第1章
病児の母として 看護師として教員として 璃音ちゃんのお母さんの体験
・生まれてきた意味
こうした病院の変化から、私は、「璃音は、産まれてきて幸せだったのかな? 5か月だけの命だなんて短すぎる」という思いから、徐々に、「5か月だったけど、たくさんのことを璃音は教えてくれた」「5か月しか生きられなかったけど、璃音はすごいね!」と思えるようになりました。さらに、璃音は私に、「お母さんは患者さんのこと、家族のこと、わかってないよ」「お母さん、患者さんや家族にはこんな思いがあるって伝えてよ」って言ってるのかな? と考えるようになりました。これが私なりの璃音が産まれてきた意味の一つです。
その頃、少しずつ自分の体験を教材化し、看護学生への教育ができるようになりました。今では、璃音と共に出勤し、璃音と共に看護基礎教育を行っています。終末期看護実習で、自分の体験段を踏まえて学生に話をした時に、ある学生が「先生の娘さんから大切なことを教わりました」と言ってくれました。この言葉で、私は、さらに璃音をそばに感じるようになりました。
このように、我が子を亡くした直後は何も考えられず、ただ息をしているという状態から、社会が私を外に連れ出してくれ、「小さないのち」で同じ経験をした方との出会い、わかちあいを通して、そして癒されていきました。経験したこと、感じたことを話すことで看護が変わり、璃音はこれを伝えたかったかな? と意味付けし、決して乗り越えることはできないし、忘れることもできないけれど、今では、私は璃音と共に生きている感じています。
第2章
最後まで生きると信じた白血病との闘い 大介君とお母さんの体験
・主治医から検査結果の説明を受けました。「数値は回復しているから治療は始められるけど、ゴールデンウィークが終わってからの入院でもいいよ」と提案されました。私は迷いましたが、入院して治療を少しでも早く終えようと決断しました。この決断は大きな後悔になりました。この時「帰る」という選択をしていれば、大ちゃんの体力や骨髄は延期したぶん回復し、緑膿菌に感染したとしても打ち勝つことができたのではないか。大ちゃんはもっと長く生きていられたのではないだろうか、という思いが今も消えることがありません。
・先生も必死だったということを5年目にして知ることができて良かったと思います。主治医は血液検査の権威であり、経験も豊富であることから私は先生に依存し過ぎていたのではないかと考えています。もっと自分で考え、決断することができていれば、大ちゃんをもう少し早い段階で、楽に逝かせてあげることができたのではないかと、改めて思いました。これからは大ちゃんの看取りに折り合いをつけながら受容していこうと思います。
第3章
わが子への迫られる決断と永遠の葛藤 凛香ちゃんとお母さんの体験
・凛ちゃんが亡くなって5か月後、夫は、精神的ストレスからくるうつ病の診断を受けました。夫は、不妊治療で無理やりに弱い精子を卵子と受精させたことが今回の染色体異常の原因だったという思いを、どうしてもぬぐうことができなかったようです。以後、二人の間で次の子どもに関連する事柄すべてがタブーとなりました。私は不妊治療のクリニックに通院することを休止しました。
代償行為として、私は図書館で本を読むことに没頭しました。そして心理学やグリーフケアの勉強を始め、大学院へ進学します。2年後、私が大学院を修了すると代償行為の期限がきました。いった保留していた次の子への葛藤に、再び直面することになりました。誰か相談できる人がいたら少しは楽だったかも知れないのですが、こういうことは、他人はおろか、自分たちの身内にさえ、言えるもんではありませんでした。腫れ物に触るようにお互い接し、刃の上に載っているような緊張に耐えられなくなった私たちは、離婚への道をたどりました。「苦しむだけ苦しんだ、もういいやん。楽になろう」と言うのが夫の言葉でした。夫も非常につらい想いをしたと思います。
子どもを亡くした夫婦の離婚率は高いと聞きます。経験した人にしかわからない心情というものが何にたいしてもありますが、離婚についてもそうなのだと思います。あれが私たちの限界だったのだと、今は思えるようになっています。
・凛チャンの生まれた意味を感じる瞬間
しばらくぶりに助産婦さんが年賀状をくださいました。そこには、こう書かれてありました。
「昨年は、〇〇中学へ“いのちの先生”に行ってきました。いつものように、“凛ちゃんのお話”をしています。このごろ、凛ちゃんの生きた意味はここにあるのではないかと思うくらい、多くの生徒のこころを動かしています。また実家に帰った時には病院に寄ってくださいね」。
