平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

新しい価値観~公益資本主義

2009年12月31日 | その他
 TBS「サンデーモーニング」(12/27)の内容はなかなか示唆に富むものだった。
テーマは2010年、われわれはどんな価値観を持って生きていくべきか?
 それは……

 自然と向き合うこと

 地球温暖化などが示すとおり、現代人の生活は人間ひとりに割り当てられた自然の分量を超えているという。
 つまり人間は自然を使い過ぎているのだ。
 通常、自然は再生可能なもの。
 ひとつの生命が失われても新しい別の生命が生まれる。
 動物が死に、その死骸が土に還り植物を育て、植物が動物のエサになる。
 しかし人間が過度に使いすぎているため、その循環が断たれ、自然が再生出来なくなっているという。
 そこでこう主張する。
 今こそ人間は自然と向き合うべきだと。
 15世紀イタリアのルネッサンスでは、人間は<神>と向き合った。
 では現在は? 
 向き合うべきは<自然>だという。
 つまり自然との共存。
 自然が再生可能になるくらいに節度をもって自然を使うということ。
 そのためには人間は現在の生活を改めなければならないだろう。
 多少不自由でも我慢する。あるいは発想を変えて不自由なことを楽しみ、満足する。
 それが出来るかどうかが問われている。
 とは言っても個人レベルで実践しても大きな社会のうねりの中では流されてしまう。
 個人のモラルではどうにもないことがある。
 もっと社会全体で自然との共存を考える必要がある。

 そこで今必要なのは新しい社会の仕組み。
 新しい資本主義の形。

 資本主義の基本は<競争>だ。
 もっと、もっと。
 もっと速く。もっと多く。
 こうした価値観を見直さなくてはいけないという。
 皆が<もっともっと>と思うから、自然のキャパを越えてしまう。

 ではこんな状況下、今後資本主義はどうあるべきか?
 そこで番組で紹介されたのが<公益資本主義>。
 自然との調和を考えながら行っていく資本主義。
 自然の再生がきくような企業活動をする。
 自然の再生がきかないような過度な企業活動はやらない。

 なるほど、うまい考えだ。
 現代に生きる人間はおそらく漠然と感じているはずだ。
 このまま行ったら人間は滅びる。
 自然は再生不可能なくらいに壊れているし、人類を何十回も殺せる核が地球を覆っている。
 あるいは強欲の空しさも人間のどうしようもない愚かさも。
 こんな情況で頭がおかしくならない方がおかしい。
 公益資本主義についてはまだまだ煮詰める必要があると思うが、

 自然と向き合い、もっともっとをやめる。

 ひとりひとりがそれを頭に入れるだけでも大きく違ってくるように思う。 


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JIN -仁- 名セリフ その2

2009年12月30日 | 名セリフ・名言集
 昨日に続き「JIN -仁-」名セリフ。

 名セリフというのはやはりキャラクターがよく出来ているから生まれるんですね。
 たとえば女形役者の田之助。甘いお坊ちゃん・恭太郎に……
★「この小判は俺の血と汗と肉だ。血を吐くような思いをして芸を磨き、手に入れたそういう金なんだ。どうしても初音を助けたいのなら、まず身を切るのが筋だろうが。旗本株でも売って出直してきやがれ!」
 だが、心意気には心意気に応える。
★「あの薬はあなたの血肉を刻んだ命だそうじゃありませんか。この田之助、命には命で応えるさ」
 そして小判をばらまき、中条流の医者に「おととい来やがれ!」と見栄を切る。
 おまけに仁たちには
★「この金は返さなくていいから。貸すなんてセコい真似嫌いなんだよ!」
 まさに粋ですね。
 格好良すぎる!

 緒方洪庵先生も渋かった。
 洪庵は「石を投げられ、私財を投げ打ってまでも人を助けたいという医の心を持った人」。
 仁よりもずっと年上で地位もある人間なのに仁を師と仰ぎ、こうも言う。
★「その寂しさを、この洪庵にお預け下さい。この洪庵、冥途に持っていきます」
 一方、仁もそんな洪庵を師と仰ぎ、洪庵に受けた恩をどう返せばいいかを尋ねる。
 その質問に答えてに洪庵は……
★「より良き未来をお作り下さい。皆が楽しう笑い合う平らな未来をお作り下さい」
 この言葉はあらゆる人に当てはまる言葉ですね。
 どんな人間だって誰かの恩を受けて生きてきたし、生きている。
 ではそれをどうやって返すか。
 洪庵の言葉はその答えのひとつですね。

