幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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18歳まで自宅軟禁された女性が講演 「いつか虐待当事者の居場所をつくりたい」 ”母親だけでなく、父親、社会の責任を問いたい!”

2020-12-13 11:58:28 | 社会
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/region/mainichi-20201212k0000m040159000c.html 2020/12/12 毎日新聞
 母親から虐待を受け、一度も小中学校に通わせてもらえないまま18歳まで福岡市の自宅に軟禁されていた咲来美波(さくらいみなみ)さん(33)の講演会が12日、同市内であった。保護されるまでの過酷な体験に加え、自立後、孤独や生きづらさを抱えながら社会と向き合ってきた歳月を告白。時折涙ぐみながら虐待防止の必要性を訴え、「いつか私のような虐待当事者の居場所をつくりたい」と決意を語った。

 「虐待を受け続けた18年、家を出て15年、今、彼女はなにを思う」と題した講演会は、非行に向き合う親の会「ははこぐさの会」(福岡市)が主催した。立ち見が出るほど会場を埋めた約60人がメモを取るなどして熱心に聴き入った。

 咲来さんは、幼いころから母親によって福岡市博多区の団地の一室に閉じ込められた。留守番中にテレビを勝手に見たという理由で顔や背中などを殴られたのをきっかけに、18歳だった2005年11月、自宅を逃げ出して警察に保護され、母親が傷害容疑で逮捕されたことで事件が公になった。

 講演では、自身が受けた虐待を赤裸々に語った。窓に黒いカーテンが引かれた物置のような一室で寝起きさせられ、ベランダに出るのも許されなかった。食事は1日に1食しか与えられなかったり、腐ったご飯をわざと食べさせられたりした。咲来さんが、当時の食事を再現した写真をプロジェクターに映すと、会場からは思わずため息が漏れた。軟禁されている間、母親から常に存在を否定され続け「『助けて』と言っても誰にも助けてもらえなかった」と振り返り、自殺を図ったことも打ち明けた。

 意を決し、自宅から逃げ出してからの15年は社会になじめず、苦労の連続だった。20歳から生活保護を受け、1人暮らしを始めたが、学校に通わせてもらえず他人と関わった経験がほとんどないためコミュニケーションの取り方が分からず、人間関係に悩んだ。また、家族や保証人がいないことで希望の仕事にも就けなかった。「私の経験を聞くと相手の顔色が変わり、腫れ物のように見られるのがつらかった」と声を詰まらせた。

 行き場のない息苦しさを抱える咲来さんにとって、支援者に求められて始めた講演活動が転機になったという。「過去はなかったことにできない。自分の力ではい上がるしかない」と決意。虐待を生まない社会をつくりたいと、自身の経験と少しずつ向き合い始めた。現在は自叙伝の執筆を進めており、少しずつだが、支援の輪も広がっている。

 講演の終盤、咲来さんが温めている虐待当事者の居場所づくりのビジョンを明かした。「長期的に親子関係が回復できるようなサロンで、将来自立するための訓練も受けられる。そして、自分の意思で利用できる場所でありたい」。最後に「一人の人間として、一人の女性として、何とか生きている。これからもこうした活動を続けたいし、やめるわけにもいかない」と気持ちを込めて締めくくった。

 非行に走った孫を世話している福岡県粕屋町の看護師の女性(60)は「福岡でこんな虐待があったことに衝撃を受けた。咲来さんの母親がどういった心理状態だったのかが分からないが、心の傷は一生抱えることになる。当事者の生の声はすごい」。ははこぐさの会の能登原(のとはら)裕子代表(71)は「反響の大きさに驚いている。咲来さんの思いに共感してくれる人が一人でも増えてほしい」と語った。【飯田憲、一宮俊介】

社会から「消された存在」だった 18年軟禁された女性、自立探る今
https://mainichi.jp/articles/20201130/k00/00m/040/381000c

毎日新聞2020年12月1日 12時00分(最終更新 12月5日 00時31分)

