平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

サワコの部屋~生物学者・長沼毅さんの哲学

2013年06月29日 | バラエティ・報道
「サワコの朝」に生物学者の長沼毅さんが出ていた。
 宇宙飛行士になることに挫折し、地球を離れられないのなら、地下や海底にいけばいいやと考えた長沼さん。
 こういう切り替えが出来る人ってすごいですよね。
 人生は短く、ウジウジと過去に後悔し、こだわっていたら、何も始まらない。

 そして長沼さんが見つけたのは、たとえば、海底火山のある海底に住むチューブワーム。
 これは司会・阿川佐和子さんのたとえに拠れば、エノキダケのような棒状の生き物で、人間など普通の動物には有害な海底火山の有毒ガスをエネルギー源にして生きているらしい。
 すごいですね、有毒ガスで生きているなんて。
 これぞまさに「想像を絶する、これまでの範疇にない未知の生物」。

 その他にも、長沼さんが見つけたのは、沸騰する温泉に住む生物とか、南極の氷の下に住む生物とか。

 こうした特異な生物の発見の結果、長沼さんはある哲学を持ったらしい。
 それは<生命ってたくましい>ということ。
 どんな生物であれ、生き物は個体を増やし、生きようとしている。
 有害ガスを吐き出す海底火山の近くで、がんばって生きようとしたチューブワームが良い例だ。

 長沼さんは生物の<個体>と<生命>を分けて考えている。
 個体とは、肉体。
 人間、犬、猫、ライオン、魚、植物、微生物……、これらは姿形が違うし、種族も違う。
 一方、生命とは、これらさまざまな個体に共通して存在しているもの。肉体を越えたもの。
 一般的に言えば、いのち。
 いのちが失われれば、人間も動物も植物も死ぬ。
 宗教的に言えば、肉体は滅びるが、いのちは残るという感じですかね。

 長沼さんは、このいのちは、常に<生きること>を志向しているという。
 人間は頭で「自殺すること」を考えるけど、いのちは「生きること」を考えている。
 こう考えると、自殺は、いのちの意思自殺=自然に反したことになりますね。

 肉体は仮のものであって、いのちというものが別にある。
 いのちはすべての生き物に共通して存在していて、生きるという意思を持っている。
 こう考えると、世界は違って見えてくるかもしれませんね。


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ナンパするイタリア人料理家・ベッリシモさん~ラテン系のすすめ!

2013年06月27日 | 監督・俳優・歌手・芸人
 先日の「行列ができる法律相談所」にイタリア人料理人のベッリシモさんが出ていた。
 ベッリシモさんは、ともなく女性を口説き、連絡先を聞く。
 ひとりの女性に脈がないとわかると、すぐに他の女性に声をかける。
 彼にとっては、女性に声をかけることは、男性としての義務であり、務めであり、喜びであるのだ。

 そんなベッリシモさんは、共演者のアンジャッシュ・児嶋さんは「日本から出て行け!」と突っ込んでいたが、日本の男性は見習うべきかもしれませんね。
 声をかけられる女性の気持ちはよくわかりませんが、それが女性にとって好印象の男性であれば、悪い気はしないはず。
 何しろ「きれいです」「可愛いです」「デートしたいです」と、賞賛、承認されたわけですから。
 普段、日本で生活していたら、こういうことって皆無ですからね、きっと非日常の出来事で、新鮮な衝撃になるはず。

 今こそ日本人は、人生を明るく前向きに楽しむラテン系になるべき?

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しゃべくり007~倖田來未・芦田愛菜のモノマネ芸人、やしろ優、登場!

2013年06月25日 | 監督・俳優・歌手・芸人
 昨日の「しゃべくり007」に、ぽっちゃりモノマネ芸人・やしろ優さんが出演。
 演目は、倖田來未さんと芦田愛菜ちゃん。

 倖田來未さんは<餃子パーティを仕切る倖田來未>。
 倖田さんはあくまでパーティを仕切る立場なので、自分で餃子を作ることはしない(笑)←ここがポイント!
 そして、いかにも倖田さんがやりそうなことだ。
 これって<誇張>ですよね。
 本人のキャラクターをふくらませ、際立たせてモノマネにしている。
 コロッケさんなんかが、五木ひろしさんや美川憲一さんのモノマネでやっていること。
 キンタロー。さんもこの路線。

 個人的には芦田愛菜ちゃんのモノマネが面白かった。
 まずは<芦田愛菜ちゃんに言ってほしくないこと>
「ウチのマネージャー使えないな~」(笑)
「あたしの立ち位置、バミってないんですけど~」(笑)
「鈴木福くんとは話が合わない時があるの~」(笑)
 確かに愛菜ちゃんの口からこんな言葉聞きたくない……。

