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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

クリスマスだからアンデルセンの『マッチ売りの少女』を読んでみたら、すごい作品だった!

2023年12月24日 | 短編小説
 クリスマスイブ。
 機会があって『マッチ売りの少女』を読んだのだが、すごい作品だった。

 マッチが売れなくて寒さに凍える少女はマッチを擦る。
 その時に見えたのは──炎が真っ赤に燃える真鍮のストーブ。
 これで少女の体は温まる。

 でもマッチはすぐに消えてしまい、少女は2本目のマッチを擦る。
 すると見えたのは──
 光でいっぱいの部屋が見えた。
 部屋には白いテーブルクロスのかかったテーブルがあって、
 豪華な食器の上には大きなガチョウの丸焼きが乗っていた。
 そして素敵なことが起こった。
 ガチョウが背中にナイフとフォークを刺したままヒョコヒョコと歩いて来たのだ。
 少女は思わず笑ってしまった。


 少女は温かい部屋の中でお腹いっぱい食べかったんですね。
 そしてお腹を抱えて笑いたかった。

 マッチを擦って少女が見たものは彼女の願望をあらわしている。
 ひとつめは体を温めたい。
 ふたつめはお腹いっぱい食べたい。心から笑いたい。

 では三つ目の願望は何か?
 三本目のマッチを擦って少女が見たものは──
 今度はとんでもなく素晴らしいクリスマスツリーが見えた。
 それはこの前、窓から見たお金持ちのツリーよりも大きくて飾り付けも豪華なものだった。
 ろうそくも何千本もあった。


 おそらく少女はお金持ちの家の窓から見た大きなクリスマスツリーをうらやましく思ったのだろう。
 少女はクリスマスを楽しみたかった。
 普通の子のようにクリスマスツリーを見てワクワクしたかった。

 そして4本目のマッチを擦って見たものは──
「おばあちゃん!」
 明るい光の中、亡くなった、大好きなおばあちゃんが穏やかな顔で立っていた。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
 少女はおばあちゃんがいなくならないようにマッチを何本も擦った。


 少女は、亡くなったおばあちゃんを求めていたのだ。
 やさしいおばあちゃんがいれば、少女はそれで十分で幸せだった。
 でもおばあちゃんは亡くなっていない。

 さて、そんな少女は次に何を求めたか?

 おばあちゃんは少女を抱きあげると空へのぼっていった。
 空はまぶしく光輝いていた。
 少女は寒さもひもじさも怖しさもない神様の御許(みもと)に召されたのだ。


 少女は死を選んだ。
 おばあちゃんのいる天国に行くことを選んだ。
 現実があまりにも過酷でつらいからだ。

 少女がマッチを擦って見たものは、おそらく幻覚だろう。
 少女の死は凍死によるものだろう。
 科学的に見ればそういうことだろうが、少女が求めたものを考えると、哀しくせつない。
 少女の絶望を想像するとがく然とする。

 ラストのオチはこうだ。

 翌朝、町の人々は小さな女の子が軒下で凍えて死んでいるのを発見した。
 女の子のまわりにはたくさんのマッチの燃えかすがあった。
 人々は「マッチで温まろうとしたんだろうね」と語り合った。


 町の人々は少女がどんな思いを抱いて死んでいったかを知らない。
 実は少女は幸せに包まれて死んでいったのだが、そのことを想像できない。
 人は他者の心の中など、ほとんど理解できないのだ。
「マッチで温まろうとしたんだろうね」と表面的に理解しているだけ。
 このオチを用意したアンデルセンは実にクールである。

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「プロジェクト・シャーロック」 我孫子武丸~もし犯罪捜査専用の名探偵AIがつくられたら?

