平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「光る君へ」 最終回「物語の先に」

2024年12月16日 | 大河ドラマ・時代劇
 道長(柄本佑)の死。
 道長の生きた意味とは──
「いくさのない太平の世を守られました」
「源氏の物語はあなた様なしでは生まれることはありませんでした」
 これだけで道長は救われたことだろう。
 何しろこれを大好きなまひろ(吉高由里子)に言われたのだから。

 そんな道長の人生に欠けていたものがある。
 まひろと共に歩む人生だ。
 しかし、これはかなわない。
 別の人生を歩まねばならない。
 だから、まひろは物語をつくる。
 貧しい家に生まれた三郎という少年の物語だ。
 三郎はそこで少女に出会う。
「続きはまた明日」
 道長の命を繋ぎとめるために、まひろは続きを明日にのばす。
 続きを知りたくて道長は生きようと思う。
 しかし……。
「生きることはもうよい」
 物語の力にも限界があった。
 物語は心を癒し、慰めることができるが、やはり「幻」でしかない。
「もうよい」と言われて、まひろは物語のラストを語る。
「川のほとりで出会った娘は名を名乗らず去っていきました」
「三郎が手を差し出すと、その鳥が手のひらに乗ってきたのです」
 つまり少女は「小鳥」だったのだ。
「小鳥」が意味する所は──「自由」そして「まひろ」。
 娘が名を名乗らずに去っていったのは、何ものにも囚われたくなかったからかもしれない。
 三郎の手のひらに止まったのは、三郎のことが好きだったからなのだろう。
 この作品で「小鳥」が象徴することはさまざまだ。

 そして「手のひら」。
 死の床にある道長はまひろに手を握られて、息を大きく吐き、安らぐ。
 手のひらの温もりは人に力を与える。
 命を繋ぎとめる力にもなる。
 それが愛するまひろなら尚更だ。

 しかし、倫子(黒木華)がやって来て道長の死を確認した時、誰も道長の手を握っていなかった。
 繋ぎとめる手がなくなって、道長は旅立っていった。
 人はひとりで死んでいくものだと思うが、孤独でさびしい死だ。
 死ぬ瞬間、道長は何を思ったのだろう?
 まひろのことか? この世のむなしさか?
 でも、もしかしたら道長は自分の手のひらの上に小鳥が止まるのを見たかもしれない。

 なかなかドライな死の描写だった。
 物語の限界を描き、死の孤独を描き……。
 それでいて、手のひらや小鳥のことなど感傷的な描写もあった。
 …………………………………………

 まひろは離れていても道長の死を確認できたようだ。

 夫・宣孝(佐々木蔵之介)の時のように人づてに「亡くなりました」では、本当かどうかわからず、
「幻を追いかけて狂ってしまう」と語っていたまひろ。
 しかし、道長は「まひろ」と語りかけてくれた。
 これで死を確認できた。
 
『めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな』

『百人一首』にもある、友にあてて歌ったとされる紫式部の歌で、
 賢子(南紗良)もそう言っていたが、視聴者には「道長」のことだとわかる。

 そして道長が亡くなって囚われるものがなくなったまひろ。
 自由になったまひろは旅に出た。
 そこで見たものは──
「道長様、嵐が来るわ……」
 太平の世の終わり、武家の時代の到来である。

 このラストについては賛否の分かれる所であろう。
 実にドライ過ぎる。
 もう少し感傷的で泣かせてほしい気もする。
「自由」「旅」もずっと内包していたテーマなんだろうけど、ここを掘り下げるか? と思った。
 ………………………………………