 <26歳の芦田愛菜ちゃん>は
「あのね、芦田愛菜だよ。年齢は26歳、身長152センチ、体重は75キロなの」(笑)

 <46歳の芦田愛菜ちゃん>は
「あのね、芦田愛菜だよ。一度結婚して、離婚しているの」(笑)

 これらのギャグは<逆転>ですね。
 芦田愛菜ちゃんと言えば、イメージは<純真><可憐>。
 これを逆転させている。
 だから「ウチのマネージャー使えない」や「体重75キロ」「一回の離婚歴」が愛菜ちゃんのイメージに合わなくて爆笑になる。
 視聴者は、愛菜ちゃんに「今のままの純真可憐でいてほしい」と願っているが、大人になるということはそういうことではない。
 愛菜ちゃんも大人になれば、傲慢になったり、体重75キロになったり、バツイチになったりするかもしれないと思っている。
 この視聴者の潜在的な思いを形にしている所が上手い。

 このようにモノマネの世界は日々進化していますね。
 単に似ているだけではダメで、ギャグ要素が求められている。

 それにどんどん新しい人が出て来る戦国時代。
 少し前に大人気だったキンタロー。さんが飽きられて来た頃、今度はやしろ優さんが登場。

 芸人さんたちはこういうハードな世界で戦っているんですね。

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八重の桜 第25話「白虎隊出陣」~「今から私は三郎だ。私は戦う」

2013年06月24日 | 大河ドラマ・時代劇
「私は三郎と共にお城に上がりやす。今から私は三郎だ。私は戦う」

 八重(綾瀬はるか)覚醒です。
 三郎の遺品の軍服を着て。
 南天の刺繍が施された袖を破ったのはなぜだろう?
 こんな物は役に立たないという意思なのか? 三郎を胸に戦うという意思なのか?
 いずれにしても八重の足元からカメラがパンUPして、三郎の軍服姿の八重が現れるシーンは今作の見せ場。

 伏線もあった。
 八重は、父・権八(松重豊)におなごが戦場に出ることを反対される。
 中野竹子(黒木メイサ)のように薙刀で戦うことは現実的でないと考える。
 出陣する白虎隊の少年たちに「十分に引きつけて撃て」「無駄死にはするな」と説く。
 八重にしてみれば、女性であるがゆえに戦場で戦えない自分に相当な葛藤があっただろう。
 薙刀の無力や武器の差が勝敗を左右することを理解している八重は<合理主義者>だ。
 だから、十分な戦闘能力がある自分が、女性であるという理由だけで戦えないことは非合理なことであっただろう。
 そして、これらの非合理を解決する手段が<三郎として戦う>ということ。
 あまり説得力のない理屈ではあるが、強引さや勢いはすべてを凌駕する。
 大きな声で言い切ってしまったもの勝ち。
 それは官軍の理屈を見てみればわかる。
 それが戦乱の世。

 使用人の使用人のお吉と徳造とのやりとりでは、田舎に帰る帰らないというやりとり以外に、次のことが微笑ましかった。
 お吉と徳造は土の中に、収穫した作物を埋めていた。
 いずれ掘り起こして食べる時のために。
 たくましいですね。
 将来の食料を気にする彼らは死ぬことを考えていない。
 どんな悲惨な状況でも生きることを考えているし、武士たちのように死ぬことが美しいなどとは考えていない。
 さりげない描写ですが、この作品は庶民の視点を忘れていない。

 一方、僕などは以下のせりふに、現代人として違和感を感じます。
 山川艶(秋吉久美子)が出陣する息子たちに言う言葉。
「命を惜しんでおくれを取ってはなりません」
 斎藤一(降谷建志)の言葉。
「今、会津を捨てるは義にあらず」
「愚かなほど真っ直ぐな会津という国に惚れた」
 <義><愚かなほど真っ直ぐ>というのは、行き過ぎると<悪>です。
 艶の息子たちに語った言葉も額面どおりに取るべきではなく、その裏に母親としての苦悩・葛藤があるのはわかりますが、<命を惜しむな><おくれを取るな>というのは間違い。
 先の太平洋戦争を含め、こうした言葉で、何人の人が命を落としたことか。

 繰り返しますが、これは現代人の意見として書いています。
 これらの言葉に共感する時代が来たら、かなりヤバイ時代だと思います。
 安倍さん、さまざまな教育改革を画策しているようですが、頼みますよ。

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八重の桜 第24回「二本松少年隊の悲劇」~戦争に抵抗した人たち

2013年06月17日 | 大河ドラマ・時代劇
 今回は戦争を否定した人たちという視点でまとめてみます。

★覚馬(西島秀俊)
 必死な思いで書き上げた「管見」。
 その内容は「新国家への意見書」「十年後、百年後のための国作りの設計図」。
 戦争は<破壊>だが、覚馬が書いた内容は<創造>。
 破壊よりも創り上げることにエネルギーを使いましょうよ、という主張。
 それとも新たな創造は、太平洋戦争後の戦後社会のように、破壊の後にしか生まれないのか?

