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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

誰よりもママを愛す 「あばかれた秘密」

2006年07月31日 | ホームドラマ
 人の行動にはすべて理由がある。

 こずえ(小林聡美)の場合もそうだった。
 一豊(田村正和)、薫(長島弘宜)といっしょに行った水族館。
 こずえは口数が少なく、昼食の時はお酒を飲んでいる。
 相変わらず無愛想で、走ってホコリを立てるよその子には注意。
 いつものこずえだが、そんな行動をしたのには理由があった。
 こずえは夫と息子を火事で亡くしていたのだ。
 夜勤明けの仕事で帰ってくると、家は焼けてふたりは死んでいた。
 生前のふたりとは水族館に遊びに行ったこともあった。
 だから、今回水族館に行った時、それが思い出されてビールをあおった。
 人の行動には理由がある。
 人には過去に縛られている。
 ドラマの主人公は多かれ少なかれ過去に縛られて行動するものだが、それを昼食時にビールを飲むという日常の芝居だけで表現してしまうところがすごい。(それは家族を殺されて詐欺師になった「クロサギ」と比べてみればわかる)
 実に見事なシナリオだ。
 考えてみると、こずえが拒みながらも一豊の家族に関わる理由もよくわかる。
 彼女は家族を求めていたのだ。
 また、自分の想いに対する言葉を求めていたのだ。
 カラオケボックスで自分のことを話すこずえ。
「仕事が忙しくてちゃんと家族と向き合って来なかった。そんな自分に今でも腹が立つ!」
 そんなこずえに雪(内田有紀)や明(玉山鉄二)は言う。
「きっと僕たちのことは早く忘れて幸せになってって思ってますよ」
「おばさんの子でよかったって、きっと思ってるよ。天国で!」
 この言葉をこずえはどう思ったのだろう。
 亡くなった息子や夫からかけられた言葉だと思ったのではないか?
 だから気持ちが混乱して、同じく仕事で家族を顧みない千代(伊藤蘭)の悪口をついた。
「そんなことを言って誰がハッピーになるわけ?僕は家族のために生きる生き方を与えてくれたママに感謝している」と酔いつぶれた一豊には諭されるが……。

 過去からずっと抱いてきた想いが爆発する時、ドラマになる。
 脚本の遊川和彦さんはそれがとてもうまい。
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戦場のメリークリスマス

2006年07月30日 | 洋画
 人を愛する気持ち・想う気持ちは戦場における敵をなくし、国を越える。
「戦場のメリークリスマス」は日本軍兵士と英国人捕虜との心の交流を描いた感動のドラマだ。

 物語の舞台となるのは、第2次大戦下、ジャワの日本軍俘虜収容所。収容所の隊長ヨノイ大尉(坂本龍一)は収容所に捕虜としてやって来た英国陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィット・ボウイ)の美しさに魅了される。ヨノイは二・二六事件の決起に参加できず、死に遅れた青年だった。今は国のために殉じることを望み、自分を禁欲的に律している。そんな彼がセリアズに会い、激しく心が揺らいだ。今まで自分が正しいと信じてきたこと、行ってきたことが、セリアズの前では揺らぐのだ。
 ヨノイは以前の自分を取り戻すため、セリアズを屈服させようとする。セリアズを屈服させ、自分を理解してもらおうとする。ヨノイは独房に忍び込んで捕虜を犯した罪で罰せられることになった兵士カネモトの切腹を見せ、死者に礼を尽くすために行う「行」(断食)をセリアズらにも強要する。すべて、セリアズに自らの死生観を理解してもらうためだ。
 しかし、セリアズは行の期間中に野で摘んだ花をむしゃむしゃ食べることで抵抗する。セリアズの抵抗にあってヨノイは受け入れてもらえない挫折感と孤独を痛感する。平和な時代であれば、言葉で自分の気持ちを伝えることもできたであろうが、戦時下の敵同士である。おまけにヨノイは日本という国を背負い、ニ・二六事件で死んでいった仲間たちを背負っている。それらを捨てて、セリアズを迎い入れることなど出来ない。
 セリアズに受け入れてもらえない挫折感は、ヨノイを暴発させ狂気に駆り立てていく。きっかけは英国軍の内部機密に関することだった。内部機密を探るように指示されたヨノイはセリアズら捕虜たちの前で、英国人将校のヒックスレイを問いつめ、拒絶する彼を斬り殺そうとする。それは日本人・日本軍人としての自分を取り戻すための行為であったのだが、刀を振り上げるヨノイの前にセリアズが現れ、ヨノイの頬にキスをする。
 これによりヨノイを覆っていた硬い鎧がガラガラと崩れ去った。それまでヨノイは、国や思想といったものにがんじがらめになっていたのだが、セリアズのキスを受けて解放されたのだ。鎧がなくなってはだかになったヨノイは、もはや愛を求める弱々しい男でしかない。張りつめていた意図が切れるように、ヨノイはその場に倒れていく。愛する人に抱きしめられキスされた陶酔が彼を気絶させたのだ。

 この様に「戦場のメリークリスマス」では、国や思想を越えた愛を鮮烈に描いた作品だが、同じ大島渚作品でこれと同じテーマを扱った作品に「御法度」がある。新選組にやって来たひとりの美少年に翻弄される隊士たちを描いたこの作品、ここでも表現されているのは、尊皇攘夷や新選組の法度も人を愛する気持ち、想う気持ちにはかなわないというテーマだ。