 個々の登場人物についても簡単に。

・頼通(渡邊圭祐)
  身内を登用。強権的に。
・道綱(上地雄輔)
  政とは「地位だな」
・源俊賢(本田大輔)
 「出世」できたのは明子のおかげだ。

 これでは世は乱れるよね……。
 道長の考えがまったく理解されていない……。
 道長が「世の中はまったく変わっていない」と嘆くのも当然。
 そんな中、

・隆家(流星涼)
「内裏の虚しい話し合いに出ずともよくなっただけで清々した」
 実に清々しい。

・公任(町田啓太)、斉信(金田哲)、行成(渡辺大知)
 道長との友情を貫き通した。
 特に道長と同日に亡くなった行成。

 女性たちは──

・倫子(黒木華)
「次の帝も、その次の帝も、わが家からお出ししましょう」
 道長と彰子をまひろに奪われた倫子にとって、
「家の隆盛」が彼女のアイデンティティだから仕方ないか。

・彰子(見上愛)
「他家を外戚としてはならぬ。わが家を凌ぐ家が出て来るやもしれぬ」
「皇統は一条帝の皇統のみになった」
 彰子も「家」を重視する考えになったようだ。
「一条帝の皇統」へのこだわりは一条天皇への思いゆえだろう。

・赤染衛門(凰稀かなめ)
『栄花物語』を書き上げた。作家としての自分の評価にこだわっている。
 倫子に「わたしの誇り」と言われたことで救われた。

・清少納言(ファーストサマーウィカ)
「一条の帝の心を揺り動かし、政も動かしました。
 まひろ様もわたしもたいしたことを成し遂げたと思いません?」
 清少納言らしい発言だ!

・いと(信川清順)
 最終的に、いとの心の中にいたのは惟規(高杉真宙)だった。

・賢子(南紗良)
「わたしは光る女君になります」
 恋多き女性に。
「上流だってすぐれた殿御はめったにおりませんことよ」
 このあたりは、さすがまひろの子。

 そして──
・乙丸(矢部太郎)
 まひろの永遠の同行者だった。
 それと、きぬ(蔵下穂波)は亡くなってしまったんですね。

 サブの登場人物にも「物語」がある。
 ひとりひとりを掘り下げてもドラマになりそうだ。

 平安時代を扱ったこと。
 物語が現実を動かしたこと。
 ひとりひとりの登場人物にドラマがあったこと。
 お見事な作品でした。
 一年間楽しませていただきありがとうございました。

コメント (10)
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「光る君へ」 第47回「哀しくとも」~人生は虚しい。であれば好き勝手に思うがままに生きよう。

2024年12月09日 | 大河ドラマ・時代劇
 周明(松下洸平)の死は感傷や劇的要素を排除していた。
 最期の言葉は特に何かを語るわけでなく、「逃げろ……!」
 遺体は弔われることなく、そのまま放置。
 これが平安時代のリアリズム。
 その後は太宰府で悲嘆に暮れているまひろ(吉高由里子)。

 この描写が表わす所は何だろう?
 すべては虚しい。
 現実とはこんなもの。
 死とはこんなもの。
 人はただ生きて死ぬだけ。
 まひろはこう痛感したに違いない。

 道長(柄本佑)のおこなって来たことも虚しかった。
 武者を派遣することで頼通(渡邊圭祐)と対立。
「民があまた死んでおるのだぞ! おまえはそれで平気なのか?」
 しかし頼通は「前例なきこと」「やり過ぎ」「しばし様子をみましょう」と取り合わない。
 公卿たちも実資(秋山竜次)以外は同じ反応。
 つまり前例主義。
 公任(町田啓太)は、隆家(流星涼)が政敵になることを懸念して褒賞を与えることに反対した。
 つまり民のためではなく政治まわりの判断。
 いったい道長のやって来たことは何だったのか?
 息子や親友にまったく理解されていない。
 道長の思いや考えがまったく後継者や仲間に伝わっていない。
 この虚しさ。無力感。

 道長は痛感しただろう。
 人の人生とはこんなもの。
 信念に基づいて何かを成し遂げてもいずれは風化する。壊れてしまう。

 人生の虚しさを知って死に向かっているまひろと道長。
 だが、彼らとは逆の思いを抱く人たちがいる。

 まず乙丸(矢部太郎)。
「都に帰りたい!」「きぬに会いたい!」「きぬに紅をあげたい!」
「お方様と帰りたい!」「お方様帰りましょう」
 ○○したい。
 欲望は生きていく原動力だ。
 乙丸は生きることを志向している。