★覚馬の牢の役人
「管見」を没収することなく、小田時栄(谷村美月)に持っていくことを許した。
 おそらく、この牢役人は覚馬の必死な思いを理解したのだろう。
 これは組織から離れた人と人との繋がり。
 敵対する組織どうしの人間でも、個人ではわかりあえる。

★松平春嶽(村上弘明)
「歪んでおる。あなた方が作る国は踏み出した一歩からすでに歪んでおる。誰のための国作りか、よくお考えあれ」

★西郷頼母(西田敏行)
 武器の性能と戦い方の圧倒的な差から「停戦」を主張。
「あの時、一刻も早く都を出ていれば!」と半ば、愚痴も。
 しかし、「ぬしに何が分がる。我ら都で戦った。血も流した。筆舌に尽くし難い屈辱も共に味わった。何も知らないぬしが出過ぎた口をきくな」と一蹴される。
 春嶽もそうですが、当事者でない人間の意見はあまり説得力がないんですよね。
「何も知らないぬしが出過ぎた口をきくな」と言われたら、何も反論できない。
 しかし、当事者でないから現実的、客観的な判断が出来るということもある。
 火縄銃を使い、関ヶ原と同じ火薬の配合を行い、硝石も足りない状況で、近代装備の軍隊に勝てるわけがないのだから。

★秋田藩
 列藩同盟から離脱。
 これは「死すとも同盟の信義を貫く」と言って子供たちを死なせていった二本松藩とは対照的。
 どちらが正しかったのだろうか?

★「子供じゃないか」と言って銃を撃つのをやめた兵士たち、そして、その部隊長。
 先程の牢役人もそうだが、組織を離れてひとりの人間になれば、誰もが正しい判断が出来る。
 子供を撃つことはいけないという当たり前のことがわかる。
 しかし、組織(今回の場合は軍隊)に属すと、人はその組織の軍隊に縛られる。
 気を抜いたり、優しい気持ちになれば、自分が殺されるという戦場の狂気がそれに拍車をかける。

 というわけで、今回は戦争に抵抗した人たちを中心にまとめてみましたが、僕はこういう人たちが大好きです。
 破壊よりも創造、信義などといった精神論よりも現実、組織の論理よりも人としての良心、その方が余程大切だと思います。

 最後に八重(綾瀬はるか)。
 戦士として覚醒したようです。
 戦いの果てに、彼女は何を見るのだろう?


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八重の桜 第23回「会津を救え」~どこで道を間違えたんだろう。俺には何も出来ねえ

2013年06月10日 | 大河ドラマ・時代劇
 今回の話を見ると戦争がどのようにして起きるかがよくわかる。
 緊張関係。
 武力で勝る側は戦争で白黒つけたくてがない。
 しかし、もう片方は軍事ではない、政治による落としどころを探る。
 一触即発。
 その導火線に火をつける事件が起きる。
 今回の場合は、総督府参謀・世良修蔵(小沢仁志)の斬殺。
 これで攻めたい側は戦う口実が出来た。
 攻められる側はもはや戦うしかない状況に追い込まれる。
 そして戦争。

 日中戦争、太平洋戦争、みんなこんな形で始まった。
 今の尖閣諸島をめぐる問題でも、こんなふうにして戦争が始まらなければいいけど。
 戦争は<国>や<藩>のメンツ、名誉、利益などが、その動機になるけど、結局苦しむのは民衆。
 冒頭、八重の家の使用人が、今年の収穫の心配をしていたが、民衆はそういったことに心を砕いて生きている。
 <国>や<藩>が全面に出て自己主張し始める時代は良い時代ではない。

 今回、覚馬(西島秀俊)は次のようなことを言った。
「会津は滅びの道を歩んでいる。どこで道を間違えたんだろう。俺には何も出来ねえ」
 大きな時代の流れの中では、個人は無力だ。
 必死に抵抗しても流され、ただ時代に翻弄されるだけ。
 戦争の時代になったら尚更だ。
 だからこそ、間違った道に行きそうな時に軌道修正をしなくてはならないのだが、時代の渦中にいる人間は正確な判断が出来る人間などなかなかいない。
 個人は「どこで道を間違えたんだろう。俺には何も出来ねえ」と叫び、嘆くしかない。
 もう一度書きますが、尖閣諸島をめぐる問題で戦争が始まらなければいいけど。