2023年03月31日 | 短編小説
 もし、AIが「名探偵」のように真犯人を推理することが出来たら──。
 暇を持てあましていた警視庁総務部情報管理課の木崎誠は「犯罪捜査専用のAI」を作り始めた。
 現在、警視庁には犯罪のデータベースはあるが、検索機能しか持っていない。
 これでは到底「名探偵」にはならない。
 プロジェクト名は「プロジェクト・シャーロック」
 シャーロックとはもちろんシャーロック・ホームズのことだ。

 名探偵のAIをつくるにあたり木崎はこんなことを考えた。

・犯人を当てるフーダニット(Who done it?)。
・アリバイや犯行方法を当てるハウダニット(How done it?)。
・動機を考えるホワイダニット(Why done it?)。
・現場の乱れ方や血痕の飛び散り方から犯行時の犯人と被害者の動きを3Dモデルで再現。
・時刻表や乗り換えアプリとの連動~これで鉄道トリックの大半は解決できる。
・画像解析機能
 犯行現場の画像から被害者の来ていた服のメーカーや本棚にある本のタイトル・出版社名を検索。
 糸のような残留物も見つけることができる。
・推理の方法は帰納法より演繹法。
 演繹法の方がコンピュータには適している。
 ちなみに
「帰納法」とは、さまざまな物証やデータから真実を導く方法。
 ホームズが依頼者を観察して、依頼者がどんな人物かを推理する方法だ。
「演繹法」とは簡単に言えばシミュレーション。
 今回の場合はすべての容疑者の行動をシミュレートし、犯罪の実行可能性を判定する。
 可能性がゼロなら、その容疑者を捜査対象から外していく。

 木崎のつくった「名探偵AI」はさらに進化する。
 このAIをオープンにしたので、世界中の「科学捜査機関」や「鑑識」がデータを提供したのだ。
「推理小説マニア」は過去の推理小説のトリックや定石をどんどんUPしていった。

 かくして木崎のつくった名探偵AIは犯罪捜査で有効なツールになる。
 AIの名前は「シャーロック」では直接的過ぎるので、
 ギリシャ語の「S」に相当する「シグマ」と呼ばれるようになった。

 そんな時、「シグマ」の開発者の木崎が殺されてしまう。
 データ提供などで「シグマ」育成に関わった世界中の協力者も次々と殺される。
 犯人は誰なのか?
 動機は名探偵AI「シグマ」が優秀になったら困る存在。
 つまり犯罪者たちだ。
 ……………………………………………

 時代はもうAIの時代。
 ChatGPT。
 マイクロソフトのEDGEにもbing・AIが搭載された。
 今後はワードやエクセルなどにも搭載されるらしい。

 そんな中、登場したのが、この作品『プロジェクト・シャーロック』だ。
「シグマ」を作る際に木崎が考えたことは技術的には可能なので、
 将来、刑事や探偵が要らなくなる時代が来るかもしれない。
 ミステリーも今後、AIが活躍する作品がどんどん出て来るだろう。
 …………………………………………………

 さて以下はネタバレ。
 その作品にはなかなか面白いオチがある。
 名探偵AIに対抗するために犯罪者たちは何をしたか?
 ネタバレでも知りたい方は以下をご覧下さい。




 名探偵AIに対抗するために──




 犯罪者たちは──




 過去の犯罪のノウハウを集めた──



 犯罪者AIをつくる!
 そのAIの名は「モリアティ」。
 もちろん、モリアティとは犯罪社会のナポレオン、ホームズのライバルの数学者の名だ。
 見事なひねり方ですね。

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Oヘンリー「賢者の贈り物」「最後の一葉」~お洒落! 見事なたとえ表現にワクワクする!

2022年05月18日 | 短編小説
 Oヘンリーの名短編『賢者の贈り物』
 妻の美しい髪と夫の祖父から譲り受けた見事な金時計の話だが、その素晴らしさを表すたとえが素晴らしい。

 ところでヤング夫妻には自慢の宝がふたつあった。
 ひとつはジムの金時計。もうひとつはデラの髪。
 もしシバの女王が向かいの部屋に住んでいてデラの髪を見たら、女王は自分の宝石を無意味と思うだろう。
 ジムの金時計は、もしソロモン王が自分の財宝の管理人をしていてジムの金時計を見たら、王はうらやましく思うだろう。


