・あるマッサージ師のおばさんは、私をひと目見るなり「うちの娘に似ている」と言い出し、マッサージをする間中ずっと娘の話をしていた。おばさんは、娘に彼氏がいない事をとても心配している様であった。私に似ているという娘に彼氏がいない事をきかされた私は首筋を揉まれながら少しやるせない気分になった。
・『三年寝太郎』は怠けていた日々が三年であったからまだよい。私は17歳まで怠けていた。寝てこそいなかったが、起きて怠けていた分、ちらかしたりしたので寝太郎の方がまだましであった。
生まれた時から17年間、親の手伝いなどした事がなかった。小学校を卒業するまでの十余年間、外で遊び狂い家に帰る頃には泥人形のようになっていた。家に帰ればご飯を食べて寝るだけである。
小学生のうちはまだそれでも仕方ないと許されていた。子供は遊ぶものなのだ。しかし、中学校に入学したとたん母はうるさくなってきた。
寝ころんで漫画を読みふけっている私にむかって「あんたねぇ。女の子なんだから、ちょっとはお母さんの仕事手伝ってちょうだい」と言うのだ。それを一日三回から五回言う。
また、「勉強をしなさい」とも盛んになっていた。しかし私は手伝いも勉強もせず、毎日のんべんだらりと過ごし続けていたのだ。・・・
母は怒っていた。私の顔を見るたびに「将来バカになっておわりだよ」という恐ろしいセリフを吐いていた。
将来バカになっておわると言われてもまだ私は愚行を繰り返していた。そのころ『ドカベン』という水島新司先生による野球漫画が流行っており、私はその漫画にでてくる里中君という少年に熱を上げていたのだ。・・・
私は(親戚のおばさんが「漫画だけど役に立つから」と言ってもらった)『ベルサイユのばら』全十巻を抱えて古本屋に直行した。『ベルサイユのばら』は一冊50円で引き取られ、合計500円の利益になった。その500円を握りしめ、その足で『ドカベン』の新品320円を一冊購入しに行ったのである。
ベルサイユ10冊がドカベン1冊に変わっている事に気付いた母はカンカンに怒った。
「バカッ、なんであんなにいい本を売っちゃったのっ。あんたは正真正銘の大バカだ。もういい加減でドカベンはおよしっ」と怒鳴り、眩暈を催して床に伏してしまった。
それでも私は反省など全くせず、これでいいのだと固く信じていた。ドカベンが全てである。母は怒っていればよいのだ。・・・
そんなある年の夏休み、母の怒りは遂に爆発した。・・・
母は私を呼び出し、とうかその腐った怠け心を入れかえてくれと。真顔で懇願し始めた。そして自分は戦争中は子供だったがこんなにも親の手伝いをしただとか、貧しかったが一生懸命生きていただとか、寒い日に大根を洗っただとか、数限りない苦労話をとくとくと語り始めたのである。
私は”いつものことだ”と思い、真面目に話をきいていなかった。母が「お母さんの言う事がわかってくれたかね。これからはしっかり者になってちょうだい」と言ったので、私は「話をきけと言われたから一応きいただけだよ」と言ってまたゴロリと横になった。
母は「クゥ」という絞り出す様なうなり声を小さく発し、鼻をすすりながら「こんな子供を産むんじゃなかった・・・あたしゃつわりもひどくて死にそうだったのに・・・命がけで産んだのに・・・情けないったらありゃしない」と言いながら泣いていた。
私は不良になったわけでもなく、家で暴力をふるうわけでもなかったのに”怠け者”というだけで親を泣かせてしまったのだ。”怠け”が原因で親を泣かせた人の話など、自分以外にきいた事がない。
親を泣かしてもまだ私は凝りていなかった。母の再三に亘る忠告も無視し続け、怠ける事に打ち込んでいた。
夏休みの終わり頃、怒りが頂点に達した母の手により、とうとう『ドカベン』数十冊が二階の窓から下の空き地に投げ捨てられるという大惨事が起こった。私は泣きわめきながら散乱したドカベン数十冊を拾いに行った。父も姉も誰も私の味方をしてくれる者はいなかった。全部身から出たサビである。
それから数年経ち、18歳から私は働き者になった。家の手伝いこそしなかったが、学校とバイトと漫画を描くのに精を出し、働き続けて今日に至る。
あんなに怒っていた母も今ではすっかり優しい初老の婦人になり、「あんた少しは休んだ方がいいよ」と言いながら、御飯をつくりに通って来てくれている。
私が17年間怠けていたのは、その後で働くために力を蓄えていたのだ。三年寝太郎の五倍以上働かなくてはならない。彼の五倍といったら大変だ。せめて三倍の怠けにしておけばよかったとやや思う。
