幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「戦国武将の叡智 人事・教養・リーダーシップ」小和田哲男著 ”武力だけでなく叡智を働かせる!”

2021-02-23 09:32:22 | 本の紹介
・武田信玄の七分勝ち
 合戦の場合、五分・六分・七分勝ちで十分だ(「甲陽軍鑑」)

・情報戦を制した秀吉の戦略(天王山の戦い)
 秀吉はこのとき二万余の大軍を率いており、明智光秀の兵が一万三千ほどというのは知っていたと思われる。しかし、光秀の与力大名である細川藤孝・忠興親子、中川清秀、高山右近、筒井順啓らが光秀陣営に加わると面倒なことになると考え、光秀与力に対する切り崩し工作をやっている。秀吉は、「信長・信忠親子は無事切りぬけられた。これから一緒に光秀を討とう」と呼びかける書状を出しているのである。

・こうして秀吉は、賤ヶ岳の戦いで勝家を破ったことを大々的に宣伝し、諸将が、「あの秀吉にはかなわない」と思わせることに成功した。このあと、文字通り、戦わずに兜を脱ぐ武将が続出することになる。中国の兵法書『孫子』の謀攻篇に、「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」という言葉があるが、秀吉の広報宣伝活動は、戦わずに勝人いう秀吉流戦法の極意といっていいかもしれない。

・築城は大きく四つの工程に分けられる
地選 城地の選定
経始 どこに堀を掘るのかとか、本曲輪(本丸)をどこに置くかといったグランド・プラン作り
普請 堀を掘ったり、土塁を築いたり、石垣を積んだりする土木工事
作事 建築工事。居館の建物、城門、櫓などの木造建築

・寵臣を重用したために家を滅ぼした武将としてすぐ頭に浮かんでくるのは、周防山口の大内義孝である。義隆は、全盛期には周防のほか、長門・豊前・筑前・備後・岩見・安芸の七か国の守護職を兼ね、重要なところには重臣たちを守護代として送り込んでいた。
義隆は八人の中で寵臣の相良武任一人を重く用いるようになり、次第に他のメンバーとの間にぎくしゃくした気持ちが芽生え始めた。ついに隆房らは挙兵し、山口に攻め込み、義隆は逐われ、長門の大寧寺まで逃れた。
この大内義孝とは全く逆で、家臣の意見に耳を傾けていたのが黒田長政である。
居城を名島城から福岡城に移したとき、福岡城内に一つの部屋を用意させ、月のうち三日、日を決めて、長政自身がその部屋に詰めているのである。注目されるのは、そのとき、「何かいいたいものがいれば、途中を通さなくていいから、その部屋に来い。直接話を聞こう」といっている。
その部屋を「釈迦の間の異見会」というようになった(お釈迦様の絵が掲げられたことから)。
当時は、意見を異見という字で書くことが一般的だったからです。異なる見解、諫言もこの「異見」に該当する。

・「おもてなし」は漢字で書くと「御持成」で、馳走、饗応の意味である。コミュニケーションづくりには欠かせない。
武田信玄の重臣をもてなす織田信長

・武将として習得しておかなければならないものの第一にあげているのが和歌と連歌である。ついで有職(ゆうそく)と書札礼をあげている。有職とは有職故実のことで、いわば日常生活に必要な先例に関する知識のことであり、書札礼は、手紙を書くときのきまりである。

・「盤上の遊」というこで具体的に名前が挙がっているのは囲碁と将棋である。

・秀吉が甥で養子の秀次に与えた四か条の訓戒状
秀吉は、茶の湯・鷹狩り・女狂いなど、「自分の真似をしてはならない」と釘をさしながら、
「ただし、ちやのゆはなぐさみにて候条、さいさいちやのゆを致し、人をよび候事をはくるしからず候」とつけ加えている。
 茶の湯
 ・「主客同座」と「一味同心」
 ・個室(密談も可能)
 ・無刀(いのちの危険がない)

・山城国一揆と住民の自治
国人たちが団結し攻撃を加えるなど、毅然たる態度で交渉を繰り返した結果、両軍(畠山政長と義就の争い)を撤退させることに成功しているのである。
南山城地域は、三十六人衆といわれる国衆が中心になって支配が行われる。

・幅広く読まれていた中国の古典籍
『論語』と『孟子』は必読文献で、庶民教育にも使われている。
武将子弟は、「武経七書」が加わる。
『孫子』; 『呉子』; 『尉繚子』; 『六韜』; 『三略』; 『司馬法』; 『李衛公問対』

感想
武将は武力だけでなく、叡智を働かせないと勝ちあがれないのがよく分かりました。
これはビジネス社会でも同じなのでしょう。