 娘・賢子(南紗良)は、どう生きればいいか、を聡明に語る。
「人とは何なのか考えさせられました。
 誰の人生も幸せではない。良い時は束の間。幸せは幻。
 どうせそうなら好き勝手に生きてやろうと考えました。
 わたしは光る女君になります」

 人生は虚しい。
 生きることは徒労。
 だからこそ好き勝手に生きる。思いのまま生きる。

 ふり返れば『源氏物語』の光源氏の生涯がそうだった。
 光源氏は苦労もしたが、好き勝手に思うがままに生きた。
 まひろは、書くことで「好き勝手に思うがままに生きること」を光源氏に託したのだ。
 それは自分が出来なかったことだから。
 まひろは道長とどこかで生きることを諦めた。
 直秀(毎熊克哉)と遠い国で生きることを諦めた。
 宋に行くことも諦めた。

 人生は虚しい。
 だから思うがままに生きよう。
 これが今作のメッセージのひとつなのだろう。

 そして時代は変わる。
「朝廷は武力を持つべきだ」
「殺さなければ殺される」
「民を守るのは武者なのだ」
 優雅な貴族社会から武士の世界へ。
 これもまた諸行無常。
 すべては変わっていく。

 次回は最終回。
 予告を見るかぎり、明るく終わりそうだ。
 皆が楽しそうに笑ってる。
 清少納言(ファーストサマーウィカ)も笑っていた。
 どのような最終回になるのだろう?


※追記
 実資は物事を論理立てて考えられる人物。
 都であぐらをかいていた公卿ではなく、命がけで戦った隆家と武者たちを評価。
 褒賞を与えないと、今後危機があっても誰も戦わなくなると判断。
 公卿(官僚)の前例主義とは大きく違う。

※追記
 やり残したことは、倫子(黒木華)さまとの対決。
「それで、あなたと殿はいつからなの?」
 さて次回どのようなやりとりがなされるのだろう?

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「光る君へ」 第46回「刀伊の入寇」~書くことはどこででもできる。紙と筆と墨があれば

2024年12月02日 | 大河ドラマ・時代劇
 宮廷から解放されて自由になったまひろ(吉高由里子)。
 しかし、自由とは不安になることでもある。
 解放されて一時の高揚感を得られるが、やがて自分が何者であるか、わからなくなる。

 たとえば会社員は会社に勤めている時は「会社員」でいられる。
 母親は子育てをしていれば「母親」でいられる。
 それらがなくなった時、自分は何者なの? と考え始める。

 まひろは自分の思いを周明(松下洸平)に語った。
 道長(柄本佑)については、
「あの人はわたしに書くことを与えてくれたの。
 書いたものを大勢の人に読まれる歓びを与えてくれた。
 私が私であることの意味を与えてくれたのよ」

 現在の気持ちについては、
「もう私には何もないの。
 あの人に役立てることは何もない。
 都にも私の居場所がない。
 何かを書く気力もない。
 わたしは終わってしまったの。
 終わってしまったのに、それを認められないの」

 今作の特徴は登場人物が多くを語らないことだが、今回のまひろは多弁だった。
 自分の思いを素直に語った。
 まひろは「自分探し」をしている。
 いや、もはや自分探しをする気力がなくなっている。
 まひろは完全に燃え尽きてしまった。

 自分には何もないと嘆くまひろに周明はこう語る。

「まだ命がある。これから違う生き方ができる」
「書くことはどこででもできる。紙と筆と墨があれば。都でなくても」

 さて、まひろは「第二の人生の自分探し」にどう結論を出すのか?
 周明の言葉と死はまひろに何をもたらすのか?
 太宰府に戻った時、周明は何を語ろうとしていたのか?

