平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

今週、妻が浮気します 第7話

2007年02月28日 | ホームドラマ
 ベストセラー作家の水澤舞(山口紗弥加)とハジメ(ユースケ・サンタマリア)のエピソードはふたつの意味を持つ。
 ひとつは陶子(石田ゆり子)を愛しているハジメ。(舞の本名の田之上塔子であるが、ハジメは舞のことを決して名前で呼ばないというエピソードが象徴的)
 もうひとつは陶子の寂しさと不満。
 舞に振りまわされて七転八倒しているハジメだが、陶子はおいてけぼりになっている。離婚についての話も放っておかれている。
 これがラストの陶子の別れる理由に繋がる。
「わたしが欲しかったのはゴミ出しをしてくれる人じゃなく、愚痴や弱音を聞いてくれる人なの!」
 ハジメは仕事に追われ陶子と表面的な話しかできない。
 陶子の何気ない仕草から気持ちを配慮するところが欠けていた。
 それを説得力あるものにするために舞のエピソードが描かれた。

 作者の意図を感じなくもないが、エピソードにふたつの意味を持たせる。
 これによってドラマは豊かになり、面白くなる。

 さて今回、ラストのハジメの発言について。
 ハジメは陶子に浮気した理由(愚痴を聞いてくれる人が欲しかった)に「そんなことで浮気したのかよ」とリアクションする。
 ここには男と女の愛し方の根本的違いが見られるような気がする。
 男の愛し方は間接的だ。
 仕事をがんばって経済的に安定させ妻を幸せにする。
 仕事をがんばるというフィルターが入る。
 一方、女性の場合は直接的なものを求める。
 例えば子供を迎えに行くために会社を出るとダッシュして走る姿に気づいて声をかけてもらうみたいな。(陶子が春木に惹かれたのはそうしてくれたからだ)
 そんな直接的なことを求める。
 「花より男子」が受けているのは「俺には牧野しか考えられねえ。牧野は運命の女だ」と司が直接的な愛情表現をするからだと思うが、普通の男は恥ずかしくてそんなことは言えない。
 またハジメには陶子は「完璧な妻」だという思い込みもあり、妻に別の顔があること(弱さを持った女性であること)に思い至らない。
 こうして男と女はすれ違う。
 ある意味、この作品は中年の男性・女性のラブコメだ。
 「結婚できない男」もそうだったが、今後このジャンルの作品はもっと作られていくだろう。

 あとは玉子(ともさかりえ)と轟(沢村一樹)の関係も面白い。
 ハジメに想いを抱いている玉子。
 それを漠然と感じて尋ねる轟。
 はぐらかす玉子。
 ライトな男女の関係。
 至宝(西村雅彦)と妻とのヘヴィな関係と対照的でもある。
 またハジメと陶子の物語の息抜き的意味合いも。
 こういうアクセントとなるエピソードを加えると作品は豊かになる。


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カポーティ

2007年02月27日 | 洋画
 カポーティは自分しか愛せない人間だった。
 この作品はそんな彼の裏切りと罪を描く。

 カンザス州ホルカムでクラッター家の家族4人の殺人事件に興味を持ったカポーティ。
 スミスとヒコックという犯人があがり取材を始める。
 取材の表向きの理由は「彼らがモンスターでないことを証明するため」。
 これはカポーティ自身がその容貌としゃべり方から、人から忌み嫌われモンスター扱いされたコンプレックスから来ている。
 しかし、当初の動機は変わっていく。
 書いていくうちにそのスキャンダラスな内容が彼を魅了するのだ。
 彼は「モンスターでないことを証明するため」でなく「モンスター」を描きたくなる。
 それゆえカポーティが作品につけた名前は「冷血」。
 犯人のヒコックは作品のタイトルは決まったか?と何度も聞く。
 そのたびにカポーティは口を濁す。
 ヒコックはカポーティを信じ、友情を感じている。
 カポーティはヒコックを友人だとは思っていない。自分の作品の道具だと思っている。タイトルが「冷血」であることが知れれば、自分がそう思っていることがバレてしまう。
 ある時、ヒコックは新聞記事か何かで偶然タイトルが「冷血」であることを知ってしまうが、カポーティは問いつめられてこう嘘をつく。
「版元が勝手につけたタイトルで自分は決めていない」

