幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「わたしの南無阿弥陀仏」ひろさちや著 ”煩悩があるから人間”

2020-12-10 19:37:37 | 本の紹介
・仏とは、-人にあらず-ということをあらわしています。
人間は、煩悩をもった存在です。煩悩があるから人間なわけです。

・浄土の教えは、-仏におまかせして生きる教え-と定義したいのです。

・仏教を特徴づける教えとは何かといえば、四つにまとめることができます。
「諸行無常」;すべては移ろいゆくものである。
「諸法無我」;永遠なものは存在しない。
「一切皆苦」;すべてが苦しみである。
「涅槃寂静」;苦の世界を超えて涅槃の境地を求めるがよい。

・「南無」とは、無分別でものを見ることです。
あるがままにものを見る。「如実知見」ともいいます。

・青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光
(しょうしきしょうこう おうしきおうこう、しゃくしきしゃっこう、びゃくしょくびゃくこう)
青色;
若い者は、若い者として光っている。若者は若いままで幸せになる道がある。老人は、老人として光っている。老人は、老人のままで幸せになる道があるということです。
黄色;
黄金です。金持ちのことです。
赤色;
赤貧ということばもありますから貧乏人といえるでしょう。
金持ちは金持ちのまま、幸せであって、光っている。貧乏人は貧乏人のまま、幸せであって、光っているということです。
赤とは健康です。白とは病人。
健康な人は健康なままで光っている、病人は病人のままで光っています。
つまり浄土というのは
-いまあるがままをあるがままでいる-
という世界なのです。
つまり、「なんだっていい」のです。

・イスラム教では、すべてがアッラーの神のものであって、すべては神から預かっているのだと考えます。

・「鉄鋼王」と呼ばれたアンドリュー・カーネギーの信条は、
「富とは神より委ねらえた委託物である」
というものでした。

・金を儲けて、そしてみんなのために使いなさいというのが、キリスト教の精神なのです。
このことはユダヤ教も同じです。

・弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。(「歎異抄))
親鸞にあっては、阿弥陀仏とは、「自分一人のため」だけにおられるわけです。
-わたしがいるから阿弥陀さまがいる-

・人間の不安は、尽きることはありません。
しかし、結論から言えば、-万が一のときは、泣けばいい-のです。
わたしたちは、つまるところ、泣くことしかできないのです。

・(「中部経典」)
過去を追わざれ
未来を願わざれ
およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである
また未来は未だ到達していない
そうして現在のことがらを、
各々の処においてよく観察し、
揺ぐことなく、また動ずることなく、
それを予知した人は、その境地を増大せしめよ。
ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。

・宗教もまた、自分自身を知ること、人間としての無力さを知ることが根本なのです。

・(「マタイによる福音書」)
明日のことまで思い悩むな、明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

・この宇宙の根底には、ある「願い」があるのだと思います。その願いとは、
-生きとし生きるものすべてが幸せであってほしいという願い-です。

・禅がよくいうのは
-「莫妄想(まくもうぞう)」(妄想するなかれ)
ということです。(無業和尚)

・ヒンドゥー教の世界観では、ブラフマンという神が宇宙を創造しました。ヴィシュヌという神が宇宙を維持し、シヴァという神が宇宙を破壊するというのです。破壊というのは悪いことではありません。破壊しなければ新しい生命は誕生しないからです。
この三つの神は同じものだとされています。トリムルティといって、三神は一体なのです。

・ジャン・ジャック・ルソーが「エミール」という小説の形を借りた教育書を著しました。その中で、
「たとえその子の将来の利益になるといっても、現在の幸福を犠牲にする教育を行ってはならない」と述べています。
教育というものは、子どもの現在の幸せをしっかり守ってやること、それが原点だというのです。
いまの日本では、子どもの現在の幸福を犠牲にして、将来のためといって、子どもがいやがっているのに無理に教育しています。その教育は、人格を育むためのものではなく、商品としての価値を高めるためといえます。自分という商品の付加価値を高めるための努力をさせているわけです。

感想
あるがまま。
先ずは自分の今を受け入れ、そしてそれをそのまま感謝することなのでしょう。

全てが神様からの預かりもの。
そしてそれはいつかお返しするもの。
いつお返しするかもあるがままなのかもしれません。

御仏に全てをお任せできないので苦しいのでしょう。