幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

経営未経験の主婦から社長になった諏訪貴子さん、「“第2の人生”に向けて何かを始めるのに遅すぎることはない」 "笑顔を大切にする”

2023-01-29 11:21:44 | 社会
中小製造業が集まる東京・大田区の町工場の切削研磨加工を専門とするダイヤ精機代表取締役社長の諏訪貴子さん(51歳)は、2004年に急逝した父親を継いで、32歳で主婦から2代目社長に就任。町工場という男性が多い職場で会社の経営を立て直した諏訪さんは、今年で社長就任18年目を迎えました。いまや政府の「新しい資本主義実現会議」のメンバーにも選ばれ、日本郵政の社外取締役を務めるなど活躍の場を広げています。そんな諏訪さんに、“歳を重ねながら前向きに生きる術”をうかがうインタビュー。最終回となる今回は、普段の生活にも生かせる考え方のヒントを教えてもらいました。

成績が落ちると、父に「自分に負けた」と怒られた

30代で社長に就任し、幾多の試練を乗り越えてきた諏訪さんは、失敗しても後ろを振り返らずに常に前を見て歩いてきた。諏訪さんが持つ精神力の強さには、父親の教育も大きく影響している。 「父から怒られた記憶はほぼありませんが、一度だけすごく叱られたことがありました。中学生の頃、塾の成績が下がって一番上のクラスから2番目のクラスに落ちてしまったんです。友達もいるので、悔しいし恥ずかしいから塾に行きたくなくて、泣いて帰宅したことがありました。そのとき、なぐさめてくれると思った父から『なぜお前が泣くんだ』と怒鳴られたんです」(諏訪さん・以下同) 
諏訪さんは、父親から「2番目のクラスになったのは、お前の努力が足りなくて自分に負けた結果。人と比べて悔しがるのはおかしい」と指摘された。そこから悔しいという気持ちを持たなくなったという。 「成功した人がいても、彼女は私より頑張ったからだと思えるようになりました。人と比較してうらやんだりねたんだりせずに、純粋にたたえることができるようになったのは、父のおかげだと思っています」

肩書を忘れる時間を大切にする

社長の仕事に休日はない。平日は朝から夕方まで会社で過ごし、講演会など社外での活動も精力的にこなす諏訪さんだが、息抜きの時間も大切にしている。 「趣味はクラシックバレエ。社長就任から半年くらいしてから、ストレス発散のために始めて、今では自分でも驚くほど踊れるようになりました。バレエの世界では、私はただの生徒。社長という肩書を忘れることができる貴重な時間です。先生から怒られたり褒められたりするのは楽しいですよ」 現在はバレエの発表会の準備で忙しいという諏訪さん。家でも時間があれば練習をしていると話す。 
「自分に負けたくないから、“どっちが本業?”と思われるくらいストイックにバレエの練習もしています。本番前はリハーサルで家を空ける時間が多くなるので、毎年、息子におうかがいをたてるんですよ。『今年も発表会に出ていいでしょうか』って(笑い)。私の性格をよく理解している息子は、『どうせやらなかったら後悔するんだから、やればいいよ』と賛成してくれます。 舞台衣装も自分で作ったことがあるんですよ。高校生の頃はデザイナーになりたくて、大学の服飾科を受けたこともあったんです。独学ですが、自分でデザインした服を着て、バレエの初舞台を踏んだときは、感慨深いものがありました」 
◆地道な努力は必ず結果につながる 雇用の多様化とライフスタイルが変化する現代では、子育てや育児を終えてセカンドキャリアを歩む女性も多い。主婦から社長に転身した諏訪さんは、女性のセカンドキャリアについてどう考えているのか。 「社長を辞めたたら、老後は経営者向けの相談所でも始めようかと思っているんですよ。実は一時期、ひどい更年期に悩まされていたのですが、ここ数年でモチベーションも体力も戻ってきました。2年前に上級カウンセラーの資格をとりましたし、新たに何かを学びたいと思っています。 
学生時代って、学ぶことに対する苦手意識がありました。でもこの年齢になって、これまで身につけた知識やスキルは、誰にも奪われない自分だけの財産になっていると実感しています。人間、いつからでも新しいことを始められる。第2の人生に向けて何かを始めるのに遅すぎることはありません。地道な努力は必ず結果につながると信じています」

