斎藤環氏は精神科医で筑波大学の教授、與那覇 潤氏は歴史学者で躁うつ病と闘ってきた経験を持ちオープンにされている。
1回あたり4時間あまりの対談を6回。これを圧縮したのが本書だそうです。
・心の病気でクリニックに通い出すと、かならず途中で後悔するタイミングがある。言われるとおりにしているのに、全然治らないじゃないか。むしろ副作用でもっとひどくなってるんじゃないか。安易に「医者に頼った」から。こんなことになったんじゃないか-といった具合だ。
そうなってしまったとき、どう乗り越えるのか。その手段が対話だと思う。疑問や違和感を言葉にし、ただしどちらも一方的に見解をおしつけることなく、コミュニケーションを続けること。問題が完全に解決しはしないけど、でも少なくとも一人で思考の堂々めぐりをしているよりは「楽」だから、もうちょっとこの関係を続けてみようと思えること。
そうした条件が整うことで、はじめて治療は継続できるし、結果としていつか「治る」。(與那覇)
・そうした行き止まりから抜け出すためには、むしろ「イントゥラ・フェストゥム(祭りの最中)」のような意識を「いま・ここ」に集中させ、自分には「つねに現在しかない」とするメンタリティが有効なのかもしれません。(斎藤)
・精神医学では、人間がもつ時間の意識を「アンテ・フェニストゥム(祭りの前)」、「イントゥラ・フェストゥム(祭りの最中)」「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」の三つに分けることがあります。それぞれが、統合失調症・てんかん・うつ病(ないし、躁うつ病のうつ状態)の患者の感じている感覚に近いのではと見なすわけです。
・あなたが「〇〇だったら」仲良くしてあげる、という条件をつけてくる人は、ほんとうの友達じゃない。たとえ相手と価値観が違って、お互いの主張に「同意」することができないときでも、人には「共感」を通じて存在を承認してもらう権利があることを、忘れないようにしよう。
・ひとつはっきりしていることは、アドラーの理論を治療に使っている臨床家はいないということです。あれはある種のマッチョイズムなので、心が弱っている人には向きません。(斎藤)
・精神分析のトラウマ論は、これが病気の原因だという「正解」を示すのではなく、家族関係を「見なおす」ためのきっかけを提供するもの。<標準家族>のイメージから外れていることを気にするより、自分自身がはつらつと生きられる新しい家族像を考えることの方が、ずっと大事だ。
・中井久夫さんが、「濃厚な人間関係顧客と持つこと」を生業とする職業は二つあって、売春婦と精神科医だ」と言われたことから連想したものです。そして重要なのは、フロイトもそうでしたように、だからこし治療関係においては、「お金を払わせること」がむしろ必要になるんです。
・「お金で買えない価値」を掲げることで集金するビジネスが台頭した背景にはあ、実は人とのつながりまでお金で取引する資本主義の徹底化がある。承諾は本来「無条件」に与えられるべきであることを忘れずに、特定のサービスに囲い困れない適切なつきあい方をしていこう。
・オウム真理教が昔「修行するぞ、修行するぞ・・・」と信徒に唱えさせていたように、たしかに(人生)修行って怖い発想ですよね。「これは修行なんだ」と思ちゃうと、どんな無茶ぶりだったり、あきらかに無意味な労苦だったりしても、やる側が勝手に意味-乗り越えて「理想の自分」になる、とか-を見いだして頑張ってしまうところがあります。(與那覇)
・いつ、なにを、どのように「あきらめるか」が人生の本質であり、適切になされれば成熟と精神の安定をもたらす。だからこそ、いつまでもあきらめを認めなかったり、逆に都合よくあきらめさせることで相手を支配するような、悪い意味での「権力」の装置に気をつけよう。
・『発達障害当事者研究』綾屋紗月著
・「サリー・アン問題」で、発達障害の人が躓いてしまうのは、①第三者の目で見て「ボールがどこにあるか」と、②登場人物の視点で「どこにあると思われているか」を区別できないからなんですね。他の知能の高い人でも「サリーは箱を開ける。なぜなら、いまボールが入っているのはそこだから」と答えてしまう。
