https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/region/mainichi-20201212k0000m040159000c.html 2020/12/12 毎日新聞
母親から虐待を受け、一度も小中学校に通わせてもらえないまま18歳まで福岡市の自宅に軟禁されていた咲来美波(さくらいみなみ)さん(33)の講演会が12日、同市内であった。保護されるまでの過酷な体験に加え、自立後、孤独や生きづらさを抱えながら社会と向き合ってきた歳月を告白。時折涙ぐみながら虐待防止の必要性を訴え、「いつか私のような虐待当事者の居場所をつくりたい」と決意を語った。
「虐待を受け続けた18年、家を出て15年、今、彼女はなにを思う」と題した講演会は、非行に向き合う親の会「ははこぐさの会」(福岡市)が主催した。立ち見が出るほど会場を埋めた約60人がメモを取るなどして熱心に聴き入った。
咲来さんは、幼いころから母親によって福岡市博多区の団地の一室に閉じ込められた。留守番中にテレビを勝手に見たという理由で顔や背中などを殴られたのをきっかけに、18歳だった2005年11月、自宅を逃げ出して警察に保護され、母親が傷害容疑で逮捕されたことで事件が公になった。
講演では、自身が受けた虐待を赤裸々に語った。窓に黒いカーテンが引かれた物置のような一室で寝起きさせられ、ベランダに出るのも許されなかった。食事は1日に1食しか与えられなかったり、腐ったご飯をわざと食べさせられたりした。咲来さんが、当時の食事を再現した写真をプロジェクターに映すと、会場からは思わずため息が漏れた。軟禁されている間、母親から常に存在を否定され続け「『助けて』と言っても誰にも助けてもらえなかった」と振り返り、自殺を図ったことも打ち明けた。
意を決し、自宅から逃げ出してからの15年は社会になじめず、苦労の連続だった。20歳から生活保護を受け、1人暮らしを始めたが、学校に通わせてもらえず他人と関わった経験がほとんどないためコミュニケーションの取り方が分からず、人間関係に悩んだ。また、家族や保証人がいないことで希望の仕事にも就けなかった。「私の経験を聞くと相手の顔色が変わり、腫れ物のように見られるのがつらかった」と声を詰まらせた。
行き場のない息苦しさを抱える咲来さんにとって、支援者に求められて始めた講演活動が転機になったという。「過去はなかったことにできない。自分の力ではい上がるしかない」と決意。虐待を生まない社会をつくりたいと、自身の経験と少しずつ向き合い始めた。現在は自叙伝の執筆を進めており、少しずつだが、支援の輪も広がっている。
講演の終盤、咲来さんが温めている虐待当事者の居場所づくりのビジョンを明かした。「長期的に親子関係が回復できるようなサロンで、将来自立するための訓練も受けられる。そして、自分の意思で利用できる場所でありたい」。最後に「一人の人間として、一人の女性として、何とか生きている。これからもこうした活動を続けたいし、やめるわけにもいかない」と気持ちを込めて締めくくった。
非行に走った孫を世話している福岡県粕屋町の看護師の女性(60)は「福岡でこんな虐待があったことに衝撃を受けた。咲来さんの母親がどういった心理状態だったのかが分からないが、心の傷は一生抱えることになる。当事者の生の声はすごい」。ははこぐさの会の能登原(のとはら)裕子代表(71)は「反響の大きさに驚いている。咲来さんの思いに共感してくれる人が一人でも増えてほしい」と語った。【飯田憲、一宮俊介】
社会から「消された存在」だった 18年軟禁された女性、自立探る今
https://mainichi.jp/articles/20201130/k00/00m/040/381000c
毎日新聞2020年12月1日 12時00分(最終更新 12月5日 00時31分)
