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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「攻殻機動隊」~「映画監督の夢」夢と現実の中で戦ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ

2025年04月16日 | コミック・アニメ・特撮
 アニメ「攻殻機動隊」
 その一話一話がすぐれたSF短編小説のようで堪能している。

 たとえばシーズン1・12話の「タチコマの家出 映画監督の夢」

 草薙素子(CV田中敦子)はとある電脳世界にダイブする。
 そこは映画監督・神無月渉(CV槐柳二)の作ったミニシアターがあり、彼の作品が上映されている。
 たくさんの観客も見ている。
 素子も椅子に座って鑑賞して涙を流す。

 さて、ここからテーマが展開される。
 素子は神無月の作品に魅了されてシアターが出て来ない観客たちに違和感を抱いている。
 だから作品を作った神無月と議論する。

「どんな娯楽も一過性のものだし、またそうあるべきだ。
 始まりも終わりもなく、ただ観客を手放そうとしない映画なんて、それがどんな素晴しいと思えたとしても害にしかならない」
「われわれ観客に戻るべき現実があるとでも言いたいのかね?
 この観客の中には現実に戻った途端に不幸が待ち受けている者もいる。
 そういう連中の夢を取り上げ、あんたは責任を取れるのかね?」
「夢と現実の中で戦ってこそ意味がある。他人の夢に自分を投影しているだけでは死んだも同然だ」
「リアリストだな?」
「現実逃避をロマンチストと言うならね」
「強い娘よのう。いつかあんたの信じる現実がつくれたら呼んでくれ。
 その時、わしらはこの映画館から出て行こう」
 ……………………………………………………………

 僕は神無月の考えに共感するのですが、草薙素子は神無月の言うように「強い娘」ですね。
 作品は現実逃避のものなのか?
 作品世界に引きこもって現実逃避をするのはいけないことなのか?
 作品はどうあるべきか?

「攻殻機動隊」はこうしたさまざまなテーマを電脳世界を通して描いている。

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「チ。ー地球の運動についてー」を読み解く③~最終章の現実世界とは何だったのか?

2025年04月11日 | コミック・アニメ・特撮
 これまで「チ。」のテーマについて書いて来たが、今回は異端審問官のノヴァクである。

 地動説を唱える者を迫害してきたノヴァクは第22話で、その人生を否定される。
 月日が流れて、地動説が許容されて来たのだ。

 ノヴァクはアントニ司祭に言われる。
「地動説なんてものは単にひとつの仮説に過ぎない。
 唯一の真理と主張するのは危ういかもしれんが、単純に数学的過程としての発想だ。
 いったい、それに何の問題がある?
 まあ、もし大地が実際に動いているにしてもその前提で聖書を読み返し、再解釈に努めるのが我々の役目だ」

「新しい発見や意見を拒絶するのではなく検討してより聖書の理解を深める。
 そういう姿勢が今、信仰に最も必要なんじゃないのか?
 それにむしろ太陽が中心であるという地動説の考えは三位一体の自然科学的な裏付けとも捉えられる。
 これは神学的にも神を讃える素晴しい気づきかもしれんぞ」

 この他にもノヴァクは「地動説を異端視して迫害したのはノヴァクだけだ」と告げられる。

 哀れノヴァク!
 彼は今まで何のために生きてきたのか?
 彼の人生とは何だったのか?

 でも客観的に見ると、人の人生ってこんなもの。
 人は何らかの幻想を信じて生きている。
 宗教はその最たるものだが、地位・名誉・お金があれば幸せになれる、は本当か?
 幸せな家庭は幻想ではないのか?
 
「チ。」は「自分が大切にしている価値観が正しいのか」疑ってみようと語っている。
 …………………………………………

 議論となっている最終章(第24話・25話)について語ってみよう。

 最終章では、今まで曖昧だった時代と国が明らかにされ実在の人物が登場する。
・1468年 ポーランド王国
・アルベルト・ブルゼフスキ
 ブルゼフスキはコペルニスクスの師で、影響を与えた人物だ。

 1話~23話まではフィクションだったのに、なぜここで実在の人物が出て来たのか?
 第1章~3章(1話~23話)と最終章(24話・25話)の違いはなぜか?
 最終章は現実世界なのに、なぜフィクション世界のラファウが登場したのか?
 ラファウは死んだはずではなかったのか?