 やがて執筆が進み、カポーティはヒコックらが早く死刑になってほしいと思うようになる。
 「冷血なモンスター」は死刑によって裁かれなくてはならないからだ。
 そうしないと自分の小説は完結しない。
 「冷血」は発表されれば、その後の文学の流れを変える作品だとカポーティは思っている。
 だから早く発表したい。
 友人ネルの作品(「アラバマ物語」)の映画が大ヒットしたことを祝うパーティでカポーティは酔って言う。
「彼らが私を苦しめる」
 彼らとはふたりの犯人のことだ。
 作品のためならすべてを犠牲にする作家のエゴ。
 作品によってあがる自分の名声のためなら、人を裏切れるエゴ。
 刑事からはカポーティこそが「冷血」ではないかと指摘する。

 そしてカポーティがやっと待ち望んだ死刑がやって来る。
 カポーティは最初は躊躇するが、ヒコックの強い要望もあり死刑の場におもむく。
 カポーティに面会したヒコックは最期の最期まで彼を信じていてくれる。
 ヒコックを裏切っていることに罪の意識を感じるカポーティ。
 そして死刑執行……。
 カポーティはその後作品を書くことが出来ず、アルコール中毒で死んでいったという。

 映画は様々なことを教えてくれる。
 罪の意識は人を苛み自滅させる。
 そして作品のためならすべてを犠牲にする作家の業。
 さらに拡大すれば、権力・名声のためなら信じている人も裏切る人間の業。

 それらを教えられて、僕たちは少しはマシに生きられる。
 自分の生き方を正せる。
 これが物語の力であろう。


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風林火山 第8回 「奇襲!海ノ口」

2007年02月26日 | 大河ドラマ・時代劇
 今回はキャラクターの立て方について

 八千の武田軍が囲む海ノ口城で山本勘助(内野聖陽)が策を出す。
「いくさをするにしてはいささかきれいすぎる様でござる」
「この先で敵が穴を掘っている」
 勘助の策が当たり、武田軍は攻め落とせない。

 これだけでも十分かっこよく、キャラとして立っているのだが、ドラマ作家はさらにこんなふうに演出する。
 信虎(仲代達矢)らに語らせるのだ。
「あの城には何者がいるのだ?」
 板垣信方(千葉真一)は武田晴信(市川亀治郎)にこう語る。
「あの城には軍師がいるようでござる」
 城主・平賀源心(菅田俊)の娘にも語らせる。
「勘助殿のおかげで城が救われました」
 敵・味方を含めた他人に評価させる。
 これでキャラが立ってくる。
 人は人の間にあって、評価されるのが喜びであるからだ。
 今までくすぶっていた勘助が評価されて、視聴者は心から感情移入できる。

 そして晴信。
 作家はここで晴信もキャラとして立てた。
 雪が来て退却することになった武田軍。
 晴信は殿(しんがり)を買って出る。
 敵の追撃はないと判断している信虎は見当外れのことを言い出した晴信を叱り、おとしめる。
 作劇上はここで晴信の他人の評価をマイナスにすることが大切だ。
 ここでマイナスにするからプラスに転じた時、晴信のキャラが立つ。
 果たして晴信は引き返し、300の兵で海ノ口城を落とした。

 これで勘助、晴信、両方が輝いた。
 視聴者はこのふたりが手を組んだら、どんなにすごくなるんだろうと期待する。
 これがこの話数の仕掛けだ。
 勘助も晴信が引き返してくることを読んで進言したが、これで勘助のすごさもさらに伝わる。
 
 この様に勘助、晴信をしっかり描いた今回。
 やはり主役がしっかり描かれると面白い。
 だが戦略物としては面白いが、感情面ではいささか物足りない。
 今回描かれた人物たちの感情は次の3点。
★自分の策が当たって目を輝かせる勘助の「喜び」
★父親に疎まれおとしめられた晴信の「悲しみ」
★城を落とされ母を失った平賀源心の娘の「悲しみ」
 もっとあざとく感情の起伏が描かれてもいい気がする。


