・このような状況(震災直後)では、残念ながら精神科医はあまり出番がなかった。だが、緊急外来の廊下でぼう然とたたずみ、あるいは悲しみをこらえきれない遺族の姿を見て、私は被災者の心の傷の深さを思った。そして、身体的な救命救急の時期が終われば、精神科の仕事はかならず忙しくなるだろうと考えた。
・わたしは、その悲惨さに動揺しながらも、慣れない業務を続けた。「この書類がないと葬式も出せない」と思うと「出来るだけ多くの遺体の検案をしなければならない」という使命感があった。
・ドイツの精神科医ハンス・ビュルガーブンツは、ナチスの強制収容所から解放された人たちのうつ病を「根こそぎうつ病」と呼んだ。生活の基盤をすべて喪失することを「根こぎ」と表現したのである。
・“非日常”の中で”日常“を求めて働く人と、”日常“を飛び出して”非日常“に入り込む人とが同じ職場で働いている。それはふしぎな光景であった。
・「もう、なくなったもんはしょうがない」
「先のことはわからへん。先のこと考えたら落ち込むから、考えないようにしてる」
「はやく仮設住宅に入れてもらって、それからのことはそれから考えるわ」
・<心のケア>を行うためには、避難所という混沌とした状況の中に、なんらかのシステムをつくり上げていくことが必要だった。
・意外に思われるかもしれないが、震災後すぐは「躁病」が多かった。
・そう鬱病の患者さんの場合には、その覚醒と興奮が普通以上に激しく現れたのだろう。それとは逆に、長年のうつ病や強迫神経症に悩む患者さんたちが、地震直後には元気に活動でき、病気が治ったようだった、というエピソードも多くあった。
・西市民病院は全壊したために、職場を失った看護婦さんたちが、神戸市内の各避難所に配属されたのである、湊川中学校に来ていた看護師さんたちは大半が家をなくしていた。まさに被災者が被災者を看ていたのである。
・避難所内でまず問題になったのは、朝から飲酒して生活のリズムを崩している人たちだった。治療を受けていないアルコール症者が多いようだったが、なかには数年間断酒していたにもかかわらず、震災後のストレスによって再飲酒しはじめた人もいた。
・その中には、今まで治療を受けたことのない人たちもいた。彼らは行動に奇妙さを残しながらも、家族のサポートによって地域社会の中では生きていくことができたのだった。こういう人たちの存在は、私を敬虔な気持ちにする。精神病を「医学」によって治療しつくそうという考えは、つくづく傲慢であると感じるのである。
・「忙しくさせて、すいませんでしたね」、私は言った。
「でも、せんせいたちがいてくれてよかった。ずいぶん気が紛れたし、安心していろいろできたと思う。ありがとう」、ナースのNさんはそう答えてくれた。
私はそれを聞いて、はじめて報われた気がした。自分のしたことが邪魔にならなかったことに、ほっとした。避難所での活動に、じつを言うと、私はぜんぜん達成感をもつことができなかった。救援にかけつけて来てくださったボランティア医師たちには申し訳なかったのが、「これが何かの役にたっているのだろうか」という気持ちをずっとぬぐえなかった。最後の日になって、Nさんのことばを聞いてはじめて安心し、自分がひどい無力感にとらわれ続けていたことに気がついたのである。
・三歳くらいの女の子を救急車で病院に運んだものの結局助からなかった。という現場に立ち会った救急隊員は、こう記している。
「私が殺した」と、母親が号泣。
「くそ!、くそ!」と父親が叫ぶ。
私にも子どもがいる。どうしてもだぶらせて考えてしまう。目頭が熱くなる。このような悲しい場面の連続で、「夢ではないか、夢であったほしい」と願う。
・「消防はなにやってるんや」と罵声があびせられたそうである。
手記を見ると、隊員たちがその罵声にとても傷ついていることがよくわかる。
本来、住民から感謝されるはずの救助者が罵声を受けた。それは隊員たちのせいではなく、ひとえに災害の規模が大きすぎたせいである。
・アール・A・グロルマンは「どうしたら悲しみが早く消えるか、その一般的な方法をお教えすることはえきない」としながら、「死別の悲しみを癒すための10の指針」(「愛する人を亡くした時」)として、次のような項目を挙げている。
1)どのような感情もすべて受け入れよう。
2)感情を外に表そう。
3)悲しみが一夜にして癒えるなどとは思わないように。
4)わが子とともに悲しみを癒そう。
5)孤独の世界へ逃げ込むのは、悲しみを癒す間違った方法。
6)友人は大切な存在。
7)自助グループの力を借りて、自分や他の人を助けよう。
8)カウンセリングを受けることも悲しみを癒すのに役に立つ。
9)自分を大切に。