・発達障害は「現状以上に発達できない」という病気でなしい、診断されるかどうかも、実際には程度の問題だ。限られた著名人を「それでも成功できた」と讃えるよりも、「どんな人でも生きやすくなる」ように社会のハードルを下げて、話し方・伝え方のバリエーションを増やすことを考えていこう。
・サヴァン症候群の人に顕著ですが、暗算や統計処理・記憶力が優れている一方で、高度な文脈を踏まえて意味や比喩を扱うことが苦手。(斎藤)
・かつてのソ連で精神医学が権力を結びつき、共産主義になびかない人に、「怠慢分裂症」という診断名をつけて強制入院させたことがあります。でもそうした非人道的な行為の結果わかったのは、どんなに薬や電気ショック治療を乱用しても、「思想までは変えられない」ことだったんです。
脳に物理的な刺激で直接働きかけて、体制に都合のよい人間を作ることはできなかった。人を洗脳するには、いまだに「人力」じゃないと無理なんですよね。(斎藤)
・AI万能論は、すでに何度も破綻してきた「極端な版人間主義」の一例にすぎない。安易にテクノロジーに依存せず、しかしあらゆる人に画一的な人間像を押しつけるのでもない、多様性と共存できる人間主義の在り方のヒントは、人文学や医療の現場にたくさんあるはずだ。
・ハラスメントをなくすには、海外の動向だけでなく「日本に固有の文脈」にも目を向けなぜ問題解決に「失敗してきたか」をふり返ることが大切だ。性急な「犯人捜し」をして鬱憤を晴らすよりも、とういった関係性があれば個人の尊厳が守られるのかを、冷静に議論していこう。
・もうひとつ気になったのが、彼女(電通のまつりさん)の死を受けとめてどうするかというとき、「残業規制」の方向にのみ話が収斂していったことです。労基署が認定した時間外労働が直前に一か月で100時間強だったことを考えると、私は彼女を追いつめたのはフィジカルな負担の量よりも、周囲に人間らしく扱ってもらえないという尊厳や承認の問題だと思います。しかし、そちらにはメディアが光を当ててくれない。(斎藤)
・この国の働きづらさを変えるには、残業時間のような量の問題だけでなく、「質」を問わなければ意味がない。個人の「性格・キャラ」に責任を帰属させがちな、日本人の思考の悪癖を反省し、「カッコよくない人」も含めて承認される多様性を築いていくことが、ほんとうの解決策だ。
・心の病は①本人が苦しさを感じるか、②周囲が問題視しているか、という二重の基準によって病気として発現するかどうかが決まる。その意味では「相対的なもの」なのですが、だからといって苦しさの度合いが低いわけではなく、レントゲン等で「客観的」に観察できる病気よりも、むしろ社会的な病であるからこその、深刻な苦痛や葛藤を引き起こすことがあります。(斎藤)
・自分の感情や内面には「他人」が折りたたまれて入っているから、どんな人でも周囲の人とともにしか、変わることができない。ゆっくりと遠回りでいいから、参加している誰もが尊厳を否定されない、そこにいるだけで前よりも楽になれるような関係性を、対話を通じて作っていこう。
感想;
ダイアローグ(対話)していくことで、自分の考えもより明確になったり、それについて問題点にも気づいたりするようです。
そして自分の考えに偏りがあるないもわかっていくようです。
精神医療の問題点はすぐに薬をだすだけで十分な対話ができないことなのかもしれません。
かつどうしても患者の方に、医者に嫌われたらどうしよう?
こんなことを話しても大丈夫だろうか?と思い躊躇しがちです。
オープンダイアローグは対等で話をしていくことで、斎藤環先生は実際の統合失調症の患者さんに応用し、期待以上の成果を実感されているようです。
「オープンダイアローグが開く医療」斎藤 環著 ”本人の選択するスペースを確保する”
「オープンダイアローグとは何か」齋藤環著 ”統合失調症の治療;対話することが治療になり、愛に!”
