三郎(工藤阿須加)の死。
八重(綾瀬はるか)にもらった南天の刺繍を握り締め、力をもらって必死に戦う。
そして戦死。
結局、下々の者は上の者の<権力争い>や<愚かさ>のために犠牲になっていく。
三郎の死がどのようにドラマティックに描かれても、この事実は変わらない。
薩摩・長州、幕府・会津のどちらが正しかろうが、下の者は上の人間の捨て駒でしかない。
ちなみに、これは現代の視点で書いています。
神保修理(斎藤工)の切腹。
これも現代から見ると理不尽だ。
だが、この理不尽さを「有り難く承りまする」と言って死ぬことが<武士の誉れ>となってしまう所が封建時代。
容保(綾野剛)もね、どんなにきれい事を言っても、会津をさらなる戦禍に巻き込んだし、彼自身は明治まで生き、七十七歳の天寿を全うした。
結局、下の者は上の人間の捨て駒でしかない。
上の人間はきれいな言葉を並べて下の人間をダマし、犠牲にする。
ちなみにこれは今回のドラマの趣旨から離れた私個人の意見として書いています。
こんなせりふも飛び交った。
「肝を据えろ! にしは会津の男だべ!」
「先に死んだ者の命はどうでもいいと言うのか!?」
「にしは腰抜けか! ならぬものはならぬ!」
戦争映画でも出て来るせりふ。
日本人の精神構造と言ってしまえばそれまでだが、相変わらすの精神論。
「ならぬものはならぬ」という精神も第一話では美徳として描かれていたが、今回はマイナスに働いた。
物事に合理的に対処しようとする尚之助(長谷川博己)の姿勢の方が正しい。
この世は愚かさで溢れている。
八重も、この状態になっても
「私もお父様の言う事が正しいと思いやす。何年も都をお守りしてきた会津が朝敵のはずはねえ! 敗れたままでは殿がお城から逃げたままでは会津の誇りは……」
と他の会津の人間と同じ言葉しか言えないのはどうなんだろう?
リアリズムとしては正しいのだろうが、主人公としては物足りない。
主人公は自分の言葉を持ってこそ、主人公になる。
もう一度繰り返しますが、この世は愚かさで溢れている。
人は世の中の愚かさに翻弄され、生きて死んでいく。ただ、それだけ……。
これからもこういう愚かさ・理不尽さを会津の人は体験していくんでしょうね。
会津に光はあるのか?
八重(綾瀬はるか)にもらった南天の刺繍を握り締め、力をもらって必死に戦う。
そして戦死。
結局、下々の者は上の者の<権力争い>や<愚かさ>のために犠牲になっていく。
三郎の死がどのようにドラマティックに描かれても、この事実は変わらない。
薩摩・長州、幕府・会津のどちらが正しかろうが、下の者は上の人間の捨て駒でしかない。
ちなみに、これは現代の視点で書いています。
神保修理(斎藤工)の切腹。
これも現代から見ると理不尽だ。
だが、この理不尽さを「有り難く承りまする」と言って死ぬことが<武士の誉れ>となってしまう所が封建時代。
容保(綾野剛)もね、どんなにきれい事を言っても、会津をさらなる戦禍に巻き込んだし、彼自身は明治まで生き、七十七歳の天寿を全うした。
結局、下の者は上の人間の捨て駒でしかない。
上の人間はきれいな言葉を並べて下の人間をダマし、犠牲にする。
ちなみにこれは今回のドラマの趣旨から離れた私個人の意見として書いています。
こんなせりふも飛び交った。
「肝を据えろ! にしは会津の男だべ!」
「先に死んだ者の命はどうでもいいと言うのか!?」
「にしは腰抜けか! ならぬものはならぬ!」
戦争映画でも出て来るせりふ。
日本人の精神構造と言ってしまえばそれまでだが、相変わらすの精神論。
「ならぬものはならぬ」という精神も第一話では美徳として描かれていたが、今回はマイナスに働いた。
物事に合理的に対処しようとする尚之助(長谷川博己)の姿勢の方が正しい。
この世は愚かさで溢れている。
八重も、この状態になっても
「私もお父様の言う事が正しいと思いやす。何年も都をお守りしてきた会津が朝敵のはずはねえ! 敗れたままでは殿がお城から逃げたままでは会津の誇りは……」
と他の会津の人間と同じ言葉しか言えないのはどうなんだろう?
リアリズムとしては正しいのだろうが、主人公としては物足りない。
主人公は自分の言葉を持ってこそ、主人公になる。
もう一度繰り返しますが、この世は愚かさで溢れている。
人は世の中の愚かさに翻弄され、生きて死んでいく。ただ、それだけ……。
これからもこういう愚かさ・理不尽さを会津の人は体験していくんでしょうね。
会津に光はあるのか?