あとがきエッセイより
交際というのはじつに個人的なもので、私が主体でいるかぎり、私の交際歴を基準にして考えるよりはかはなく、そうするとどうしたって基準は偏ったものになる。
私は別れた恋人とはほとんどの場合友達になる。現恋人にも合せるし、ふたりきりで酒を飲みにいったりもする。それが私はふつうのことだと思っていた。だって、もう二度と会わない、というほうがなんだか不自然な気がする。まだ未練があって会ってしまうと気持ちが揺らぐから合わないみたいじゃないか。私は別れた人にはいつだって未練がないし、会ってもどうということはないから、ふつうに友だちでいるのである。・・・
本との関係というのは、それとまったくおんなじだということである。・・・
本を読むのは、そのような行為(ゲームする、おいしいものを食べる、温泉に入るなど)のなかで、もっとも特殊に個人的であると、私は思っている。そう、だれかと一対一で交際するほどに。
私との本のおつきあいはものすごく長い。小学校にあがる目に本との蜜月があった。その後も本を読み続けているけれど、本当に意味での蜜月というのは、あのころだけだったと思う。
保育園に通っていた私は、ほかの子どもよりずいぶんと未発達で、うまく話せず、うまく遊べず、必然的に、友達がひとりもいなかった。友達のいない子どもにとって、休み時間はたいへんに苦痛だった。
休み時間や、母親のお迎えを待つあいだ、苦痛から逃れるために本ばかり読んでいた。だいたいが絵本。字だってろくに書けなかったから。文字よりも絵の多い本を開いていた。
そうして実際、本は苦痛をすっぽりと取り去ってくれた。本は開きさえすれば即座に読み手の手をとって別世界へと連れていってくれる。たったひとりの時間、保育園にいながらにして、別世界へと連れていってもらうのは、本当にありがたいことだった。友達がいあにとか、みんなのできることがなぜかできないとか、その別世界では忘れることができる。いや、その世界ではそんなことはそもそもまったく関係がないのである。
本の一番のおもしろさというのは、その作品世界に入る、それに尽きると私は思っている。一回本の世界にひっぱりこまれる興奮を感じてしまった人間は、一生本を読み続けると思う。そうして私は、そのもっとも原始的な喜びを、保育園ですでに獲得していた。
小学校二年生のとき、はじめてつまらないと思う本に出合った。そのとき私は入院していた。・・・ もらってすぐに読んだのだが、なんだあかさっぱりわからない。私にとって、つまらない、は、イコール理解できない、だった。
サン=テグジュベリの『星の王子さま』である。大判の、カラーの本だった。
最後まで読み、つまらないと結論を出した私はその本を放って、ほかの本を読み続けた。・・・
そうして高校二年生のとき、仲良しだった友達が、一冊の本をくれた。ちいさなサイズの、絵の入った本だった。
私はそれを一気に読み、すごい、と思った。別世界へ連れ出してくれるばかりでなく、じつにいろいろ考えさせてくれる本だった。なんてすごい本なんだろう。でもどこかで読んだ気がする。どこで読んだのか、なかなか思い出せなかったが、あるときふと思い出して、はっとした。
それは、少額校二年生の私が、病院のベッドでおもしろくないと投げ出した、『星の王子さま』だったのである。
カラー版の『星の王子さま』を持ってきてくれたおばは、私が中学校一年生のときに亡くなっていた。もはや手元にはない。けれど、その本に書かれていることを理解したとき、その物語を、物語の世界を、言葉のひとつひとつを、もう一度おばから受け取ったように思えた。九年という時間を飛び越えて、再度手渡された贈りものに、私は感じられたのである。
以来、私はおもしろいと思えない本を読んでも、「つまらない」と決めつけないようになった。これはやっぱり人とおんなじだ。百人いれば、百観の個性があり、百通りの顔がある。つまんない人なんかいない。残念ながら個性の合わないひとはいるし、外見の好みもあるが、それは相手が解決すべき問題ではなくて、こちら側の抱えるべき問題だ。つまらない本は中身がつまらないのではなくて、相性が悪いか、こちらの狭小な好みに外れるのか、どちらかだけだ。そうして時間がたってみれば、合わないと思っていた相手と、ひょんなことからものすごく近しくなる場合もあるし、こちらの好みががらりと変わることもある。つまらない、と片付けてしまうのは、(書いた人間にではなく)書かれ、すでに存在している本に対して、失礼である。・・・
知識なんかなくたっていい、私を呼ぶ本を一冊ずつ読んでいったほうがいい。
そう、本は人を呼ぶのだ。
感想;
『さがしもの』感想・レビュー