 キャラクターといえば野風の恋はせつなかった。
 仁に抱きしめられて脈が速くなり、そのことを指摘されると
★「この音だけがあちきの誠でありんす」
 偽りの恋愛で浮き世を生きてきた花魁生活の中で仁に抱きしめられたことが唯一の<誠>だった。
 何とせつない。
 仁に思っている女性(未来)がいることを聞くと
★「今よりその名を呼びなんし。それなら不実になりんせん」
 思っている女性の名を呼びながら自分を抱けという野風。
 これもせつない。
 あるいはこんなせりふも。
★「雪になりたいでありんす。雪ならばいつでも先生の方に落ちられるでありんすから」
 しかし、花魁としての矜持もある。
 つらければ泣けという龍馬に
★「色恋に涙を流しては花魁の名がすたりんす」

 最後のキャラクターは咲。
 彼女は本当に聡明で強かった。
 田之助の名を呼び恭太郎を傷つけた初音には……
★「おのれの気持ちに嘘などつけませぬ。せんないものかと思いますよ」
 仁にはいつもさりげない励ましの言葉。
 ペニシリン工房が焼け手術中に動揺する仁に
★「先生、今日は蒸しますね」
 ペニシリンがなくて途方に暮れる仁には 
★「先生、青カビを集めましょう。この季節ですし容易に集まりましょう」
 こんなさりげない励ましをする咲だが、時にはこんな大胆な行動も。
 四百両が払えなくてペニシリンを手放さなくてはならない時に
★「私がここでご奉公いたしますから四百両をお貸しいただけませんか。少しとうが立ってありますが、旗本の娘ということで物珍しさもございましょうし」

 この作品の登場人物たちは皆が真剣に戦って生きている。
 だからキャラが素晴らしいし、しゃべるすべてが名セリフになる。

 JIN -仁- 名セリフ その1はこちら


※追記
 MISIAの主題歌「逢いたくて、いま」。
 フルで聞く機会があったが、仁の気持ちを歌った歌だった。
「あなたの見つめているすべてを感じたくて空を見上げた」
「今、逢いたい。あなたに伝えたいことがたくさんある」
「運命など変えられなくても伝えたいことがある」
「どうしようもなくてすべてが夢だと願った」
「戻りたい、あの日、あの時に」
 歌詞の内容が物語のシーンやせりふとして描かれている。
 この曲が出来た後に書かれたシナリオもあるだろうから、この作品の脚本家さんはこの曲を見事に活かしている。


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JIN -仁- 名セリフ その1

2009年12月29日 | 名セリフ・名言集
 2009年秋ドラマで話題を呼んだ「JIN -仁-」。
 様々な名セリフが登場しましたね。

★「未来、俺は決めた。歴史は思った以上に強大で、ただ俺は憶することなく向かっていくよ。所詮人間は精一杯生きることしかできないのだから」

 第3話の仁先生のせりふ。
 <人間は精一杯生きることしかできないのだから>。
 これがこの作品が一貫して言ってきたことでした。
 その他、この作品では人間が生きることについて様々なせりふが述べられて来た。

★「人間は欲深い生き物じゃ!人間は一皮剥けば成り上がりたい、金が欲しい、名を残したいという欲でがんじがらめじゃ。わしじゃってそうじゃ!この国をもっと良くしたいと思うちょるじゃが、それは生まれて来たからには何かやってやりたいという欲があるからじゃ。じゃが、その欲があるき、わしは進んでいける。欲は生きる源じゃ!」

 龍馬のせりふ。
 従来の倫理だと欲を持つことは悪だと規定されますが、この龍馬のせりふの方が人間の本質をついているような気がする。
 人の一生はこうした欲との戦い、葛藤なんでしょうね。
 だから人は迷い、悩む。
 咲の兄は自分の器の小ささに悩み、咲は劣等感からこうつぶやく。