 警察に保護された当時、身長122センチ、体重22キロ――。周囲の大人が小学校低学年と見間違うほど衰弱していた女性は、一度も学校に通わせてもらえないまま18歳まで自宅に軟禁され、母の暴力に耐えきれず自ら逃げ出した。2005年11月に福岡で発覚し、社会に衝撃を与えた事件から15年。33歳になった女性はどんな人生を生きてきたのだろうか。本人への取材から見えてきたのは想像を絶する現実だった。

自宅を飛び出し警察が保護 母が逮捕され事件が公に
 「はじめまして」。今年11月5日、福岡市内の待ち合わせ場所に現れた咲来美波(さくらい・みなみ)さんは初対面の私に対し、どこか身構えているように見えた。黒を基調にしたシンプルな服装にショートカット。大きな瞳で伏し目がちにあいさつに応じてくれた。身長150センチと今も小柄だが、健康状態に問題はないという。23歳のとき、生まれたときの名前から「咲来美波」に変えた。その経緯は後述するが、まずは咲来さんが保護されることになった15年前の事件の概要を振り返ろう。

 咲来さんは、母親によって18歳まで福岡市博多区の団地の一室に閉じ込められ、一日も小中学校に通わせてもらえなかった。もちろん高校にも行っていない。留守番中にテレビを勝手に見たという理由で顔や背中などを殴られたのをきっかけに、05年11月、自宅を飛び出して警察に保護され、母親が傷害容疑で逮捕されたことで事件が公になった。なぜ18歳になるまで家から出してもらえず、周囲も気づかなかったのか。マスコミの報道は過熱した。

 毎日新聞は当時、就学させなかった理由として、母親の「障害による発達の遅れが恥ずかしく、外に出すと迷惑がかかると思った」という言葉を報じていた。母親は専業主婦。父親も同居していたが、兄と姉は既に独立していた。

「二度と同じような子どもを生んでほしくない」
 母親は保護責任者遺棄など日常的な虐待の罪に問われることはなく、咲来さんに10日間のけがをさせたとして、傷害罪で罰金10万円の略式命令を受けただけで釈放された。事件を受け、有識者でつくる検討委員会は、なぜ周囲が気づかなかったのかなど問題点を検証し、福岡市と福岡市教委に報告書を提出した。

 15ページにわたる報告書によると、学校と市教委や児童相談所は、咲来さんを不就学児童と認識しつつ、虐待の危険性を低いと判断していた。再発防止を呼びかけてはいるが、周囲の大人の証言が基になった報告書には、咲来さんがどのような状況で生き延び、本人がどう感じていたかは記されていない。母親が就学させなかった理由とした「障害」が事実かどうかも触れられていない。

 咲来さんは今もこの報告書を大切に保管している。「私が保護されたとき、私に障害があるかのような親の言い分だけが報道され、本当に悔しかった。取材に応じるのは二度と同じような子どもを生んでほしくないからです」。そして、報告書に記されていない過酷な体験を話し始めた。

「この盗っ人が。お前はいやしい」保育園に通わせず

 家から出してもらえなくなったのは、通っていた保育園で起きた、ある出来事がきっかけだった。隣の席の友達が食べきれなかった給食を食べてあげたところ、その様子を保育園が連絡し、駆け付けた母親から「この盗っ人が。お前はいやしい」と怒鳴られた。それから保育園に通わせてもらえなくなった。

 小学校就学前、咲来さんは母方の祖母に赤いランドセルを買ってもらい、入学を心待ちにしていた。ところが、ランドセルは母親に捨てられ、小学校に上がる前に自治体が実施する就学時健診も受けないままだった。祖母が母親に内緒で来て近くの公園に連れ出してくれると…

感想
こんなことがあったのは知りませんでした。
今の時代に両親の下でこんなことが起きるのも驚きです。

母親だけの問題でなく、父親の責任もあります。
兄と姉もいたそうです。
障がい者に対する認識が低かったのも一因にあるのでしょう。

なによりも、社会が放っておいたことが問題です。
市役所、児童相談所は何をしていたのでしょうか?
きちんと問題点を調査して、二度と起きないようにして欲しいです。

「路上から武道館へ 普通の私が夢を叶えたたった3つの方法」宮崎奈穂子著 ”夢を叶えるために出来ることをする!”

