僕もそのうちの一人だった。

・「失礼ですが、ここは私の家です。戦争の前から何年もここに住んでいました。あの当時-」(おばあちゃん)
「あんた、ユダヤ人だね? あのかまどから、どうやって逃げ出してきたのさ? ずるがしこい女だね。仲間と一緒に焼かれちまえばよかったものを。さあ、とっととうちの玄関から出ていっておくれ。でないと警察を呼ぶよ」

・それは僕らの旅の終わりではなく、始まりに過ぎなかった。問題は、僕たちの心の痛みが終わりにならなかったことだ。ドイツの多くの人々はあいかわらずユダヤ人を抜くんでいた。そして僕はまもなく、その苛酷な事実を思い知らされることになる。(収容所から解放後)

・住むべき町に着いたものの、住むべき家はない。僕の具合があまりに悪かったので、最初はユダヤ移民支援協会の世話になった。

・父イズラエル・ボーンスタインはオープン・ゲットーとなったジェルキのユダヤ人評議会議長として、何百人もの命を救い、影響力のある立場をできるかぎり利用してゲットーの状況をはるかに耐えやすいものにしたと言われている。残念なことに父は自分の息子-私の兄サミュエル-や自分自身命を救ことはできなかった。