★「他の皆様にかなわず、そばにいたとてそのお心さえ分からず、私は何のためにいるのでしょう」

 人はこうやって悩んで生きていくのでしょうね。  
 そんな人の人生について花魁の夕霧は生きるための知恵としてこんなことを言っていた。

★「泣いても一生、笑っても一生。ならば今生泣くまいぞ」

 そして、仁の恋人・未来はこんな言葉を。

★「神は乗り越えられる試練しか与えない」

 勇気を与えてくれる言葉ですね。
 困難に遭遇した時はこの言葉を思い出したい。
 また、この作品は魅力的なキャラクターでいっぱいだった。
 まずは咲の母親。
 コロリの看病で疲れた咲。家に帰って休めと進める兄・恭太郎と話している時に。

★「いくさの途中で帰る家などありません。その様な覚悟で勝てるいくさなどありません。勝って戻ってきなさい」

 彼女はまさに武家の女ですね。
 内野聖陽さんの龍馬は素晴らしかった。
 野風に浅葱裏(田舎侍)とバカにされて

★「浅葱裏に失礼じゃき。わしはただの脱藩浪人じゃ。脱藩浪人の坂本龍馬じゃ。今度は間違わんでくれるかの」

 自分を浅葱裏以下だと卑下しながら、ある意味すごいプライドですね。
 脱藩浪人・坂本龍馬、つまりオンリーワンであることに誇りを持っている。
 われわれもこうやって胸を張って生きていきたいものです。
 龍馬にはこんなせりふもあった。

★「今はただ自分の信じる道を歩きたいぜよ。それが誰も歩いておらん道でも正しい道なら仲間は後からついてくるぜよ」

 龍馬といえば司馬遼太郎さんの「竜馬がいく」だが、この作品でさらに新しい竜馬像が生まれた感じ。
 あとはキャラクターとして綾瀬はるかさん演じる咲が魅力だった。
 咲は常に仁の理解者であり、悩む仁を励ましてきた。

★「先生は私の運命を変えましたよ。咲は生きておりますよ」
★「よろしければ私にお話いただけません? 大したお役には立てませんが、物を言わぬ写真とやらに話しかけるよりは力になれるかもしれません」

 咲の愛情はこんなせりふでも表現されている。

★「ゆうげの豆腐は揚げ出しにしましょう」

 こう書くと女性に怒られるかもしれませんが、咲は男性の理想ですね。
 男というのは案外弱いものでありまして、こういうふうに陰に日向に励まされると頑張ろうという気になれる。
 咲はこの作品の中で一番芯のある強いキャラクターかもしれません。

 JIN -仁- 名セリフ その2はこちら


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坂の上の雲 日清・日露戦争と昭和の戦争

2009年12月28日 | 大河ドラマ・時代劇
 日清戦争に清国が負けて森鴎外は従軍していた子規(香川照之)に言う。
 「眠れる獅子だと言われていた清国が獅子でないことがわかり、欧米の列強は清国を食い物にするだろう」
 この鴎外の言葉どおり、あの時代は<植民地時代>だったんですね。
 強い者が弱い者を併合して植民地にすることが、何の問題もなく当たり前の時代。
 真之(本木雅弘)たち、明治の人間の意識はここにある。
 すなわち<日本を欧米の植民地にしてはいけない>という危機意識。
 そして作品中でも説明されていたが、朝鮮半島は南下して日本を狙ってくるロシアの防波堤だった。
 朝鮮が植民地になれば今度は日本が狙われる。
 だから明治の日本人は朝鮮にこだわったんですね。

 このように司馬遼太郎さんの歴史観では、日清、日露戦争は植民地支配から逃れるための戦略的<防衛の戦争>だと位置づけられている。
 それがいかにして昭和の侵略戦争に変わっていったかというのが司馬さんの問題意識だ。
 そして、それを明治の指導者や軍人を描くことで明らかにしようとしている。
 
 明治の指導者や軍人は昭和のそれと明らかに違う。
 まず客観的に情勢判断ができる。
 敵の戦力、情勢を正確に把握して、的確な判断を下す明治の指導者・軍人たち。
 一方、敵の戦力分析など行わず精神論で突っ走るのが昭和の軍人であり、そうした軍人を制御できないのが昭和の政治家たち。
 司馬さんは太平洋戦争中、陸軍の戦車隊にいて、日本の戦車の装甲が薄いことからこうした問題意識を持ったそうだが、確かに日本陸軍は戦車の装甲が薄くても精神力で何とかなると思っていた。
 この精神力崇拝と神国日本は絶対に負けないという意識は、日清・日露戦争に勝利したことによるおごりから来たものだと思うが、司馬さんが「坂の上の雲」を書いたのにもその辺に理由があったものと思われる。