2020-12-13 01:52:12 | 本の紹介
・2010年5月、私の所属する音楽事務所が「武道館サポーターズファミリー1万5000人挑戦」という試みをスタートさせました。これは、「1年間の路上ライブで武道館サポーター(ファン会員)1万5000人が集まれば、武道館単独ライブを開催できる」という前代未聞の挑戦でした。

・私はどこにでもいる普通の26歳(2012年)。思春期にはコンプレックスのかたまりで、まわりの女の子と比べてよく泣いていました。残念なことに、特別美人なわけでも、歌がものすごく上手なわけでも、強力なコネクションがあるわけでもありません。メジャーデビューすら、していません。そんな私が武道館に立つことになった意味は、「あきらめずに、自分の可能性に向かって必死にがんばれば、ありえない夢だって実現するんだ」ということを、同世代の人たちに伝えることだと思っています。

・夢は「最初の一歩」を踏み出さないと、いつまでも夢のまま
初めて路上ライブをしようと決めたのは、大学3年生のある夜でした。場所は、東京・渋谷駅近くの歩道橋の下。
でも、キーボードが弾けない・・・。
声が出ない・・・。
自分より大きな機材を背負ってやっとたどり着いたのに、やりたくて音楽活動を始めたのに、怖くて怖くて、震えが止まらず、歌いだせませんでした。

・「もうダメだ。これを歌ったら帰ろう」
何とか2曲目を歌い終え、早く帰りたい一心で機材を片付けていると、40代くらいのスーツを着た男性が、すたすたとこちらに向かって歩いてきて、声をかけてくれました。
「いい歌だね」
私は自分の耳を疑いました。
「いい歌だね」のひと言は、息が止まるほどうれしかった。
たった一人だけど、私の存在に気づいてくれる人がいた・・・。

・「本当に路上で続けていて意味があるのだろうか」「もっと効率のいいやり方があるのではないか」という疑問が頭をよぎることは一度や二度ではありませんでした。
そんなとき、一人の男子大学生が、涙を浮かべながら私の歌を聴いてくれました。
「どこかで私の歌を必要としてくれている人がいる」
「私の歌もムダではないんだ」
「ずっと続けていれば、そういう人にも出会える」
涙を流す大学生の姿を見たときに、そう思えたのです。
「路上ライブを続けていきたい」という気持ちにさせてくれたのです。

・私は、就職活動をせずに、歌手をめざすことを決意しました(大学時代はバンドサークル)。

・「実績」をつくるために仮歌バイトに挑戦!
たとえバイト代が出なくても、仮歌のバイトに次々と応募しました。
どんな小さな機会も音楽の仕事をつかむためのチャンスととらえ、できることは何でもやってみました。
仮歌バイトを繰り返していたとき、ビクターのディレクターさんが「この仮歌の子を使ってみよう」と言ってくださり、メジャーアーティストの専属仮歌とコーラスをやらせていただくこといなりました。

・私が通っていたボーカルスクールを運営していたレーベルから、朗報が舞い込んできました。
「CDを出してみませんか?」

・大学2年生のとき、音楽で生きることを決意した私は、とにかく「やれることはすべてやる」という思いで、可能性のあることはすべて試してみました。

・「信じ切ること」「試し切ること」「動き続けること」
チャンスというチャンスには、すべてチャレンジしたかったのです。
オーディションは全敗でしたが、可能性の一つとしてチャレンジしていた仮歌のアルバイトがきっかけでCD発売という成果を得ることができました。

・「今日は、路上に出る意味があったのかな」
そんな言葉をつぶやきながら、意気消沈して家に帰りました。

・夢を追う過程では「こんなことしなければよかった」と後悔することもあります。でも、一生懸命やって最終的に選んだ道は、間違いではありません。

・「役に立ちたい」という思いに支えられている。
誰もが「人の役に立ちたい」という思いを持っているからなのではないでしょうか。

・最初は、一人きりだと感じるかもしれません。でも、夢の実現に突き進んでいると、応援してくれる人が次々とあらわれます。

夢を叶える3つの方法
信じること、動き続けること、ご縁を大切にすること

・高校生のころ、私はマンドリン部に所属していました。私はどちらかというと、リズム感がないほうなので、他の部員のほうがどうしても上達が早い。それが悔しいから、他の部員よりも1時間早く来て、練習していました。「技術で負けるなら、練習時間でカバーする」というのが、私の学生時代からのモットー。努力すれば必ず報われるという経験を何度もしてきました。