 おそらく、まひろはまた何かを書き始めるのだろう。
 まひろの生涯は「書くことがすべて」だったから。
 では何を書くのか?
 その答えは次回。


※追記
 枯れてしまったまひろと対照的に、書くことに意欲旺盛な赤染衛門(凰稀かなめ)。
 発注は道長の物語だったのに、宇多天皇の時代から書き始めた!
 余裕があれば、藤原氏が隆盛を誇るきっかけとなった大化の改新から書きたかったらしい。笑
 赤染衛門が書きたかったのは、仮名による壮大な歴史書!
 まひろより年齢が上だと思うけど、赤染衛門のこのパワーはすごい。
 まひろ、枯れている場合ではないぞ。
 それと「栄花物語」の成立をこんなふうに解釈するとは!
 
※追記
 紫式部の後半生や殁年は明らかになっていないので、太宰府パートは作家が自由に書けるパート。
 脚本・大石静さんは「作家が筆を折るとはどういうことなのか?」と追及したくなったのだろう。
 それと大石静さんのだんなさんは「光る君へ」執筆前に亡くなったらしい。
 周明が亡くなり、道長が亡くなり……
 ここからは大石静さんの「私小説」パートになるのかもしれない。

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「光る君へ」 第45回「はばたき」~解放されて自由になったまひろ、解放されない道長

2024年11月25日 | 大河ドラマ・時代劇
 籠の小鳥は解き放たれた。

『源氏物語』を書き終え、宮廷での仕事も終え、
 賢子(南紗良)が宮仕えして、娘の将来も家計も安定して、
 まひろ(吉高由里子)は須磨や太宰府に旅をする。
 まひろは自由だ。
 空を見上げれば、飛び立つ小鳥。

 一方、道長(柄本佑)。
「行かないでくれ」
 こう懇願する道長はまひろに未練いっぱいだ。
 まひろは道長の心の支えだった。
 まひろがいなくなれば弱くなる。
 すべての権力を手に入れたのにこの弱さ。

 こんな道長を解き放つ方法は出家だった。
 権力を捨て、まひろへの執着を捨て自由になろうとした。
 まひろと駆け落ちするという道もあったが、道長は多くのものを背負いすぎている。
 駆け落ちすれば宮廷は大混乱になるだろう。
 だから残された道は出家だった。
 しかし出家しても政治まわりのことはついてまわる。
 まひろへの未練も残っているだろう。
 いまだに自由になれない道長。

 解放されたまひろと解放されない道長。
 人の一生とは何なのかと考えてしまう。
 あまりに多くを持ちすぎると自由になれない。

 出家するシーンで道長は涙を流した。
 道長の心に去来したのは「悔恨」や「虚しさ」だろう。
 道長の幸せとは──
 まひろと人生を過ごすことだった。
 自分はどこで道を間違えたのか?
 権力や地位や金──自分が得たものはこれでよかったのか?
 自分の人生とは何だったのか?

 道長、不器用な人生だなぁ。
 まあ、権力者の家に生まれてしまったのだから仕方ないのだけれど。
 ふたりの兄が先に逝ってしまったから引き受けざるを得なかったのだけれど。

 一方、まひろは前半は苦労したものの、後半は聡明に淡々と生きていった。
 道長への思いもとっくに清算していて、これからも好奇心の赴くまま自由に生きていくだろう。

 さて次回は「刀伊の入寇」「周明との関わりふたたび」
 最後にもうひと山ありそうだが、残り三話、まひろと道長の人生をどう描くのか?
 特に道長の人生はまだ燻って、総括されていない。
「悔恨」「虚しさ」とは別の境地にいってほしい。


※追記
 倫子(黒木華)さま。
 道長が出家する理由を尋ねて、
「藤式部がいなくなったからですの?」
 倫子さま、やはり気づいているな。

※追記
 道長の物語をまひろは断り、赤染衛門(凰稀かなめ)が書くことになった。
 すなわち『栄花物語』。

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「光る君へ」 第44回「望月の夜」~まひろとの約束を果たしたことを歌に込める道長。まひろもそれを理解する