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わるいやつら 第六章

2007年02月25日 | 推理・サスペンスドラマ
 第六章では殺人を犯した人間のリアクションが描かれる。

 殺人を犯した人間はどの様な行動を取るか?
★アリバイ工作をする。
 戸谷(上川隆也)はチセ(余貴美子)に豊美(米倉涼子)を殺したことをほのめかす。
「その先を言わせるな」「チセには関係のないことだ」
 自分の口から明言しないところが戸谷の頭の良さ。またうまいせりふだ。
★犯行現場に戻る。
 豊美のコーヒーカップや病院の二階の窓から豊美を見たという話を聞いて不安になる戸谷は犯行現場に行く。
★イメージを見る。
 これも犯行の不安ゆえ。
 戸谷の中には地面から出ている豊美の網タイツの足がちらついている。
★犯行の証拠を隠す。
 犯行時に豊美につけられた手の傷にバンドエイドを貼る。
 また、豊美が殺されたのではないかと言う婦長や若い医師の口止めをする。
 婦長には先代にお世話になったことを思い出させ、病院の名に傷がつくようなことは言うなと言う。若い医師には豊美に片想いだったことを告げ、言えば君が疑われると脅す。
 
 この様に戸谷のリアクションで描かれた第六章。
 こういう描写を丹念に描いてくれると嬉しい。
 犯罪を犯すというのは不安なもので割りに合わないものであることがわかる。
 不安や罪の意識にとらわれて、結局は人格破綻していく。
 また今回描かれたリアクションのいずれかが犯行のほころびとなって戸谷に返って来るだろう。
 犯人は放っておけば不安になり、何らかのリアクションを起こす。
 そのリアクションでミスを犯す。
 推理ドラマの王道だ。

 また今回、映像的にも面白かった。
 今回はほとんどが戸谷の視点で描かれた。
 上川さん出ずっぱりである。
 戸谷視点オンリーだと見ている者はすべて戸谷に感情移入できる。
 そしてラストが衝撃的になる。
 今回はラストだけが戸谷視点でなかった。
 駅のホームで走り去る戸谷を乗せた列車を見送る豊美とチセ。
 このふたりがなぜ?
 ここでは見る者は豊美とチセに感情移入することはない。
 衝撃と疑問だけが残る。
 そして映像づくりとしてはこれでいい。
 視聴者は想像を膨らませ、次回に期待するからである。

 さて次回からは復讐編。
 いよいよ面白くなって来た。


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花より男子2 第7・8話

2007年02月24日 | 学園・青春ドラマ
 第7話で総次郎(松田翔太) 、優紀(西原亜希) 、更(貫地谷しほり) の恋を見たつくし(井上真央) と 道明寺(松本潤)。
 人との関わりは「一期一会」。自分を偽ってはいけないと教えられる。
 つくしは「花沢類(小栗旬)の気持ちに応えられない」とはっきり言うと道明寺に宣言し、道明寺も滋 (加藤夏希)との関係に決着をつけると決心する。
 ドラマを動かすには、第3者や出来事(今回は総次郎たちのこと)、主人公たちが行う共同作業(優紀のために動く)が必要だという好例。
 作劇のテクニックとして覚えておきたい。

 そして第8話。
 まず、強い感情や本音は相手の本音も引き出す。
 冒頭の滋と道明寺のやりとりがそうだった。
 滋は自分の本音と自分の必死な想いをぶつける。
 服を脱いで道明寺の気持ちを動かそうとする。
 それでも道明寺がつくしへの気持ちを言おうとすると、耳を手でふさいで「聞かないよ~」と言う。
 反論もする。
「あなたは好きになる努力をすると言っていたけど、努力していない」
「謝らないでよ!今さら何を言っているのよ!謝れば何をしてもいいわけ?」

 そんな形で滋に強い感情・本音をぶつけられたから、道明寺も本音が出る。
「牧野を諦めようと思ったけどダメだった」
「運命の相手は牧野だと思っている。俺の中で牧野は最高だ」
「俺を気の済むまで殴れ」