・長い目で見れば、劣等感は夢を実現する原動力になります。

・音楽漬けだった学生時代
小学生のとき、地域の合唱団と学校のブラスバンド(クラブ)に所属していました。ピアノをはじめたのも、小学生のころです。
中学校に入学すると吹奏楽部。3年生のときには、部長という役割を与えていただき、吹奏楽コンクールで金賞を受賞、部員の仲間と一つの目標に向かってがんばることの楽しさを知ることができた3年間でした。
高校に進学してからは、マンドリン部に所属。

・人間は、まわりの人から認めれ、必要とされないと、自分自身のことも認められないということにあらためて気づかされました。

・毎日続ければ、確実に未来の自分に近づく。
私は「継続する」ことを大切にしています。

・CDデビューの話をいただいて、うれしい気持ちが爆発しそうな一方で、「この段階ではったりだとばれたら、せっかくのCDの話もなくなってしまうのでは・・・」と焦りました。
そして次の瞬間、思わずこんな大見得を切ってしまいました。
「月末まで(2週間)に10曲できます!」
私は当時、作詞のまねごとみたいなことはしていましたが、曲などろくにつくったことがありませんでした。でも、選考のときに少しでも有利に働けばと思い、「作詞・作曲できます」と履歴書のプロフィール欄に書いておいたのです。
しかし、人間は追い込まれたら、何でもできてしまうもので、何とか期限までに11曲の作品を作り、レーベルの担当者に送りました。驚くことに、この11曲の中から、デビュー曲の「優しい青」をはじめ、4曲がCDに収録されて発売されたのです。
この体験で学んだことは、「これまでやったことのない『いばらの道』を選ぶことは自分の可能性を広げてくれる」ということです。

・普通の路上ライブでも、惰性で同じことをせずに、新しいことをするように心がけています。

・ダメな状況を打開しよう、初めてのことにチャレンジしてみようというとき、人はエネルギーを発するのだと思います。

・いざ「武道館のチケットをお届けします」とサポーターにアナウンスしたとき、すぐにチケットを買ってくださったのは、1万5000人のうちの1割にも達しないという現実を突きつけられたのです。だから、武道館公演が決まってからの1年間、今度は武道館に足を運んでもらうために、私は路上に立ち続けました。

・ある方の名刺の電話番号に連絡をして話を聞いてほしいとお願いすると、「朝の7時半だったらいいですよ」とのこと。
「えっ!、そんなに早くから?!」早起きしてお会いしに行きました。とても人脈が豊富で、その後、チケット販売で協力していただける方々をたくさん紹介してくださいました。

・ある会社の社長さんは「100人連れて行くのは簡単だけど、ファンになってもらわないと意味がないから」と、会社でCDを流し、私に講演の機会を与えてくださり、100枚以上のチケットを販売してくださいました。
どんなに苦しくても、可能性を信じて、がむしゃらにやり続ける-。そんな人のもとにターニングポイントはあらわれるのではないでしょうか。

・一つのアクションからはじまったローソンの奇跡
ローソンにはツイッターで楽曲をリクエストして、当選するとDJの方が店内放送で紹介してくれるという「ツイリク」というサービスがあるのですが、あるファンの方が、私の曲「ぴっかぴか」をリクエストしてくださいました、それを聞いた他のファンの方々も「これなら私たちも協力できる!」と、次々とリクエストしてくださったのです。それも毎日、毎日・・・。
無名の私の歌が一気にリクエストされて、ローソンの担当の方もびっくりされたと思います。じつはその方こそ、品川駅で名刺交換してくださった男性だったのです。
全国のローソンのお店での店内放送が決まって、誰よりも大喜びしてくれたのが、応援してくださったみなさんでした。
こうしたご縁があり、2011年3月、「ローソンで販売するパスタのブランドソングをつくって歌ってくれないか」といお話をいただきました。