 何とたとえにシバの女王やソロモン王を登場させている。
 こんなたとえもある。
 夫への贈り物を買うために髪を切ったデラが自分の顔を鏡で見た時のつぶやきだ。

「まさかこんな頭だからと言ってジムに殺されることはないでしょう。
 でもコニー・アイランドのコーラス・ガールくらいのことは言われるかもしれないわ」


『コニー・アイランドのコーラス・ガール』
 いかにもアメリカ! って感じのするたとえだ。

 ………………………………………………

 同じくOヘンリーの『最後の一葉』

 グリニッチ・ヴィレッジに住むふたりの女性画家の話だが、そのひとりジョンシーが肺炎にかかってしまう。

 医者が『肺炎』と呼ぶ目に見えない冷酷な侵入者が、この芸術家村を歩きまわって氷のような手であちこちの人間に触った。
 (中略)
 肺炎氏は騎士的な老紳士と呼べるような手合いではなかった。
 カリフォルニアの微風で血の薄くなっている小柄な小娘などは年寄りのいかさま師には正々堂々の獲物とは言えなかった。
 だが彼はジョンシーに襲いかかった。
 彼女は寝込んでペンキを塗った鉄のベッドの上で動けなくなった。


 肺炎を『侵入者』『騎士的な老紳士とは言えない手合い』『年寄りのいかさま師』と人にたとえている。いわゆる擬人化表現だ。

 たとえではないが、こんな表現もある。
 ふたりの画家・ジョンシーとスーの出会った時の描写だ。

 ふたりは八番通りの「デルモニコ」食堂の定職を食べている時に出会い、
 芸術やチコリ・サラダやビショップ・スリーブ型のドレスの趣味が一致するのを知って、共同でアトリエを持つことにした。


 画家のふたりが意気投合した理由が『芸術』の他に『チコリ・サラダ』や『ビショップ・スリーブ型のドレス』!
 何とお洒落な表現!
 凡庸な作家だと『ふたりは知り合い、芸術観が一致してアトリエを持つことにした』みたいな表現になってしまう。
 文章は、チコリ・サラダやビショップ・スリーブ型のドレスを加えるだけでお洒落になる。

『賢者の贈り物』も『最後の一葉』もストーリーやオチが広く知られている作品。
 でも小説の愉しみってストーリーだけじゃない。
 見事なたとえやお洒落な文章にワクワクするのも小説の楽しみ方。

 神はディティルに宿る。
 ディティルにこそ光輝くものがある。

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コロナ蔓延の時期だからこそ、エドガー・アラン・ポーの『赤き死の仮面』を読もう!

2020年03月29日 | 短編小説
 コロナ蔓延の時期だからこそ、エドガー・アラン・ポーの『赤き死の仮面』を読む。
 冒頭の書き出しはこうだ。

「赤死病」が国土を荒廃させてからすでに久しかった。
 かほど致命的、かほど忌まわしい疫病はためしがなかった。
 血がその権化、その紋章だった──血の赤さと血の恐怖が。
 激烈な苦痛、突然の眩暈(めまい)、毛穴からの大量出血、そして死。


 この疫病で人口の半分が失われる中、プロスペロ公は宮廷の騎士や貴婦人を城塞風の僧院の中に集め、引きこもる。
 食糧を十分に蓄え、享楽に耽る。

 公は娯楽のためのあらゆる手立てを整えておいた。
 道化師もいれば、即興詩人もいた。舞姫もいれば、美女もおり、葡萄酒もあった。
 これらすべてと安泰は内部にあり、外部には「赤死病」があった。


 享楽に耽るプロスペロ公は大がかりな仮面舞踏会を開く。
 仮面をつけて皆が踊る中、貴族たちは嫌悪を覚えずにはいられないひとりの異質な人物に気づく。

 この人物は丈高く、痩せこけ、頭から爪先まで死の装束をまとっていた。
 顔をかくす仮面は硬直した死体の容貌にこよなく似せられ、いかほど目を凝らして吟味しても、その真贋を見極めるのは困難だっただろう。
 しかしこれだけなら、酔狂な連中のことゆえ、是認はしなかったにせよ、大目に見てやったことだろう。
 だがこの役者は、こともあろうに「赤死病」の化身に扮していた。
 衣裳は血でまみれ──その広い額と顔全体は「緋色の恐怖」で点々と彩られていた。