 なお、話は「戦場のメリークリスマス」戻るが、この作品には、ヨノイとセリアズとは別のもうひとつのモチーフが描かれている。ハラ軍曹(ビートたけし)とローレンス中佐(トム・コンティ)の強い友情だ。
 戦争が終わり、ハラとローレンスは立場が逆転する。それまでは収容所の人間と捕虜だったのが、敗戦国の戦争犯罪人と勝利国の裁く人間という関係になるのだ。しかし、立場が変わってもふたりの心には、心が通じ合ったある出来事がしっかりと刻まれている。クリスマスの夜、収容所で起こった何気ない出来事。明日はハラの死刑執行の日なのだが、ふたりはクリスマスの出来事を懐かしむ。それが何であるかはぜひ作品を見ていただきたいが、この出来事がふたりの心にある限り、ふたりの友情は永遠なのだということを感じさせてくれる。
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アメリカなんて大きらい! 高梨みどり

2006年07月29日 | コミック・アニメ・特撮
 紀行文は書こうとする者がその土地に立って「感じ」「考えたこと」を書くものだ。
 沢木耕太郎の「深夜特急」はその名作。
 作者が何を感じ、考え、行動したかが、「私ノンフィクション」の手法で記されている。そこに記されているのは沢木氏自身の赤裸々な自分。ノンフィクションライターらしく何の誇張や脚色もない。

 「アメリカなんて大きらい!」(高梨みどり・著 週刊モーニング掲載)は、そんな紀行文をさらに一歩進めた作品だ。
 アメリカに立った作者が感じたこと、考えたことをそのまま紀行文として書くのではなく、それらをひとつの物語にした。
 自分が考えたことを物語の中で、主人公の目を通して語らせる。
 扱われるテーマは「銃社会」「暴力」「戦争」「南北問題」「貧富」「テロ」「差別」「犯罪」「異常気象」など。
 これらのテーマを9・11テロに巻き込まれて消息がわからなくなった恋人を捜すためアメリカにやって来た主人公・緒方舞子の目で語らせるのだ。
 舞子は恋人を捜すためアメリカを旅してまわりながら、アメリカの現実を見ていく。
 それが物語として結実しているかは別として、面白い試みだ。
 舞子が「恋人を捜す」という目的以外は、普通の女の子だというのも魅力的だ。
 こうした作品が今後も出て来てくれると、エンタテインメントの世界はますます豊かになる。

★追記
 例えば、銃に関してこう描かれる。
 舞子はアメリカ人にこう言われる。
「銃を持つことはアメリカ合衆国憲法修正第二条で「基本的人権」として認められている」
「誰もが銃を持っている。被害者になりたくないなら銃が必要だろ」
「もし舞子がアメリカで暮らしたとして自分の銃を手にしたとしよう。撃ち心地はどうかまず試すだろう?そのうち動く対象物をちゃんと撃てるかどうかとか、自分にはこの銃で家族を守れる力があるのだろうかとひとつずつ段階を踏んでいくのさ」
「そしてもし賊が入って来て自分の敷地内で家族を守るために撃ち、相手を殺したとしてもアメリカでは合法なんだよ。「撃たれる前に撃つ」これがこの国の流儀なのさ」
 こう言われて舞子はどう感じ、考えるか?
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下北サンデーズ 3話 仁義なき戦い 下北女優戦争

2006年07月28日 | その他ドラマ
 「下北サンデーズ」で描かれた役者論。

★役者は言葉のキャッチボールをする。
 会話は言葉のキャッチボール。
 強い言葉をかけられれば、強く返す。
 やさしくかけられれば、やさしく返す。
 変な球を投げられれば、こちらも変な球で返す。
 八神(石垣佑磨)にキャッチボールをしながら教えられる里中ゆいか(上戸彩)。
 田舎の旅館で育てられたゆいかは他人との会話の仕方をあまりして来なかった。
 だからゆいかの会話は、いつも肩に力の入ったストレート。
 緩急もなければ、変化球もない。
 そんなゆいかが会話とは何かを学んだ。
 キャッチボールをしながら、会話の楽しさを知る。
 八神とのキャッチボールが楽しかったように会話が楽しいものであることをゆいかは知った。
 ゆいかにとってはさらに新しい世界が開けた瞬間だったろう。

★役者は距離を考える。
 第2話でも空間の取り方のレッスンがあったが、役者は相手との距離で物事を表現する。
 他人といて安心できる距離。
 この距離が縮まれば、緊張が生まれる。
 その緊張感で怒りや必死な思いなどの様々な想いを表現できる。
 会話と同様、ゆいかは他人との距離をどのようにとっていいかわからなかった少女。
 サンデーズに入るまではかなり距離をとって過ごしてきた様だ。
 逆にサンデーズでは近すぎるぐらいの距離。
 両極端。
 状況に応じて距離をとることを覚えたゆいか。
 これも彼女の大きな進歩。

★役者は感じたことを表現する。
 役者はその場で感じたことを的確に表現する。
 役になり切るとはそういうことだ。
 演じる役に与えられた状況の中で、感じたことを表現する。
 楽しいシーンであれば心から笑い、悲しければ心から泣く。
 演技とは決して作るものではない。演じるものではない。
 舞台で自分が感じたことを表現するだけだ。
 だから役の感情が的確に表現されている台本は、役者が演じやすい優れた台本といえる。
 ゆいかは今まで感情を表現して来なかった少女。
 何でも数字で把握してきた少女。
 そんな彼女がサンデーズの芝居を見て爆笑し、サンデーズに入り練習がつらくて号泣した。
 ゆいかは感情を取り戻した。
 理屈・理論とは180度違う世界。感情生活の復活。
 これも彼女の大きな進歩。