2024年11月18日 | 大河ドラマ・時代劇
 道長(柄本佑)、ついに絶対的な権力を手に入れた。

 三条天皇(木村達成)は譲位、そして亡くなった。
 結果、道長の孫・敦成親王が帝・後一条天皇に。
 長男・頼通(渡邊圭祐)は摂政に。

 娘・彰子(見上愛)は太皇太后。
 娘・妍子(倉沢杏菜)は皇太后。
 娘・威子(佐月絵美)は皇后(中宮)に。
 つまり三后の独占だ。

 そして祝いの席。
 道長の盃を、頼通から始まって重臣たちがまわし合う。
 つまり道長を中心に結束していくという意味だ。

 そんな状況で道長が詠んだ歌が──
『この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』

 道長はこの歌の返歌を実資(秋山竜次)に求める。
 実資は三条天皇に通じていた半分・反道長派だ。
 そんな実資は返歌を求められて「返す歌がない。復唱するしかない」と答える。
 つまり実資も道長に屈した。
 清少納言(ファーストサマーウィカ)が男性でこの場にいたら、皮肉を込めた歌を返しただろう。

 絶対的な権力を手に入れた道長。
 しかし、この場に集った人たちの思いはさまざまだ。
 素直に共感した者もいただろうが、道長の権勢の道具にされた妍子と威子は納得していない。
 彰子は「女子の心をお考えになったことがあるのか?」と責めたが、一定の理解はしている様子。
「当りを引いた」倫子(黒木華)は嬉しそう。

 そして、まひろ・藤式部(吉高由里子)。
 最初にこの歌を聴いた時は、「我が世の春を謳歌している」と解釈して怪訝な表情をしていたが、
 後に別の解釈をした様子。
 道長はこの歌を通してまひろに「月の夜にかわしたおまえとの約束をついに果たしたぞ」という
 メッセージをおくったのだ。
 この場合、「この世」とは「この夜」
「わが世」の意味は「わたしの生涯」
 大胆に意訳すると、
「今夜はわたしの生涯で最高の夜だ。月は欠けていない。まひろとの約束を交わした夜の月のように」
 さらに今作の流れで真意を解釈すると、
「絶対的な権力をもった自分は政敵を気にせずに、思いきり民のための政治ができる。
 おまえとの約束を果たしたぞ」
 このメッセージに微笑むまひろ。
 台詞で語られなかったが、
「道長様、お疲れ様でした」
「三郎、やったわね」
 みたいなことを思っていたのかもしれない。

『望月の歌』をこう解釈してドラマにしてしまう脚本・大石静さん、お見事です。
 同じ歌でも見方を変えると、違った姿が見えてくる。

※追記
『望月の歌』を次のように解釈している学者さんもいる。
 平安文学研究者の山本淳子さんだ。
 山本教授の解釈によると、
「この世」とは「この夜」
「望月」は「盃」と「后」
 意訳すると、
「この夜はわが人生の最高の時だ。
 盃を交わす仲間も三人の皇后たちも誰ひとり欠けることなく集っているのだから」

 山本教授が「望月」を「満月」と解釈しない根拠は、道長がこの歌を詠んだ日が暦学・天文学的に
「満月」ではなかったかららしい。

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「光る君へ」第43回「輝きののちに」~三郎のままの道長。聡明な大人になったまひろ

2024年11月11日 | 大河ドラマ・時代劇
 自分を客観的に見ること──これはなかなかむずかしい。
 道長(柄本佑)もそうだ。

 目と耳を病んだ三条天皇(木村達成)。
 道長は譲位させようとする。
 病では適切な政務をおこなえないと考えたからだ。
 だが、他者には「自分の孫の敦成を帝にしようとしている」と見える。
 権力をふるい、政敵を排そうとしているように見える。

 しかし道長はこれを理解できない。
 実資(秋山竜次)にその強権的な姿勢を糺されても
「思いのままの政をしたことなどない。まったくない」
 実資に「志を追いかける者が力を持つと、志そのものが変わる」と言われても
「おい、意味がわからぬ」
 道長には自分が強権をふるっているという自覚がない。