 また明治と昭和では人命に関する意識も違う。
 第4話では戦闘で三千人の命を失わせたことに悩む東郷平八郎(渡哲也)が描かれたが、昭和の戦争では人命は消耗品。
 民間人をも巻き込んだ一億総玉砕では何のための戦争かわかったものではない。
 昭和の指導者たちは狂乱の中で物事が見えなくなってしまったのだ。
 司馬さんはこうした狂乱、非理性的な人間を嫌う。
 だから理性的な人間として東郷平八郎や真之、好古(阿部寛)を描いた。
 第4話では「日本の兵隊さんありがとう」と清の人間が言っていると子規に強要する軍人が出て来たが、その軍人こそ非理性的な人間の象徴。
 
 「坂の上の雲」は司馬さんが映像化を禁じた作品。
 なぜなら日清・日露戦争で勝利した日本や勝利に導いた軍人を英雄的に描けば、歪んだナショナリズムに繋がるから。
 だが何らかの理由で司馬遼太郎財団が許可したらしい。
 この作品を見る時は、日清・日露戦争が植民地支配から逃れるための<防衛戦争>であったこと、指導者たちは<理性的>であったことを忘れてはならないと思う。

※追記
 もうひとつ、明治の戦争と昭和の戦争の違い。
 日露戦争では当時の首相・桂太郎は開戦直後から終戦の仲介するようアメリカに働きかけていた。
 一方、昭和の戦争はいかに終戦に持ち込むかなど考えていなかった。
 終戦直後にソ連に働きかけたようだが、もはや遅かった。

※追記
 司馬さんの歴史観として日清・日露戦争は<防衛の戦争>と書いたが、結果として領土を得たことを考えると、このことも疑ってみるべきかもしれない。


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パンズ・ラビリンス 空想世界の救い

2009年12月27日 | 洋画
 ファンタジー作品の主人公たちは、つらく息苦しい現実を捨てて空想の別世界にいく。
 「ナルニア国物語」の主人公たちは戦争という暗い陰の下、疎開している。両親とも離ればなれ。
 「ハリー・ポッター」のハリーはおばさんの家で居心地が悪い。
 そんなつらい現実を捨てて、彼らは別世界に行くのだ。

 この作品「パンズ・ラビリンス」の主人公オフェリアも同じ。
 母が再婚して出会った新しい父親は反政府ゲリラと戦っていて、虫けらのように人を殺す冷酷な人間。
 その父親が求めているのは母親のお腹にいる赤ん坊で、オフェリアのことは全然愛していない。
 こんな現実の中でオフェリアは、自分が地底の魔法の国の王女であることを知らされる。
 現実に居場所がない彼女は魔法の王国に行くことを求める。
 唯一の味方であり、彼女を愛してくれる存在であった母親がお産で死んでしまってからは、より強く王国を求めるようになる。
 
 この物語は、オフェリアが地底の魔法の国に行くまでを描いていく。
 その過程でクリアしなければならない三つの試練があるのだが、興味深いのはそのラストだ。
 三つ目の試練は、母親の命と引き替えに産まれた弟を連れてくること。
 オフェリアは弟を魔法の国の入口まで連れてくることに成功するが、父親が追ってきて、オフェリアを銃で殺してしまう。
 死んでいくオフェリア。
 オフェリアは三つ目の試練の裏に隠されたある理由により、魔法の王国に行くことが出来てハッピーエンドになるのだが、ここで見ている我々は考えてしまう。
 <もしかしたら魔法の国というのはオフェリアが自分で創り出した空想の世界ではないか>と。
 つまり
 つらい現実から救われるためにオフェリアは空想で魔法の王国を創り出した。
 また彼女が戦った三つの試練も彼女が現実を忘れるために創り出した物語だった。

 この作品のラストをハッピーエンドにしたい方にはつらい見方かもしれないが、少し俯瞰して見ると、オフェリアは<父親に銃で撃たれて死んだだけ>という気もしてくる。
 オフェリアは魔法の王国に行った夢を見ながら死んでいった……という感じも否めない。

 ファンタジー作品において、現実と空想世界の対立は重要なテーマである。
 この作品は<人間はつらい現実から逃れるために空想世界を求める>というテーマを真正面から見据えている。
 スペイン映画ということで大きな話題にはならなかったようだが、この作品は名作。
 ファンタジーに興味のある方は必見の映画です。


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M-1グランプリ 笑い飯は伝説になった!