 これらの進歩を遂げたゆいかの見る世界は実にきらきらしたものであろう。
 今まで感情のない世界にいただけにそれは尚更だ。
 だからキャバクラのステージに立った伊達千恵美(佐田真由美)が輝いて見える。 
 希望溢れるアイドルから落ちぶれたと思っている千恵美。
 しかし、ゆいかにはたくさんの男性を楽しませ癒している素晴らしい存在に見える。
 そう語るゆいかに千恵美は今回救われた。

 今回語られた役者論。
 だが、この役者論は役者だけでなく、普通の人にも当てはまる。
 言葉のキャッチボールを楽しみ、他人との距離でいろいろなものを表現し、状況で何かを感じ、感じたことを的確に表現する。
 そんな人間になれたらどんなに幸せだろう。

 このドラマの優れている所は、主人公をこうした役者論・演劇論で表現していることだ。
 今後、ゆいかが人間として役者として、どんなふうに成長していくか楽しみだ。


★追記 
   1
 ノルマの芝居のチケット代・10万円。
 これをゆいかは大学の友人に借りてしっかりクリアした。
 普通なら10万円のチケットを売るための奮闘ぶりをドラマにするところだが、この作家はそんなことには興味がないらしい。
 実にドライでクールだ。
   2
 ゆいかがバイトを始めたラーメン屋の親父たち。
 魂はパンク・ロック。
 こういう親父たちは見ていて楽しい。
 ゆいかがバイトをしたいと思った志望動機はいれずみに親しみを感じるから。その親しみを感じる理由は、ゆいかの祖父・里中富美男(北村総一朗)の背中の大きなほくろと同じだから。
 ちなみに祖父・登美男は三度笠を被って東京にやって来た。
 登美男もある意味パンク。
 こういう親父たちがどんどん増えてくれるといい。
   3
 古田新太さんは、たった一言で存在感を示せる。
 今回はサンデーズのランニングの時のかけ声にぽつりと言う。
「世田谷代田の立場がないじゃん」
 非常にローカルなネタだが。
   4
 ゆいかのキイワード「未熟だ」は今回も登場。
 彼女は心から自分は未熟だと思っている。
 自分を未熟だと思っているから、向上心がある。まわりの劇団員をすごいと思える。
「未熟だ」は実にいい言葉だと思った。
   5
 2.2チャンネル、ロックな給料袋、真菌研究会、切手研究会、シャラポア研究会(第1話)、腕を突き上げたあくたがわの拳が梁に当たる、この作品はディティルも楽しめる。
 実にマニアックな作品だ。


★あらすじ(公式HPより)
 下北沢のボロアパートに越してきたゆいかは、ビンボー暮らしに戸惑いながらも、徐々にその空気に馴染み始める。そんな中、サンデーズの舞台は盛況の内に千秋楽を迎え、初舞台となったゆいか(上戸彩)も「黒子役」として評判を呼んでいた。ただ、看板女優を自負する千恵美(佐田真由美)だけは、そんなゆいかの人気に複雑な感情を抱いていた。
 公演を終えた夜、あくたがわ(佐々木蔵之介)から次回公演が急遽3週間後に決まったと発表される。初めて駅前劇場で公演を打てることになり、団員たちは大喜び。新作の成功に向けて士気を高める。
 身も心も下北演劇界にどっぷり浸かり、一刻も早く一人前になりたいと決心したゆいかは、実家からの仕送りをストップさせ、眠眠亭でアルバイトを開始。いっぽう、あくたがわは、駅前劇場での新作公演で、人気と才能を開花させつつあるゆいかを、主役級の役どころで起用することを考えていた。そして、一人の女性の現在と過去を対比させることで時間の残酷さを描く新作「サマータイム・ストレンジャー」を完成。それは、千恵美の今の状況にも通じる設定で、現在の主人公を千恵美が、少女時代の主人公をゆいかが演じるというものだった。まだ研究生のゆいかには荷が重い役であることは明白だが、あくたがわの強い後押しを受け、ゆいかは体当たりで演じることを決意する。
 大役を引き受け、課されたチケットノルマもクリアしたゆいかだったが、予想以上の難役に四苦八苦。千恵美から厳しい言葉を浴びせられて落ち込むが、八神(石垣佑磨)からの的確なアドバイスに光明を見い出し、翌日の稽古で早速心機一転の演技を披露。再び団員たちの信頼を取り戻すのだった。
 その後、千恵美が昔アイドルをしていたことを知ったゆいかは、純粋な気持ちからそのことを本人に話す。しかし、千恵美にとってその過去はパンドラの箱で、むしろ鳴かず飛ばずのアイドル時代を経て、今の自分には小劇団の舞台しか残されていないという事実は、トラウマでしかなかった。
 そんな心の傷に触れられた千恵美は、「今の私の本当の姿を見せてあげる」とゆいかをアルバイト先のキャバクラに連れて行き、「芝居が好きで、どんなに惨めでもやめられない」という本音を吐露。それを聞いたゆいかもまた、千恵美が憧れの存在であること、自分も芝居が好きで千恵美と同じ舞台に立てるのがうれしいことなどを、真っ直ぐ言葉でぶつける。そうして互いの気持ちを理解し合った2人は、かつてない強い絆で結ばれ、新作公演の開幕に向け稽古に打ち込むのだった。
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モーリス