・主人は意外な動転し、「実は、僕達夫婦は生まれてこのかた一度もおとし玉をあげるという経験をしたことがないのです」と、訥々と語り始めてしまった。
「僕ら、子供の頃はあんなに楽しみにしていたのに、自分達があげる番になったら、あげる機会もなかったもので、すっかり忘れてしまっていて・・・フッ現金なものですよね・・・だから、今日初めておとし玉をあげる体験をする記念すべき日なのです。もらっていたのがあげる立場になり、こうして世代は替わってゆくのですね。だからもらって下さい」と言い、ギョッとしている知人を尻目にお嬢さんにおとし玉袋(おとし玉袋がなかったので封筒にさくらももこさんが鳥の絵を描いた)を熱く手渡していた。
主人が俵万智だったら今日を『おとし玉記念日』として一首ひねっているところである。
我々はおとし玉をあげた喜びにしばし酔い痴れ、大人になった事を噛みしめていた。そして来年こそは忘れずにおとし玉袋を用意しておこうと誓ったのである。
・三谷幸喜さんとの対談
三谷 さくらさんはテレビの『ちびまるこちゃん』の脚本をご自分で書かれていたんですってね。
さくら ええ、毎週毎週、もういまはやってませんけど十年近くやってました。あれ、やっていると、すごく拘束されるんですよね。その間に漫画の連載があったり、エッセイの仕事があったり、もうてんてこまいでした。ちょっと書きだめしても、すぐに書かなければいけなくなっちゃうし。取材旅行なんかに行こうものなら、それこそ前もって、何週分の書いておかなければいけないでしょ。こんな人生、いつまで続くんだろう・・・と思ったら気が遠くなって「もうやめたい」って言ったんです。
三谷 絵を描く才能と脚本を書く才能とは別々だと思うんですけど、さくらさんは、両方できるっていうのが信じられない。
さくら 絵は私、うまくないですよ。三谷さんの前で脚本ならうまいですなんてことも言えないですけど。
三谷 でも、ほんと、それを聞いた時は驚いた。さくらももこさんがご自分で脚本を書いているって聞いた時は、まずウソだろうと思いましたから。・・・ 家事をやりながら、脚本書いて、絵を描いて、合い間に離婚までしたでしょ。すごいですよ。
さくら うちの前の夫が三谷さんみたいに、勝手にコンビニに行って、お弁当やサラダを買って食べて、〇〇がおいしいよ、新発売だよとか言ってくれたりするような優しい夫だった、離婚の苦労まではしなくてすんだんですけど。
三谷 忙しかったでしょうね。
さくら あの頃は、毎日三時間くらいしか寝てなかったですからね。離婚騒動の真っ最中は十日間、ほとんんど寝ずに食べものも食べませんでしたから、たぶん十キロ以上やせたと思います。いま思うと、よくくぐり抜けられたと思いますね。その最中も、脚本を三本書きました。必死でしたね。一本三十枚ぐらいの原稿を3~4時間で書きました。
三谷 エーッ! ちょっと待ってください。三十枚って四百字詰めで?
さくら ええ、ガーッと。しかも、一本ではなく、二本とか書くことはしょちゅうありましたよ。
三谷 じゃ、五百本は書いているわけですね。考えられない。よくストーリーが出て来ますよね。
さくら 自分の作ってる世界だから簡単なんです。話を作っているうちに、どんどん広がっていく感じですね。
脚本は脚本家にまかせておけばいいって、皆に言われて、最初の内は脚本家さんの書いたものを手直ししていたんですね。そのうちに、手直しするより自分で書いた方が早いかも・・・と思って、自分で書くことにしたんです。
三谷 ああ、それはものすごい迷惑な原作者ですね。脚本家からみると(笑)。
さくら イヤな原作者だと思いますよ(笑)。でも、自分の創作の世界観を守りたかったです。若かったんですよ。
感想;
「もものかんづめ」さくら ももこ著 ”ちびまる子ちゃんの面白さとほっとするのがわかったように思いました”
「さるのこしかけ」さくらももこ著 “独特の人生観/普通でないのが普通なのかも”
さくらももこさんは、漫画、アニメだけでなく、このエッセイ三部作以外にも多くのエッセイを書かれています。
三年寝太郎の三年をはるかに超える、十七年寝太郎と
何かをなし遂げるには雌伏の時が必要とも言います。
ジャンプするには先ずはしゃがむ必要があるとも言います。
事を成すには準備や努力が必要です。
さくらももこさんはご自分で17年間がその期間だったと述べられています。
ご自分がやりたいことが見つかり、それからは必死に精一杯頑張られたように思いました。
親にしたら、我慢できないというか、見守ることは難しいですね。
今のその人を見るのではなく、その人の未来をみるようにと言われますが。