2009年12月25日 | 監督・俳優・歌手・芸人
 2009年のM-1グランプリ、いろいろな意味で面白かった。

★まず惜しくも優勝を逃した笑い飯。
 本人たちは悔しいでしょうが、プラス思考で考えればいいんじゃないでしょうかね。
 ある意味伝説になった。
 ・8回連続決勝出場。
 ・その実力コンビが満を持して放った鳥人ネタは、島田紳助さんが百点をつけるほどの完璧なネタ。
 ・今度こそ優勝!? その期待を背負ってファイナルステージに登場するが、ファイナルのネタでコケる。
  何しろオチが<チンポジ>!!←男性ならわかる男性器の位置の話。下ネタ。
 ・もし、この下ネタでなく鳥人のネタをファイナルでやっていたら、絶対に優勝だった!?

 笑い飯はこのような伝説を作ったのだ。
 そして彼らは<チンポジ>と共に<無冠の実力者>として記憶されるに違いない。
 <チンポジ>で記憶されるのはイマイチだが、<無冠の実力者>はカッコイイ!!
 笑い飯にはぜひ<鳥人ネタ>と<チンポジネタ>を前面に出してがんばってほしい。
 かたや百点のネタ、かたや優勝を逃した下ネタ。
 観客はどちらも見てみたいはず。

★次にハリセンボンと南海キャンディーズ。
 どちらもバラエティに引っ張りだこの売れっ子だが、漫才の方の練習不足は否めない。
 ボケとツッコミが噛み合っておらず、リズムが悪いのだ。
 特にハリセンボンはイロモネアなどを見る限り実力派だと僕は思っているので、ぜひ次回もチャレンジしてリベンジしてほしい。

★そしてナイツとNON STYLE。
 彼らは相変わらず上手い。安定している。
 だが安定している分、パワーとインパクトに欠ける感じがする。
 観客も審査員も彼らの芸風を知っているから新鮮味がないのだ。
 <昨年と同じ>という印象を持たれた方も多いだろう。
 優勝するには昨年プラスアルファが必要なのだ。

★最後にハライチ。
 彼らを見られたことは収穫だった。
 見ればドラマ「乙男~オトメン」の磯野と中島じゃないですか。
 磯野を演じた澤部佑さんは、その朴訥な風貌と共にインパクトがありましたからね。
 また漫才のスタイルが新しい。
 たとえば「○○なやつ」とネタフリしておいて、澤部さんがそれを膨らましていく。
 「○○なやつ」というネタフリは次第にズレて行くが、澤部さんはなおも膨らましていく。
 漫才の内容はこれの繰り返しである。
 タカ&トシやオードリーのようにボケに対して頭を叩いて突っこむということをしない。
 叩いて突っこむのは漫才を終える時だけである。
 斬新ですね。
 以前にも書きましたが、ボケて突っこむというオーソドックスな漫才スタイルではもはやインパクトがないんですね。
 オーソドックスなものをいかに崩すか、これが新人が世に出ていくポイントなんでしょうね。

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 NON STYLEの凄さ

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ペネロピ ブタ鼻は可愛い

2009年12月24日 | 洋画
 呪いで鼻と耳がブタになってしまった女の子を描いたファンタジー。
 主人公ペネロピはその姿ゆえ外に出られず、家に引きこもってしまう。
 子供の頃から引きこもった彼女は外の世界を知らず、そこへ王子様とも言える男性が現れて
 ……という物語。

 この物語で面白いのは、家の外に出たペネロピが人気者になってしまう所。
 通常の物語の定石では<王子様に勇気づけられたペネロピがついに家の外に出て呪いが解ける>というのがクライマックスになるはず。
 でも、この作品の作家はそれをクライマックスに持って来なかった。
 何もかもが嫌で自暴自棄になったペネロピはマフラーで顔を描くし、屋敷の塀を乗り越えて街に出る。
 そこで見る街の風物は何もかも新鮮だったが(←「ローマの休日」のよう)、やがてマフラーが外れる事件が起こってブタ鼻とブタ耳が明らかになってしまう。
 しかし、ここからが面白い。
 先程も書いたようにペネロピが「かわいい」と街の人気者になってしまうのだ。
 ペネロピはファッションになり、ブタ鼻のペネロピグッズまで出来てしまう。
 この感覚はたとえば、森三中の村上さんを可愛いと感じる感覚に似ている。
 そしてこのことで見た人は気づくんですよね。
 「美しい」「可愛い」って相対的なものだって。
 「自分はブスだから人に嫌われる」って思うのは、自分の思い込みだって。
 ペネロピは最後にブタ鼻、ブタ耳の自分を肯定する。
 ブタ鼻、ブタ耳が自分自身であると思う。