2006年07月27日 | 洋画
 1909年、この時代の英国は同性愛が罪とされた時代だった。
 上流階級の子弟が通うケンブリッジ大学の寮生モーリス(ジェームズ・ウィルビィ)はラディカルな青年だ。この年代のインテリの若者によく見られる様に世の中のあらゆる規範を疑っていた。同性愛もギリシャの古典的理想主義として理解し、社会の良俗とは偏見を持った者が作ったくだらないルールだと語っていた。
 そんなモーリスが同期生のクライヴ・ダーハム(ヒュー・グラント)に愛を告白される。モーリスはクラウヴの気持ちを受け入れ、愛し合うようになるが、卒業して社会の規範に従わざるを得なくなる生活を送るようになるとふたりの関係は変化していく。将来、政治家を目指すクライヴがモーリスとの関係を清算しようとしたのだ。きっかけは大学時代の友人・リズリーが同性愛者として風紀罪で逮捕されたことであった。「家名や名誉が何だ?一番怖いのはきみを失うことだ」と語るモーリスだが、クライヴは「召使いの目を気にするような秘密を持って生活することは耐えられない」と言ってモーリスを否定する。こうして、クライヴは上流階級の娘と結婚して政治家への道を歩み出す。
 モーリスはクライヴを失ったことに落胆するが、同時に自分がゲイであることに悩み始める。ラディカルだったモーリスも歳をとるに従って、社会の規範に取り込まれていったのだ。現在のままでは自分は誰も愛することが出来ないし、愛されることもないという状況も彼をゲイからの脱却に走らせた。
 モーリスは催眠療法を使って、ゲイであることを否定しようとする。カウンセラーは催眠術でモーリスの理想の女性を見せようとする。しかし、脳裏に浮かぶ女性のイメージを見てモーリスは言う。
「長い髪より短い髪の方がいい」(つまり男)
 そこにはクライヴを愛していた頃のはつらつとしたモーリスの姿はなく、自分を失って憔悴した姿のみがある。モーリスは男性しか愛することが出来ないのだ。クライヴの様に昔のことと割り切ることが出来ない。
 そんなモーリスがふたたび男性と関係を持つようになるのは時間の問題だった。 一夜の情事のつもりだった。相手は夜、自分の部屋に忍び込んできた男。クライヴの猟場番のアレックだった。この身分も教養も違う男との関係にモーリスは戸惑い、脅迫され金を求められるのではないかと悩むが、アレックの疑いのない気持ちを知ってやがて深く愛し合う様になる。それはモーリスにとって自分の持っているもの(身分や名誉や家族)を捨てた行為だったが、真の自分自身になる行為でもあった。
 英国の見事な風景で描かれたこの作品はそれを見るだけでも一見に値する。何よりも美しいのは、大学時代のモーリスとクライヴが田園の中で幸せそうに抱き合うシーンだ。社会の批判と向き合っていかなくてはならないモーリスとアレックの関係が暗澹たるものになるだろうと予想されるだけに、この無邪気に微笑むモーリスの顔は美しく輝いている。
 人が生きる理由は名誉やお金か、それとも愛かを考えさせられる作品だ。
 自分の本当の心や業を見つめるのは怖いことだが、モーリスは勇気をもって自分に立ち向かっている。

                      ※雑誌に書いた記事を加筆修正。
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結婚できない男 第4回

2006年07月26日 | 恋愛ドラマ
 この作品、月9がやってきたことを全部否定している。
  ★夢のようなデート……月9
  ★1時間並ぶ遊園地(しかも女同士)……「結婚できない男」
 作品中、観覧車でみちる(国仲涼子)がビールを飲み過ぎて気持ち悪くなるシーンがあるが、かつて月9では「観覧車」は夢のアイテムだった。
 花火もそう。月9では夢のアイテム・花火。しかし、この作品ではビルのかげで見ることができない。
 また、みちるは言う。
「どんなにデートを楽しませてくれるかがつき合う男の基準」
 恋人を1時間も待たせることなく、遊園地のアトラクションに乗せてくれるような王子様が素晴らしいとみちるは言うのだ。
 みちるは月9を引きずっている女の子。しかし、現実にはそんな男いない。
 月9で描いてきたものが嘘だとみんな気づき始めてきたから、この作品がリアリティをもって迫ってくる。

   2
 この作品、人間関係がスゴい!
 夏美(夏川結衣)、みちると桑野信介(阿部寛)の関係もそうだが、犬やHPでしか知らない建築家・金田裕之(高知東生)とも関係を描いている。
 今まで犬との関係をこんなふうに描いてきた作品があるだろうか?犬のケンちゃんと信介の間には微妙な緊張関係がある。
 金田に関してもHPを通じてライバル意識を燃やしている。
「ちょっとラーメンを食べに札幌に行ってきました」
「ちょっとが好きなやつだ」
 一方の金田は信介の想いなど知らない。バアでいつもひとりでいる変な男くらいの認識だろう。
 この金田といいケンちゃんといい、関係のあり方が普通でない。
 普通、人間関係は、恋人、別れた恋人、友人、妻みたいな形で描かれるが、ここの人間関係は既存の枠に収まらない面白さがある。
 この作家さん、よく現実の人間関係を観察されている。

   3
 ドラマの人物は常に裏と表、二面性で描かれるべきだと思った。
 信介はひとりの生活が大好きと言いながら、実は寂しいと思っている。
 おたくの彼は実は自分の知っていることを誰かにしゃべりたくてしょうがない。
 雷門のこと、帝釈天のこと、花火のこと。
 ただしゃべれば帝釈天の時の様に苦い思いをするから、いつしかひとりでいる様になってしまった。
 この帝釈天のシーンと対照的なのは花火のシーン。
 花火のウンチクをたれて嬉しそうな信介。
 人嫌いだけど人を求めている。
 この二面性で描くから人物がイキイキとしてくる。
 余談だが、信介はすごいおたくだ。「寅さん」のおいちゃんをやった役者の名前をすべて言える。