10)愛する人との死別という苦しい体験を意味ある体験に変えるよう努力しよう。
・(中学一年、T・Mさん)
もし、死んでもべつにくいはないから、しにたかったな。
そうしたら、そのかわりにお父さんもお母さんも助かったかもしれないのに・・・。
ごめんなさい。
・(短大一年、U・Iさん)
家はあっと言う間に炎に包まれました。家族の声は聞こえていたのに、火の勢いはすごすぎて、どうすることもできませんでした。
ずっと私一人が助かったことを後悔しました。
・兵庫県臨床心理士会が開いた電話相談「心のホットライン」にも、子どもに関するさまざまな訴えが寄せられている。上位は次のとおり。
1) 学校へ行きたがらない(24%)
2) 夜驚・夜泣き(16%)
3) 母子分離不安(赤ちゃん返り)(12%)
4) 恐がる(8%)
・神戸市内で開業する精神科医の小林和さんの呼びかけで、電話相談に携わる人たちの連絡会が開かれた。100人以上の人たちが集まっていて、私もその会に出席していた。小林さんは自分の診療所の一角を提供し、震災後いちはやく24時間の電話相談をはじめた人である(「震災後の心のストレス相談センター」)
・避難所の中ではじっくり電話をするようなプライバシーは確保しにくかった。そのためか電話相談の利用者は、在宅の人が多かったようである。
・「こころのケアセンター」の加藤寛医師は、心のケア活動を、次の三つに分けて説明してくれた。
1) 個人のケアである。
2) 地域のケアである。
3) ケアをする人のケアである。
・仮設住宅の大きな問題の一つは、住み慣れた地域を離れるということである。
・「もう今月は、ほとんどお金がないんや」
Rさんは心細そうにそう言った。Rさんだけでなく、経済的な苦しさは仮設住宅に暮らす人たちの大部分に共通することであろう。
・救援活動がはなばなしく報じられた震災直後の2~3月を過ぎ、世間の被災地に対する注目が薄れてきたころに、「自殺」「孤独死」という問題が浮上してきた。
・震災後の自殺には、あきらかに他者との関係、仕事との関係がなく、彼らが非常に孤独であったことがうかがえる。
・自殺と孤独死を防ぐためには、とにかく孤立を避けるしかない。人と人とのつながりを絶やさないようにすることが大切なのだ。
・ジョン・ボウルビイは「悲哀」を四つの段階に分けている(「抑うつと悲哀」)
1) 無感覚
2) 失われた対象を取り戻そうとする活動
3) 抑うつ
4) 離脱
・1994年のノースリッジ地震においてEOC(Emergency Operation Center)は、救援活動に優先順位を決定した。
1) 避難所の確保・必需品の確保
2) 可及的早期に自活自立させること
3) 経済的な復興を進めること
4) メンタルヘルス
・デビット・ロモは被災者から話を聞くという技術を、「アクティブ・リスニング」と名づけている。
・「聞き役」に徹する
・話の主導権をとらずに相手のペースに委ねる
・話を引き出すよう、相槌を打ったり質問を向ける
・事実⇒考え⇒感情の順が話しやすい
・善悪の判断や批評はしない
・相手の感情を理解し、共感する
・ニーズを読み取る
・安心させ、サポートする
・ヴァン・デア・コルクはPTSDの治療には四つの主要素があるという。
1) 安全であるという感覚を取り戻す。
2) その恐ろしい体験と折り合いをつける。
3) 生理的なストレス反応を統制する。
4) 安定した社会的つながりと対人関係における効力を再確立する。
・ボランティアは、当事者か、第三者か、という対立に「当事者を理解しようとする第三者」という新しい次元をもち込んだ。ボランティアの役割は「存在すること」であるという中井久夫氏の至言がある。つまりボランティアは、居てくれるだけで価値がある。
・さゆり会(子どもを亡くした親の会)の参加者の方々には共通する気持ちがあるようだ。それはたとえば次のようなものである。
1)「不条理な死」を受け入れられない気持ちがある。
2)死に直面して自分を責める気持ちがある。
3)死に関係した人々を責める気持ちである。
・虚無感を癒すのはモノではなく、人との結びつき
・精神医学や心理学の世界では、意志の問題ってあまり扱わないんです。全てを「原因と結果」で考えますから、人の意志の部分までは考えにくい。結局、これからも被災者が何か「希望を失わないような意志」とでもいうか、精神的に虚無にならないように支える活動が必要だと思うんです。
感想;
著者は40歳になる数日前に亡くなられました。
震災直後から多くの被災者の支援に携われた医師の記録と経験だけに多くのことを教えているように思いました。