 さあ、「赤き死の仮面」の登場だ。
 貴族たちが彼を見て嫌悪を抱いたのは、それが「死」を象徴しているからだ。
「赤死病」や「死」から目を逸らすために享楽に耽っていたのに、見せつけられたら堪らない。
 プロスペロ公は激怒する。
「何者だ? ひっとらえて仮面を剥げ! 正体を確かめ、日の出には胸壁から吊して縛り首にしてくれようぞ!」
 しかし、仮面の男を捕まえてみると──

 掴みかかり、その経帷子(きょうかたびら)と死の仮面をまこと手荒く引き剥がしてみると、驚くなかれ、中には手ごたえのある姿はさらになく、その名状しがたい恐怖に、彼らは声もなく喘ぐばかりだった。

 何と「仮面の男」には実体がなかったのだ!
 そしてラスト。

 今や「赤死病」が侵入してきたことは誰の目にも明らかだった。
 それは夜盗のように潜入してきたのだった。
 宴の人びとは一人また一人と彼らの歓楽の殿堂の血濡れた床にくずれ落ち、その絶望的な姿勢のまま息絶えていった。
 そして黒檀の時計の命脈も、陽気に浮かれていた連中の最後の者の死とともに尽きた。
 三脚台の焔(ほのお)も消えた。
 あとは暗黒と荒廃と「赤死病」があらゆるものの上に無限の支配権をふるうばかりだった。


 すごいイメージですね。
「赤き死の仮面」は「赤死病」に脅えるプロスペロ公や貴族たちが見た幻覚なのか?
 はたまた「赤死病」が実体化したものなのか?

 ポーの作品は一篇の詩である。
 その悪夢のような詩の世界に酔えばいい。
『アッシャー家の崩壊』などもそうだが、ポーの作品にはつねに『死』と『滅び』がつきまとう。
 ポーにとって『死』と『滅び』こそが追い求める心のふるさとなのだ。
 それは僕たちにとっても、どこか懐かしい。

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宮沢賢治の世界①~「カイロ団長」

2011年12月13日 | 短編小説
 宮沢賢治の「カイロ団長」という作品の冒頭にこんな描写がある。

『あるとき、三十疋(ひき)のあまがえるが、一緒に面白く仕事をやって居りました。
 これは主に虫仲間から頼まれて、紫蘇(しそ)の実やけしの実をひろって来て花ばたけをこしらえたり、かたちのいい石や苔(こけ)を集めて来て立派なお庭をつくったりする商売でした。
 こんなようにして出来たきれいなお庭を、私どもはたびたび、あちこちで見ます。それは畑の豆の木の下や、林の楢(なら)の木の根もとや、又雨垂れの石のかげなどに、それは上手に可愛らしくつくってあるのです。』

 賢治の目には、庭の風景がこんなふうに見えるですね。
 この庭の風景はあまがえるが作っているんだと。
 自分の姿があまがえるのように小さくなって、あまがえるが働くさまを見ているような感じもある。
 こんな描写もある。

『さて三十疋は、毎日大へん面白くやっていました。朝は、黄金(きん)色のお日さまの光が、とうもろこしの影法師を二千六百寸も遠くへ投げ出すころからさっぱりした空気をすぱすぱ吸って働き出し、夕方は、お日さまの光が木や草の緑を飴色にうきうきさせるまで歌ったり笑ったり叫んだりして仕事をしました。殊(こと)にあらしの次の日などは、あっちからもこっちからもどうか早く来てお庭をかくしてしまった板を起こして下さいとか、うちのすぎごけの木が倒れましたから大いそぎで五六人来てみて下さいとか、それはそれはいそがしいのでした。いそがしければいそがしいほど、みんなは自分たちが立派な人になったような気がして、もう大喜びでした。』