   4
 もうひとつ信介。
 彼の特性は一言多いこと。この一言がなければ、人間関係もう少しスムーズにいくだろう。
 みちるに多摩テックのチケットを渡す時
「誘ってないよ。友達か彼氏と行けよ。あ、彼氏いないか?」
 帝釈天で帯留めを買う夏美に
「着物なんて着るんですか?きまぐれで余計な物買っちゃうタイプですか?観光地だと気が大きくなるんですね?」

   5
 ドラマでの偶然。
 偶然を多用し過ぎるとドラマは興ざめになるが、うまく使われると気持ちがいい。
 偶然、はとバスで隣同士になった信介と夏美。
 隣同士になった理由を信介はこう分析する。
 はとバスでは夫婦とか二人連れの客が多いから、ひとりの客は同席になる。
 この分析自体、同席になった理由を説明する言い訳せりふだが、同時に独り身の夏美を揶揄する意味も持っている。これを言った信介には悪気はないのだが、夏美にはカチンとくる。
 偶然を上手く使っている。
 今回はもうひとつ偶然。
 多摩テックのチケット。
 みちると英治(塚本高史)沙織(さくら)が鉢合わせする。
 みちるのチケットは、信介の妹から信介に渡され、信介からみちるに渡されたもの。偶然を作り出すのに段階をおった作者の苦肉の策がうかがえるが、何もなしで出会ってしまうよりは断然いい。偶然で出会った後のエピソードも楽しいからいい。
 偶然もうまく使うと効果的になると思った。 

   6
 人の言葉や行動が影響を及ぼして、人物が変わるというのはドラマでよく使われる手法だ。
 そして影響を与える言葉や行動は、良い言葉や行動であることが多い。
 しかし、この作品は違っている。
 信介とはとバスツアーで大喧嘩した夏美は思うのだ。
「中途半端に人や物事と関わろうとするのがいけないんだ」
 仕事で時間が出来た時に、はとバスに乗る夏美。
 それはあくまで仕事優先、また努力もいらないお手軽な娯楽。
 今まではそれでよかったが、信介と喧嘩して「仕事優先」「気軽な娯楽」を求めていた自分を反省する。
 「仕事優先」「気軽な娯楽」→はとバス→信介と隣同士で大喧嘩 となるからだ。
 積極的に楽しみ、人と出会っていこうと思う夏美。
 ここに彼女の心の変化が生まれたが、変化した理由は信介の有り難い言葉などでない。信介との嫌み・喧嘩だ。
 なるほど、こういうドラマの作り方もあるのかと思った。
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ハンナとその姉妹

2006年07月25日 | 洋画
 生きることはなんて厄介なのだろう。

 エリオット(マイケル・ケイン)はハンナ(ミア・ファロー)という立派な妻がいながら、妹のリー(バーバラ・ハーシー)に想いを寄せてしまう。
 リーも人嫌いで、自分の枠にはめようとする画家の同棲相手フレデリック(マックス・フォン・シドー)に不満を持って、エリオットのもとに走ってしまう。
 ハンナの前夫のミッキー(ウディ・アレン)は病気恐怖症。
 常に病気に自分が死ぬことに怯え、神経症になっている。
 そして脳腫瘍の疑いが出て来たことで、死を目の当たりにした時(実は何でもなかったのだが)、救い・人生の意味を求めて宗教に走る。(カトリックからクリシュナ狂まで)
 もうひとりのハンナの妹・ホリー(ダイアン・ウィースト)は役者として売れず、ケータリングサービスの事業を行ったり、芝居を書いたりして、何をやりたいのかわからない。

 ウディ・アレンの映画は、愛を求め人生の意味を求めて右往左往する人間をユーモアをもって描く。
 永遠に続く愛などないし、人生の意味などないことを知りながら、劇中の人物はそれらを求めてやまない。
 そして、そうすることが人間として素晴らしいことだと言っている様だ。
 愛や人生の意味がないことで虚無に陥ってしまうよりはその方が断然マシ、この作品では「マルクス兄弟」の映画が引用されたが、その方が断然楽しいと主張している様だ。
 それはほんの一瞬でも「愛の喜び」や「人生の意味」を感じられれば、人は幸せになれるからだ。
 「愛」や「人生の意味」に裏切られ、失望しても「人のハートは思ったよりも柔軟で強い」からだ。
 それらがどんなに滑稽であっても。
 あがけ!立ち向かえ!とウディ・アレンは言う。

★追記1
 よくウディ・アレンの映画は、女性を求めて走る男の姿が滑稽に描かれるが、「走る男」こそウディ・アレンの映画の基本である。(今回は偶然の出会いを装うためにエリオットが走った)。

★追記2
 ラストのホリーの妊娠。ミッキーには精子がない。
 これをどう捉えるか?
 愛の結実による神様の贈り物?ハッピーエンド?
 僕はむしろミッキーの不安の始まりと考えたい。
 ホリーは奔放な女性、他の男と寝てもおかしくない。お腹の子は自分の子か違う男の子かでミッキーはさらに不安になるのだ。人の幸せは永遠でない。