 今まで道長の志も他者にはおかしく見える。
 道長の志「民が幸せに暮らせる世をつくる」は他者・実資から見ると、抽象的で曖昧だ。
 道長は実資に言われる。
「民の幸せとはなにか?」「そもそも民の暮らしが見せておるのか?」
 これは僕も同じ疑問を思っていた。
 でも、道長は純粋に民のために政治をおこなっていると考えている。
 …………………………………

 道長は善良な為政者だ。
 隆家(竜星涼)の大宰府人事も目の病を治すため。
 独裁的になるのを嫌がり、あくまで陣の定めに従う。
 政敵は光の力で勝手に自滅してくれる。

 そして鈍い。
 誰かに指摘されるまで気づかないことが多く、指摘されてショックを受ける。
 今回の行成(渡辺大知)がそうだ。
 倫子(黒木華)の「どこぞのおなごを愛でておられる」という指摘に対するリアクションもそうだ。
「民が幸せに暮らせる世をつくる」という志も子供っぽい。
 いわば、「三郎」がたまたま権力を持って、為政者になったような感じだ。

 ここに来て、道長下げが始まった。
 だが、それは愛すべき存在としての道長下げだ。
 今回のサブタイトルは「輝きの後に」。
 輝きが薄れ、道長のありのままの姿が見えてきた。

 一方、そんなありのままの道長を理解しているのが、まひろ・藤式部(吉高由里子)だ。
 藤式部は彰子(見上愛)に言う。
「人の上に立つ者はかぎりなくつらく、さびしいもの」
 彰子はこれを受けて、
「藤式部は父上びいきであるのう」

 道長が三郎のままなのに対し、まひろは聡明な大人になっている。
 以前は、男に生まれたかった、というギラギラした思いを抱いていたが、
 今は道長を支え、女性でなければできない仕事を成し遂げ、女性であることを肯定している。
 道長と対照的に、すべてのことが客観的に見えている。
 賢子(南紗良)と双寿丸(伊藤健太郎)のことも、
「昔ならできなかったことを軽々と乗り越えている」
 双寿丸の本心はわからないが、
 賢子を連れて行かない理由を「危険な目に遭わせたくないから」と話し、慰めた。

 さて、まひろは今後どのような心境になっていくのだろう?


※追記
 心が安定して、やすらかになった人がふたり。

・敦康親王(片岡千之助)
 もともと権力への執着の少ない人物であったが、妻を得て彰子への執着もなくなった。
 彰子のことも「国母にふさわしい風格」と客観的に見られるようになった。

・清少納言(ファーストサマーウィカ)
 恨みを持つことで命を支えることをやめて静かに生きることを宣言。
 
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「光る君へ」第42回「川辺の誓い」~背負っていた荷物を下ろしたふたり、残りの人生をどう生きていくのだろう?

2024年11月04日 | 大河ドラマ・時代劇
「わたしとの約束はお忘れ下さいませ」
「おまえとの約束を終わらせれば俺の命は終わる」
「ならば、わたしもいっしょに参ります。この世にわたしの役目はありませぬ」
「おまえは俺より先に死んではならぬ。死ぬな」
「ならば道長様も生きて下さいませ。道長様が生きておられればわたしも生きられます」

 これまでのまひろ(吉高由里子)と道長(柄本佑)の関係の集大成だ。
 まひろとの約束を守るためにがんばってきた道長。
 それは時には強引な手を打たねばならず、強権的と誹りを受ける、つらく孤独な戦いだった。
 三条天皇(木村達成)、妍子(倉沢杏奈)、出家した顕信(百瀬朔)──みんな勝手なことを
 している。
 明子(瀧内公美)には激怒され、彰子(見上愛)からは距離を置かれている。
 宮中では「左大臣の病を喜ぶ者」のリストが出まわる。
 いったい自分のやって来たことは何だったのか?
 少しも理解されていない。