警察に保護された当時、身長122センチ、体重22キロ――。周囲の大人が小学校低学年と見間違うほど衰弱していた女性は、一度も学校に通わせてもらえないまま18歳まで自宅に軟禁され、母の暴力に耐えきれず自ら逃げ出した。2005年11月に福岡で発覚し、社会に衝撃を与えた事件から15年。33歳になった女性はどんな人生を生きてきたのだろうか。本人への取材から見えてきたのは想像を絶する現実だった。
自宅を飛び出し警察が保護 母が逮捕され事件が公に
「はじめまして」。今年11月5日、福岡市内の待ち合わせ場所に現れた咲来美波(さくらい・みなみ)さんは初対面の私に対し、どこか身構えているように見えた。黒を基調にしたシンプルな服装にショートカット。大きな瞳で伏し目がちにあいさつに応じてくれた。身長150センチと今も小柄だが、健康状態に問題はないという。23歳のとき、生まれたときの名前から「咲来美波」に変えた。その経緯は後述するが、まずは咲来さんが保護されることになった15年前の事件の概要を振り返ろう。
咲来さんは、母親によって18歳まで福岡市博多区の団地の一室に閉じ込められ、一日も小中学校に通わせてもらえなかった。もちろん高校にも行っていない。留守番中にテレビを勝手に見たという理由で顔や背中などを殴られたのをきっかけに、05年11月、自宅を飛び出して警察に保護され、母親が傷害容疑で逮捕されたことで事件が公になった。なぜ18歳になるまで家から出してもらえず、周囲も気づかなかったのか。マスコミの報道は過熱した。
毎日新聞は当時、就学させなかった理由として、母親の「障害による発達の遅れが恥ずかしく、外に出すと迷惑がかかると思った」という言葉を報じていた。母親は専業主婦。父親も同居していたが、兄と姉は既に独立していた。
「二度と同じような子どもを生んでほしくない」
母親は保護責任者遺棄など日常的な虐待の罪に問われることはなく、咲来さんに10日間のけがをさせたとして、傷害罪で罰金10万円の略式命令を受けただけで釈放された。事件を受け、有識者でつくる検討委員会は、なぜ周囲が気づかなかったのかなど問題点を検証し、福岡市と福岡市教委に報告書を提出した。
15ページにわたる報告書によると、学校と市教委や児童相談所は、咲来さんを不就学児童と認識しつつ、虐待の危険性を低いと判断していた。再発防止を呼びかけてはいるが、周囲の大人の証言が基になった報告書には、咲来さんがどのような状況で生き延び、本人がどう感じていたかは記されていない。母親が就学させなかった理由とした「障害」が事実かどうかも触れられていない。
咲来さんは今もこの報告書を大切に保管している。「私が保護されたとき、私に障害があるかのような親の言い分だけが報道され、本当に悔しかった。取材に応じるのは二度と同じような子どもを生んでほしくないからです」。そして、報告書に記されていない過酷な体験を話し始めた。
「この盗っ人が。お前はいやしい」保育園に通わせず
家から出してもらえなくなったのは、通っていた保育園で起きた、ある出来事がきっかけだった。隣の席の友達が食べきれなかった給食を食べてあげたところ、その様子を保育園が連絡し、駆け付けた母親から「この盗っ人が。お前はいやしい」と怒鳴られた。それから保育園に通わせてもらえなくなった。
小学校就学前、咲来さんは母方の祖母に赤いランドセルを買ってもらい、入学を心待ちにしていた。ところが、ランドセルは母親に捨てられ、小学校に上がる前に自治体が実施する就学時健診も受けないままだった。祖母が母親に内緒で来て近くの公園に連れ出してくれると…
感想;
こんなことがあったのは知りませんでした。
今の時代に両親の下でこんなことが起きるのも驚きです。
母親だけの問題でなく、父親の責任もあります。
兄と姉もいたそうです。
障がい者に対する認識が低かったのも一因にあるのでしょう。
なによりも、社会が放っておいたことが問題です。
市役所、児童相談所は何をしていたのでしょうか?