★追記3
 心が揺れ動く人物たちの中で唯一、安定しているのがハンナ。
 役者としての仕事も認められ、家庭も表面上は円満。夫・エリオットの不倫はハンナに知らされることはない。
 ハンナが劇中で見せるのは、不倫で悩む夫が苛立っているのに少し不安になるのと妹にハンナと夫との生活をモチーフにした芝居を書かれて怒るくらい。
 よく出来た人物。
 このハンナの様な人物をアレンがどう捉えているかは検討を要する。
 一見、幸福に見える生活の中にある危機みたいなことを象徴しているのか?
 「セプテンバー」では浮気がバレて嘆き悲しむ人物(演じているのは同じミア・ファロー)が描かれているが。

★追記4
 リーの同棲相手の画家・フレデリック。
 これもウディ・アレンの映画にはよく出て来る人物だ。
 「インテリア」の母親。
 知性的で自分の価値観の中に他人を当てはめようとする。
 その近くにいる人物は皆息苦しくなって、離れてしまう。

★あらすじ(goo映画より引用)
 ハンナ(ミア・ファロー)の家では、毎年恒例の感謝祭のパーティが行なわれていた。
 ハンナは三姉妹の長女で、父(ロイド・ノーラン)と母(モーリン・オサリヴァン)は元俳優という芸能一家に育ち、彼女も女優をしながら主婦業もこなし、夫エリオット(マイケル・ケイン)と平和な家庭を作っている。ハンナには2人の妹がおり、次女ホリー(ダイアン・ウィースト)は売れない女優で、時々、ハンナに借金を頼みに来るが彼女は快く応じていた。
 一方、三女のリー(バーバラ・ハーシー)は画家のフレデリック(マックス・フォン・シドー)と同棲している。さて、パーティで久しぶりにリーと再会したエリオットは、彼女の若々しい魅力に引かれていく気持を押さえることができなかった。リーも厳格で排他的なフレデリックとの生活を息苦しく思っていた時だけに、ハンナに申し訳ないと思いながらも、義兄の胸に抱かれた。
 ある日、ハンナの家に前夫のミッキー(ウッディ・アレン)が訪ねて来た。かつて、ミッキーに子種が無いことから夫婦関係がおかしくなり別れてしまったのだが、今では友人として付き合っている。テレビのプロデューサーのミッキーは一種の病気恐怖症で、常に自分が何かの病気に冒されているという恐怖におののいていた。
 女優としての仕事がないホリーは友人のエイプリル(キャリー・フィッシャー)と仕出し料理屋をやるがうまくいかず、しかも好感を抱いていた建築家もエイプリルにとられてしまった。そんな時、ホリーはミッキーと偶然、再会、デートを重ねるようになった。
 エリオットとリーの許されない関係は深みにはまっていき、ついにリーはフレデリックの許を去った。エリオットも自分をひたすら信じてくれるハンナへの断ち切れぬ思いに苦悩する毎日だった。
 一方、女優を諦めたホリーは小説を書きはじめ、ハンナとミッキーの夫婦生活をテーマにした小説がベストセラーとなり、ミッキーとも結ばれた。
 エリオットもリーとの関係を精算、ハンナの許へ戻った。そして、また感謝祭がやって来た。
 ホリーはミッキーと、またリーは結婚したばかりの夫と共に出席した。この1年、三姉妹に様々な曲折があったが、今は幸せに満ちていた。そしてホリーはミッキーに告白した。私、妊娠したの。
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誰よりもママを愛す 「優等生の正体」 

2006年07月24日 | ホームドラマ
 「誰よりもママを愛す」第4回は、おにいちゃん・嘉門 明(玉山鉄二)の話。

   1
 明はこんな青年。
 他人に嫌われたくない。よく思われたい。
 でも結果、自分を押さえてしまう人間。
 自分を押さえてしまうから、心の中は満たされずイライラしている。
 これはズケズケ物を言って他人を振り回してしまうおねえちゃん・嘉門 雪(内田有紀)の反動か?
 明と対照的なのは、パパ・嘉門一豊(田村正和)とママ・嘉門千代(伊藤 蘭)だ。
 ふたりは自分というものをしっかり持っている。
 パパは「誰よりもママを愛す」という点で揺るぎがない。
 ママは仕事・家族すべてにおいて自分の考えをしっかり持っている。
 また、明ともうひとり対照的なのは、隣人の津波こずえ(小林聡美)。
 ピンコ(阿部サダヲ)に諦めてもらうため恋人のふりをしてもらうよう頼まれたこずえは明に言う。
「もうやめよう、こんなバカバカしいの。あんたはこの人を傷つけまいとしているのかもしれないけど、正直に自分の気持ち話したほうが、よっぽどマシだと思うけど。嫌いなら嫌いってはっきり言えばいいじゃん。あんたみたいなヤツとは、日本の政治家がみんな立派になろうが、アメリカが戦争を放棄しようが絶対に付き合えない」
「あんたの優しさって、それ本当の優しさじゃないから。あんたは結局、自分がいい人間だって思われたいだけなの。だから好きでもない人間に優しくするのよ。相手に自分を好きになってほしいだけなの。それがわかれば満足だから、向こうがそれ以上の関係になろうとすると困るの。逃げようとするの。ようするに、人をちゃんと愛する勇気がないのね」

 他人にいい顔をしてしまう明と近所の鼻つまみ者のこずえと比べて、どちらが魅力的か?
 明とこずえを対比して視聴者は考えてしまう。
 表面的につき合う分には明のようなタイプは楽だ。いい子だし、優しいし、つき合って自分が傷つくことはない。
 一方、こずえはつきあいづらい。いつ敵意を向けられるかわからない。
 でも、深くつき合ってみると、こずえの方が魅力がある。