 本音と真剣のぶつかり合い。これがドラマだ。
「花より男子2」はいきなりこんなハイテンションから始まる。それがこの作品が人気を得ている理由だろう。

 そして次なる展開は各キャラのリアクション。
 ドラマはリアクションで動いていく。
 まず、つくし。
 道明寺と滋がベッドに横たわっていたのを見て心穏やかではない。
 ベッドの上でジャンプしてボクシング。つくしらしいリアクションだ。
 しかし以前のようにそのことで深刻に悩まない。「ビミョーに怒っている」(道明寺語録)だけだ。
 道明寺のことは信じているし、自分は何があっても道明寺への気持ちは揺るがないと思っているからだ。
 類には「道明寺といっしょにいると一番自分らしくいられる」と言い、「苦しくても道明寺のおまえしかいないという言葉を信じる」と言う。
 この辺も見事。
 主人公の心は少しずつ変わっていかなくてはならない。今までと同じ所をぐるぐるまわっていたら視聴者はわくわくしない。

 そしてリアクションはまだ続く。
 道明寺は類の所に行って土下座をする。
 類は道明寺の真剣を知り、「自分は本当に好きになった人とは幸せになれない」と言って、最後には祝福をする。
 胸を叩いて指差しあって「男と男の魂の会話」(道明寺語録)をする。
 滋もリアクションする。
 つくしの所に行って「あれから道明寺とエッチした。結婚も考え直してくれた」と嘘を言う。
 道明寺と類とは違った展開だ。
 不安要素を残す。
 ドラマ作家はさらにラストの大きな山を作り出すために、ここは不安要素である谷を用意した。
 道明寺家と大河原家の会食だ。
 ここで作家はこの会食の不安要素を語らせる。
 まずは類や総次郎たち。
「司は丸め込まれるよ」「いや司の決心はかたいよ」「でも破談になったら日本の経済はどうなるんだ?」「多くの人が路頭に迷う」
 そして滋。
 けじめをつけに来たという道明寺に「流れに流れて結婚することになるかもよ」「とっておきの作戦があるのよ」
 つくしは道明寺に電話する。それに対して道明寺は「弱気になってんじゃねえよ。俺様を励ますとか出来ねえのかよ」と言うが。
 ともかく不安要素をどんどん煽っていく。

 そして会食。
 滋の思わぬ発言が出て問題はクリア。
「この結婚チャラにしてほしい。自分の相手はやっぱり自分で見つけたい」
「わたしのわがままでチャラにした話だから、合併話は進めてほしい」
 滋、かっこよすぎる!!
 おまけに道明寺にはこんな発言。
「もしかして、わたしを選べばよかったと思ってる?」
「悪あがきしてかっこ悪かった」
「ちょっとの間だけどつき合ってくれてありがとう」
「最後のわがまま。わたしの分までつくしを幸せにしてあげてね」

 つくしと司の強い想いが滋を動かしたのだろう。
 それにしても偉い!
 僕はもともと滋ファンだったけど、ますます惚れ直しましたぞ!!

 さて滋・類の四角関係がクリアになって残るは楓 (加賀まりこ) との対決。
 秘書の 西田 (デビット伊東)、若い者の恋に介入するのは無粋だと言った使用人頭のタマ(佐々木すみ江) が味方となったが、今後どの様な展開になるのか?


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アイデンティティー

2007年02月23日 | 洋画
 物語はこう。

「激しい豪雨が降り続く夜、人里離れた一軒のモーテル。管理人ラリーがくつろいでいるところへ、ひとりの男が飛び込んでくる。彼、ジョージは息子ティミーを伴い、交通事故で大ケガをした妻アリスを運び込む。救助を要請しようとするが電話は不通だった。アリスをはねたのは女優キャロラインの運転手で元警官のエド。彼は病院へ向け車を走らせるが、途中で立ち往生し、やむなくモーテルへ引き返すことに…。ある時、ある一室で、既に死刑判決の下った事件について再審理が行われようとしている。ポイントとなっているのは、その事件の連続殺人犯である囚人が書いた日記だった」(Yahoo映画より)