きちんと問題点を調査して、二度と起きないようにして欲しいです。
母親から虐待を受け、一度も小中学校に通わせてもらえないまま18歳まで福岡市の自宅に軟禁されていた咲来美波(さくらいみなみ)さん(33)の講演会が12日、同市内であった。保護されるまでの過酷な体験に加え、自立後、孤独や生きづらさを抱えながら社会と向き合ってきた歳月を告白。時折涙ぐみながら虐待防止の必要性を訴え、「いつか私のような虐待当事者の居場所をつくりたい」と決意を語った。
「虐待を受け続けた18年、家を出て15年、今、彼女はなにを思う」と題した講演会は、非行に向き合う親の会「ははこぐさの会」(福岡市)が主催した。立ち見が出るほど会場を埋めた約60人がメモを取るなどして熱心に聴き入った。
咲来さんは、幼いころから母親によって福岡市博多区の団地の一室に閉じ込められた。留守番中にテレビを勝手に見たという理由で顔や背中などを殴られたのをきっかけに、18歳だった2005年11月、自宅を逃げ出して警察に保護され、母親が傷害容疑で逮捕されたことで事件が公になった。
講演では、自身が受けた虐待を赤裸々に語った。窓に黒いカーテンが引かれた物置のような一室で寝起きさせられ、ベランダに出るのも許されなかった。食事は1日に1食しか与えられなかったり、腐ったご飯をわざと食べさせられたりした。咲来さんが、当時の食事を再現した写真をプロジェクターに映すと、会場からは思わずため息が漏れた。軟禁されている間、母親から常に存在を否定され続け「『助けて』と言っても誰にも助けてもらえなかった」と振り返り、自殺を図ったことも打ち明けた。
意を決し、自宅から逃げ出してからの15年は社会になじめず、苦労の連続だった。20歳から生活保護を受け、1人暮らしを始めたが、学校に通わせてもらえず他人と関わった経験がほとんどないためコミュニケーションの取り方が分からず、人間関係に悩んだ。また、家族や保証人がいないことで希望の仕事にも就けなかった。「私の経験を聞くと相手の顔色が変わり、腫れ物のように見られるのがつらかった」と声を詰まらせた。
行き場のない息苦しさを抱える咲来さんにとって、支援者に求められて始めた講演活動が転機になったという。「過去はなかったことにできない。自分の力ではい上がるしかない」と決意。虐待を生まない社会をつくりたいと、自身の経験と少しずつ向き合い始めた。現在は自叙伝の執筆を進めており、少しずつだが、支援の輪も広がっている。
講演の終盤、咲来さんが温めている虐待当事者の居場所づくりのビジョンを明かした。「長期的に親子関係が回復できるようなサロンで、将来自立するための訓練も受けられる。そして、自分の意思で利用できる場所でありたい」。最後に「一人の人間として、一人の女性として、何とか生きている。これからもこうした活動を続けたいし、やめるわけにもいかない」と気持ちを込めて締めくくった。
非行に走った孫を世話している福岡県粕屋町の看護師の女性(60)は「福岡でこんな虐待があったことに衝撃を受けた。咲来さんの母親がどういった心理状態だったのかが分からないが、心の傷は一生抱えることになる。当事者の生の声はすごい」。ははこぐさの会の能登原(のとはら)裕子代表(71)は「反響の大きさに驚いている。咲来さんの思いに共感してくれる人が一人でも増えてほしい」と語った。【飯田憲、一宮俊介】
社会から「消された存在」だった 18年軟禁された女性、自立探る今
https://mainichi.jp/articles/20201130/k00/00m/040/381000c
毎日新聞2020年12月1日 12時00分(最終更新 12月5日 00時31分)