笑顔を大切にする
諏訪さんが、人と話すときに心がけていることが1つある。それは「笑顔」だ。 「私自身も笑うことが好きだし、人を笑顔にさせたいという気持ちがすごくあります。経営者として有名になって講演会を始めた当初、参加者が感想を書くアンケートにつまらないとか生意気だと書かれたことがありました。もうショックで、読み返すのも嫌でした。 でも、参加者は何を求めて会場に来ているんだろうと思って、一度はぐしゃぐしゃにしていたアンケートを広げて、すべてに目を通しました。そこで、参加者はある種のエンターテインメントを求めて講演会に来ていると分かりました。真面目に経営手法だけを伝えていたのがいけなかったと気づいたんです。 
結婚式の司会では、『誰でもいいので3回泣かせるほど感動させたら成功』だといわれています。講演も同じで、来てくれた人が楽しんで帰ってもらえたら成功。
私の講演を聴きに来てくださっている人も1回泣かせて2回笑わせよう、と話す内容を練り直したら、どんどん講演に人が集まるようになっていきました」

夢は全国の町工場の活性化
主婦から町工場の社長となり、業績をV字回復させた諏訪さんの体験は、NHKの『マチ工場のオンナ』でドラマ化もされた。いまや活躍の場は経営者にとどまらず、昨年には政府の「新しい資本主義実現会議」のメンバーにも選ばれるほどだ。そんな諏訪さんの今後の目標は何なのか。 「目標を定めるとそこに縛られてしまうから、目標は持たないようにしています。結婚式の司会者をしていた頃がまさにそうでした。司会のプロになることが目標だったから、達成した途端にモチベーションを維持できなくなって長続きしませんでした。だからどんなことも、具体的な目標を定めないようにしています。 とはいえ、社長としての大義といいますか、叶えたい夢はあります。それは、社員が大田区に一戸建てを建てられるような会社にすること。大田区は地価が高いので、実現することは難しいし、そのためにはもっと会社の利益を上げる必要があります。 さらに、こんな小さな町工場の社長が言うことではないかもしれませんが、全国の町工場の活性化をしたい。かつて昭和の日本にあった輝かしい職人の世界を、私が生きているうちにもう一度実現したいのです」 

◆ダイヤ精機代表取締役・諏訪貴子さん すわ・たかこ。1971年生まれ。ダイヤ精機株式会社代表取締役。1995年に成蹊大学工学部を卒業後、自動車部品メーカーにエンジニアとして入社。ダイヤ精機に2度入社するが、経営方針の違いから父に2度解雇される。2004年、父の逝去をきっかけに社長に就任し、業績を順調に回復させる。日経ウーマンの「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013」 大賞(リーダー部門)を受賞。著書に『町工場の娘』(日経BP)、『ザ・町工場』(日経BP)があり、NHKでテレビドラマ化された。2021年には、岸田内閣「新しい資本主義実現本部」の有識者に選ばれ、日本郵政の社外取締役も務める。 撮影/黒石あみ 取材・文/戸田梨恵

感想
「叶えたい夢はあります。それは、社員が大田区に一戸建てを建てられるような会社にすること。」

その夢を公言し、努力していることが社員にも伝わると、社員も頑張るでしょうね。
企業は人です。

元気な企業はどこが違う?成功企業の戦略とは(第27回) BizDrive
結果的に月200万円ほどの人件費を削減し、当面の経営難を回避することに成功。さらに経営の長期安定化を図るべく、「3年の改革」と題した改革に取り組みます。
 まず最初の年は「意識改革の年」とし、社員教育に注力しました。これまでOJTによる教育が中心だったダイヤ精機に座学研修を取り入れたのです。挨拶の仕方といった初歩的なことから、製造業の基本となる5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)などを、諏訪氏みずから指導。当初、社員は半信半疑で5Sに取り組んでいたものの、実際に作業効率の向上が見えてくると、次第に社長の言葉へ耳を傾けるようになりました。

諏訪氏は2年目のテーマを「チャレンジ」とし、新しいものを積極的に取り入れることにしました。これまでベテラン社員の経験頼りだった製造現場に、コンピュータを使って自動制御が行える機器を導入。簡単な製造作業は機器に任せ、みずからは機器では行えない複雑な製造作業に専念できることからベテラン社員に受け入れられました。 ・・・
年改革の最終年は「維持・継続・発展」をテーマにし、就任から2年間でつくりあげた仕事の仕組みの整理整頓に取り組みました。具体的には、受注から納品までの基本的な業務の進め方や材料購入の手順など、これまで統一化されていなかったものをフォーマット化したのです。 

諏訪氏は、社長に就任してから論理的に物事を考えてきたといいます。なぜ売上が伸びないのか、なぜ利益が出ないのかを徹底的に考え、判断を下してきたのです。これにより、ダイヤ精機の立て直しに対して信念をもって取り組めたのでしょう。そしてもうひとつ、諏訪氏の取り組みで忘れてはならないのが、社員への真摯な姿勢。トップダウンではなく論理的にまとめ、かつ社員が納得できるまで時間をかけてじっくりプレゼンテーションしたことが、社員の信頼を得る要因になっています。