人生はさがしものなのかもしれません。
自分からさがそうとして見つけることもありますが、何かの縁で見つけるものが多いように思います。
本との出会い、人との出逢い、トラブルとの出遭い、いろいろな”であい”があります。
その”であい”をどうするかで、さがしものを見つけることもあるように思います。
臨済宗の言葉に「有縁を度すべし」があります。
”であい”は縁でしょう。
それをどうするかで人生の彩が大きく変わるように思います。
その”であい”も自分の年齢やその時の状況で、価値が変わってくるのかもしれません。
”万物に時あり”、”啐啄同時”
自分がそれを理解したり、受け入れるときがあるのでしょう。
自分の好みも変わるのを実感します。
父は単身赴任、母は高校の先生で、小さいときは祖父母との時間が多かったです。
食事も祖父母中心で、湯葉など何が美味しいのかと思いましたが、今は美味しく感じます。
星の王子さまミュージアム閉館へ 来年3月、コロナ禍で来園者減少
『星の王子さま』は有名で読んだこともありましたが、あまり著者(サン=テグジュペリ)に関心がありませんでした。
「星の王子さまミュージアム」で著者が飛行機乗りで、航空郵便の配達や航空機の戦闘員として戦争にも行ったことを知りました。
配達時に北アフリカの砂漠に不時着した時の体験が、『星の王子さま』の執筆になり、バーで飲んでいた時に描いた絵が星の王子さまの原型になりました。
それで著者に興味をもって何冊かの本を読みました。
最後は、航空便を配達時に行方不明になり亡くなりました。
当時の飛行機は安全性がまだ確立していませんでしたが、飛行機の操縦が大好きだったようです。
”であい”で人生が彩ります。
人との出逢いは、その人を通して自分の知らない世界を知ります。
本との出会いは、別世界に連れて行ってくれたり、知らないことを教えてくれます。
トラブルとの出遭いは、多くのことを学ばせてくれます。
縁があれば、勇気をだしてその縁を生かすために一歩踏み出すことなのでしょう。
人生は、”四苦八苦”と言います。
苦しいことも多いです。
人生の喜びの人は、”であい”のように思います。
”であい”で苦しいことになることもありますが、喜びも多いように思います。
山上の垂訓「叩けよ、さらば開かれん」(聖書)
「幸せへの扉は外に向かって開く」(キルケゴール)
交際というのはじつに個人的なもので、私が主体でいるかぎり、私の交際歴を基準にして考えるよりはかはなく、そうするとどうしたって基準は偏ったものになる。
私は別れた恋人とはほとんどの場合友達になる。現恋人にも合せるし、ふたりきりで酒を飲みにいったりもする。それが私はふつうのことだと思っていた。だって、もう二度と会わない、というほうがなんだか不自然な気がする。まだ未練があって会ってしまうと気持ちが揺らぐから合わないみたいじゃないか。私は別れた人にはいつだって未練がないし、会ってもどうということはないから、ふつうに友だちでいるのである。・・・
本との関係というのは、それとまったくおんなじだということである。・・・
本を読むのは、そのような行為(ゲームする、おいしいものを食べる、温泉に入るなど)のなかで、もっとも特殊に個人的であると、私は思っている。そう、だれかと一対一で交際するほどに。
私との本のおつきあいはものすごく長い。小学校にあがる目に本との蜜月があった。その後も本を読み続けているけれど、本当に意味での蜜月というのは、あのころだけだったと思う。
保育園に通っていた私は、ほかの子どもよりずいぶんと未発達で、うまく話せず、うまく遊べず、必然的に、友達がひとりもいなかった。友達のいない子どもにとって、休み時間はたいへんに苦痛だった。
休み時間や、母親のお迎えを待つあいだ、苦痛から逃れるために本ばかり読んでいた。だいたいが絵本。字だってろくに書けなかったから。文字よりも絵の多い本を開いていた。
そうして実際、本は苦痛をすっぽりと取り去ってくれた。本は開きさえすれば即座に読み手の手をとって別世界へと連れていってくれる。たったひとりの時間、保育園にいながらにして、別世界へと連れていってもらうのは、本当にありがたいことだった。友達がいあにとか、みんなのできることがなぜかできないとか、その別世界では忘れることができる。いや、その世界ではそんなことはそもそもまったく関係がないのである。
本の一番のおもしろさというのは、その作品世界に入る、それに尽きると私は思っている。一回本の世界にひっぱりこまれる興奮を感じてしまった人間は、一生本を読み続けると思う。そうして私は、そのもっとも原始的な喜びを、保育園ですでに獲得していた。
