江戸版シャーロック・ホームズとして書かれた「半七捕物帳」。
明治の代、作者であるわたしが老人の半七に事件の話を聞くという形で進行する。
「その茶話のあいだに、わたしはカレの昔語りを色々聴いた。一冊の手帳は殆ど彼の探偵物語でうずめられてしまった。その中から私が最も興味を感じたものをだんだんに拾い出して行こうと思う、時代の前後を問わずに」
まさにホームズとワトソンという関係だ。
面白い仕掛けだ。
さて、「半七捕物帳」の第1話「お文の魂」。
お道という小幡家に嫁いだ女が、全身ずぶ濡れの「おふみ」という幽霊を見ることから始まる。幽霊を見たというのは彼女の幼い娘・お春も同じだ。
お道は幽霊が毎晩枕元に現れるため、実家に帰りたいと言い出す。
物語はその幽霊おふみの正体を探り出すことで展開される。
まず調べるのはお道の夫。
使用人に幽霊を見たかと聞いてまわり、幽霊がずぶ濡れだったということで庭の池を浚ってみる。
しかし「詮議はすべて不得要領に終わり」「詮議の蔓」は切れてしまう。
次に調べるのは作者であるわたしの知り合いのKおじさん。
Kおじさんはとある旗本の次男。
当時、武家の次男・三男というのは次の様な存在であった。
「江戸の侍の次男三男などと云うものは、概して無役の閑人であった。長男は無論その家を継ぐべく生まれたのであるが、次男三男に生まれたものは、自分に特殊の才能があって新規御召し出しの特典を受けるか、あるいは他家の養子にゆくか、この二つの場合を除いては、殆ど世に出る見込みがないのであった」
「こういう余儀ない事情は彼らを駆って放縦懶惰の高等遊民たらしめるより他はなかった。かれらの多くのは道楽者であった。退屈凌ぎに何か事あれかしと待ち構えている徒であった」
放縦懶惰の高等遊民、何か事あれかしと待ち構えている徒、現在の作家では書けない表現だ。
そして、そのKおじさんも幽霊のことを調べていくが、結局は何も見つからない。
「おじさんもそろそろ飽きて来た。面白ずくで飛んだことを引き受けたという後悔の念も萌(きざ)してきた」
そしていよいよ半七の登場だ。
この三番目に出て来る所がミソ。半七がキャラクターとして立つ。
半七はこんな形で登場する。
「笑いながら店先へ腰を掛けたのは四十二三の痩せぎすの男で、縞の着物に縞の羽織を着て、誰の目にも生地の堅気と見える町人風であった。色のあさ黒い、鼻の高い、芸人か何ぞのように表情に富んだ目を持っているのが、彼の細長い顔の著しい特徴であった。かれは神田の半七という岡っ引きで、その妹は神田の明神下で常磐津の師匠をしていた」
そして今まで解けなかった幽霊の正体を、「濡れた姿であること」「お道の嫁いだ小幡家の菩提寺」を聴いただけで推測してしまう。
まさにホームズだ。
彼はまず貸本屋に行き、菩提寺の和尚を訪ねる。
そして事件の全貌を明らかにする。
事件の全貌を推測し、実地で確認するというのがホームズの手法だが、それがこの半七にも採り入れられている。ホームズも半七もその点スーパーマンだ。彼らには常人の見えないものを見る洞察力・想像力を持っている。
以前、横溝正史「人形佐七捕物帳」の所で書いたが、人形佐七は作者の「耽美趣味」「海外推理小説趣味」と江戸が組み合わされて書かれた。
この半七も同様。
「ホームズ」+「江戸」だ。
正確に言うと横溝正史が「半七」の岡本綺堂のこの創作手法を真似て「佐七」を作り出したのだが、違う異質なものを掛け合わせて、まったく別のもの(この場合は「捕物帳」というジャンル)を作り出してしまうところが面白い。
★追記
それにしても作家の筆力というのは素晴らしい。
例えば、お道の幽霊話のことで小幡家に相談に行くお道の兄・松村彦太郎の葛藤をこう描いている。
「小幡の屋敷へゆく途中でも松村は色々に考えた。妹はいわゆる女子供のたぐいで固(もと)より論にも及ばぬが、自分は男一匹、しかも大小をたばさむ身の上である。武士と武士の掛け合いに、真顔になって幽霊の講釈でもあるまい。松村彦太郎、好い年をして馬鹿な奴だと、相手に腹を見られるのも残念である。なんとか巧(うま)い掛け合いの法はあるまいかと工夫を凝らしたが、問題があまり単純であるだけに、横からも縦からも話の持って行きようがなかった」