1)先ずは赤字の垂れ流し防止
2)5Sの実践による効率化
3)社員教育による人材育成と意欲向上
まさに当たり前のことを着実に実践されたようです。

ウクライナから帰国したデヴィ夫人 「老害以外の何者でもない」森元首相と鈴木宗男参院議員に対し私見 ”国民の品格が問われている/おかしな人を支持するから国がおかしくなる”

2023-01-28 16:38:00 | 社会
 ウクライナの首都キーウを電撃訪問したタレントのデヴィ夫人(82)が27日にツイッターを更新。ウクライナから無事帰国したことを報告した。  
デヴィ夫人は、森元首相と鈴木宗男参院議員に対し「老害以外の何者でもない」と指摘。 
「プーチンと写真を撮ったから“トモダチの国”を非難するな、自分が日露の外交を拓いたから、と馬鹿を言う」として、「世界情勢を知らない者達が巣食うから日本は遅れを取るのだ」と続けた。   
今回のデヴィ夫人の行動に対して、「お帰りなさい。行動力。本当に尊敬します」「ご無事で良かった」などのコメントが殺到。10年近く海外に住んでいたという人からは「やっぱりこういった面に関しては日本の遅れが明らかになりつつある」とも寄せられていた。

感想
発言は自由です。
その発言を知って、どう判断するかが問われているのでしょう。

森元首相や鈴木宗男代議士に、諫言する人はいないようです。
きっと甘言しているのでしょう。
自分のために。
そこには、ウクライナのことは二の次なのかもしれません。

5歳で小児がんを発症、10歳で再発を告知され「神様は不公平。1回も病気にならない人もいるのに、なんでまた私が・・・」【小児神経芽腫体験談】 ”不公平な神様をどう信じるか?”

2023-01-28 15:11:44 | 社会
中学3年の春休みに、骨の発育に異常が出る晩期合併症のために入院したときの様子。
浦尻一乃さん(21歳)は、5歳のとき小児がんのひとつである神経芽腫を発症し、一度治療を終えたものの10歳で再発。大手術を乗り越えたのち、晩期合併症とつき合いながら、学生生活を送っています。再発する少し前に母親から「神経芽腫という病気で、今は寛解している」と説明を受けたそうですが、小学校に入ったころから「自分はがんだったのではないか」と感じてはいたそうです。小学校時代の闘病のことなど覚えていることを聞きました。3回シリーズでお届けする1回目です。 

9歳のとき小児がんだと打ち明けられる。でも、治ったんだから大丈夫だと・・・

このまま治癒することを、家族みんなが信じていました。
神経芽腫は、交感神経節や副腎髄質にある神経の細胞にできるがんで、脳腫瘍を除いた小児期にできる固形腫瘍の中で、最も多い病気です。浦尻一乃さんは5歳のときに発症しました。
今から16年前のことですが、突然の入院後、68日間人工呼吸器を装着した状態に。ようやく人工呼吸器がはずれたとき、「あれ、この前まで歩いていたのに、今は歩けない」という気持ちになったのは記憶に残っているのこと。 「抗がん剤治療が始まったあと呼吸が苦しくなって、人工呼吸器をつけることになりました。腫瘍の影響で大量にたまった腹水や胸水が、胃や肺を圧迫していたんだそうです。
68日後に人工呼吸器をはずせたときは、これで自由に動けると喜んだのに、長期に人工呼吸器をつけた状態で寝ていた影響で筋力が低下してしまい、歩けなくなっていたんです。 実は私、神経芽腫を発症するまではかけっこが得意で、走るのが大好きでした。
それが自分の足で立つことすらできなくなっていて、とても悲しかったことを覚えています」(一乃さん) 

初発治療を終えて無事退院し、小学校に入学した一乃さん。お母さんやまわりの人たちのサポートを受けながら、小学校生活を楽しく送っていました。でも、定期的な検査は必要で、晩期合併症を発症するリスクもあります。
一乃さんの両親は、一乃さん自身に病気のことを理解してもらう必要があると考えました。また、一乃さんは当時、すでにがんを“嫌なもの”と思ってしまっていたとのことで、自己肯定感を築くためにも、自分の病気のことを正しく理解することが大事だと考え、3年生(9歳)のとき、病気が神経芽腫であること、小児がんであることを打ち明けました。 
「神経芽腫という病名までは知りませんでしたが、私が定期的に病院に行っていたりする病気は、小児がんなんだろうな…とは感じていました。当時、小児がんの子どもを扱ったドラマを見たことがあり、髪の毛が抜けるとか、治療法とか、思い当たることがたくさんあったからです。
両親から病名を聞いた直後は落ち込みましたが、治療は終わっていたので、『治ったんだからもう大丈夫』と考えていました」(一乃さん)