 最後は八重(綾瀬はるか)。
 覚馬の行方が知れず落ち込む、うら(長谷川京子)を元気づけるには、娘のみねしかないと考えたらしい。
 みねのために薙刀を学べと薙刀道場に連れていく。
 そこでうらは気づく。
「みねはだんな様からの預かり者。みねを強いおなごに育てることが私の役目」
 人に力を与えるのは人なんですね。
 娘のみねのためにがんばる。
 こう考えられるようになって、うらは力を取り戻した。
 自分が愛情を注ぐ人間の存在は、どんな慰めや励ましの言葉よりも生きる力を与える。
 さりげないが、いいエピソードでした。

 時尾(貫地谷しほり)が八重の弟・三郎のために手を合わせ、斎藤一(降谷建志)が斬首された近藤勇のために手を合わせるシーンもよかった。
 人のために祈ることの尊さ、崇高さ。
「わしに家臣がいたろうか? 会津のように君臣一体となる家臣が……」と勝(生瀬勝久)に語った慶喜(小泉孝太郎)は孤独だったのだろう。


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八重の桜 第22回「弟のかたき」~両名とも山本家の男として恥ずるところはねえと存ずる

2013年06月03日 | 大河ドラマ・時代劇
 ついに八重(綾瀬はるか)が主役として登場した感じですね。
 その登場の仕方は、怒り、かたき、復讐といった負の感情。
 今までののんびりムードはなくなり、荒ぶる戦いの化身に。
 しかし、戦いの果てにあるのは、おそらく悲惨と荒廃したふるさと。
 この光景を見て八重は何を思うのだろう?

 八重が三郎の死を確認するシーンは上手い。
 三郎の死を認めたくない八重は、遺品の三郎の軍服を「こっただどこにでもある軍服」と他人のものだと思おうとする。
 しかし、袖の部分には八重が贈った南天の刺繍。
 これで三郎のものだと認めざるを得なくなる。
 上手い小道具の使い方だと思いました。

 息子たちの死を評する父・権八(松重豊)の言葉の使い分けも興味深い。
 戦死した三郎には「本懐」。
 斬首されたとされる覚馬(西島秀俊)には「無念」。
 そして、ふたりの死を評して「両名とも山本家の男として恥ずるところはねえと存ずる」。
 武家の父親ですね。
 どんなにつらくても「恥ずるところはねえと存ずる」と言わざるを得ない。
 そう言って評価してやることが息子たちへの供養であり、愛情であると信じている。
 昔は「いかに生きるか」よりも「いかに死ぬか」が尊ばれる時代だったんですね。
「本懐」「無念」「恥」は死を合理化するための言葉。

 武士の言葉は会津の評定の場でも。
「勝てば官軍。いくさに勝てば今度は自分たちが官軍になる」
「このまま朝敵の汚名を着たまま恭順するわけにはいかない」
「武士の一分を守る」
 このために会津は戦う。
 近代合理主義からすれば、封建的で非合理な論理。

 これに対し、勝麟太郎(生瀬勝久)と覚馬が近代合理主義の産物である『万国公法』を持ち出してきている所が面白い。
 万国公法は、「恭順」を敗者の当然な権利として保障する。
 一方、封建的価値観は、「恭順」を不名誉なこととして戒める。
 この時代、簡単に「恭順」した慶喜(小泉孝太郎)がそうであったように封建的価値観は崩れつつあったが、会津だけは失われていなかったようだ。
 戊辰戦争は旧来の古い価値観を破壊する戦いでもあったのだろう。

 一方、そんな武士とは対照的に商人・大垣屋清八(松方弘樹)のフットワークはずいぶん軽い。
 牢役人に賄賂を渡して、覚馬に会いにいく。
 武士ならあれこれ悩む所だが、賄賂を渡すことに何の恥もためらいもない。
 この軽さが逆に粋で、かっこいい。
 大垣屋はきっと「武士とは何と窮屈で不自由なもの」と考えていただろう。
 商人は時代の波に乗って、極めて合理的、現実的に生きていく。

 最後に今回は、佐川官兵衛(中村獅童)の上半身サービスカット!
 覚馬の時もそうだったが、なぜあそこで上半身ハダカになるのかがわからない(笑)
 そして残念ながら、獅童さんより西島秀俊さんの体の方が美しかった!!


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