・小学生のとき、本当はトランペットを吹きたかったのにアルトホルンを選んだこと。中学生のとき、本当はサックスを吹きたかったのにパーカッションを選んだこと・・・。「あのとき、別の選択をすればよかった」という後悔は、長い間、頭から離れません。だから、今、自分にできることがあれば、必ず行動を起こすようにしています。

・つらいときでも笑顔をつくれば、本当に元気になる。
「Fake it, until you make it !」
「できるようになるまで、できるフリをしろ!」

・路上ライブでイヤなことがあって、「悲しい・・・」と思っても、「今日も徳を積むことができた」と感謝の言葉に変換するようにしています。

・イヤなこともすべて「収穫」だと考える。
路上ライブをしていると、一枚もCDが売れない日もあります。そういうときには、「CDが届かなったことも収穫」と思うようにしています。

・ベクトルを自分でなく相手に向ける。
相手にベクトルを向けると、「これまで応援してくださった方に喜んでもらうにはどうしたらいいか」という発想に切り替わります。

・朝から晩まで、1日で100枚のCDを販売!
私たちの事務所では、「誰がいちばん早く、1日で100枚のCDを販売できるか」というイベントを企画することもあります。このときは、朝から晩まで路上で歌い続けます。

・自分の足で積極的に外に出ていくからつながれる。閉じこもっていたら、つながるべき人とも出会えない。

・警察官との言い合いの末に気づいたこと
路上ライブをはじめたばかりのころ、ある駅前の広場で歌っている途中で警察官に止めれたことあります。交番はすぐ目の前にありました。準備しているときは何も言われなかったので、「ここは大丈夫だ」と思っていました。
「止めるなら、準備している最中に言えばいいじゃないですか!」とつっかかってしまいました。
すると、もう一人の先輩らしき警察官がやってきて、こんなやさしいことばをかけてくれました・
「準備しているのは気づいていたし、『いい歌だね』と同僚と話していたんだよ。でも、通行人からクレームがあったから、仕事として止めないいけなかったんだ。ごめんね」
私は我に返り、あることに気づきました。
「私も警察官の方もそれぞれの立場で、自分の大事なものを守ろうとしていただけだ」と。
また、ある駅前では「片付けたら交番に来なさい」と警察官に言われました。「どうせ注意されるんだろうな」と思って渋々立ち寄ると、「応援しているから」といってこっそりCDを買ってくれました。

・恩を返せない人には「恩送り」をする。
「恩送り」は、Aさんからいただいた恩をBさんに送ることです。直接、恩を返したくても、返せない人もたくさんいます。恩を別の人に送ることで、まわりまわって最初の人に恩が戻れば、その恩に報いることになると考えています。

「路上ライブから武道館へ」
https://www.youtube.com/watch?v=Hi5K8yqLSD8


感想;
本を読み終わり、「すごいな!」と思いました。
自分の夢実現のために、出来ることを全て行われました。
時には、仮歌バイトのために、一人暮らしの男性の部屋に行ったこともあったそうです。
幸い危険はなかったそうですが。
それだけチャンスを全て生かして来られました。
路上ライブをずーっと行うこと、夢がなければできることではないです。

「路上ライブから武道館へ」を聞かれるとその一端がうかがえます。

小さなことでも続けていくこと、それが今できることならそれを行う。
夢のために。

宮崎奈穂子さんのYouTube745の過去のLiveを見ていたら、サワコの朝で笠井信輔さんが出演された時に、宮崎奈穂子さんの「がんばらないPart2」を紹介してくれて、とても嬉しかったと何度も言われていました。
有名人に紹介してもらえるととても大きいようです。
頑張り疲れた時、それで十分だよと優しく包み込んでくれる歌です。
「がんばらない」もあります。

阿川佐和子さん「サワコの朝 笠井信輔さん」 ”がんになったことを発信することが贖罪だと!”
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/2674f3cd15d1ee37aa64c077400c9af6