 連続殺人ものの動機もネタもここまで来たかという感じだ。
 以下、ネタバレです。

 まず舞台となったモーテルの惨劇。
 これはマルコムという多重人格者(解離性同一障害者)の頭の中の出来事だった。
 彼はおそらく医学者に催眠療法をかけられたのだろう。
 催眠療法の中で彼の11の人格が一同に介する夢を見させられた。
 目的は11の人格の中に潜む「殺人者の人格」を探し当て抹殺すること。
 「殺人者の人格」を抹殺できれば、マルコムは以後、殺人を犯さないだろうというわけだ。
 そして人格のひとつである元刑事のエドは殺人者の人格を追う。

 発想としては面白いが、見ている方は肩すかしを喰った感じを受ける。
 いわゆる夢オチだからだ。
 殺人者の人格を抹殺するという目的を持った夢ではあるが、「今まで描いてきたことは夢でした」ではイマイチ納得が出来ない。見ている方は、死体がどうして消えてなくなったか?など事件の理由を知りたくて見ているのだから。
 出来れば現実の中に刑事エドを登場させて、自分の中の様々な人格や悪と対峙、葛藤させてほしかった。

 物語自体の大きな流れはこんな感じだが、ディティルはいい。
 洗濯乾燥機の中で回転している切り取られたキャロラインの首。→単純に怖い。
 冷凍庫に何かを隠しているらしいモーテルの管理人ラリー。→今まで普通の人間に見えていた人物が闇の側面を見せる。
 逃走したつもりが道に迷い、結局元のモーテルに戻ってしまった囚人メイン。→設定された夢の中の出来事だったことを物語る伏線。
 10・9・8・7……モーテルの部屋番号順に殺されていく人物たち。→連続殺人事件にはこういった演出が必要。
 アメリカの地名を模した人物たちの名前と同じ誕生日。→多重人格を物語る伏線。
 実は他にいた「殺人者の人格」→ラストのどんでん返しはお決まりだが。
 
 最後にヒッチコックの「サイコ」から始まった人間の心の闇をモチーフにした作品は今後も作られていくだろう。
 何しろドラマは人間の心を描くものであるし、作家はありきたりの人間像でなく、心の闇からとらえ直した人間像を描かなくてはならないと思うからだ。


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暗いところで待ち合わせ

2007年02月22日 | 邦画
 視力を失ったミチル(田中麗奈)の家に逃げ込んだ殺人の容疑者アキヒロ(チェン・ボーリン)。
 そこで生まれる心の交流。
 乙一原作のこの作品、原作は読んでいないが映像ならではの文体がいたるところに見られて興味深い。

 まずはミチルの日常。
 その起きて家の中で生活する姿が短いカットで描かれる。
 ひとりで食事を取り、ひとりで掃除をして、ひとりでテレビを聞く、ひとりでピアノを弾く、そして「お休みなさい」と言って電気を消して2階に上がる。そして時々、亡くなった父親(岸辺一徳)からもらった時刻を告げるペンダントで時間を確認する。それは寝る時の「お休みなさい」と共にミチルが唯一行うコミュニケーションだ。こうすることで父親とのコミュニケーションを図っているのかもしれない。
 そんな単調で孤独なミチルの生活。とても静か。
 淡々とつづる短いカットがその孤独と単調さを見事に表現している。
 見ている者にはとても孤独で耐えられない感情を呼び起こす。

 だが、一方でミチルはそんな生活に満足している。目が見えないミチルは人生で多くを望んでいないからだ。
 そのスクリーンを通して見ている者とのギャップがなお作品世界に惹きつける。
 面白い手法だ。

 その他の映像手法ではこんな描写もある。
 以下、ネタバレです。
 アキヒロが恨みを持つ松永(佐藤浩市)を走ってくる電車に突き落とそうとするシーンだ。
 アキヒロは実際には落としていないで真犯人は別にいるのだが、当初、映像ではその先の映像を流さない。
 アキヒロの行動理由が明らかになるにつれ描かれていく。
 犯人はホームの緊急避難所に隠れていてホームに這い上がってくる。そしてアキヒロより前に松永を突き落とす。
 映像は人間の記憶というものを描くのに適している。
 映像作家は記憶の断片ということで、その前後を自由にカット出来るからだ。観客に見せたくないものを見せずに済むからだ。
 この作品はそんな映像の特性を効果的に使っている。 