 ネットではこんな説が語られている。

・多次元宇宙説(パラレルワールド説)
 つまり第1章~3章と最終章は別次元の出来事だ、と考える説だ。
・ブルゼフスキの書いたフィクション説
 つまり第1章~3章はブルゼフスキの書いたフィクションで、ラファウは現実にいる人物をモデルにしてブルゼフスキが創造したキャラクターである、と考える説。

 僕個人としては「フィクション説」を採用したいが、腑に落ちない部分もある。
 そして、これが作者の魚豊先生の意図したことなのだと思う。
「腑に落ちないこと」「もやもやしていること」「答えが見つからないこと」
 これこそが魚豊先生の狙い。
 魚豊先生は読者や視聴者に大いに考えてほしい、迷ってほしいと思っている。
 つまり「タウマゼイン」であり「?」だ。
 今、僕は「フィクション説」を採用しているが、ある時、別の解釈が思い浮かぶかもしれない。

 ドラマのカタルシスとしては23話で終わらせた方がよかったんですけどね。
 作家は24話・25話を加えることで、読者・視聴者を混乱させる道を選んだ。
 地動説を探求した登場人物たちのように「美しい解釈を求めて考え続けること」。
 これこそが「チ。」という作品だからだ。


※関連記事
「チ。--地球の運動についてー」を読み解く①

「チ。--地球の運動についてー」を読み解く②

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「チ。ー地球の運動についてー」を読み解く②~タウマゼイン! 迷って疑って考え続けることこそが楽しい!

2025年04月10日 | コミック・アニメ・特撮
 天動説と地動説。
 ふたつの二律相反のテーマはその後さまざまな形で展開される。

・科学と宗教
・理性と信仰
・理性と感情
・人生の肯定と否定
・聖と俗
・自然と人工
・魂と肉体
・自由と権威
・信念と疑念

 科学と宗教に関しては、この物語の登場人物たちは別々に考えていない。
 地動説を唱える彼らは語る。
「神が作った世界だから美しくないわけがない」
「神が作った世界だから数学的な秩序があるはずだ」
「地動説を知ると神の偉業が見えて来るはずだ」
 彼らにとって科学と宗教は一体化している。分化していない。

 一方、ドゥラカのように神を否定する人物も出て来る。
 ドゥラカは「経済」こそが大切だと考えている。
 活版印刷、羅針盤、火薬──科学が経済的な豊かさをもたらすと気づいている。
 すなわちニーチェが語る「神の死」
「近代の始まり」だ。
 ………………………………………

 二律相反のテーマ。
 これはヨレンタとドゥラカ、そして最終章の主人公アルベルト・ブルゼフスキ(石毛翔弥)によってまとめられる。
 ヨレンタは言う。
「確かに真理を盾に暴力は加速し得る。
 もしかしたらわたしたちは地動説という権威を盲信し従っているだけかも」
 ドゥラカは言う。
「権威の中で生じる思考停止は何も宗教だけでなく、学問の中でも起こりうるんじゃないですか?」

 そう。
 宗教は地動説を唱える者を弾圧したが、ヨレンタたちも教会の人間に暴力をふるい殺害している。
 どっちもどっちだ。
 それどころか後の歴史が示すように、科学は大量破壊兵器を生みだし多くの人の命を奪った。
 これを考えれば宗教の方が科学よりはるかにマシだ。
 神を失った者たち、科学を信奉する者たちの方がはるかに残酷なことをしている。
 ドゥラカは科学の危うさを預言した。

 これが「チ。」という作品の深さなんですよね。
 宗教や信仰を時代遅れの愚かなものだと断じていない。
 科学が宗教を越える素晴しいものだと断じていない。
 では宗教と科学の対立軸を作者の魚豊先生はどう収めたか?