小学校二年生のとき、はじめてつまらないと思う本に出合った。そのとき私は入院していた。・・・ もらってすぐに読んだのだが、なんだあかさっぱりわからない。私にとって、つまらない、は、イコール理解できない、だった。
サン=テグジュベリの『星の王子さま』である。大判の、カラーの本だった。
最後まで読み、つまらないと結論を出した私はその本を放って、ほかの本を読み続けた。・・・
そうして高校二年生のとき、仲良しだった友達が、一冊の本をくれた。ちいさなサイズの、絵の入った本だった。
私はそれを一気に読み、すごい、と思った。別世界へ連れ出してくれるばかりでなく、じつにいろいろ考えさせてくれる本だった。なんてすごい本なんだろう。でもどこかで読んだ気がする。どこで読んだのか、なかなか思い出せなかったが、あるときふと思い出して、はっとした。
それは、少額校二年生の私が、病院のベッドでおもしろくないと投げ出した、『星の王子さま』だったのである。
カラー版の『星の王子さま』を持ってきてくれたおばは、私が中学校一年生のときに亡くなっていた。もはや手元にはない。けれど、その本に書かれていることを理解したとき、その物語を、物語の世界を、言葉のひとつひとつを、もう一度おばから受け取ったように思えた。九年という時間を飛び越えて、再度手渡された贈りものに、私は感じられたのである。
以来、私はおもしろいと思えない本を読んでも、「つまらない」と決めつけないようになった。これはやっぱり人とおんなじだ。百人いれば、百観の個性があり、百通りの顔がある。つまんない人なんかいない。残念ながら個性の合わないひとはいるし、外見の好みもあるが、それは相手が解決すべき問題ではなくて、こちら側の抱えるべき問題だ。つまらない本は中身がつまらないのではなくて、相性が悪いか、こちらの狭小な好みに外れるのか、どちらかだけだ。そうして時間がたってみれば、合わないと思っていた相手と、ひょんなことからものすごく近しくなる場合もあるし、こちらの好みががらりと変わることもある。つまらない、と片付けてしまうのは、(書いた人間にではなく)書かれ、すでに存在している本に対して、失礼である。・・・
知識なんかなくたっていい、私を呼ぶ本を一冊ずつ読んでいったほうがいい。
そう、本は人を呼ぶのだ。
感想;
『さがしもの』感想・レビュー
人生はさがしものなのかもしれません。
自分からさがそうとして見つけることもありますが、何かの縁で見つけるものが多いように思います。
本との出会い、人との出逢い、トラブルとの出遭い、いろいろな”であい”があります。
その”であい”をどうするかで、さがしものを見つけることもあるように思います。
臨済宗の言葉に「有縁を度すべし」があります。
”であい”は縁でしょう。
それをどうするかで人生の彩が大きく変わるように思います。
その”であい”も自分の年齢やその時の状況で、価値が変わってくるのかもしれません。
”万物に時あり”、”啐啄同時”
自分がそれを理解したり、受け入れるときがあるのでしょう。
自分の好みも変わるのを実感します。
父は単身赴任、母は高校の先生で、小さいときは祖父母との時間が多かったです。
食事も祖父母中心で、湯葉など何が美味しいのかと思いましたが、今は美味しく感じます。
星の王子さまミュージアム閉館へ 来年3月、コロナ禍で来園者減少
『星の王子さま』は有名で読んだこともありましたが、あまり著者(サン=テグジュペリ)に関心がありませんでした。
「星の王子さまミュージアム」で著者が飛行機乗りで、航空郵便の配達や航空機の戦闘員として戦争にも行ったことを知りました。
配達時に北アフリカの砂漠に不時着した時の体験が、『星の王子さま』の執筆になり、バーで飲んでいた時に描いた絵が星の王子さまの原型になりました。
それで著者に興味をもって何冊かの本を読みました。
最後は、航空便を配達時に行方不明になり亡くなりました。
当時の飛行機は安全性がまだ確立していませんでしたが、飛行機の操縦が大好きだったようです。
”であい”で人生が彩ります。
人との出逢いは、その人を通して自分の知らない世界を知ります。
本との出会いは、別世界に連れて行ってくれたり、知らないことを教えてくれます。
トラブルとの出遭いは、多くのことを学ばせてくれます。
縁があれば、勇気をだしてその縁を生かすために一歩踏み出すことなのでしょう。
人生は、”四苦八苦”と言います。
苦しいことも多いです。
人生の喜びの人は、”であい”のように思います。
”であい”で苦しいことになることもありますが、喜びも多いように思います。
山上の垂訓「叩けよ、さらば開かれん」(聖書)
「幸せへの扉は外に向かって開く」(キルケゴール)