自分の気持ちや意見を言葉にして伝える大切さは、病院で学んだ

再発治療中に外泊した11歳の一乃さん。外出時はウィッグをつけていました。

しかし、一乃さんが10歳のとき、再発が確認されました。
母親のみゆきさんは、当時の一乃さんの様子で強く心に残っていることがあると言います。
再発の告知を受けたあと、「神様は不公平だよ。1回も病気にならない人もいるのに、なんでまた私が…」と一乃さんが話していたというのです。 
「その言葉は覚えていません。ただ、当時はもう『がん』のことをわりとよく理解していて、がんが再発したんだから死ぬんだ…と思っていました。ちょっとやけになっていて、両親や看護師さんなどに反抗的な態度を取っていました」(一乃さん) 再発した腫瘍は抗がん剤が効かず、手術で腫瘍を切除するしか選択肢がない状態でした。セカンドオピニオンも受け、両親は手術を決断しますが、一乃さんは手術を激しく嫌がりました。 
「それまでの入院治療の経験から、麻酔で強制的に眠らされるのがほんとうに嫌でした。このまま目を覚ますことができないんじゃないか…という怖さがあったんです。また、子どもが全身麻酔をするときは、顔にマスクを当てて、甘いにおいのするガスの麻酔を吸うのですが、ゴムのにおいと甘いにおいが混ざったにおいをかぐことで、私の場合は気持ち悪くなってしまい、麻酔から覚めたときすごく頭が痛くなりました。それもとても嫌だったんです。 それに、両親や先生方が、手術をすれば治るのになんでやらないのかと、手術ありきで進めようとすることに、納得できない気持ちが強くありました。 
『どうせ死ぬのに、どうして嫌な麻酔や手術をしなくちゃならないの』みたいな感じで、かなり反抗していた記憶があります。 でも、どんなに拒否しても手術するしかないこともわかってはいたので、最後は腹をくくった感じです」(一乃さん)
「手術は受けるから、その代わり私の希望通りの方法でして」と、両親や医師たちに意見を主張したという一乃さん。10歳の女の子が大人を相手に、そんなにはっきりと自分の意見を言えたことに驚きます。 「母に言わせると、病気をする前からわりとはっきりものをいう子どもだったそうなので、性格もあるのかもしれませんが、私が入院していた公立の子ども病院の方針も大きく影響していると思います。
長期入院する子どもにとって病院は家であり学校でもあるから、社会に戻るためのケアもしっかり行う必要があるという方針でした。 看護師さんたちはただ優しいだけではなく、悪いことをしたらしかられるし、自分の意見や考えは、きちんと言葉にしないと相手に伝わらないことなども教えてくれました。また、主治医の先生は毎日の検査結果を見せてくれ、説明をしながら私の意思を尊重してくれました。 そんな方針の病院だから、手術に際しても私の意見をきちんと受け止めてくれたのだと思います」(一乃さん)