自分が困難に出遭ったとき、どう気持ちをたもつことができるかわかりませんが、いろいろなことを学んでいると、予防注射のワクチンのように酷くならずに立ち直れるのかもしれません。
・わたしは、その悲惨さに動揺しながらも、慣れない業務を続けた。「この書類がないと葬式も出せない」と思うと「出来るだけ多くの遺体の検案をしなければならない」という使命感があった。
・ドイツの精神科医ハンス・ビュルガーブンツは、ナチスの強制収容所から解放された人たちのうつ病を「根こそぎうつ病」と呼んだ。生活の基盤をすべて喪失することを「根こぎ」と表現したのである。
・“非日常”の中で”日常“を求めて働く人と、”日常“を飛び出して”非日常“に入り込む人とが同じ職場で働いている。それはふしぎな光景であった。
・「もう、なくなったもんはしょうがない」
「先のことはわからへん。先のこと考えたら落ち込むから、考えないようにしてる」
「はやく仮設住宅に入れてもらって、それからのことはそれから考えるわ」
・<心のケア>を行うためには、避難所という混沌とした状況の中に、なんらかのシステムをつくり上げていくことが必要だった。
・意外に思われるかもしれないが、震災後すぐは「躁病」が多かった。
・そう鬱病の患者さんの場合には、その覚醒と興奮が普通以上に激しく現れたのだろう。それとは逆に、長年のうつ病や強迫神経症に悩む患者さんたちが、地震直後には元気に活動でき、病気が治ったようだった、というエピソードも多くあった。
・西市民病院は全壊したために、職場を失った看護婦さんたちが、神戸市内の各避難所に配属されたのである、湊川中学校に来ていた看護師さんたちは大半が家をなくしていた。まさに被災者が被災者を看ていたのである。
・避難所内でまず問題になったのは、朝から飲酒して生活のリズムを崩している人たちだった。治療を受けていないアルコール症者が多いようだったが、なかには数年間断酒していたにもかかわらず、震災後のストレスによって再飲酒しはじめた人もいた。
・その中には、今まで治療を受けたことのない人たちもいた。彼らは行動に奇妙さを残しながらも、家族のサポートによって地域社会の中では生きていくことができたのだった。こういう人たちの存在は、私を敬虔な気持ちにする。精神病を「医学」によって治療しつくそうという考えは、つくづく傲慢であると感じるのである。
・「忙しくさせて、すいませんでしたね」、私は言った。
「でも、せんせいたちがいてくれてよかった。ずいぶん気が紛れたし、安心していろいろできたと思う。ありがとう」、ナースのNさんはそう答えてくれた。
私はそれを聞いて、はじめて報われた気がした。自分のしたことが邪魔にならなかったことに、ほっとした。避難所での活動に、じつを言うと、私はぜんぜん達成感をもつことができなかった。救援にかけつけて来てくださったボランティア医師たちには申し訳なかったのが、「これが何かの役にたっているのだろうか」という気持ちをずっとぬぐえなかった。最後の日になって、Nさんのことばを聞いてはじめて安心し、自分がひどい無力感にとらわれ続けていたことに気がついたのである。
・三歳くらいの女の子を救急車で病院に運んだものの結局助からなかった。という現場に立ち会った救急隊員は、こう記している。
「私が殺した」と、母親が号泣。
「くそ!、くそ!」と父親が叫ぶ。
私にも子どもがいる。どうしてもだぶらせて考えてしまう。目頭が熱くなる。このような悲しい場面の連続で、「夢ではないか、夢であったほしい」と願う。
・「消防はなにやってるんや」と罵声があびせられたそうである。
手記を見ると、隊員たちがその罵声にとても傷ついていることがよくわかる。
本来、住民から感謝されるはずの救助者が罵声を受けた。それは隊員たちのせいではなく、ひとえに災害の規模が大きすぎたせいである。
・アール・A・グロルマンは「どうしたら悲しみが早く消えるか、その一般的な方法をお教えすることはえきない」としながら、「死別の悲しみを癒すための10の指針」(「愛する人を亡くした時」)として、次のような項目を挙げている。
1)どのような感情もすべて受け入れよう。
2)感情を外に表そう。
3)悲しみが一夜にして癒えるなどとは思わないように。
4)わが子とともに悲しみを癒そう。
5)孤独の世界へ逃げ込むのは、悲しみを癒す間違った方法。
6)友人は大切な存在。
7)自助グループの力を借りて、自分や他の人を助けよう。
8)カウンセリングを受けることも悲しみを癒すのに役に立つ。
9)自分を大切に。
10)愛する人との死別という苦しい体験を意味ある体験に変えるよう努力しよう。
・(中学一年、T・Mさん)
もし、死んでもべつにくいはないから、しにたかったな。