「信念はすぐ呪いになる。それがわたしの強さであって限界でもある」
 と地動説を信念とするヨレンタに信念に囚われることの危険を語らせ、
「信念を忘れた時に人は迷う」
「でも迷って。きっと迷いの中に倫理がある」
 と結論づける。

「迷うこと」「疑うこと」「迷って疑って考え続けること」
 この作品の後半はこのことを問い続ける。
 異端審問官のノヴァクには自分のおこなっている拷問が正しいのか? と疑ってほしい。
 異端解放戦線のヨレンタには、地動説が真理であるかゆえに自らが権威になり、他者を排除しているのではないかと疑ってほしい。 
 迷って自らの暴力性について考える時に倫理が生まれる。
 過度の信仰や信念の危うさを考えてほしい。
 …………………………………………

 迷って考え続ける時、人は不安定だ。
 モヤモヤしてスッキリしない。
 むしろ何も疑わず信念を持って生きている時の方が心地いい。

 しかし、「チ。」という作品はそう考えない。
 迷って考え続けてモヤモヤしている時の方が楽しくて素晴しい、と訴える。
 それが第24話の「タウマゼイン」であり最終話の「?」だ。

「チ。」については、今回でまとめるつもりだったが、まだ書いていないことがふたつある。
 なのでそれは次回!

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「チ。ー地球の運動についてー」を読み解く①~二律背反の物語「感動と好奇心」「名声とお金」

2025年04月09日 | コミック・アニメ・特撮
「チ。─地球の運動について─」を全話見た。

 地動説をめぐる人々の物語である。
 フベルト(CV速水奨)→ラファウ(CV坂本真綾)→オクジー(CV小西克幸)→バデーニ(CV中村悠一)→ヨレンタ(CV仁見紗綾)→ドゥラカ(CV島袋美由利)
 地動説はこれらに人々によって引き継がれる。

 最初、地動説は膨大な星の観測データを収納した「石の函」の中に。
 次はパディーニの論文。
 パディーニは「石の函」のデータと宇宙論の大家のデータで「地動説」を論文にする。
 しかし論文は焼失……。
 地動説はその概要を書いた簡単なオクジーの本に託される。
 しかし、その本も燃やされて……。
 地動説はドゥラカの頭の中の記憶に託される。
 ヨレンタはドゥラカの記憶をもとに原稿をつくり活版印刷で地動説を広く世に伝えようとするが、
 異端審問官の部隊がやって来て挫折……。
 地動説はふたたびドゥラカの記憶に託される。

 壮大なドラマだ。
「石の函」→「論文」→「概略本」→「記憶」→「印刷」→「記憶」
 綱渡りをするように「地動説」が危うい状態で引き継がれていく所が面白い。
 何しろ最後は「ドゥラカの記憶」ですからね。
 ドゥラカが死んでしまったら「地動説」は世界から消えてしまう。
 その結果がどうなるかはぜひアニメ本編を見て下さい。
 ………………………………………………

 さて以上が物語の縦糸。
「チ。」の魅力はその横糸にもある。
 つまり登場人物たちがかわす会話だ。

 ひとつは「感動」と「好奇心」
 地動説を知って登場人物たちはその美しさに感動する。
 ラファウはその感動のために死んでもいいと思い、
 オクジーは地上の世界を肯定し夜空を見上げることができるようになる。

 一方、地動説を「感動」や「好奇心」と捉えない人物も出て来る。
 バデーニは地動説を発表することで歴史に名を刻みたいと考えている。
 ドゥラカは地動説を活版印刷で出版して大儲けしたいと考えている。
 何と作者は「感動」と「好奇心」というテーマをバデーニとドゥラカで否定してしまった。
 ラファウとオクジーの動機は純粋だが、パディーニとドゥラカは現世的俗物的だ。
 
「チ。」は「二律背反」の作品なのだ。
 作者はひとつの主張だけを正しいとしない。
 必ず反論や否定を用意する。

 異端解放戦線のヨレンタの動機も二律背反的だ。
 ヨレンタは自分の役割を「地動説を次の世代に伝えること」と考えていて、これは純粋な動機だ。
 だが一方でこんなことも言う。
「わたしは取り返しているだけ。教会に奪われた自由と人生を。父と友を。
 個人の自由を制限する権威は打倒されるべき」
 この主張は美しさとは程遠く、復讐であり政治的だ。

 さて、「チ。」ではこの他にも二律背反が描かれるのだが、それは次回!


※参考
 二律背反(「広辞苑」より引用)
 相互に矛盾し対立する二つの命題が同じ権利をもって主張されること。
 カントは理性だけで世界全体の根本的問題を解決しようとすると二律背反に陥ることを指摘した。

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表現規制反対~手塚治虫の漫画も「くだらない」「おぞましい」「いやらしい」と言われていた

2025年02月23日 | コミック・アニメ・特撮
 ネットの拾い物ですが──

 

 くだらない!!
 おぞましい!!
 いやらしい!!
 下品だ!!
 科学に基づいていない!!

