3人娘でまた今全国を回っている。
1947年生まれ。「小指の思い出」が大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞受賞。
2005年には40年ぶりに園まりさん、中尾ミエさんとの3人娘が復活。
何度も母親が変わった辛い過去があった。
「スパーク3人娘」で出演。ツイストで腰を振るのはよくないと言われた。
校長室に呼ばれて、「あの踊りはなんですか? その髪(短い)はどうしてか?」と問い詰められた。
「仕事ですから」と言ったら、「あなたの仕事は学生でしょう!」と校長先生に言われた。
3人娘復活するとき、園まりさんが躊躇していた。二人で盛んに誘ったが、頑固なところもあって固辞されていた。
でもずっと誘っていたら、番組で園まりさんがポップスやったら、気持ちが変わって「三人娘」やってもいいと。
中尾ミエさんと同じ事務所で四六時中一緒。よくケンカした。
朝ふてくされてなかなか起きなかった。パジャマの上にコートを着たままスタジオに行った。
どうせ着替えるのなので。それが中尾さんには態度が悪いと思われた。当時はふてくされていた。
もっとまじめにやっていたら大スターになっていた。
1曲目、ユニー・フランスの「ボーイ・ハント」
“ユニフラ”の日本語に感服した。ユニフラの泣き節は有名だった。
6歳のころ歌手活動始める。ミュージシャンだった父と二人三脚で始めた。
小さい頃、暗いタイプだったので、人前で歌わせてやると明るくなると。
でも嫌で嫌で仕方なかった。歌うことが大嫌いで何時か辞めてやろうと思っていた。
テネシー・ワルツを英語で歌った。英語の発音の先生が来ていた。歌詞を壁に書いて覚えろと言われた。
できないと父は口より手が早い人だったので殴られた。泣くと近所の人が出てくるので、泣くのも我慢した。
江利チエミさんが高倉健さんと結婚するので代わりの人を探していて、そしてキングレコードに拾ってもらった。
それまで父との生活が続いていた。
「小指の思い出」は私の歌ではない、園まりさんの歌だと思った。当時20歳。その歌詞の意味は理解できなかった。
歌詞の説明をしてくれたが、何で説明してくれていたがわからなかった。泣きながらレコーディングした。しばらく歌わなかった。
結婚したのが24歳。佐川満男さん。娘が生まれて税務署から差し押さえが来た。
父が税金を払っていなかった。娘が生まれていた。キャバレーからの仕事があったので、1年で借金を返した。
佐川満男さんに払って貰おうとは思わなかった。
娘を育てながら歌手できないかなと思ったが、できなかった。妻、母、歌手は出来なかったので離婚した。
母親が何度も変わった。父の戸籍は×点4つある。
私を産んでくれた母親は唐草模様の風呂敷を持って、私たちを見ながらそっと出ていった。
棄てられたと思った。数か月後母は来て、弟を連れて帰った。私は捨てられたと思ったので行かなかった。
二度目の母は箸の持ち方を注意した。箸の持ち方も注意されたことがなかった。
母は私の代わりに授業に出てノートを取ってくれていたが嫌だった。
その後の母は若い人ですぐにまた父は別れた。
生みの母と50年ぶりに再会した。母の胸は厚いんだなと思った。
ちゃきちゃきな母だった。その血が流れているんだな。私はもともとは暗いタイプではないんだなと実感した。
橋幸夫さんたちと全国で公演でまわっている。歌手仲間とのおしゃべりが楽しい。
緞帳の前でいろいろしゃべっている。食べ物や、何か面白い話ないとか。
2曲目、江利チエミさんの「テネシー・ワルツ」
嫌で嫌で仕方なかった曲が今は楽しくてステージでよく歌っている。
最期の“うたう”ではなく、“うとお”が一番過ぎ。園まりさんはひばりさんの歌を、私は江利チエミさんの歌を歌っている。
感想;
テレビの画面からは分からない、知らないことがあったのを初めて知りました。
4人も母親が変わったとのことです。
華やかなイメージしかなかったです。
人生はいろいろあるんだなと思いました。