 こんな孤独でつらい道長を見て、まひろは背負っている荷物を下ろしたらどうか、と提案する。
 だが道長は──
「おまえとの約束を終わらせれば俺の命は終わる」
 まひろとの約束にかける道長の思いはこんなに強かったんですね。
 これに対するまひろの返しがすごい。
「ならば、わたしもいっしょに参ります」
 つまり、あなたをひとりでは死なせない、と言っている。
 これに対する道長の返しもすごい。
「おまえは俺より先に死んではならぬ。死ぬな」
 そして、まひろは──
「ならば道長様も生きて下さいませ。道長様が生きておられればわたしも生きられます」

 なんだ、このすごいやりとりは!
 心から相手のことを想っている。
 まひろの言葉を受けて、道長は涙を流さずにはいられない。
 抑えていた感情が堰を切ってあらわれた。
 道長、つらかったんだよね……。
 孤独だったんだよね……。
 理解者を求めていたんだよね……。

 そして『源氏物語』。
「光る君はお隠れになった後、あの光り輝くお姿を受け継ぎなさることのできる方は
 たくさんのご子息の中にもいらっしゃらないのでした」
 光る君は誰なのか?
 やっと答えが出ましたね。
 光る君は道長だった。
 今回の川辺のやりとりで、ふたりは人生を終えた。
 道長は「まひろとの約束」という荷物を、まひろは「物語」という人生の荷物を下ろした。
 そしてまひろにとって、光る君はずっと道長だった。
 それはこれからも変わらない。
 子供の頃の川辺のふたりが年月を経て宇治の川辺で収束する。
 見事な描写だ。

 さて、これからふたりはどのような余生を送るのだろう?
 道長には敦成親王(濱田碧生)を天皇にするという仕事が、
 まひろには『源氏物語』の宇治十帖を書くという仕事が残っているが、
 彰子
 妍子
 賢子(南紗良)
 双寿丸(伊藤健太郎)
 若い力はどんどん出て来ている。


※追記
 今作では採用されないだろうが、『源氏物語』の宇治十帖は賢子が書いたという説があるらしい。

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「光る君へ」 第41回「揺らぎ」~自分のやっていることをまひろにだけは理解してもらいたいと願っている道長

2024年10月29日 | 大河ドラマ・時代劇
 道長(柄本佑)の権勢に「揺らぎ」が出て来ている。

・三条天皇(木村達成)は派閥をつくり反道長の動き
 道長の次男・ 教通(姫小松柾)も取り込まれた。
 道長を「関白」にしてお飾りの存在にしようとした。
・さすがの行成(渡辺大知)も反発。
「左大臣様は敦康親王様から奪いすぎです」
「左大臣様がおかしくおわします」

 政治まわりではないが、
・明子(瀧内公美)は「わたしは決して許しませぬ」
 明子の子・顕信(百瀬朔)が蔵人頭になるのを道長が止めた結果、出家してしまったのだ。
・清少納言(ファーストサマーウィカ)も激怒。
「ここは私が歌を歌いたくなるような場所ではございませぬ」
 彰子(見上愛)に向けられた言葉だが、道長が敦康親王(片岡千之助)を蔑ろにしていることへの
 非難だ。

 つらい道長。
 見上げる月には雲がかかっている。

 こんな状況だから道長はまひろ・藤式部(吉高百合子)の所に行って「現実逃避」する。
 まず『源氏物語』で紫の上が死んでしまうことを聞いてガッカリ。
 光源氏と紫の上の関係は、道長とまひろの関係だからだ。
 まひろがなぜ敦康親王を東宮にしなかったのかを問うと、
「おまえとの約束を果たすためだ。そのことはおまえにだけは伝わっていると信じておる」

 道長はまひろにだけは自分のやっていることを理解してもらいたいんですよね。
 道長にとってはまひろだけが心の支え。
 まひろに拒否されたら生きていけない。
 わかるよ~、男は弱いからね。
 ていうか、道長、本当にまひろのことが好きなんだなぁ。