 手塚治虫で、この言われよう。
 だから僕はあらゆる表現規制に反対です。
 不快だ、気に食わない、で排除するのはどうかと思います。
 それで救われている人だっているのですから。

 手塚先生の描く女性は、劇画系と比べて色気がないというのが一般的な評価ですが、
「いやらしい!!」「下品だ!!」と言われた時代があったんですね。
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「ルックバック」②~おっさん、藤野と京本のあのシーンに号泣した!

2024年12月15日 | コミック・アニメ・特撮
 劇場用アニメ『ルックバック』の名シーンをご紹介。

 以下、一部ネタバレ。


 藤野(CV河合優実)と京本(CV吉田美月喜)──ふたりは漫画を描き続け、雑誌連載が決まる。
 京本は絵を描くことが好きな引きこもりだった。
 藤野と知り合うことでいっしょに漫画を描き、外の世界に出ることができた。
 そんな京本が「漫画をやめて美大に行きたい」と言い出す。
 藤野は漫画連載が決まったし、京本とずっといっしょに漫画を描いて行きたいから引き止める。
 以下はその時の会話。

「美大なんか行っても意味ないよ。美術系の就職先なんかほとんどないし」
「それは知ってるけど」
「知らない人といっぱい話すことになるんだよ」
「それはがんばるよ」
「わたしについて来ればさ、全部うまくいくんだよ」
「……わたし、藤野ちゃんに頼らないでひとりで生きていきたいの」
「そんなのつまんないよ!」
「つまんなくないよ!」
「ぜったいにつまんないし、ていうか、あんたがさ、ひとりで大学生活できるわけないじゃん」
「できるよ、できるようにする!」
「無理だよ。だってコンビニのレジの人とだって恥ずかしくて話せないじゃん」
「これから練習するもん」
「ぜったいに無理!」
「でも……」
「なに?」
「もっと絵うまくなりたいもん」

 …………………………………………………………

 このシーンだけで僕は号泣してしまうのである。
 引き止めたい藤野の気持ちもわかる。
 そこには、かなりエゴも入っている。
 藤野にとって、京本は漫画を描く原動力であり、いなくなる心細さもある。
 自立したい京本の気持ちもわかる。
 自我に目覚めた京本は今のままではダメだと思っている。
 というか、
「できるようにする!」「これから練習するもん」
 で泣ける。
 不器用でもがんばって生きていく人は素晴しい。

 ぶつかり合うふたりの思い。
 藤野はあきらかだけど、京本も本当は別れたくないんだよね。
 このシーンを見るだけでも『ルックバック』を見る価値があると思う。


※関連動画
「ルックバック」公開記念PV(YouTube)

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「ルックバック」~コミック・アニメの「革命」と言われている作品を観た!

2024年12月13日 | コミック・アニメ・特撮
 コミック・アニメ業界で「革命」といわれている劇場アニメ『ルックバック』
 わずか58分の作品だ。
 原作の藤本タツキ先生に拠ると、タイトル『ルックバック』には3つの意味があるらしい。

 ひとつは「背中を見ろ」
 作品では、漫画を描く藤野(CV河合優実)の背中がひたすら描かれる。
 その後ろには、アシスタントとしてこたつで漫画の背景を描いている京本(CV吉田美月喜)。
 京本は漫画を描く藤野の背中を見ている。
 面白い漫画を生み出す藤野を驚嘆と賞賛の目で見ている。
 そう、『ルックバック』はこの光景をひたすら描く作品なのだ。

 この背中の描写が実に見事でリアル。
 漫画を描くことにのめり込むあまり体が大きく左に傾いたり、極端に前屈みになったり。
 ただそれだけだが、ぜんぜん退屈しない。それだけで見ていられる。
 藤子不二雄先生の『まんが道』でも漫画を描く漫画家の背中が描かれたが、
 漫画を描くというのは「背中を描く」ということなのだ。

 ふたつめは「過去をふり返る」
 藤野は京本といっしょに漫画を描いていた過去をふり返る。
 それはかけがえのない時間。
 大変だったけど、とても楽しかった時間。
 こうした時間を得られただけでも人生の意味はある。

 三つ目は「背景を見ろ」
 漫画やアニメでは、どうしても「ストーリー」「キャラクター」に目が行って、
「背景」は忘れられがち。
 でも「背景」も見てほしい。
 背景ってすごいのだ。
 特に京本の描いた背景はすごかった。
 藤野は大ヒット漫画家となったが、京本をリスペクトしている。
 京本の存在を忘れないでほしいと訴えている。

 そして後半。
 藤野と京本が別れてからの物語。

 以下、ネタバレ。

※関連動画はこちら
『LOOK BACK』オフィシャルトレーラー(YouYube)

 …………………………………………………………

 そして後半。
 あの後半をどう解釈すればいいのだろう?