 自分の感じたこと、思ったことをまず口に出して表現してみることは大切だ。
 そうしないで他人の顔色ばかりを見ていると、いつか自分を見失ってしまう。
 自分で考えられなくなってしまう。
 自分の人生がドンドン流されていってしまう。
 自分の心が空虚になってしまう。
 他人と本当の信頼など得られなくなってしまう。

   2
 さて、今回は「人を愛すること」についての重要な示唆もあった。
 パパはママへの愛をこう語る。
「ママと一緒にいると、退屈しないんだよな~。いくつになってもさ、新しい発見がいっぱいあってさ~。結婚したときは、本当に綺麗だな~と思ったけど、パパも若かったし、ママが年を取っても愛し続けられるかどうか自信がなかった。でも30過ぎて、ママの目じりにシワが増えた時、ママは気にしてたけども、パパ思ったんだよ。ママを笑わせたり喜ばせたりして、もっとそのシワを見ていたいなって。死ぬまでそばにいて、ママが年を取るのを見守るのが、自分の使命なんだって」
 共に過ごしていれば、マンネリになってくるのが人間関係。
 この様に人に対峙できるパパは素晴らしい。
 ドラマの絵空事と思わず、まず実践してみたい。
 そうすればパパが言うように毎日が「ハッピー」だろう。
 人の幸せや人生の意味はこんな所にあるように思う。

   3
 ドラマの作り方としては、ピンコ、山下(劇団ひとり)、そして家出していたおねえちゃんが同席した食事のシーンが勉強になった。
 食事のシーンなのにすごいサスペンスがある。
  1.ママとおねえちゃんの確執。
  2.ピンコがオカマだとバレるか否か?明との関係は?
  3.山下とおねえちゃん、嘉門家との微妙な関係。
 どの要素をとっても、この一見平和な食事シーンが壊れる可能性がある。
 サスペンスドラマで犯人が迫ってくるだけがサスペンスじゃない。
 食事のシーンにもサスペンスがある。 
 ホームドラマのハラハラドキドキはこう作られるのだと思った。
 この辺は「プリマダム」の家庭シーンと比べてみると面白い。
 後半、万田家にはバレエをすることを容認されてサスペンスがなかった。
コメント (2)
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ピーター・セラーズ

2006年07月23日 | 監督・俳優・歌手・芸人
 ピーター・セラーズが大好きで、彼の映画を追いかけて見ていた時期があった。
 大爆笑の「ピンクパンサー3」から始まって、ピンクパンサーシリーズをすべて。「ピンクの豹」は脇役だったが見事に主役のD・ニイブンを喰っていた。そのクルゾー警部はやはりインパクトがあったらしく、彼が主役でシリーズになった。
 その次は「博士の異常な愛情」。ひとり4役の名演だった。これでピーター・セラーズが大好きになった。
 そして「チャンス」。喜劇俳優ピーター・セーラーズとは180度違う静かな演技。汚れのないきれいな心を見事に演じきった。
 最後に見たのは「天才悪魔フーマンチュウ」だったと思ったが、これはあまり笑えなかった。

 さて、そんなピーター・セーラーズへの想いが募って「ピーター・セーラーズの愛し方 ライフ・イズ・コメディ」(THE life and death of Pater Sellers)を見た。
 実際のピーター・セーラーズは凄まじい人だったらしい。
 まさにわがままな子供。
 例えば、こんなエピソードがある。
 新車を購入したピーター。ところが車に傷を見つける。彼は激怒してディーラーを呼びつけるが、長男のマイクが子供なりの気を利かせて、傷の上に白いペンキを塗り、「パパ直ったよ。レーシングカーみたいでカッコイイでしょう」と言う。 
 これに対してピーターはこんな行動をする。
 マイクの部屋に入るとマイクのおもちゃを踏みつぶすのだ。
 ピーターは言う。「大事な物を壊されたらどんなつらいか思い知らせてやる!」
 こうしたピーターの性格形成には母親の影響があったらしい。
 母親はだだをこねる子供のピーターに言われるままに従った。そして父親のような平凡な人生を送ってはいけないとピーターに過度の期待をかけた。その結果、ピーターは我慢や満足を知らない人間になった。
 自分の思い通りにならなければ怒り出す。
 満足をすることを知らないから、いつも何かを求めている。
 それは彼の家庭もそうだった。
 役者として実績を作り出した頃、彼には妻と子供ふたりがいたが、ソフィア・ローレンと共演し彼女のことに夢中になると、離婚を言い出す。「理由は家族よりソフィアのことを愛しているから」。一方、ソフィア・ローレンはピーターのことなど眼中にない。ピーターの勝手な思いこみ。結局、ソフィアと結婚できないと分かると、ソフィア・ローレンのカメラテスト用の代役と寝て、家庭に戻れば復縁を求める。
 このようなピーターの行為は死ぬまで続く。
 満足ができないから、結婚して一時、幸せになっても次の対象を求めてしまう。子供が出来て喜ぶ2番目の妻には下ろせという。理由は自分にとって今は俳優として重要な時期だから。
 満足を得られない彼の想いは仕事でも同じだった。
 彼は自分の当たり役・ピンクパンサーのクルーゾー警部が大嫌いでやりたくない。試写を見てひどい演技だと言う。世界中が彼のクルーゾーを求めているにも関わらず、彼はいつも違うという想いにとらわれている。
 ピーターはそんな自分の苦しみをこう語る。
「自分はいろいろな役になりきることが出来る、役をとったら自分には何も残らない。スクリーンの中の自分は自分でない。自分を演じたい」
 一体、ピーターの言う自分とは何であろうか?
 自分はこうありたいという理想の自分がいる。
 役者としても家庭人としても。
 しかし、彼の理想ははるか彼方にあるから今の自分は嘘でしかない。つまらない役、面倒くさい妻やまわりに振り回されて理想の自分に近づけないことに癇癪を起こす。
 まさに満足できない人間の悲劇である。
 人は今の自分に満足できないと心は穏やかになれない。
 最後、ピーターは自分がここから演じたい作品「チャンス」を製作・主演する。
 製作費を稼ぐために「ピンクパンサー」にも出た。
 「チャンス」を作ることが出来てやっと心穏やかになるピーター。
 映画のラスト。
 ピーターは「ピンクパンサー4」の相談に来たブレイク・エドワーズに会うことが出来ず、打ち合わせのレストランの中に入ることが出来ない。入ってしまえば、「チャンス」の心地よい達成感が覚めてしまうと彼は思ったのだろうか。