学校の昼休みに毎日服薬。薬のことを聞かれるたびクラスメートとの違いを痛感
8時間に及ぶ大手術は成功。病棟の病室に戻ったあとは、同年代の子たちとガールズトークで盛り上がったといいます。 
「抗がん剤治療のクールごとに、外泊の許可が出たりするんです。外泊のときはこんなおしゃれをしよう、こんなメイクをしてみようなど、女の子同士でいろいろな話をしたことが楽しかったです。外泊はおしゃれをする唯一の機会だから、外に出たときはみんな思いっきりおしゃれをするんです」(一乃さん) わが子が長期入院をしているとき、付き添いの親同士で情報交換をすることがよくありますが、子ども同士でも情報交換をしているそうです。 
「退院して学校生活に戻れたとき、髪の毛がまだ生えていないから、帽子をかぶって通学していたのですが、普通に帽子をかぶるだけだと髪の毛がないのがバレちゃうんです。入院中に同室の子が、ウィッグを帽子の周囲に付けておくと、髪の毛が生えているように見えるよって教えてくれました。早速母が作ってくれ、退院後は、それをかぶって通学しました」(一乃さん) 
学校生活に戻ってからの苦労は、ほかにもいろいろあったそうです。 
「再発治療の7カ月に及ぶ入院生活で筋力が衰えてしまい、学校の階段を上るだけでも息が上がってしまうので、クラスメートの行動についていけないのがつらかったです。 また、1日3回薬を飲まなければならず、昼の分は学校の昼休みに飲んでいました。昼に飲む薬は1種類でしたが、とても飲みにくいうえ、小中学校では給食~昼休みはとにかく時間がなく、加えて昼食後には必ずトイレに行きたくなるので、食べる量を少なくするなどの工夫をして、薬を飲む時間を確保していました。
机の上に薬を出すとクラスの子が寄ってきて、『何の薬? なんで薬を飲むの? 』って聞いてくるのも、自分はみんなと違うんだと思い知らされて悲しかったです。 薬のことは中学、高校、大学と常に聞かれてきましたが、年齢が上がるにつれ、さほど興味を持たれなくなりました。でも今は医療系の大学に通っているので、医療的関心から話が広がったりしています」(一乃さん) 
治療の影響で、腎臓や腸などに障害が残り、排せつのコントロールが難しくなっている一乃さん。通常の学校生活では、トイレに行きやすい席に座らせてもらえるよう配慮をお願いしたそうですが、長距離の移動がある校外学習は、母親の車で送迎してもらい、現地集合現地解散する方法でしか参加できませんでした。 
「遠足で山登りに行ったときは、みんながお弁当を食べる時間に合わせて合流し、帰りはまた別行動でした。昼食だけでも参加できたことはうれしかったけれど、みんなと一緒に行動できないのはやっぱり悲しかったです」(一乃さん) 
一乃さんは12歳のとき、神経芽腫の症状や検査に異常がない寛解と判断されました。しかし、骨に晩期合併症が現れるなど、病気と向き合っていく生活が続いています。 お話・写真提供/浦尻一乃さん 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部 
小児がんは治療が終わったら病気と決別できるものではなく、病気とのつき合いは大人になっても続くことが多いです。
一乃さんは腎臓や腸などに障害が残り、骨への晩期合併症も抱えながらも、明るく前向きに学生生活を送っています。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。 

●記事の内容は記事執筆当時の情報であり、現在と異なる場合があります。 
神経芽腫の会 公式HP https://nbj-net.jimdofree.com/ ※2月15日は「国際小児がんデー」です。
小児がん治療支援チャリティーライブ「LIVE EMPOWER CHILDREN」が行われます。 LIVE EMPOWER CHILDREN  公式HP https://empower-children.jp/lec/ 
監修者 富澤大輔 先生 PROFILE:国立成育医療研究センター小児がんセンター血液腫瘍科診療部長。東京医科歯科大学医学部卒業。医学博士。専門分野は小児血液・腫瘍学、とくに小児白血病。日本小児科学会専門医、日本小児血液・がん学会専門医、日本血液学会専門医、日本造血・免疫細胞療法学会認定医、日本がん治療認定機構がん治療認定医。

感想
大学病院の小児病棟に行くと、固形がんや血液のがんで多くの子どもたちが入院しています。
学校にもいけない、勉強もできない、遊びもできない。
そんな子どもたちと一緒に遊ぶボランティアがあります。

よく50歳くらいでがんになると「なぜがんになったのか?」と多くの人が思います。
がんと闘っていた子どもたちを遊んだ体験から、「なぜ、これまでがんにならなかったんだろう? 子どもの時にがんにならなかったんだろう?」と思いました。

私も38歳の時に胃がんになり胃を2/3切除しました。
小児がんは昔は100%亡くなっていました。
聖路加国際病院の小児科の細谷亮太先生は、なす術もなく悲嘆にくれていました。
そんなとき、小児がんを薬物療法で延命することが米国で行われていることを知り、米国で学ばれ帰国して子どもたちの命を救うことに全力を費やされました。
その結果、7~8割の子どもたちの命を助けることができるようになりましたが、2~3割が亡くなっています。
またこの記事にあるように、治ってからもいろいろ心身で大変なことがあるので、細谷先生は3人の先生で、子どもたちのメンタルケアもされて来られました。
その活動を伊勢監督がずーっと追いつづけたものが映画になっています。

神さまは、不公平だと思います。
あるとき、神様は一人ひとりに使命を与えてこの世に送り出したと思うようになりました。
確かに、大変な使命を与えられた人は「なぜこんな大変な使命を!」と思います。
でも、視点を変えると、「この大変な使命をできるのは私だと神様は見て下さっている」と思うこともできます。