第4章
同じ病気をもって生まれた兄と弟 幸大君と康成君のお母さんの体験
・幸大を亡くした後、息子に宛てた手紙に、こう書いています。
「ママは、ずっと心の中に、この思いがあった。先生の話だけでなく、いろいろ調べていれば・・・ママがもっと先生に強く言えていれば・・・なんで私は出来なかったの! 一番大切なことだったのに! こんなママがあなたのママだなんて、言えないよね。いたらないママでごめんね」と殴り書きをしている文があります。私がもっとしっかりしてれば、何か変わったのかも知れないと思い続けました。
・このあと院長から、心疾患が見つかったことを告げられました。・・・。M子先生は、今のところ逆流はないけれど心房に小さな穴があり寝室に大きめの穴があると説明されました。手術は必要なんですか? と聞くと、「あの大きさだと必要ですね・・・」と申し訳なさそうにおっしゃいました。それを聞いて私は、とっさに、M子先生にすがるように「私、息子を心内膜欠損症で亡くしてるんです! この子は助かりますか?」と聞きました。先生は、「え? っと驚き、そのあと、不安でたまらない私の腕をそっと握り、お母さんしっかり立って聴いてくださいね。・・・というような表情で「今のところ、心内膜症欠損症という診断です」と言いました。わたしはもう、なにから考えていいのかわからなくなり言葉が出ませんでした。先生は続けて亡くなられた息子さんはどういった症状だったかわかりませんが、お腹の赤ちゃんは心内膜欠損症の不完全型です。中でも症状は軽くて、手術をすればきっと大丈夫ですよ」と、そのことに自信があるように大きくうなずきながら言ってくれました。私はそれを聞き、ようやく我に返り「息子は完全型で弁がなかったんです」と言うと、先生は、さらに大きくうなずき「お腹の赤ちゃんの弁はちゃんとありましたよ。きっと大丈夫です!」とおっしゃいました。その言葉を聞き、私はやっと正気を取り戻すことが出来ました。
・子どもが生きてそばにいてくれる奇跡
私は、子どもを亡くすという経験をしているせいか、子どもたちの病気や事件や事故にも異常なぐらい不安を覚え、普通の生活の裏で恐怖と隣り合わせています。・・・
子どもたちが、生きて傍らにいる、ということが奇跡のように感じられます。声を聴くことができ、触れることができ、姿を見ることが出来ていることに毎日感謝しています。そのことは子どもたちにも言葉にして伝えています。
幸大は生きて傍らにはいないけれど、幸大が私のもとに生まれてきてくれたこと、出会えたことにとても感謝しています。幸大に会いたい思いは薄れることはなく、いつかお空で遇えることを切に願い続けています。
第五章
私の大切な妹の誕生 そして死 璃音ちゃんと彩音ちゃんの体験
・医師・看護師がしてくれたこと してほしかったこと
嬉しかったこと
・妹の誕生に立ち会わせてくれて、少し触らせてくれたこと。
・ドア越しだけど面会させてくれたこと。
・お母さんやお父さんが妹のところに行っているとき、私と遊んでくれたこと。
してほしかったこと
・ドア越しではなく、妹に直接合わせてほしかったです。
一回でもいいので生きている間に、お姉ちゃんらしく抱っこをし、妹にしゃべりかけたり頭をなでてあげたりしたかったです。
・妹を亡くしてから2年後、弟が生まれました。妹がなくなってからも、友だちから「何人きょうだい?」と聞かれると、「3人きょうだい」と答えてます。
・私は妹から、多くのことを学ばせてもらいました。人が死んだときの悲しみ、命の大切なことを教えてくれました。また、あこがれる先生とも出会いました。妹は生まれてきて約5か月半で死んでしまったけれど、産まれてきてくれたことをすごく感謝しています。だから、小児循環器内科医になり、多くの子どもたちを救い、夢や希望を持たせてあげたいです。
第六章
双子との別れと 病院でのグリーフケア 敦生君と兼慎君とお母さん
・運命を分けた二人
妊娠27週2日、双胎第一児、敦生、死産・その後1分後、第二児、兼慎、新生児仮死から蘇生。
・まただ、手術当日の夜に、主治医から言われたことと同じ「自分を責めないでください」。違う! 私が言いたかったのは、そういうことではない。自分を責めているのではなく、病院として何かできることはなかったのか? ということ。お詫びの言葉や反省のことbが聴けるかと思って、思い切っていってみたのだけれど、全く伝わらなかった。
・欲しいのは正確な情報
私が今一番大事なのは兼慎の病状、欲しいのはその情報だけ。なので心理士さんとは話すことは何もない。兼慎が元気になったら私も元気になるから、ほっといて、という気持ちでいました。