 現代はさまざまな価値観が飛び交い、すべてが相対化している時代。
 「きれいは汚い。汚いはきれい」と書いたのはシェークスピアだが、まさにブタ鼻が可愛くなってしまう時代。
 そして時代が変われば物語も変わる。
 この作品が今までの物語の定石を踏まなかったのは、時代が変化したからなんですね。
 ものを作ろうとしている人は定石にこだわらず、自分の感性に従った方がいいかもしれません。


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ライアーゲーム 愛しの葛城リョウ様!

2009年12月23日 | その他ドラマ
★「秋山君、そろそろ本気を出して下さいよ」

 菊地凛子さん演じる葛城リョウのしゃべり方って萌えません?
 あの穏やかな独特のイントネーション。
 基本的に葛城のせりふの語尾は「です」か「でしょう」なのですが、この語尾で少し舌たらずなしゃべり方をする。
 最近の僕は「ライアーゲーム」のストーリーなどどうでもいいのです。
 菊地凛子さんの葛城リョウ様が登場してくれてさえいれば。

 そういえば今回のラストは笑う葛城のくちびるのアップでしたね。
 実に形がよくてセクシー。
 「ライアゲーム」はやたらクローズアップが多いけど、この監督さんは結構フェティッシュ。
 そしてこの作品は左脳でなく、聴覚や視覚つまり右脳で楽しめばいいのだろう。
 人物のせりふやアップだけでなく、音楽や効果音、セット、衣装、色彩設定などでも聴覚・視覚に訴えてくる。
 ある意味、すごい作品だ。

★テレビドラマでは健全で明るいキャラクターが多いですが、葛城の心の病み方も魅力ですね。
 人間など信用できない。人間は欲と金で動く。
 そう信じて揺るがない彼女の病み方。
 葛城の心の闇に惹かれファンになってしまうと、直(戸田恵梨香)の人の良さは「嘘だろう」「自己満足」と思いたくなるし、死んだ母親のことを引きずっている秋山(松田翔太)なども物足りなくなる。
 がんばれ、リョウ様!
 次回は葛城の過去が明らかにされるらしいが、すごい過去を見せてほしい。
 また彼女には窮地に落とされても決してうろたえて欲しくないし、改心して良心に目覚めるなんてことはやめて欲しい。
 今回ラストで登場したヨコヤは、シーズン1では秋山にしてやらてれてうろたえましたからね。
 葛城リョウ様はあくまで気高く、美しくあってほしい。
 「秋山君、そろそろ本気を出して下さいよ」
 このせりふを秋山に対して言い続けてほしい。 

 がんばれ、リョウ様!!
 僕はあくまで葛城グループです。


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24 シーズン7 ジャックってやつは!

2009年12月22日 | テレビドラマ(海外)
 ふたたび「24」シーズン7。
 しかし、ジャックというのはすごいですね。
 ターミネーター顔負けの戦闘能力!!
 第5話まで見た限りだが、どんなにすごいかと言うと……

 まずは首への攻撃。
 ジャックの首への攻撃は自由自在。
 まずトニーに対して。
 トニーに罵倒されたジャックは怒りでトニーの首を折ろうとする。
 後にジャックとトニーは手を組んでテロリストと戦うことになるが、その時にトニーに語ったせりふが「もう少しでお前の首の骨を折るところだった」。
 ジャックったら本当に殺すつもりだったのね……。
 次にFBI捜査官、ヒロインのルネ。
 彼女の首を絞めてルネを気絶させてしまった。
 その気絶させた時に言ったせりふが「体を委ねろ」。
 苦しめずに楽に落とすためには体を委ねる必要があるのだ。
 さすがジャック、心得ている。
 「24」リデンプションでは、こんな驚くべき離れ技をやっていた。 
 両手を縛られて吊り下げられているジャック。
 だが何とジャックは両足を敵の首に絡ませて、ひねって殺してしまう。
 本当にすごい!