よっくんは11歳で亡くなりました。
でも多くのステキな詩を残しています。
その詩に励まされた人も多いと思います。
よっくんは、しっかりと神様から与えられた使命を果たしたのです。
そして、よっくんと遊んだ私は、よっくんの詩を一人でも多くの人に知って欲しいと思って、機会を見つけては紹介しています。
よっくんは亡くなりましたが、よっくんは私の心の中で生き続けています。
これも、神様が私に与えた使命の一つだと思っています。

「チャックより愛をこめて」黒柳徹子著 ”黒柳徹子(89歳)さん 38歳の時にニューヨーク一年暮らしのエッセイ”

2023-01-28 13:16:16 | 本の紹介
・この本は、私が1971年の9月から、翌年の9月までの一年間を過ごしましたアメリカから、日本にむけて送ったいろいろな文章を、文芸春秋でまとめてくださることになったものです。

・「チャック」というのは、まァ、私の仇名のようなものです。
(芥川龍之介の『河童』の中に出てくる「チャック」という頭のいい河童から)

・(田口ケイというおばあさん役に扮したら誰も気づかなかった)
田口ケイ、という人は、みなさんにとって知らないおばさんだし、知らなくてもきれいな人だったら、そこで何かが発生するのだけれど、生憎と、知り合いになりたい気を起させる女でもないから、みんな「ああ」と頭を下げるだけで、もう私に目をもどすこともなく、通り過ぎてしまうのです。
 ・・・と、こういうふうにわかるまで、私は、こんなに人びととは、容貌、いでたちで差別するものかと、冗談でなく哀しいおもいをしたのです。そのうちに、私のほうも馴れてきて、この格好のときは廊下でもはじを歩き、食堂でも目立たない場所にすわり、トイレでも、なるべくみなさまのお邪魔にならないようにつとめ、けっして人から優しくだの、親切にしてもらおうと思わないようになってきました。
 でも、私は女優だから、もとにもどれるけど、実際のこういうおばさんは、こんなふうに人生を送って行くのだな、と考えたら、ある日、ふと涙が出るくらい悲しい気分になりましたが、反面、だからこそ、こういうおばさんは、自分の家族や知ってる人たちを、心から愛するのだし、人からしてもらう親切は、それが小さくても有難く思い、感謝も忘れず、人にも同じようにしてあげたいと考え、小さな幸福を心から喜ぶことができるのだ、と、知らない間に、人生に対して感受性のにぶってる私にとって、田口ケイさんの生活は、なにかをあたえてくれました。
 役を通して、なにか別の人生を見る、ということは、よくありますが、これほど強い経験は初めてでした。

・私自身になって恐縮ですが、女優になりたいなど一度も願わず、ただ、いい母親になりたいため、子供に本を読んで聞かせる方法を教えてくれるかと、NHKの試験を受けた、といういい加減な私にとって、いままでは、大変ラッキーだった、と思います。ただ、いまだに本を読んで聞かせる子供がいないのは残念ですが、それを別にすれば、この職業を続けてこれたことは、よかったと思います。
 そのかわり、あまりにも忙しい毎日であったため、ゆっくり他の人たちのやってることを見つめる暇も、自分自身について考える暇もなくここまで来てしまったし、また創造的であるべきこの仕事が、まるで、オフィスにおつとめしているような繰り返しになってきた恐ろしさもあり、どうしても休暇をとることが必要と、この数年間考えてきました。
 そして昨年(1971年)の9月から一年間、休むことに決め、いまニューヨークのアパートで、これを書いている、というわけです。

・私はいま、ニューヨークから、ローマに行く飛行機の中にすわっています。どうしてローマに行くのかというと、テレビマンユニオンの仕事で『わたしの感情旅行』という番組を作るためです。三か月前に、ニューヨークに電話があって、「わたしのかんじょう旅行という番組ですが・・・」とお兄さんがいったから、『わたしの勘定旅行』だと思って、お金を勘定しながら旅をする番組なんだなあ-、でも私は、足し算は上手だけど(もちろんヒトケタ)、引き算はうまくないから、困ったもんだと考えていたら、そうじゃなかったので、「それなら、やりましょう」といったのです。