 これは<働く喜び>の表現。
 仲間とともに『歌ったり笑ったり叫んだり』、とても楽しそうです。
 『いそがしければいそがしいほど、みんなは自分たちが立派な人になったような気がして、もう大喜びでした。』
 というのもわかる。
 人は(この物語の場合は、あまがえるですが)、誰かの役に立つこと、必要とされることに喜びを感じるんですね。

 さて、物語は、そんなあまがえるたちの前に、とのさまがえるが現れることで大きく展開していきます。
 ウイスキーを飲まされ、それが高価で払えなくて、あまがえるたちは、とのさまがえるにこき使われることになるのです。
 とのさまがえるはあまがえるに無理難題を押しつけ、ノルマを科し、過酷な労働を強います。
 今までの楽しかった労働は一変し、ただつらいものに変わっていきます。
 賢治の中に、社会主義・共産主義の思想があったかは定かではありませんが、この、とのさまがえるとあまがえるの関係は<資本家と労働者の関係>に似ています。
 過酷な労働を強いられ、搾取されるあまがえるたち。

 やがて、王さまの命令が出て、あまがえるたちは解放され、とのさまがえるに復讐する時が来るのですが、この時にあまがえるたちがとのさまがえるに見せる反応は、まさに宮沢賢治の世界。実にやさしい。

 「カイロ団長」は10分くらいで読める作品なので、ぜひ読んでみて下さい。

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愛なんか 唯川 恵

2010年03月14日 | 短編小説
 唯川 恵さんの「愛なんか」(幻冬文庫)は、男に裏切られた女性の心情を描いた短編集だ。
 その中の一編「夜が傷つける」では、こんな描写がある。
 倦怠期の主人公と恋人の宗夫。
 デートの約束の約束で「週末は空いているか」と主人公が聞いて、恋人の宗夫は「たぶん」と答えるのだ。
 そのことについての主人公の感想。

『その「たぶん」という言葉を使われた時も、私はひどく自尊心が傷ついていた。たぶん、の中には、今は空いているがいつ何時埋まるかわからない、という意味が含まれていて、それはいつ何時埋まるかわからない予定の方が、私と会うことよりも大事である、と宣言されたということだ』

 「たぶん」という何気ない言葉から、ここまで心の奥を読み取ってしまう主人公。
 デートをして沈黙が訪れた時はこう思う。

『沈黙は苦しい樹液のようにふたりの間にとろりと流れ込んだ。出会った頃にもよくこうして沈黙した。けれど、それはまったく異質なものだった。あの頃、私たちは沈黙している時の方がはるかに多くを語り合っていた。沈黙の長さは、愛してる、と言ってるのと同じだった。あの頃も、私たちは沈黙を怖れたが、それは全身で愛していると告白している自分が死にたいほど恥ずかしかったからだ』

 なるほど、同じ沈黙でも種類が違うのだ。
『私たちは沈黙している時の方がはるかに多くを語り合っていた』なんていう表現もすごい、的確だ。
 セックスの時の描写はこうだ。
 主人公は今では自分から服を脱ぐ。宗夫に脱がされていた昔を思い出してこう思う。

『服を脱がすところから、セックスは始まる。私はブラウスという羞恥を剥ぎ取られ、キャミソールという羞恥を剥ぎ取られながら、これから自分にされるさまざまなことを想像して、いっそう羞恥を深める。服を脱がされるというもどかしい行為を、宗夫と私は楽しんでいた。私はその楽しみのために、時には服より高価な下着を買った。いつだって宝物は綺麗な包み紙に包まれている。レースやシルクの下着が少しずつチェストの中に増えてゆくのが嬉しかった。私は宗夫に脱がされるたび、自分が宝物になったような気がした』

 なるほど、これが女性心理か!
 そして主人公は抱かれながらこう思う。

『私のカラダを気持ちよくしてくれる前に、私の心を愛撫してほしい。濡れたい場所はもっともっとカラダの奥にある。心を快感で満たしてほしいという望みは、贅沢だろうか』

 この主人公が最後にどんな行為をし、結論を出すかは読んでのお楽しみ。
 その他にも男に裏切られた女性の心情がつづられた短編12編が収録されている。
 一編、10分から15分ほどで読める。