 ジャックのすごさは続く。
 ひじで車の窓ガラスをぶち破るなんてことは当たり前。
 大使館に押し入った時は、なんと家庭用の洗剤などで何と<毒ガス>を作ってしまった!
 本当にジャックって……。

 もっともジャックはヒロイン・ルネにはやさしいようだ。
 先ほど首を絞めて落としたのに、今度はテロリストにルネを殺すように言われる。
 ここでルネを殺さなければ、潜入捜査をしていることがバレてしまう。
 そこでジャックが行ったのが……急所を外して死なないように銃を撃つ。
 さすがジャック。
 しかし、その後が乱暴。
 土に埋めろと命令されて、撃たれて気絶しているルネを生き埋めにしてしまう。
 結局クロエたちが掘り起こしに来て、ルネは助かるのだが、首を絞められたり、撃たれたり、生き埋めにされたり本当にかわいそう。

 ジャックに関わるとロクなことはないのだ。
 でも、われわれ「24」ファンは次にジャックが何をしでかしてくれるか楽しみにしているんですね。
 「エイリアンVSプレデター」みたいに「ジャックVSターミネーター」みたいな作品ができないだろうか。


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JIN -仁- 最終話 現在を生きる

2009年12月21日 | 大河ドラマ・時代劇
★消えた写真。
 おそらく未来(中谷美紀)は存在しなくなってしまったんでしょうね。
 つらい仁(大沢たかお)。
 しかし救いはある。
 未来は形を変えて、何らかの形で存在しているのだ。
 水が雪や氷、水蒸気などに形を変えるように。
 万華鏡の内部は同じなのに動かすと見えるものが変わるように。

 勝(小日向文世)も同じようなことを言っていた。
 「龍馬がいなくなっても、龍馬に代わる人間が出て来る」
 この言葉を仁に当てはめれば
 「未来がいなくなっても、未来に代わる人間が出て来る」
 仁が気づいたように、ベッドで眠る未来は仁にこう言いたかったのかもしれません。
 「わたしにこだわるのはやめて、目の前の風景を見つめなさい。目の前には咲さんや野風さんがいるのだから」

 人は過去に囚われて生きている。
 仁は現代での生活と恋人の未来。
 咲(綾瀬はるか)は武家の娘。橘家の娘。
 野風(中谷美紀)は吉原の花魁。
 だが人生にはそれらを捨てて前に進まなくてはならない時がある。
 仁はそれを<解放>と言いましたが、過去に縛られて目の前の風景が色褪せて見えてきた時には、勇気をもって過去の囚われを捨てる必要があるのかもしれませんね。
 仁と咲、野風はまさに過去を捨てた。
 仁は未来を捨てて江戸で生きることを決めた。
 咲は橘家を捨てて仁友堂で医術の道を歩むことを決めた。
 野風は花魁を捨てて手習いの師匠になることを決めた。
 そして前に進むと新しい景色が見えてくる。
 野風が吉原の大門を出た時に見上げた空が違って見えたのは、象徴的なこと。

★この作品のもうひとつのモチーフは、因果応報とも言うべき人と人の関係でしょうね。
 仁がいたから咲は橘家を捨て、野風は花魁を捨てた。
 逆に仁がいなかったら咲は橘家の娘として嫁ぎ、野風は花魁として身請け生活をしていた。
 われわれはあまり意識していませんが、人との出会いはその後の人生に影響を及ぼし、時には別の道を歩ませることになるんですね。
 そして人間の歴史も。
 いろいろな人間が出会い、影響を及ぼし合う中で人間の歴史が作られていく。
 どんなちっぽけな人生でもバタフライ効果のように後の人間の歴史に大きな影響を及ぼすかもしれない。
 たとえば自分の産んだ子の何代目かの子孫が人類にとって偉大なことをなすとか。
 たとえば自分の言った何気ないひと言が他人に勇気を与え、その他人が数十年後かに偉大なことをなすとか。
 だから龍馬が言うように<人は現在を自分に正直に、誠実に生きていけばいい>のでしょう。

 最後に。
 肝心の謎の部分は先送りですが、続編を楽しみにして待ちます。
 天の意思とも言えるものがあって、それが仁を江戸に呼んだとしたら、その意図は単に<未来からの解放>だけではなさそうですしね。


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