 その他にはこんな映像手法がある。
 窓辺で外を眺めるミチルの映像だ。
 見ている者には何でもない日常のワンカットだが、実は後で重大な意味を持ってくる。
 ミチルの窓の外が犯行現場で、犯人は犯行を見られたと思うのだ。
 そしてミチルにアプローチしてくる犯人。
 何気ないカットが後で意味を持ってくるというのも映像ならではの面白さ。小説でも同様の手法は可能だとは思うが、やはり1カットで見せてしまう視覚にはかなわない。

 最後にこれは原作のアイデアだと思うが、こんな場所の使い方が気が利いている。
 ミチルの共同生活を送る中、アキヒロがいつも座っている場所がある。
 それは居間の窓辺。
 居間にあるこたつはミチルが生活の大半を過ごす場所だから、そこにいることを知られたくないアキヒロにとって非常に危険な場所だと思うのだが、彼はいつもそこに座っている。
 理由はそこで犯行現場にやって来るかもしれない犯人を見張っているから。
 これも何気ない動作が後に意味を持ってくるという手法のひとつ。
 こんな小道具の使い方もあった。
 イタリアンレストランで撮った写真。
 ミチルの友人がカメラのフィルムを使い切りたくて偶然撮った写真だが、これが犯人の居場所を知る手掛かりになる。
 これも何気ない小道具が後に意味を持ってくる例である。

 この様にこの作品は様々なアイデアに溢れていて見ていて飽きない。
 盲目の田中麗奈の演技も差別され孤独なチェン・ボーリンも見事で、作品として実に見応えがある。


★追記
 この作品は、ミチルの視線で描くミチル編、アキヒロの視点で描くアキヒロ編、ふたりの視点が混在するミチルとアキヒロ編の3部で構成されている。


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東京タワー 第6回・7回

2007年02月21日 | ホームドラマ
 東京タワー 第6回・7回は東京で中川雅也(速水もこみち)といっしょに住むことになったオカン栄子(倍賞美津子)の話。

 雅也のリアクションと佐々木まなみ(香椎由宇)ら雅也の取り巻く人々のリアクションが描かれる。
 雅也のリアクションは相変わらずだ。
「東京に来い」と格好いいことを言いながら後悔している。
 仕事がキャンセルされたこともあり、みんなに食事を大盤振る舞いする栄子を怒る。
 みんながいつも栄子のまわりにいるので面白くない。特にまなみとはふたりきりで過ごしたい。
 雅也は栄子があまりにも近すぎる存在なので、その有り難さやその裏に隠された気持ちに気がついていない。
 親の心、子知らず。
 親の愛情や有り難さ、おもてには出さないつらさや寂しさを子供は理解しない。
 それはどの家庭での親と子にも当てはまることで当たり前の日常だが、それを真正面から描いた作品はこの作品ぐらいだろう。

 一方、雅也を取り巻く人々のリアクション。
 雅也と栄子の関係が羨ましく見える。
 まなみは旅館を営む母親に自分の写真の載った雑誌を送るが見てもらえない。旅館の経営が苦しいからだ。一方、栄子は雅也の作品をスクラップし大喜びしている。まなみの撮った写真も目を輝かせて見てくれる。
 鳴沢一(平岡祐太)は病気で倒れ、おかゆを食べさせてもらった。
 徳本寛人(高岡蒼甫)は母親を殴り勘当同然で家を出て来て、10年間母親に会っていなかったが、栄子に触れて母親の有り難さを思い出す。
 栄子に「子供の会いたくない親なんかいない」と言われ、勤続10年のボーナスを持って母のもとに行ってみる。
 結局、会う勇気がなくボーナスを置いてくるだけだったが、後に手紙が来る。
「何をしていたって、あなたは私の息子です。気軽に帰っていらっしゃい」
 雅也と栄子の親子関係がまわりの人に影響を及ぼす。
 まわりの人のリアクションとエピソードを描きながら、逆に雅也と栄子の親子を描いていく。
 第6回・7回はそんな作劇だ。
 主人公どうしがぶつかり合ったり、心を通わせることだけがドラマではない。
 脇役のリアクションで描くことでもドラマが作れるといういい見本だ。