 解説に拠ると、唯川 恵さんはコバルト文庫出身らしい。
 輝くまぶしい少女の心情から、出口の見えない孤独な女性の心情へ。
 この変化を読み取るのも面白い。


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空飛ぶ馬 北村薫~ファンタジックな現実

2010年02月10日 | 短編小説
 日常で起こる何気ない出来事の謎を解き明かしていく北村薫さんの落語家・円紫さんシリーズ。
 そのミステリーパートも魅力だが、主人公の女子大生の人物造型も読む者を引き込む。

 「空飛ぶ馬」では、主人公はこんな童話談義をする。
 
「あたし、子供の時、アンデルセンって大嫌いだったんだ。『みにくいあひるの子』が白鳥になるなんて許せなかったのよ。それだったら何の苦しみもありゃあしない。あたしはあのあひるの子はどこかで泥まみれになって野垂れ死にしたって思うのよ。その死ぬ間際に見た夢が、最後の白鳥になる部分。あれは、ただ一瞬の幻想なのね」
 主人公の友人・正ちゃんの言葉。何とも現実的だ。
 これに対して、口を挟む気になった主人公はこんな童話体験を話す。
「頭に残ってる話なら、私にもあるわ。小川未明の短い話。題は忘れちゃったけど、子供が綺麗な鳥を採ろうとして木に登るのよ。鳥は結局採れないで、<美>というか<夢>というか、とにかくそれを求めたためにその子は木から落ちて一生腕だか脚だか動かなくなるの。童話でそういうのってないでしょう。ぎょっとしちゃった。ちょっと忘れられないわよ」

 現実とはこの小川未明の童話のようなものかもしれない。
 大人になろうとしている主人公はそんなふうに思っている。
 だが、一方でこんなふうにも現実を見ている。
 ある時、ご近所のトコちゃんという幼稚園児のクリスマス会のビデオ撮影を頼まれる主人公。
 トコちゃんの通う幼稚園は主人公もかつて通っていた所だ。
 久しぶりに母校の幼稚園に入って主人公はこんなふうな感想を持つ。

「幼児の頃はもうはるかに遠い昔で、大袈裟に言えば私にとって飛鳥時代も同様である。それなのに建物は昔のままであり、ジャングルジムなどの遊び道具も配置こそ変わっているが、中には残っているものがある。ただ総てが魔法の薬でもかけたように小さくなっていた」

 ここで面白いのは<魔法の薬でもかけたように小さくなっていた>と主人公が感想を抱く所だ。
 あるいは主人公はクリスマスの飾りつけをした幼稚園の部屋を見て空想の中でタイムスリップする。

「思いは瞬時に十数年の時を越えた。秘密めいたその部屋の、真ん中に仕切られたアコーディオン・カーテンの向こうに胸をときめかせた子供達がいた。くすくすと興奮のあまり笑い出しそうになっているのは男の子より強いみさちゃんだ。風邪気味のよっちゃんはコンコンとせきをしている。おしゃれなまきちゃんは靴下や襟元を気にしている。けいちゃんは太鼓のばちでポンポンと肩をたたいている。そして、列のはじっこに唇をきゅっと結んだ無口な女の子がうつむいている」

 主人公はこんなふうにファンタジックな日常を生きている。(ちなみに<列のはじっこに唇をきゅっと結んだ無口な女の子>とは主人公のことだ)
 実に魅力的な主人公だ。
 彼女のファンタジックな日常はラストのこんな描写にも現れる。
 それは謎が解明されて帰宅する途中、牡丹雪が降ってきた時のこと。

「勤め人風の人がコートの襟を立てて速足に過ぎていく。明日は一面の銀世界となるのかもしれない。私は手を上げ、白い踊り子を再び宙に舞わせた。そして思った。人は誰も、それぞれの人生という馬を駆る。私の馬よ。その瞳よ、たてがみと、蹄よ。素直に、愛しく幻想を抱くことが出来た。私が生まれたのは真夜中近くだったという。家に着くのがちょうどその頃だろうか。今夜は丁寧に髪を洗おう。いよいよ数を増す白銀の天の使いに、私はそっと呼びかけた。それまでは、雪よ、私の髪を飾れ」