・このバッグ(レストランで忘れた)が、ここまでとどいたいきさつが、私はすごく感心したんで、これから書こうとしてるんですけど、嘘じゃなく、本当の話ですから、そういう気持ちで、読んでほしいんです。
 バッグをあずかった食堂のウェイトレスは、とても親切な人だったので、「女の人がバッグを失くしたからには、すぐにほしいでしょう。それには郵便では数日かかるから・・・」と考えて、私のバッグをもって、ニューヨーク行きのバスの停留所まで行きました。そしてバスが来ると、中に乗っている人に「ニューヨークまで行く人、います?」と聞きました。そしたら、「はい」という人がいたんで「このバッグ、ニューヨーク・タイムズの〇×△□さんのデスクまで、届けて下さいませんか? 五ドルのお礼が待っていますよ」といいました。その「はい」といった男の人は、バッグを受けとると「とどけましょう」といって、バスは出ました。名詞の交換も、受取も、証人も、なにもなく。
 「もし、とどかなかったら、どうしよう」とウェイトレスは思わなかったのかな、と思った私の質問に、友だちが答えました。「ウェイトレスにしてみると、そういうことはあり得ないことで、いつも、みんな、ああいうふうにして、とどけたり、とどけられたりして、何も間違いが起こらないから、それを同じように、やっただけなんだろうね」って。バッグのふたをあけたら、お礼の五ドルどころじゃなく百ドルも入っていたのに。
 そんあわけで、親切と信頼に守られて、私のバッグは、無事、私のところに帰って来た、というのが、私の書きたかったこと。
 これはたった、ニューヨークから車で三時間くらいしか離れていないとことの話なんです。こんなステキなところが、まだいっぱいあるアメリカなのに、なぜニューヨークは世界で一番、恐ろしい街になったのかな。私にはわからない。

・女優をやっているときは、家とスタジオの往復で、そして、逢う方がだいたいきまっていて、その中で人生を演じていくわけなんだけれど、やっぱり、仕事しないで、じーっといろんな人を見たのは(それが、本当の人生っていいますかね)、いままで、私たちが演じ、創ってきた人生とはまったくちがう人生を、見てきたのは、実になったと思うのです。
 でも、それとは逆に、ある種、絶望感みたいなものが、この一年でさらに、深まったような気もします。
 人間って、生きていくのが、とてもツラくってね。アメリカ人であろうと、日本人であろうと、何人であろうと、とくに女が生きていくのはとても大変でね。生きていくのはできるかもしれないけれど、傷つかないように、気も狂わずに、自殺しようとも考えずに、生きていくのは、とても大変だと思って。
 それは、アメリカで逢った、たくさんのお婆さんのせいかもしれない。

・人間て、どうしたって、歳をとっていくものでしょう。どう、うまく歳をとって、うまく死ねるか。難しい。
 アメリカで、私が習った歌の中に、
  hard to live
  but hard to leave
というのがありました。この世は、生きるのも難しいし、死ぬのも難しい。人生って、そんなもんじゃないかと思うのです。
 前から思っていたのけれど、じーっとだまってよその人の人生を見ていたら、余計、その絶望感は強くなりました。

・愛情があふれるようにあるって人(俳優)を何人か見たのが、私のこの一年のいちばんの収穫でした。俳優というのはね、人が悪くて、イヤな人、といわれても、芸さえありゃいいってもんじゃないってこと、よくわかりました。
 人がよいばっかりで、いい俳優になれなかった人も、たくさんいるってことはわかるんだけど、最終的に残るのは、大事なのは、その人の人間性なのね。芸は人なりってこと。昔からあったけれど、今度、それがはっきりわかったのでした。
 これから、女優を続けていく上で、いや、そうでなくても、とにかく、人間的でありたい。偉大な俳優に逢って、私の考えの間違っていないことが、はっきりして、とてもうれしかったのです。そしてまた、創造的な仕事は命をかけてやらなきゃつまらない、ということもおそわりました。

感想
黒柳徹子さんを見ていると、とてもステキで、人生満帆で来られたように思っていました。
でも当たり前ですが、生きるということは誰も大変なんだなと思いました。

一年間仕事を辞めてニューヨーク生活。
帰って来てからの仕事は約束されていません。
でも自分を見つめる時間を取らないと、これから先を生きていくことが不安だったのでしょう。

それまでの実績があったので、本になったり、ニューヨーク生活中にも仕事が入ってきていました。
やはり実績は大きいこと、それと多くの友だち/知り合いを持っておられたのも大きかったようです。


自分だけの武器をどう見つける? アイドルと起業家に共通する付加価値のつくりかた…AKB48武藤十夢さん×今井孝さん 特別対談 ”気象予報士7回落ちて5年かかって取得。それが自信に!”