 京本の部屋の扉を「現実とフィクションを繋ぐ扉」と解釈している方がいて、なるほど!
 いろいろ考察がふくらむ解釈だ。

 僕はもっと単純に解釈していて、
「もし京本が部屋から出ずに引きこもりを続けていたら」の描写は、藤野の空想だと考えている。

 もし京本が部屋から出なかったら自分が空手で助けて、ふたりはいっしょに漫画を描く。
 これで京本は死なずにハッピーエンド。明るい希望に満ちた未来。
 藤野はこれを求めて空想した。
 空想の世界なら、こうしたハッピーエンドはいくらでも作れる。
 だが現実は……?
 京本は亡くなっていて帰って来ない……。

 藤野は亡くなった京本の部屋に入る。
 そこにはスケッチブックの山と、藤野の漫画のコミックスと読者のアンケートハガキ。
 別れて離ればなれになっていても、京本は藤野の漫画のファンで応援していた。
 京本はずっと藤野を見ていた。

 そしてドアの所には、藤野のサインが書かれたどてら・丹前。
 京本がいつも羽織っていたものだ。
 ここで藤野は『京本の背中』を見せられる。
 この京本の背中が訴えているメッセージは何か?

「藤野さん、漫画を描いて! 藤野さんはすごいんだから!」

 この京本のメッセージを見て、藤野はふたたび漫画を描き始める。
 しかし、このラストは明るく力強いものではない。
 藤野はひとりぼっちだからだ。
 もはや京本はいない。
 藤野はこれからひとりで漫画を描いていかなくてはならない。

 さまざまな感情を抱かせる、見事なラストだった。


※追記
 藤野役の声は『不適切にもほどがある』『家族だから……』の河合優実さん。
 上手すぎる!
 何だ、このさりげない感情演技!
 これは型にはまった既存の声優さんではできない表現!

 京本役の吉田美月喜さんもすごかった。
 僕は存じ上げなかったが、スタダのモデル・女優さんで、いろいろな作品に出ている。
 今後の活躍が楽しみだ。

※追記
 このラストを見て、僕は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出した。
 カンパネルラを失ってジョバンニはこれからひとりで生きていかなくてはならない。
 人々の幸いのためにジョバンニはひとりで苦闘しなければならない。
 この姿は藤本に重なった。

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「ち。-地球の運動について-」~天動説と地動説、宗教と科学、キリスト教とギリシャ哲学、そして理性・知性の復権

2024年10月17日 | コミック・アニメ・特撮
 アニメ『ち。-地球の運動について-』(NHK・土曜23時45分ほか)
 この作品はさまざまなことを考えさせてくれる。

 作品は──
 15世紀のヨーロッパで禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いた物語だ。
 この時代、地動説を唱えたり、研究して証明しようとすれば「異端」の審判を下され、
 拷問・火あぶりにされる。
 でも「地動説」を追い求めずにはいられない。

 第1章の主人公ラファウ(CV坂本真綾)は大学で神学を学ぶ予定の秀才だったが、
 地動説を知って考える。
「地動説の方が惑星の運行をきれいに証明できる」
 これに比べて天動説は美しくない。
 だからタファウは疑問を持つ。
「神がこんなに美しくない世界をつくるだろうか?」

 ラファウは冷徹な合理主義者だ。
 だから地動説を信じていないと平気でウソを言えるし、
 大学で神学を学ぶふりをしながら、地動説の研究をしようとしている。

 一方で、こんな合理主義者のラファウだから非合理なものを否定せずにはいられない。
 非合理なもの──具体的にはキリスト教だ。
 キリスト教は教える。
「異端者は悪魔に取り憑かれている」
「人から悪魔を追い出すには火あぶりにするしかない」
「火あぶりにすれば人は灰になるが、灰になった人間は肉体を失っているので、
 最後の審判の時、復活できない」