そうしたら、そのかわりにお父さんもお母さんも助かったかもしれないのに・・・。
ごめんなさい。
・(短大一年、U・Iさん)
家はあっと言う間に炎に包まれました。家族の声は聞こえていたのに、火の勢いはすごすぎて、どうすることもできませんでした。
ずっと私一人が助かったことを後悔しました。
・兵庫県臨床心理士会が開いた電話相談「心のホットライン」にも、子どもに関するさまざまな訴えが寄せられている。上位は次のとおり。
1) 学校へ行きたがらない(24%)
2) 夜驚・夜泣き(16%)
3) 母子分離不安(赤ちゃん返り)(12%)
4) 恐がる(8%)
・神戸市内で開業する精神科医の小林和さんの呼びかけで、電話相談に携わる人たちの連絡会が開かれた。100人以上の人たちが集まっていて、私もその会に出席していた。小林さんは自分の診療所の一角を提供し、震災後いちはやく24時間の電話相談をはじめた人である(「震災後の心のストレス相談センター」)
・避難所の中ではじっくり電話をするようなプライバシーは確保しにくかった。そのためか電話相談の利用者は、在宅の人が多かったようである。
・「こころのケアセンター」の加藤寛医師は、心のケア活動を、次の三つに分けて説明してくれた。
1) 個人のケアである。
2) 地域のケアである。
3) ケアをする人のケアである。
・仮設住宅の大きな問題の一つは、住み慣れた地域を離れるということである。
・「もう今月は、ほとんどお金がないんや」
Rさんは心細そうにそう言った。Rさんだけでなく、経済的な苦しさは仮設住宅に暮らす人たちの大部分に共通することであろう。
・救援活動がはなばなしく報じられた震災直後の2~3月を過ぎ、世間の被災地に対する注目が薄れてきたころに、「自殺」「孤独死」という問題が浮上してきた。
・震災後の自殺には、あきらかに他者との関係、仕事との関係がなく、彼らが非常に孤独であったことがうかがえる。
・自殺と孤独死を防ぐためには、とにかく孤立を避けるしかない。人と人とのつながりを絶やさないようにすることが大切なのだ。
・ジョン・ボウルビイは「悲哀」を四つの段階に分けている(「抑うつと悲哀」)
1) 無感覚
2) 失われた対象を取り戻そうとする活動
3) 抑うつ
4) 離脱
・1994年のノースリッジ地震においてEOC(Emergency Operation Center)は、救援活動に優先順位を決定した。
1) 避難所の確保・必需品の確保
2) 可及的早期に自活自立させること
3) 経済的な復興を進めること
4) メンタルヘルス
・デビット・ロモは被災者から話を聞くという技術を、「アクティブ・リスニング」と名づけている。
・「聞き役」に徹する
・話の主導権をとらずに相手のペースに委ねる
・話を引き出すよう、相槌を打ったり質問を向ける
・事実⇒考え⇒感情の順が話しやすい
・善悪の判断や批評はしない
・相手の感情を理解し、共感する
・ニーズを読み取る
・安心させ、サポートする
・ヴァン・デア・コルクはPTSDの治療には四つの主要素があるという。
1) 安全であるという感覚を取り戻す。
2) その恐ろしい体験と折り合いをつける。
3) 生理的なストレス反応を統制する。
4) 安定した社会的つながりと対人関係における効力を再確立する。
・ボランティアは、当事者か、第三者か、という対立に「当事者を理解しようとする第三者」という新しい次元をもち込んだ。ボランティアの役割は「存在すること」であるという中井久夫氏の至言がある。つまりボランティアは、居てくれるだけで価値がある。
・さゆり会(子どもを亡くした親の会)の参加者の方々には共通する気持ちがあるようだ。それはたとえば次のようなものである。
1)「不条理な死」を受け入れられない気持ちがある。
2)死に直面して自分を責める気持ちがある。
3)死に関係した人々を責める気持ちである。
・虚無感を癒すのはモノではなく、人との結びつき
・精神医学や心理学の世界では、意志の問題ってあまり扱わないんです。全てを「原因と結果」で考えますから、人の意志の部分までは考えにくい。結局、これからも被災者が何か「希望を失わないような意志」とでもいうか、精神的に虚無にならないように支える活動が必要だと思うんです。
感想;
著者は40歳になる数日前に亡くなられました。
震災直後から多くの被災者の支援に携われた医師の記録と経験だけに多くのことを教えているように思いました。
自分が困難に出遭ったとき、どう気持ちをたもつことができるかわかりませんが、いろいろなことを学んでいると、予防注射のワクチンのように酷くならずに立ち直れるのかもしれません。