 この映画「ピーター・セラーズの愛し方 ライフ・イズ・コメディ」を見て、自分がワクワクして見てきた作品にこんなエピソードがあったのかと驚かされる。
 あんな完璧な喜劇役者が自分の仕事に満足していなかった。
 「ピンクパンサー」に満足していなかった。
 この作品を見た後で、ピーター・セラーズの作品を見たら、別の面が見えてくるかもしれない。

★追記
 この作品には「博士の異常な愛情」を撮ったスタンリー・キューブリックが出て来る(もちろんキューブリック役の役者だが)。
 ここでキューブリックはピーターをこう評する。
「彼は何もない空っぽだ。だからいろいろな人間になり切ることができる」
 これは役者論としては面白い。
 自分のない空っぽな人間が役者向きなのか?自分のある人間が役者向きなのか?
 確かに役に自分を投影させる役者がいる。自分の歩んできた人生を見事に役柄に繁栄させる役者がいる。(作品はその人間の反映)
 一方、何もないピーターの様な役者は?
 役者論としてピーター・セラーズの作品を見るのも面白い。

★追記
 この作品にはいくつかの表現手法があった。
1.役者がいきなりカメラ(観客)に向かって話し始める。
 「実は私、彼の人生についてこう思うんですよ」みたいな感想を言う。
2.対峙して演じてきた役になる。
 今まで話をして喧嘩してきた妻に、次のシーンでピーターが妻を演じるのだ。妻と同じ服装・かつらをつけて。
3.前のシーンについて感想を述べる。
 8ミリカメラを回しているピーター。その撮ったフィルムを再生してコメントを述べる。
 これらの効果も検証してみると面白い。
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ハウルの動く城

2006年07月22日 | コミック・アニメ・特撮
   1
 昨日放映された「ハウルの動く城」。
 テーマは「人のために生きること」「人に心を開くこと」。
 ソフィ(倍賞千恵子)は、魔法により老婆に姿を変えられてしまったが、人のために勇気を持って立ち向かう時、姿がもとに戻る。
 ハウル(木村拓哉)は天才魔法使いだが、弱さから悪魔と契約、魔王に変貌しようとしている。そんなハウルがソフィのため戦う時だけ、意思と元の姿を取り戻す。
 「人のために生きること」「人に心を開くこと」というテーマは手垢のついたテーマだが、姿形が変わるという暗喩で見せてくれるといきいきとしてくる。

   2
 ハウルの城が動くシーンが面白い。
 城が動く原動力は、火の悪魔カルシファーの力らしい。
 あんな建物が細い足を使って、ヨロヨロと歩く。
 すごいイメージだ。
 その他、美しい港の町並みやユーモラスな火の悪魔カルシファー、言葉はしゃべらないがいつもソフィをあたたかく見つめているかかしのカブ(実は王子様)など、この作品は豊かなイメージがいっぱい。「千と千尋の神隠し」が日本のイメージを凝縮したものなら、「ハウルの動く城」は西洋のイメージを凝縮したものだろう。
 最近の宮崎駿作品には、遊園地にいるような楽しさがある。
 また、カットのひとつひとつが美しい絵画。目の贅沢、心の贅沢だ。これは決してVFXでは表現できないもの。
 ファンタジーにはアニメーションの表現が最適だ。

   3
 荒地の魔女(美輪明宏)や火の悪魔カルシファーなどの悪役が魅力的だ。
 特に荒地の魔女はソフィたちを危機に陥れる行動ばかりをする。敵をおびき寄せる煙草を吸ったり、ハウルの心臓を欲しがったり。
 しかし、魔力を奪われてただの老女になった彼女には悪気はない。ただ昔の本能・欲望に忠実に行動しているだけである。またソフィも「あらあら、おばあちゃん、そんなことをしては駄目よ」と優しくたしなめている。
 この辺の兼ね合いが面白い。
 カルシファーもハウルから心臓をもらうことで契約した悪魔だが、城の動力になったり、敵からハウルの家を守るような働きもする。
 悪でありながら善もする。善でありながら悪もする。この不安定さが面白い。そして彼らが悪をする時は自分の心が欲望や不安にとらわれた時だ。
 それはほとんど崇高でいられない、あるいは弱さでいっぱいのわれわれ人間というものを象徴している様だ。
 宮崎駿監督の目はこういう所、あたたかい。
コメント (2)
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