 ラファウはこれを非合理だと否定する。
 キリスト教が教える「絶対神による救い」を拒絶する。
 彼は共感するのはギリシャの哲学者の言葉だ。
 ソクラテス、いはく、
「誰も死を味わっていないのに誰もが死を悪であるかのように決めつけている」
 エピクロス、いはく、
「われわれのある所に死はない。死のある所にわれわれはない」
 セネカ、いはく、
「生は適切に活用すれば十分に長い」
 ソクラテスたちは理性的に生と死を考え、怖れることなく乗り越えている。
 ラファウもこれに同意して、やすやすと死を乗り越える。

 ラファウはさらに異端審問官のノヴァク(CV津田健次郎)にはこんなことを語る。
「あなたが相手にしている敵は僕でも異端者でもない。
 想像力であり好奇心であり、畢竟、それは知性だ。
 これは伝染病のように拡がり、一組織が手なずけられるほど可愛げのあるものではない」

 ラファウが主張するのは──想像力・好奇心・理性・知性の素晴らしさだ。
 これらの揺るぎない堅固さだ。
 そして「感動」。
 地動説に感動したラファウはこの感動を誰かに伝えずにはいられない。
 自分の研究成果を後世の人間に残さずにはいられない。
 …………………………………………

・天動説と地動説
・宗教と科学
・キリスト教の死生観とギリシャの死生観
・理性、知性の復権

『ち。-地球の運動について-』に込められているテーマはさまざまだ。

 僕は最近、死についていろいろ考えているから、
 ラファウが死をどう乗り越えたかはとても興味深かった。
 ラファウのとった選択に心がザワザワした。

 原作者の魚豊氏はこの作品についてこう語っている。

『天動説から地動説へ移行する、知の感覚が大きく変わる瞬間がいいんですよね。
 哲学と結びついて、「コペルニクス的転回」や「パラダイムシフト」って言葉が生まれるくらいの衝撃を与えました。
 その瞬間が面白くて、漫画にしようと決意しました』

 何かを求めて見ることで、この作品は見る者に「パラダイムシフト」をもたらすと思う。
 現在は第3話まで放送。
 第1章が終了したばかりなので、まだ間に合う。
 多くの人に見てもらいたい。

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「機動戦士ガンダムSEED 」3部作~どうしたら戦争をなくすことができるのか?

2024年08月13日 | コミック・アニメ・特撮
「機動戦士ガンダムSEED」(テレビシリーズ48話)
「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」(テレビシリーズ50話)
「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」(劇場映画)

 3作品を貫くテーマは『どうしたら戦争をなくすことができるのか?』

 以下、おおまかなネタバレあり。

「機動戦士ガンダムSEED」
 この作品が描いたのは「憎しみの連鎖を止めよう」だった。
 やられたから報復する。
 地球連合とプラント(ザフト)はこの論理で戦いを繰り返す。
 この背景には「普通の人間」と「遺伝子改良された人間=コーディネイター」の差別・対立がある。
 両者の戦いはどんどんエスカレートしていき、強力な武器を使い合い、
 相手を絶滅させる段階にまで至る。
 ここに登場する、どちらにも属さない主人公たちの第三勢力!

「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」
 ギルバート・デュランダル (CV 池田秀一)がやろうとしたのは
「戦争をつくりだしている勢力を滅ぼすこと」だった。
 つまり倒すべきは、戦争に拠って兵器を売って金儲けしている勢力=軍産複合体だ。
 追い詰められた軍産複合体は最終兵器レクイエムを使おうとするが阻止される。

 だが戦いはここで終わらなかった。
「人類から戦争をなくす」ためにデュランダル は『デスティニープラン』の施行を宣言する。
 『デスティニープラン』
「人々の人生すべてを遺伝子によって決定する管理社会制度」だ。
 人には欲があり、結果として争い、間違いを犯す。
 遺伝子的に定められた役割を果たしていれば人は満足し平穏に暮らすことができる。
 果たしてそんな理論が成り立つかどうかは疑問だが、
 たとえば動植物は遺伝に従って生きていて、生きるために他の種をエサにするが、
 少なくとも同族で争うことはない。
 デュランダルは人間にも同じ理論が成り立つ、と考えている。

 この理論は伊藤計劃氏のSF小説『ハーモニー』でも同じようなことが描かれている。

 さて、ここで出て来る課題は「人間の自由」だ。
 夢を持ち、遺伝子で決定されない誰かを愛し、失敗したり成功したりして、泣いたり笑ったりする。
 これこそが「人間」であり「自由」ではないか?