実によく描き込まれている。
明治の代、作者であるわたしが老人の半七に事件の話を聞くという形で進行する。
「その茶話のあいだに、わたしはカレの昔語りを色々聴いた。一冊の手帳は殆ど彼の探偵物語でうずめられてしまった。その中から私が最も興味を感じたものをだんだんに拾い出して行こうと思う、時代の前後を問わずに」
まさにホームズとワトソンという関係だ。
面白い仕掛けだ。
さて、「半七捕物帳」の第1話「お文の魂」。
お道という小幡家に嫁いだ女が、全身ずぶ濡れの「おふみ」という幽霊を見ることから始まる。幽霊を見たというのは彼女の幼い娘・お春も同じだ。
お道は幽霊が毎晩枕元に現れるため、実家に帰りたいと言い出す。
物語はその幽霊おふみの正体を探り出すことで展開される。
まず調べるのはお道の夫。
使用人に幽霊を見たかと聞いてまわり、幽霊がずぶ濡れだったということで庭の池を浚ってみる。
しかし「詮議はすべて不得要領に終わり」「詮議の蔓」は切れてしまう。
次に調べるのは作者であるわたしの知り合いのKおじさん。
Kおじさんはとある旗本の次男。
当時、武家の次男・三男というのは次の様な存在であった。
「江戸の侍の次男三男などと云うものは、概して無役の閑人であった。長男は無論その家を継ぐべく生まれたのであるが、次男三男に生まれたものは、自分に特殊の才能があって新規御召し出しの特典を受けるか、あるいは他家の養子にゆくか、この二つの場合を除いては、殆ど世に出る見込みがないのであった」
「こういう余儀ない事情は彼らを駆って放縦懶惰の高等遊民たらしめるより他はなかった。かれらの多くのは道楽者であった。退屈凌ぎに何か事あれかしと待ち構えている徒であった」
放縦懶惰の高等遊民、何か事あれかしと待ち構えている徒、現在の作家では書けない表現だ。
そして、そのKおじさんも幽霊のことを調べていくが、結局は何も見つからない。
「おじさんもそろそろ飽きて来た。面白ずくで飛んだことを引き受けたという後悔の念も萌(きざ)してきた」
そしていよいよ半七の登場だ。
この三番目に出て来る所がミソ。半七がキャラクターとして立つ。
半七はこんな形で登場する。
「笑いながら店先へ腰を掛けたのは四十二三の痩せぎすの男で、縞の着物に縞の羽織を着て、誰の目にも生地の堅気と見える町人風であった。色のあさ黒い、鼻の高い、芸人か何ぞのように表情に富んだ目を持っているのが、彼の細長い顔の著しい特徴であった。かれは神田の半七という岡っ引きで、その妹は神田の明神下で常磐津の師匠をしていた」
そして今まで解けなかった幽霊の正体を、「濡れた姿であること」「お道の嫁いだ小幡家の菩提寺」を聴いただけで推測してしまう。
まさにホームズだ。
彼はまず貸本屋に行き、菩提寺の和尚を訪ねる。
そして事件の全貌を明らかにする。
事件の全貌を推測し、実地で確認するというのがホームズの手法だが、それがこの半七にも採り入れられている。ホームズも半七もその点スーパーマンだ。彼らには常人の見えないものを見る洞察力・想像力を持っている。
以前、横溝正史「人形佐七捕物帳」の所で書いたが、人形佐七は作者の「耽美趣味」「海外推理小説趣味」と江戸が組み合わされて書かれた。
この半七も同様。
「ホームズ」+「江戸」だ。
正確に言うと横溝正史が「半七」の岡本綺堂のこの創作手法を真似て「佐七」を作り出したのだが、違う異質なものを掛け合わせて、まったく別のもの(この場合は「捕物帳」というジャンル)を作り出してしまうところが面白い。
★追記
それにしても作家の筆力というのは素晴らしい。
例えば、お道の幽霊話のことで小幡家に相談に行くお道の兄・松村彦太郎の葛藤をこう描いている。
「小幡の屋敷へゆく途中でも松村は色々に考えた。妹はいわゆる女子供のたぐいで固(もと)より論にも及ばぬが、自分は男一匹、しかも大小をたばさむ身の上である。武士と武士の掛け合いに、真顔になって幽霊の講釈でもあるまい。松村彦太郎、好い年をして馬鹿な奴だと、相手に腹を見られるのも残念である。なんとか巧(うま)い掛け合いの法はあるまいかと工夫を凝らしたが、問題があまり単純であるだけに、横からも縦からも話の持って行きようがなかった」
実によく描き込まれている。