 何という豊かな感性。
 牡丹雪が降る現実世界が、主人公の目にはこう見えている。
 こういう表現に触れるとワクワクしてくる。
 これが小説を読む愉しみだ。


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乙一の文体 日常から非日常へ

2009年10月08日 | 短編小説
 乙一先生の連作ホラーミステリー「GOTH」でこんな文章がある。

  夜中に僕は考えた。
  たぶん、今ごろ森野は殺されているに違いない。死体はどこかの山で撒き散らされているだろう。
  その様を想像しながら眠りについた。

 「GOTH」の中の一話「暗黒系」の中の文章。
 連続女性殺害犯の手帳を拾った僕と同級生の女生徒・森野が犯人を追っていくうち、森野が行方不明になった時の主人公の描写だ。
 この文章のこわい所は、最後を<その様を想像しながら眠りについた>と締めているところだ。
 普通なら「僕はベッドから起きあがり、死体を探すために山に向かった」というところだろうか。
 <その様を想像しながら眠りについた>と描くことで、主人公の僕の異常なキャラクターが伝わってくる。
 また、何の情感も交えず淡々と描くことでこの異常さはさらに増している。

 こんな描写もある。
 僕がやっと山の中を歩き、森野の死体を探している時の描写だ。

 もしかしたら、まだ犯人は森野を殺しておらず、家に閉じこめられているだけだという可能性もある。本当にそうなのかどうかを確かめるには直接、犯人にたずねるしかない。
 もしも殺害しているなら、森野の死体をどの辺りに捨てたのか聞き出す必要がある。
 なぜならそれを見てみたいからだ。

 <なぜならそれを見てみたいからだ>がこわい。
 普通なら「遺体を埋葬しなければならないから」とか「遺体を森野の家族に戻さなくてはならないから」というところか。

 乙一先生の作品はこのようにいきなり<日常>から<非日常>に突き落とされる。
 僕が犯人の喫茶店の店長に話す時の描写はこう。
 
 注文したコーヒーはすぐにできた。
 「僕は、森野という女の子の友達なんです。ご存じでしょう?」
 「常連ですよ」
 彼女はまだ生きていますか、と聞いてみた。
 主人は動きをとめた。
 持っていたコーヒーのカップをゆっくり下に置き、正面から僕を見た。
 彼の目は濁って、穴のように光りのない黒になった。

 これも<日常>から<非日常に>突き落とされる文章。
 <彼女はまだ生きていますか>といきなり聞くところもすごいし、<持っていたコーヒーのカップをゆっくり下に置き、正面から僕を見た>という描写もすごい。
 普通の発想なら<コーヒーカップを落とした>とか<コーヒーカップを持つ手が震えた>ぐらいになるところだ。

 これがプロとシロウトを分けるポイントなんですね。


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朧夜の底 北村薫

2008年03月12日 | 短編小説
 自分の感性に合う作家さんに出会うのは大きな喜びだ。
 北村薫さんの連作短編集「夜の蝉」(創元推理文庫)を読んでワクワクした。

★その最初の短編「朧夜の底」ではこんな描写がある。

 大学生で主人公の「私」は友人の「詩吟発表会」に行く。
 次々と朗読される詩歌。
 『新古今』の巻頭歌が朗読された時はこんな表現がされる

 「ぞくりとした。快感である」

 主人公は音で語られる和歌の世界の美しさに酔う。
 漢詩が朗読された時は

 「そこで一転して、きん斗雲に乗ったように舞台は中国に飛んだ。合唱といっていいのか、五人がいっせいに声を揃え吟唱した」

 そして「詩吟発表会」で演じられた世界をこう表現する。

 「和歌と漢詩と、そして俳句によって春の錦が織られていった。霞が立ち、桜が咲き、花吹雪が舞った」
 「陶酔的で耽美的で、おかしないい方だけれど<ちょっとまずいんじゃないの>と思うくらいに色っぽかった」
 