自分のことも今だけでなく、未来の自分を描くことが希望になり、日々の取り組みになるのでしょう。
それが、未来に今のことが生かされるのでしょう。
・『三年寝太郎』は怠けていた日々が三年であったからまだよい。私は17歳まで怠けていた。寝てこそいなかったが、起きて怠けていた分、ちらかしたりしたので寝太郎の方がまだましであった。
生まれた時から17年間、親の手伝いなどした事がなかった。小学校を卒業するまでの十余年間、外で遊び狂い家に帰る頃には泥人形のようになっていた。家に帰ればご飯を食べて寝るだけである。
小学生のうちはまだそれでも仕方ないと許されていた。子供は遊ぶものなのだ。しかし、中学校に入学したとたん母はうるさくなってきた。
寝ころんで漫画を読みふけっている私にむかって「あんたねぇ。女の子なんだから、ちょっとはお母さんの仕事手伝ってちょうだい」と言うのだ。それを一日三回から五回言う。
また、「勉強をしなさい」とも盛んになっていた。しかし私は手伝いも勉強もせず、毎日のんべんだらりと過ごし続けていたのだ。・・・
母は怒っていた。私の顔を見るたびに「将来バカになっておわりだよ」という恐ろしいセリフを吐いていた。
将来バカになっておわると言われてもまだ私は愚行を繰り返していた。そのころ『ドカベン』という水島新司先生による野球漫画が流行っており、私はその漫画にでてくる里中君という少年に熱を上げていたのだ。・・・
私は(親戚のおばさんが「漫画だけど役に立つから」と言ってもらった)『ベルサイユのばら』全十巻を抱えて古本屋に直行した。『ベルサイユのばら』は一冊50円で引き取られ、合計500円の利益になった。その500円を握りしめ、その足で『ドカベン』の新品320円を一冊購入しに行ったのである。
ベルサイユ10冊がドカベン1冊に変わっている事に気付いた母はカンカンに怒った。
「バカッ、なんであんなにいい本を売っちゃったのっ。あんたは正真正銘の大バカだ。もういい加減でドカベンはおよしっ」と怒鳴り、眩暈を催して床に伏してしまった。
それでも私は反省など全くせず、これでいいのだと固く信じていた。ドカベンが全てである。母は怒っていればよいのだ。・・・
そんなある年の夏休み、母の怒りは遂に爆発した。・・・
母は私を呼び出し、とうかその腐った怠け心を入れかえてくれと。真顔で懇願し始めた。そして自分は戦争中は子供だったがこんなにも親の手伝いをしただとか、貧しかったが一生懸命生きていただとか、寒い日に大根を洗っただとか、数限りない苦労話をとくとくと語り始めたのである。
私は”いつものことだ”と思い、真面目に話をきいていなかった。母が「お母さんの言う事がわかってくれたかね。これからはしっかり者になってちょうだい」と言ったので、私は「話をきけと言われたから一応きいただけだよ」と言ってまたゴロリと横になった。
母は「クゥ」という絞り出す様なうなり声を小さく発し、鼻をすすりながら「こんな子供を産むんじゃなかった・・・あたしゃつわりもひどくて死にそうだったのに・・・命がけで産んだのに・・・情けないったらありゃしない」と言いながら泣いていた。
私は不良になったわけでもなく、家で暴力をふるうわけでもなかったのに”怠け者”というだけで親を泣かせてしまったのだ。”怠け”が原因で親を泣かせた人の話など、自分以外にきいた事がない。
親を泣かしてもまだ私は凝りていなかった。母の再三に亘る忠告も無視し続け、怠ける事に打ち込んでいた。
夏休みの終わり頃、怒りが頂点に達した母の手により、とうとう『ドカベン』数十冊が二階の窓から下の空き地に投げ捨てられるという大惨事が起こった。私は泣きわめきながら散乱したドカベン数十冊を拾いに行った。父も姉も誰も私の味方をしてくれる者はいなかった。全部身から出たサビである。
それから数年経ち、18歳から私は働き者になった。家の手伝いこそしなかったが、学校とバイトと漫画を描くのに精を出し、働き続けて今日に至る。
あんなに怒っていた母も今ではすっかり優しい初老の婦人になり、「あんた少しは休んだ方がいいよ」と言いながら、御飯をつくりに通って来てくれている。
私が17年間怠けていたのは、その後で働くために力を蓄えていたのだ。三年寝太郎の五倍以上働かなくてはならない。彼の五倍といったら大変だ。せめて三倍の怠けにしておけばよかったとやや思う。
・主人は意外な動転し、「実は、僕達夫婦は生まれてこのかた一度もおとし玉をあげるという経験をしたことがないのです」と、訥々と語り始めてしまった。