2023-01-28 09:57:57 | 社会
幻冬舎さんの企画で、AKB48の武藤十夢さんと今井さんの対談の前・中・後編がすべてアップされてます。
『誰でもできるのに9割の人が気づいていない、お金の生み出し方』今井孝著

幻冬舎plus↓
https://www.gentosha.jp/article/22492/
https://www.gentosha.jp/article/22498/
https://www.gentosha.jp/article/22499/

武藤 気象予報士の試験は7回落ちて、5年かかってやっと取りました。
今井 普通の人は、1回、2回落ちたらあきらめると思うんです。でも、十夢さんはあきらめなかった。どうしてそんなに頑張れるのか、モチベーションを知りたかったんです。
武藤 当時は、ものすごく自分に自信がなかったんです。今のままの自分には価値がないって思うくらい。AKBには歌がうまい子、ダンスがうまい子、トークがうまい子、いろんな子がいて、それぞれいろんな強み、持ち味を持っています。でも、私はどれも中途半端だった。自分の強み、持ち味は何かと考えたときに、「ああ、何もないな」って思ったんです。
だからこそ、頑張れたのかもしれません。もう自分にはこれしかない。もしこの資格が取れたら、もっと仕事が増えて、お金も稼ぐことができて、いろんな人に出会えるかもしれない。そんな明るい未来を見てみたいなって思ったんです。

武藤 芸能界はとくにそうですが、何かが当たってポーンと上にいく人っているじゃないですか。私はそういう人より、一つずつ積み重ねて上にいく人のほうが最終的に強いなって思います。
ウサギとカメだったら、最後に勝つのはカメだなって思うし、カメのほうが人生楽しいって思うんです。自分はこれだけ頑張ってきた、だからここまでこれたっていう手応えがありますから。
今井 けっこうみんな夢を見るんですよ。一足飛びに成功したいって。
武藤 夢を見るのはいいことだと思いますけど、その夢を実現するには何をやらなくてはいけないのか、そして今、自分は何をすべきなのか、現実的に考えたほうが楽しいと思います。
気象予報士の資格を取得するのは、最初から時間がかかるだろうと思っていました。なので、その期間をどうやって楽しもうかと考えていました。
小さな一歩でいいと思うんです。ミッションを立てて、今日はこれができた、明日はこれができるようになろうって、少しずつ、一歩一歩。その楽しみ、喜びを感じることが、人生の醍醐味だと思うんです。

武藤 たしかに。いろんな後輩たちと話していて思うのが、「こうしたほうがいい、ああしたほうがいい」って言うと、みんな聞いてくれないんです。でも、「私はこんなふうにやってきた」っていう話をすると、意外とみんな聞いてくれる。自分の経験を話すことなら、今の私にでもできそうです。

感想
諸葛亮(孔明)の名言
学ぶことで才能は開花する、志がなければ、学問の完成はない
を思い出しました。
レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000263196

よく、あの人は才能があって良いなと思います。
でも、あの人は、毎日何時間もそれを何年も続けてきたから今があるようです。

音痴で人前歌うのがとても苦痛でした。
懇親会でカラオケ装置があるのを見つけると、それだけで気持ちが落ち込みました。
病気をして、苦手なこと、知らないことにチャレンジしました。
カラオケ教室250時間、一人カラオケ250時間ほどやって気付いたことは、自分の歌が歌っていて外れていることに気付きました。
また、キー一つ変えるだけで歌いやすさが変わることも知りました。
そしてなにより、自分は音痴だけど歌うことが好きだと知りました。
人前で歌う度胸だけはつきました。(笑)
行動範囲が広がりました。

苦手なことには時間をかけて来なかった。
得意なことは時間をたくさんかけて来たようです。

品質サイクルを回して改善するといいます。
この品質サイクルは、Plan Do Check Action(PDCA)と呼びます。
ここで一番大切なことは、Checkです。
外れていることがわからないと修正もできません。
当時カラオケ教室では、採点機の結果を活用してCにしていました。
今みたいに優れてなくて、単に点数が出るだけです。
外れているのが高くて外れているのか、低くて外れているのかさえ分かりませんでした。
意図的に高く声を出したり低く出したりして試していました。
今の採点機はそれがわかりとても便利です。
人生の採点機は、人からの忠告だったり、自分の失敗でしょう。
ただ、人からの忠告は、忠告する人が間違っている場合がありますので難しいです。
失敗はやはり何かの学びの機会になります。

この記事を読まれて次のように思われるかもしれません。
「そう、努力して来なかった私が悪い」
そうではなく、
「努力すれば、そこそこまで到達できる。どれだけ時間をかけるかなんだ」
と私は受け取りました。

時間とお金はとても大切です。
それを何に使うかですね。
その人が何に使っているかで、その人がわかると言います。
いくら立派なことを言っても、行動が伴わない発言には重みがありません。

自分の人生
周りの目を気にしている時間があれば、自分のやりたいことに使いたいです。
周りはあれこれ言いますが、私の人生の責任を負ってくれませんから。
負うのは自分です。
だったら、自分の思うことに時間とお金を使いたいです。