 抜き書きしてしまうとこの表現の妙は半減してしまうが、ともかく読者もこの耽美的な吟唱の世界に誘われてしまう。

★主人公の人物像も共感できる。
 例えば本や図書館についての考え方。

 「学校の本を白蟻が家を崩すように次から次へと借りては読んだ」
 「大学の巨大な図書館は利用していない。開架式でないところは感覚的に苦手なのである」
 「私がよく行くのは隣の市の私立図書館なのだ。三年間通った女子校のすぐ近くにある。何より高校生の間、帰り道にはそこに寄るのが生活の一部になっていたのだから、ごく自然に利用できる」
 「特筆すべきは、ビデオ、CD、テープの貸し出しもやっていることで、中でも落語のテープが充実している。私にとっては宝の山である」

★知り合いの陶芸家の個展・展示即売会にいった時はこんな描写。

 「茶碗の前に立つ。
  六つの茶碗が置かれ、それぞれの個性を主張していた。その右手にある茶碗に魅きつけられた。
  形は単純素朴、ひねくりまわして奇をてらったところがない。ほんのりと底からベージュが浮かんでくるような暖かい白の茶碗である。その胴にたなびく雲の流れがあり。それもほとんど白に見えるのに。じっと見詰めていると内に紅を感じさせる。いや、紅だけではない。それは実は、五彩の雲なのである。
  この美しいものを欲しい、と思った」

★ラストは夕暮れのお茶の水の描写。

 「やがて、ごうごうと音がして川面に、向こうから駅に滑り込んで来る玩具のような紅色の丸ノ内線の電車が映った。電車の上には聖橋の灰色のアーチがあり、橋を通る人々の姿は胸から上だけが遠く小さく墨絵のように見えた。その彼方には秋葉原電気街のネオンの城が幾重にも重なり、赤や城の光が駆け上がり駆け下り、黄色い三角形が点滅していた。背景となる夜の漆黒は光に溶け、薄桜色に染まっていた」 

 まさに言葉による絵画。 
 北村薫の作品はミステリーとしても優れているが、言葉の世界に酔うことができる。


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江戸川乱歩 「踊る一寸法師」

2007年12月19日 | 短編小説
 江戸川乱歩の「踊る一寸法師」の一節。

「八字ひげの手品使いは酒樽のふちをたたきながら、胴間声をはりあげて、三曲万歳を歌い出した。玉乗り娘の二、三が、ふざけた声で、それに合わせた。そういう場合、いつも槍玉に上がるのは一寸法師の緑さんだった。下品な調子で彼を読み込んだ万歳節は次から次へと歌われた」

 大正時代の描写である。
 この時代には「八字ひげの手品使い」「玉乗り娘」「一寸法師」らが通りにいた。
 街にいかがわしさがあった。
 乱歩は子供ものでもこれらのいかがわしさを描いてきた。
 「二十面相」「黄金仮面」「青銅の魔神」
 僕らはこれらをわくわくして読んだ。

 今の時代にはこうしたいかがわしさがない。
 きれいな数学的な無機質な街並み。

 「地獄の季節 酒鬼薔薇聖斗がいた場所」(高山文彦/新潮文庫)では少年Aのいた須磨ニュータウンのことが描かれている。
「六角形の巨大な箱の底のような広場は、見渡す限り人工の石畳で敷きつめられている。まわりを囲む垂直の壁は、百貨店の大丸であり、スーパーマーケットのダイエーであり、それらを囲むようにつないでいるマクドナルドや無数の和洋中の食堂、用品店、花屋、書店などのはいったショッピングモールだ」
 そして犯行の行われた「タンク山」がかろうじて残された「異界」だと表現している。

 合理的で窮屈な現実の中で人は異界を求める。
 都市伝説がそう。
 グリコ森永事件で犯人が「かい人二十面相」を名乗ったのにも同じ根があるような気がする。
 現在の街には異界がない。

 乱歩の小説を読んでそんなことを考えた。


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