 このテーマは劇場映画「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」で引き継がれる。
 主人公たちがどのように葛藤し、どのような結論を出すかは実際に作品を観て確認してほしいが、
 僕としてはもう少し新しい見解を提示してほしかった。

 なぜなら僕は人類という種にほとんど期待していないから。
 現状の人類の意識や思考には限界があり、現状維持では争いや戦争はなくならない。
 キラ・ヤマト(CV保志総一朗)、ラクス・クライン(CV田中理恵)らは今後も戦いを繰り広げていくだろう。

 かと言って「管理社会」がいいわけではないんですけどね。
 でも管理され去勢されて、お前はこう生きろと言われた方がずっと楽。
 自由は不安だから、孤独でつらい。
 不安を解消するためにいろいろなことをやらかす。

 管理社会か? 自由社会か?
 これはSF小説がずっと描いて来たテーマ。
 というより「人類の永遠のテーマ」。
 さて、皆さんはどう考えられるだろう?
 この点で、ファーストガンダムの「人類の覚醒=ニュータイプの誕生」という切り口は新しかった。

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「推しの子」~黒川あかねは「俺の嫁」! そして本日、舞台「東京ブレイド」の幕が開く!

2024年08月07日 | コミック・アニメ・特撮
 本日オンエアされる『推しの子』17話~東京MXの場合。
「さあ、すべてを見せて来い!」
 いよいよ舞台『東京ブレイド』が披露される。

・アビ子先生(CV佐倉綾音)と脚本GOA(CV小野大輔)共作の攻めた台本とは?
・有馬かな(CV潘めぐみ)と黒川あかね(石見舞菜香)の芝居対決や、いかに?
・鳴嶋メルト(CV前田誠二)はどのような成長した演技を見せるのか?
・アクア(CV大塚剛央)は過去のトラウマを乗り越えられるのか?

 これまでの伏線が舞台で一気に回収される。
 見事な作劇だ。

 有馬かなVS黒川あかね
 芝居対決は『ガラスの仮面』以来の演技ドラマの必須だよね。

 メルトは演技力がヴァージョンアップしているんだろうけど、
 鴨志田朔夜(CV小林裕介)との絡みがポイントになりそう。
 16話で鴨志田はメルトを「下手だ」と挑発したが、おそらくこれはわざと。
 自分への怒りをメルトにぶつけさせるためにわざと挑発した。

 アクアは自分のトラウマを武器に変える決断をした様子。
 瀕死の鞘姫を抱きしめる刀鬼。
 何かを失って絶望し、吐き気を催すほど自分を責める芝居はトラウマに従えば十分にできる。
 問題は「歓び」の演技だが、これをどう乗り越えるか?
 ポイントは黒川あかねかな?
 あかねの思いがアクアを救い、歓びをもたらす?

 いずれにしてもワクワクする。
 アニメ作品は他にも見ているが、『推しの子』だけはリアタイで見ている。
 …………………………………………………………

 で、黒川あかね様!
 『僕の嫁』確定ですね。笑

・可愛い! 美人!
・芝居は天才。
・プク~ッとすぐ怒る。
・基本真面目。だが負けず嫌い。
・料理が上手い。
・アクアのようなマイナスオーラ全開の男が好き。
・分析能力に優れ、相手のことを深く理解してくれる。
・どんなことがあっても味方だよ、と言ってくれる。

 全国の陰キャ・ダメ男にとっては女神様のような存在だ!

 まあ、アクアが求めているのはアイ(CV高橋李依)なんだよね。
 アイの呪縛が解けた時、アクアが向かうのは、かななのか? あかねなのか?
 かなに対してアクアは「感情」でつき合っている感じ。
 かなの前ではアクアは自分を素直に出せる。
 あかねに対しては「理性」でつき合っている感じ。
 アクアは論理的にあかねを見て受け入れている。
 あるいは、あかねを通してアイを見ているのかもしれない。

「感情」と「理性」
・恋愛をするなら「感情」の有馬かな。
・結婚するなら「理性」の黒川あかね。
 という感じだろうか。

 いずれにしても、
 恋愛においても「有馬かなVS黒川あかね」という対立図式をつくった所が
 物語をグングン面白くしている。

コメント
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