「僕ら、子供の頃はあんなに楽しみにしていたのに、自分達があげる番になったら、あげる機会もなかったもので、すっかり忘れてしまっていて・・・フッ現金なものですよね・・・だから、今日初めておとし玉をあげる体験をする記念すべき日なのです。もらっていたのがあげる立場になり、こうして世代は替わってゆくのですね。だからもらって下さい」と言い、ギョッとしている知人を尻目にお嬢さんにおとし玉袋(おとし玉袋がなかったので封筒にさくらももこさんが鳥の絵を描いた)を熱く手渡していた。
主人が俵万智だったら今日を『おとし玉記念日』として一首ひねっているところである。
我々はおとし玉をあげた喜びにしばし酔い痴れ、大人になった事を噛みしめていた。そして来年こそは忘れずにおとし玉袋を用意しておこうと誓ったのである。
・三谷幸喜さんとの対談
三谷 さくらさんはテレビの『ちびまるこちゃん』の脚本をご自分で書かれていたんですってね。
さくら ええ、毎週毎週、もういまはやってませんけど十年近くやってました。あれ、やっていると、すごく拘束されるんですよね。その間に漫画の連載があったり、エッセイの仕事があったり、もうてんてこまいでした。ちょっと書きだめしても、すぐに書かなければいけなくなっちゃうし。取材旅行なんかに行こうものなら、それこそ前もって、何週分の書いておかなければいけないでしょ。こんな人生、いつまで続くんだろう・・・と思ったら気が遠くなって「もうやめたい」って言ったんです。
三谷 絵を描く才能と脚本を書く才能とは別々だと思うんですけど、さくらさんは、両方できるっていうのが信じられない。
さくら 絵は私、うまくないですよ。三谷さんの前で脚本ならうまいですなんてことも言えないですけど。
三谷 でも、ほんと、それを聞いた時は驚いた。さくらももこさんがご自分で脚本を書いているって聞いた時は、まずウソだろうと思いましたから。・・・ 家事をやりながら、脚本書いて、絵を描いて、合い間に離婚までしたでしょ。すごいですよ。
さくら うちの前の夫が三谷さんみたいに、勝手にコンビニに行って、お弁当やサラダを買って食べて、〇〇がおいしいよ、新発売だよとか言ってくれたりするような優しい夫だった、離婚の苦労まではしなくてすんだんですけど。
三谷 忙しかったでしょうね。
さくら あの頃は、毎日三時間くらいしか寝てなかったですからね。離婚騒動の真っ最中は十日間、ほとんんど寝ずに食べものも食べませんでしたから、たぶん十キロ以上やせたと思います。いま思うと、よくくぐり抜けられたと思いますね。その最中も、脚本を三本書きました。必死でしたね。一本三十枚ぐらいの原稿を3~4時間で書きました。
三谷 エーッ! ちょっと待ってください。三十枚って四百字詰めで?
さくら ええ、ガーッと。しかも、一本ではなく、二本とか書くことはしょちゅうありましたよ。
三谷 じゃ、五百本は書いているわけですね。考えられない。よくストーリーが出て来ますよね。
さくら 自分の作ってる世界だから簡単なんです。話を作っているうちに、どんどん広がっていく感じですね。
脚本は脚本家にまかせておけばいいって、皆に言われて、最初の内は脚本家さんの書いたものを手直ししていたんですね。そのうちに、手直しするより自分で書いた方が早いかも・・・と思って、自分で書くことにしたんです。
三谷 ああ、それはものすごい迷惑な原作者ですね。脚本家からみると(笑)。
さくら イヤな原作者だと思いますよ(笑)。でも、自分の創作の世界観を守りたかったです。若かったんですよ。
感想;
「もものかんづめ」さくら ももこ著 ”ちびまる子ちゃんの面白さとほっとするのがわかったように思いました”
「さるのこしかけ」さくらももこ著 “独特の人生観/普通でないのが普通なのかも”
さくらももこさんは、漫画、アニメだけでなく、このエッセイ三部作以外にも多くのエッセイを書かれています。
三年寝太郎の三年をはるかに超える、十七年寝太郎と
何かをなし遂げるには雌伏の時が必要とも言います。
ジャンプするには先ずはしゃがむ必要があるとも言います。
事を成すには準備や努力が必要です。
さくらももこさんはご自分で17年間がその期間だったと述べられています。
ご自分がやりたいことが見つかり、それからは必死に精一杯頑張られたように思いました。
親にしたら、我慢できないというか、見守ることは難しいですね。
今のその人を見るのではなく、その人の未来をみるようにと言われますが。
自分のことも今だけでなく、未来の自分を描くことが希望になり、日々の取り組みになるのでしょう。
それが、未来に今のことが生かされるのでしょう。