1回あたり4時間あまりの対談を6回。これを圧縮したのが本書だそうです。
・心の病気でクリニックに通い出すと、かならず途中で後悔するタイミングがある。言われるとおりにしているのに、全然治らないじゃないか。むしろ副作用でもっとひどくなってるんじゃないか。安易に「医者に頼った」から。こんなことになったんじゃないか-といった具合だ。
そうなってしまったとき、どう乗り越えるのか。その手段が対話だと思う。疑問や違和感を言葉にし、ただしどちらも一方的に見解をおしつけることなく、コミュニケーションを続けること。問題が完全に解決しはしないけど、でも少なくとも一人で思考の堂々めぐりをしているよりは「楽」だから、もうちょっとこの関係を続けてみようと思えること。
そうした条件が整うことで、はじめて治療は継続できるし、結果としていつか「治る」。(與那覇)
・そうした行き止まりから抜け出すためには、むしろ「イントゥラ・フェストゥム(祭りの最中)」のような意識を「いま・ここ」に集中させ、自分には「つねに現在しかない」とするメンタリティが有効なのかもしれません。(斎藤)
・精神医学では、人間がもつ時間の意識を「アンテ・フェニストゥム(祭りの前)」、「イントゥラ・フェストゥム(祭りの最中)」「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」の三つに分けることがあります。それぞれが、統合失調症・てんかん・うつ病(ないし、躁うつ病のうつ状態)の患者の感じている感覚に近いのではと見なすわけです。
・あなたが「〇〇だったら」仲良くしてあげる、という条件をつけてくる人は、ほんとうの友達じゃない。たとえ相手と価値観が違って、お互いの主張に「同意」することができないときでも、人には「共感」を通じて存在を承認してもらう権利があることを、忘れないようにしよう。
・ひとつはっきりしていることは、アドラーの理論を治療に使っている臨床家はいないということです。あれはある種のマッチョイズムなので、心が弱っている人には向きません。(斎藤)
・精神分析のトラウマ論は、これが病気の原因だという「正解」を示すのではなく、家族関係を「見なおす」ためのきっかけを提供するもの。<標準家族>のイメージから外れていることを気にするより、自分自身がはつらつと生きられる新しい家族像を考えることの方が、ずっと大事だ。
・中井久夫さんが、「濃厚な人間関係顧客と持つこと」を生業とする職業は二つあって、売春婦と精神科医だ」と言われたことから連想したものです。そして重要なのは、フロイトもそうでしたように、だからこし治療関係においては、「お金を払わせること」がむしろ必要になるんです。
・「お金で買えない価値」を掲げることで集金するビジネスが台頭した背景にはあ、実は人とのつながりまでお金で取引する資本主義の徹底化がある。承諾は本来「無条件」に与えられるべきであることを忘れずに、特定のサービスに囲い困れない適切なつきあい方をしていこう。
・オウム真理教が昔「修行するぞ、修行するぞ・・・」と信徒に唱えさせていたように、たしかに(人生)修行って怖い発想ですよね。「これは修行なんだ」と思ちゃうと、どんな無茶ぶりだったり、あきらかに無意味な労苦だったりしても、やる側が勝手に意味-乗り越えて「理想の自分」になる、とか-を見いだして頑張ってしまうところがあります。(與那覇)
・いつ、なにを、どのように「あきらめるか」が人生の本質であり、適切になされれば成熟と精神の安定をもたらす。だからこそ、いつまでもあきらめを認めなかったり、逆に都合よくあきらめさせることで相手を支配するような、悪い意味での「権力」の装置に気をつけよう。
・『発達障害当事者研究』綾屋紗月著
・「サリー・アン問題」で、発達障害の人が躓いてしまうのは、①第三者の目で見て「ボールがどこにあるか」と、②登場人物の視点で「どこにあると思われているか」を区別できないからなんですね。他の知能の高い人でも「サリーは箱を開ける。なぜなら、いまボールが入っているのはそこだから」と答えてしまう。