また、入院中に何度か看護師さんから言われた言葉として「兼慎くんは今すごく頑張ってくれています。生命力を信じましょう。良くなることを私たちも祈っています」というものがありました。私は、これを聞くたび思いました。兼慎が頑張っていることは私が一番よくわかっている。妊娠中も信じて私も祈ってきたけど、どんなに祈っても、敦生は死産で兼慎は今こんんあ状態。「信じる・祈る」という、こんなに不確かで、誰にでもできて、あてにならない、無責任な言葉はない。そう思い、言われる度に違和感を感じ、気分が乱れていました。この経験をしてから以降、私は、人に対して「お祈りしています」という言葉は使わなくなりました。なせなら、これを言うことは、「私はあなたの何の力になれません」と公言しているような気分になるからです。
・私の腕の中で眠るように
8時間の間に、パパとママ、交互にずっと抱っこ出来て、最後は本当にゆっくりゆっくり心拍数が落ちて行きました。
・私が今まで人に優しくできなかったから? 初めて双子とわかった時に「ムリ!」と言ってしまったから? みんなに「ちゃんと産まれるかわかりません」と言い続けたから? それを2人はお腹の中で聞いていたから? お腹が大きくなっても自転車に乗っていたから? 産休ぎりぎりまで仕事していたから? 敦生と兼慎が亡くなったのは、ずっと参加に病院のせいだと思っていた私でしたが、日が経つにつれ、自分が母親としてふさわしなかったからだ、自分緒せいなのだ、という思いの方が強くなってきていました。
・「それなら、何とか産まれてきた兼慎の方が、結局一か月間、痛くて苦しい思いしかさせていない。それが可哀想でしかたがないんです。結局助からないのなら、敦生と一緒にお腹直中で亡くなっていたほうが良かったんじゃないかと思います」と私が言うと、先生は言いました。
「それは違うと思う。あの時、あなたが冷静にすぐに手術してくださいと、決断してくれた。もし弱くなっていく心音を聴きながら、そのまま亡くなっていたとしたら、今、同じことを言えますか? すぐに出してあげたら助かったかもしれないと、一生後悔していたかもしれないよ」
それは本当にそうだな、とすぐに納得しました。兼慎に痛い思いをさせて申し訳ない、かわいそうという気持ちが無くなるわけではないけれど、もしすぐに手術をせず、お腹の中で心音がなくなるのを待っていたとしたら、「あの時、すぐに帝王切開していればたすかったかもしれないのに!」と絶対に一生後悔したと思う。それは私の性格上、間違いありません。
・「グリーフカード」からの出会い
緊張しながらつどいの会場に着くと、そこには時折笑みを浮かべながら話をされているお母さん方がいました。子どもが亡くなった方たちのはずなのに、なぜ笑っていられるのだろう? 最初は若干の違和感がありましたが、すぐにその温かい雰囲気に包まれ、居心地よく感じていきました。みなさんそれぞれお子さんをなくされた状況は異なりますが、子どもを亡くした親しか感じない気持ちや心配事などは、ほぼ共通しています。なぜ子どもは死んだのに私は生きているのか? ということばかり考えていた私でしたが、つどいで出会ったお母さん方を見て、ああ、年数がたてばあの方々のように普通に生活をを遅れるようになるのかな、と少しずつ未来について考えられるようになっていきました。
・いつ死んでもいいと思い、生きる
前向きに頑張っていると人と見ているようです。実際に友人たちから、よくそのように言われますが、実はそうではありません。これを他人に言うと引かれるので、遺族会のお母さん方にしか言いませんが、実は私は、いつ死んでもいい。極端な話、今日の帰りに交通事故で死んでもいいと毎日思って生きています。それはやはり死んだ敦生と兼慎に会えると信じているからです。自分から命を絶つようなことは全く考えていませんが、本当に毎日そう思って生きています。それぐらい、子どもを亡くすというのは、強烈なことなのです。
感想;
愛する人を亡くすことの悲しみがいかに大きく深いかを知ります。
そして、同じ境遇の悲しみを持った人との語らいが大きな力、癒しになるようです。
話を聴くは、自分を語ることにもなるのでしょう。
実際に話すことで、気付かれることもあるようです。
話す⇒放す⇒離す
時間の経過が悲しみを軽減させることはありませんが、悲しみを抱えながらなんとか生きる術を身につけていくのではないでしょうか。
そしてなにより、亡くなったことで体験したこと、得た新しい出会いを生かしていくと、そのとても深い悲しみが新たな扉を開けていくかもしれません。それがほかの人の苦しみを和らげたり、助けたりする働きにもつながっていくようです。