 なお、雅也と栄子の親子関係をせりふで的確に表現しているのはまなみだ。
 雅也がいつまでも自由である理由についてまなみは言う。
「中川くんが自由なのは、いつでもすべてを受けとめてくれる人がいるから」
 またこんなことも。
「中川くんとお母さんを見ているとわかっちゃうんだよね。自分たちがどんなに寂しいか」
 いずれもいいせりふだ。
 ドラマには結論を言う役が必要である。状況のまとめ役が必要である。
 第三者の立場にあって、状況を客観的に表現してくれる存在が。
 その役割を持った人物が的確なせりふを言うと、ドラマは引き締まる。
 テーマがはっきりしてくる。
 第6回・7回の場合はまなみだった。

 さて、この第6回・7回は雅也と栄子にとっては幸せな時間。
 次回以降は栄子の癌が悪化して悲劇になりそうだ。
 これも作劇に関することだが、今回のような幸せな話があるから後の悲しい出来事がより悲しくなる。
 この作品の作者は巧みに視聴者の心を揺さぶってくる。


★追記
 雅也がまなみを連れてきて紹介するシーンがよかった。
 息子は照れくさいし、彼女は不安。
 母親はドキドキ。そして彼女を連れてくるまでに成長した息子、幸せな息子が嬉しい。
 これもどこにでもある光景。
 実際、僕もこのドラマのように、彼女のお兄さんからだったが「こいつのどこがいいの?」と聞かれたことがあった。

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処女の泉

2007年02月20日 | 洋画
 イングマール・ベルイマンの「処女の泉」。

 物語はシンプル、しかし奥が深い。
 教会にロウソクを捧げに行くカーリンは森の中で暴漢3人(ひとりは少年)に襲われる。
 純潔を奪われ、挙げ句の果てに殺されてしまうカーリン。
 そんなカーリンを黙ってみている使用人のインゲリ。
 彼女は自分が見知らぬ男の子供をはらんでお腹を大きくしていることを軽蔑され、カーリンを恨んでいたのだ。彼女は彼女の信仰する邪教オーディーン神に「カーリンに不幸が訪れる」ように祈っていた。
 そして舞台はカーリンの父親のもとに。
 カーリンを襲った暴漢たちは一夜の宿を父親に乞う。
 父親は信仰の厚い人物で、彼らに食事を与え、自分の所で働かないかとさえ言う。
 しかし遺体から奪ったカーリンの服を売ろうとしたことから犯行が発覚。
 父親は転じて彼らに復讐を行い、殺してしまう。
 そして翌日、カーリンの遺体を引き上げに行く父親と家族。
 娘の遺体を目の当たりにして父親は叫ぶ。
「神よ! なぜ罪なき子の死と私の復讐を黙って見つめていたのです?」
 しかし神は黙して語らない。
 父親はなおも言う。
「私は人を殺した罪を償うためにここに教会を建てます」
 すると次の瞬間奇跡が。
 カーリンの遺体のあった場所から泉が流れ始めたのだ。

 この作品は信仰と神の沈黙をテーマにした作品だが、テーマよりもそこで描かれた人間像の方が興味深い。
 まずはカーリンの無邪気な残酷。
 カーリンは恋や可愛い服に憧れる普通の少女なのだが、子供をはらんでお腹の大きいインゲリに言う。
「わたしはそんなふうにはならないわよ。わたしは結婚するまで純潔を守り通すの」
 カーリンにしてみれば無邪気に自分の想いを言った言葉だが、インゲリにはつらい言葉だ。純粋は無知で時に残酷。カーリンにはその言葉の残酷さがわからない。
 この様にカーリンを単なる不幸な被害者として描かなかったことが見事だ。
 そして復讐を行う父親。
 彼は娘の死を知り復讐を行うまで実に静かだ。
 丘の木を倒し、風呂を沸かし沐浴する(木の枝で自分の体を叩く)。
 眠っている暴漢たちのいる部屋に入り、彼らが目を覚ますのを静かに待っている。(殺害に使うナイフをテーブルに刺すシーンが印象的だ)
 普通、復讐のシーンと言うと炎の様に激しいものを思い浮かべるが、ここを静かな沈黙で描いたことは見事だ。眠っている暴漢たちを静かに見つめる父親の目が逆に怖い。