・発達障害は「現状以上に発達できない」という病気でなしい、診断されるかどうかも、実際には程度の問題だ。限られた著名人を「それでも成功できた」と讃えるよりも、「どんな人でも生きやすくなる」ように社会のハードルを下げて、話し方・伝え方のバリエーションを増やすことを考えていこう。
・サヴァン症候群の人に顕著ですが、暗算や統計処理・記憶力が優れている一方で、高度な文脈を踏まえて意味や比喩を扱うことが苦手。(斎藤)
・かつてのソ連で精神医学が権力を結びつき、共産主義になびかない人に、「怠慢分裂症」という診断名をつけて強制入院させたことがあります。でもそうした非人道的な行為の結果わかったのは、どんなに薬や電気ショック治療を乱用しても、「思想までは変えられない」ことだったんです。
脳に物理的な刺激で直接働きかけて、体制に都合のよい人間を作ることはできなかった。人を洗脳するには、いまだに「人力」じゃないと無理なんですよね。(斎藤)
・AI万能論は、すでに何度も破綻してきた「極端な版人間主義」の一例にすぎない。安易にテクノロジーに依存せず、しかしあらゆる人に画一的な人間像を押しつけるのでもない、多様性と共存できる人間主義の在り方のヒントは、人文学や医療の現場にたくさんあるはずだ。
・ハラスメントをなくすには、海外の動向だけでなく「日本に固有の文脈」にも目を向けなぜ問題解決に「失敗してきたか」をふり返ることが大切だ。性急な「犯人捜し」をして鬱憤を晴らすよりも、とういった関係性があれば個人の尊厳が守られるのかを、冷静に議論していこう。
・もうひとつ気になったのが、彼女(電通のまつりさん)の死を受けとめてどうするかというとき、「残業規制」の方向にのみ話が収斂していったことです。労基署が認定した時間外労働が直前に一か月で100時間強だったことを考えると、私は彼女を追いつめたのはフィジカルな負担の量よりも、周囲に人間らしく扱ってもらえないという尊厳や承認の問題だと思います。しかし、そちらにはメディアが光を当ててくれない。(斎藤)
・この国の働きづらさを変えるには、残業時間のような量の問題だけでなく、「質」を問わなければ意味がない。個人の「性格・キャラ」に責任を帰属させがちな、日本人の思考の悪癖を反省し、「カッコよくない人」も含めて承認される多様性を築いていくことが、ほんとうの解決策だ。
・心の病は①本人が苦しさを感じるか、②周囲が問題視しているか、という二重の基準によって病気として発現するかどうかが決まる。その意味では「相対的なもの」なのですが、だからといって苦しさの度合いが低いわけではなく、レントゲン等で「客観的」に観察できる病気よりも、むしろ社会的な病であるからこその、深刻な苦痛や葛藤を引き起こすことがあります。(斎藤)
・自分の感情や内面には「他人」が折りたたまれて入っているから、どんな人でも周囲の人とともにしか、変わることができない。ゆっくりと遠回りでいいから、参加している誰もが尊厳を否定されない、そこにいるだけで前よりも楽になれるような関係性を、対話を通じて作っていこう。
感想;
ダイアローグ(対話)していくことで、自分の考えもより明確になったり、それについて問題点にも気づいたりするようです。
そして自分の考えに偏りがあるないもわかっていくようです。
精神医療の問題点はすぐに薬をだすだけで十分な対話ができないことなのかもしれません。
かつどうしても患者の方に、医者に嫌われたらどうしよう?
こんなことを話しても大丈夫だろうか?と思い躊躇しがちです。
オープンダイアローグは対等で話をしていくことで、斎藤環先生は実際の統合失調症の患者さんに応用し、期待以上の成果を実感されているようです。
「オープンダイアローグが開く医療」斎藤 環著 ”本人の選択するスペースを確保する”
「オープンダイアローグとは何か」齋藤環著 ”統合失調症の治療;対話することが治療になり、愛に!”