1947年生まれ。「小指の思い出」が大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞受賞。
2005年には40年ぶりに園まりさん、中尾ミエさんとの3人娘が復活。
何度も母親が変わった辛い過去があった。
「スパーク3人娘」で出演。ツイストで腰を振るのはよくないと言われた。
校長室に呼ばれて、「あの踊りはなんですか? その髪(短い)はどうしてか?」と問い詰められた。
「仕事ですから」と言ったら、「あなたの仕事は学生でしょう!」と校長先生に言われた。
3人娘復活するとき、園まりさんが躊躇していた。二人で盛んに誘ったが、頑固なところもあって固辞されていた。
でもずっと誘っていたら、番組で園まりさんがポップスやったら、気持ちが変わって「三人娘」やってもいいと。
中尾ミエさんと同じ事務所で四六時中一緒。よくケンカした。
朝ふてくされてなかなか起きなかった。パジャマの上にコートを着たままスタジオに行った。
どうせ着替えるのなので。それが中尾さんには態度が悪いと思われた。当時はふてくされていた。
もっとまじめにやっていたら大スターになっていた。
1曲目、ユニー・フランスの「ボーイ・ハント」
“ユニフラ”の日本語に感服した。ユニフラの泣き節は有名だった。
6歳のころ歌手活動始める。ミュージシャンだった父と二人三脚で始めた。
小さい頃、暗いタイプだったので、人前で歌わせてやると明るくなると。
でも嫌で嫌で仕方なかった。歌うことが大嫌いで何時か辞めてやろうと思っていた。
テネシー・ワルツを英語で歌った。英語の発音の先生が来ていた。歌詞を壁に書いて覚えろと言われた。
できないと父は口より手が早い人だったので殴られた。泣くと近所の人が出てくるので、泣くのも我慢した。
江利チエミさんが高倉健さんと結婚するので代わりの人を探していて、そしてキングレコードに拾ってもらった。
それまで父との生活が続いていた。
「小指の思い出」は私の歌ではない、園まりさんの歌だと思った。当時20歳。その歌詞の意味は理解できなかった。
歌詞の説明をしてくれたが、何で説明してくれていたがわからなかった。泣きながらレコーディングした。しばらく歌わなかった。
結婚したのが24歳。佐川満男さん。娘が生まれて税務署から差し押さえが来た。
父が税金を払っていなかった。娘が生まれていた。キャバレーからの仕事があったので、1年で借金を返した。
佐川満男さんに払って貰おうとは思わなかった。
娘を育てながら歌手できないかなと思ったが、できなかった。妻、母、歌手は出来なかったので離婚した。
母親が何度も変わった。父の戸籍は×点4つある。
私を産んでくれた母親は唐草模様の風呂敷を持って、私たちを見ながらそっと出ていった。
棄てられたと思った。数か月後母は来て、弟を連れて帰った。私は捨てられたと思ったので行かなかった。
二度目の母は箸の持ち方を注意した。箸の持ち方も注意されたことがなかった。
母は私の代わりに授業に出てノートを取ってくれていたが嫌だった。
その後の母は若い人ですぐにまた父は別れた。
生みの母と50年ぶりに再会した。母の胸は厚いんだなと思った。
ちゃきちゃきな母だった。その血が流れているんだな。私はもともとは暗いタイプではないんだなと実感した。
橋幸夫さんたちと全国で公演でまわっている。歌手仲間とのおしゃべりが楽しい。
緞帳の前でいろいろしゃべっている。食べ物や、何か面白い話ないとか。
2曲目、江利チエミさんの「テネシー・ワルツ」
嫌で嫌で仕方なかった曲が今は楽しくてステージでよく歌っている。
最期の“うたう”ではなく、“うとお”が一番過ぎ。園まりさんはひばりさんの歌を、私は江利チエミさんの歌を歌っている。
感想;
テレビの画面からは分からない、知らないことがあったのを初めて知りました。
4人も母親が変わったとのことです。
華やかなイメージしかなかったです。
人生はいろいろあるんだなと思いました。