警察に保護された当時、身長122センチ、体重22キロ――。周囲の大人が小学校低学年と見間違うほど衰弱していた女性は、一度も学校に通わせてもらえないまま18歳まで自宅に軟禁され、母の暴力に耐えきれず自ら逃げ出した。2005年11月に福岡で発覚し、社会に衝撃を与えた事件から15年。33歳になった女性はどんな人生を生きてきたのだろうか。本人への取材から見えてきたのは想像を絶する現実だった。
自宅を飛び出し警察が保護 母が逮捕され事件が公に
「はじめまして」。今年11月5日、福岡市内の待ち合わせ場所に現れた咲来美波(さくらい・みなみ)さんは初対面の私に対し、どこか身構えているように見えた。黒を基調にしたシンプルな服装にショートカット。大きな瞳で伏し目がちにあいさつに応じてくれた。身長150センチと今も小柄だが、健康状態に問題はないという。23歳のとき、生まれたときの名前から「咲来美波」に変えた。その経緯は後述するが、まずは咲来さんが保護されることになった15年前の事件の概要を振り返ろう。
咲来さんは、母親によって18歳まで福岡市博多区の団地の一室に閉じ込められ、一日も小中学校に通わせてもらえなかった。もちろん高校にも行っていない。留守番中にテレビを勝手に見たという理由で顔や背中などを殴られたのをきっかけに、05年11月、自宅を飛び出して警察に保護され、母親が傷害容疑で逮捕されたことで事件が公になった。なぜ18歳になるまで家から出してもらえず、周囲も気づかなかったのか。マスコミの報道は過熱した。
毎日新聞は当時、就学させなかった理由として、母親の「障害による発達の遅れが恥ずかしく、外に出すと迷惑がかかると思った」という言葉を報じていた。母親は専業主婦。父親も同居していたが、兄と姉は既に独立していた。
「二度と同じような子どもを生んでほしくない」
母親は保護責任者遺棄など日常的な虐待の罪に問われることはなく、咲来さんに10日間のけがをさせたとして、傷害罪で罰金10万円の略式命令を受けただけで釈放された。事件を受け、有識者でつくる検討委員会は、なぜ周囲が気づかなかったのかなど問題点を検証し、福岡市と福岡市教委に報告書を提出した。
15ページにわたる報告書によると、学校と市教委や児童相談所は、咲来さんを不就学児童と認識しつつ、虐待の危険性を低いと判断していた。再発防止を呼びかけてはいるが、周囲の大人の証言が基になった報告書には、咲来さんがどのような状況で生き延び、本人がどう感じていたかは記されていない。母親が就学させなかった理由とした「障害」が事実かどうかも触れられていない。
咲来さんは今もこの報告書を大切に保管している。「私が保護されたとき、私に障害があるかのような親の言い分だけが報道され、本当に悔しかった。取材に応じるのは二度と同じような子どもを生んでほしくないからです」。そして、報告書に記されていない過酷な体験を話し始めた。
「この盗っ人が。お前はいやしい」保育園に通わせず
家から出してもらえなくなったのは、通っていた保育園で起きた、ある出来事がきっかけだった。隣の席の友達が食べきれなかった給食を食べてあげたところ、その様子を保育園が連絡し、駆け付けた母親から「この盗っ人が。お前はいやしい」と怒鳴られた。それから保育園に通わせてもらえなくなった。
小学校就学前、咲来さんは母方の祖母に赤いランドセルを買ってもらい、入学を心待ちにしていた。ところが、ランドセルは母親に捨てられ、小学校に上がる前に自治体が実施する就学時健診も受けないままだった。祖母が母親に内緒で来て近くの公園に連れ出してくれると…
感想;
こんなことがあったのは知りませんでした。
今の時代に両親の下でこんなことが起きるのも驚きです。
母親だけの問題でなく、父親の責任もあります。
兄と姉もいたそうです。
障がい者に対する認識が低かったのも一因にあるのでしょう。
なによりも、社会が放っておいたことが問題です。
市役所、児童相談所は何をしていたのでしょうか?
きちんと問題点を調査して、二度と起きないようにして欲しいです。