 この様に「処女の泉」は見事な映像ドラマを見せてくれた。
 カーリンの遺体から泉が湧き出たシーンは確かに神聖なものを感じるが、テーマを語るために取ってつけた様な感じも受けてしまう。


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華麗なる一族 第6話

2007年02月19日 | その他ドラマ
 万俵大介(北大路欣也)は大同銀行をのみ込むためにこう行動を起こす。

 三雲(柳葉敏郎)ら大蔵省の天下り派と生え抜き派が対立している大同銀行。
 これを利用する。
 三雲らを追い出して生え抜き派を取り込むのだ。
 三雲を追い出す方法は、鉄平(木村拓哉)の阪神特殊製鋼を潰すこと。
 潰せば20億を融資した三雲は責任を取らされる。
 そして三雲がいなくなったと同時に生え抜き派を取り込む。
 取り込むにあたっては大蔵省の反発が出るであろうから、閨閥結婚で佐橋首相を味方にする。
 おそるべきシナリオだ。
 その他にもいったん阪神特殊製鋼に融資金20億を内密に返還させるという措置もとった。

 一方、鉄平はこう闘う。
 父・大介のシナリオなど知らない鉄平は帝国製鉄らライバル会社が自分たちを潰そうとしていると考える。
 6月の銑鉄供給の停止。銑鉄が供給されなければ会社は潰れる。
 そのため9月完成で着工している高炉を突貫工事で6月に完成させようとする。
 人員集めを行う鉄平。

 ビジネスものとして十分に面白いのだが、ここに父と子のドラマが入るからさらに面白くなる。
 自分の息子が情熱を傾ける会社をも潰そうとする父・大介の非情さ。
 父と子なのにというドラマ。
 父の非情さの裏には阪神銀行を守るためだけでないこともドラマに深みを与えている。
 自分の父、鉄平の祖父への憎しみにも似た思い。
 どうやら大介は自分の父に妻・寧子(原田美枝子)を寝取られた様だ。
 この悔しさ、憎しみが大介の原動力になっている。相子(鈴木京香)への思いになっている。

 ドラマは人の心が深く描かれていればいるほど面白くなる。
 この作品はその見本だ。
 例えば、これが父と子の確執のない「阪神銀行」と「阪神特殊製鋼」のビジネスドラマだったらこれほどの深みはないだろう。
 例えば、父親の行動理由が「阪神銀行を金融再編から守るため」だけだったら、これほどの深みはないだろう。

 さて今回はそんな父と子の対立に銀平(山本耕史)の立場を入れ込んだ。
 ドラマにはこうした第三者的立場の人間がいるとわかりやすくなる。
 銀平の今までの立ち位置はこうだ。
『非情な父についていけず、万俵の血を憎んでいるが(彼は妻に子をおろせという)、同時に父にはかなわないと思っている。
 そんな自分にはかなわないと思っている父に立ち向かう兄・鉄平をすごいと思っている』

 しかし銀平は今回父に歯向かう。
「兄さんは勝ちますよ。父さんは企業を育てるという銀行家の信念を捨ててしまった。理想と信念を持った人間(鉄平)が策謀だけの人間に勝てないわけがない」

 ここで新しいドラマのテーマが浮き上がってきた。
「理想と信念が策謀に勝つ」
 作者はこのことをこの作品で言いたかったのだろう。
 それはこんなせりふにも。 

「理想や信念が人を動かすんです」
 鉄平は理想と信念で人を動かしてきた。
 今回、人を連れてきた沖仲士がそうだ。
 一方、大介は罪をなすりつけ一時的に左遷させるなど策謀で人を動かしてきた。
 策謀で左遷させられた人間はいったんは従うだろうが、いつ反旗を翻されるかわからない。
 一方、鉄平の場合はかたい信頼で結ばれた関係だ。

 ドラマのテーマ・各人物の心の中が明らかになり、「華麗なる一族」はいよいよ面白くなってきた。
 「風林火山」もいずれはこうなるのだろうか?

コメント
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