 というわけで次回は「川辺の誓い」
 道長が約束を果たすために苦労していることをまひろが理解して、心を通わせる話になるのだろう。
 ………………………………………

 彰子はどんどん魅力的な人物になっている。

 心が解放されて自分の思いを素直に語る。
「泣き帝と歌を交わしたかった。話したかった。笑い合いたかった」

 清少納言の批判をしっかり受けとめ、どうしたらいいかを考え始める。
 おそらく彰子はこんなことを考えたのだろう。
・清少納言の言うとおり、敦康親王を東宮にしなかったことは間違ってる。
・自分は父・道長の言いなりになっている。
・では道長の意のままにならないためにどうしたらいいか?
 藤式部・まひろに問うと、
「仲間をお持ちなさいませ」
 三条天皇がやっているように派閥を作り始めた。

「国母」彰子が誕生しつつある。

 敦康親王が御簾を越えて彰子の所に入って来たシーンはドキドキした。
 まさに『源氏物語』の光源氏と藤壺の女御更衣。
 このままでは絶対、敦康は彰子のもとに忍んで来る。
 ……………………………………………

 まひろの娘・賢子(南紗良)も魅力的になっている。

 双寿丸(伊藤健太郎)に「姫様のツラではないな」と言われたのに屈託なく笑っている。
 武者に興味を持ち、「またご飯を食べに来なさい」と言える。
 双寿丸がおかわりをすると自分のご飯をあげる。

 賢子には身分という意識がない。
 むしろ庶民の側だ。
 それは同じ年齢の頃の、若き道長とまひろの姿でもある。
 やはり賢子はふたりの子だ。

 その他では、双寿丸の主人・平為賢(神尾佑)が登場。
 武家の時代の登場を告げる人物だ。

 以前も書いたが、この作品は「雅な平安貴族社会」の終わりを告げて最終回を迎えるのだろう。


※追記
 まひろの清少納言評。
「清少納言は得意げな顔をしたひどい方になってしまった」
 は『紫式部日記』に書かれているらしい。

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「光る君へ」 第40回「君を置きて」~彰子、激怒! これから女性たちの逆襲が始まる気がする

2024年10月21日 | 大河ドラマ・時代劇
「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬることぞ悲しき」

 一条天皇(塩野瑛久)退場回である。

 寒くても薄手の衣を纏い、「民の心を鏡とした」一条天皇。
 敦康親王(片岡千之助)を次の東宮にと望みながら、かなえられなかった一条天皇。
 そんな一条天皇が死に際して何を思ったか?
「君を置きて塵を出でぬることぞ悲しき」
 思ったのは彰子(見上愛)のことだった。

 前回、惟規(高杉真宙)も辞世の句を詠んだが、その内容も悲しかった。
 基本、人生は悲しいもの……。
 人は泣きながら生まれ、涙を流して死んでいく。
 一条天皇の目からもひと筋の涙……。

 まひろ・藤式部(吉高由里子)の創作は今後老いと死を描いていくことになるのだろう。
 だが、その前に描いておかなくてはならないのは「罪」。
 最近のまひろの頭の中には「罪」というテーマが渦巻いている。

 道長(柄本佑)は敦康親王を排して、敦成親王を東宮にするという罪を犯した。
 道長にとって権力維持は良き政治をおこなうための手段であるが、
 権力を使って敦康親王を排した罪は変わらない。
 その罪はどのように道長に返って来るのか?
 ………………………………………………………………

「塵」の世界では人々は元気だ。

 居貞親王(木村達成)は即位して三条天皇に。
 権力を得てイキイキとしている。
 道長の言いなりにはならないと息巻いている。

 清少納言(ファーストサマーウィカ)は道長の横暴に激怒。
 敦康は苦労しないで生きていくのもいいかもしれないと定めを受け入れているが、
 彰子への思いはどうなのか?
 光源氏は桐壺帝が亡くなった後に桐壷更衣の所に忍んでいった。

 和泉式部(泉里香)は「罪のない恋などつまりませんわ」
 赤染衛門(凰稀かなめ)は「道険しき恋こそ燃えるのでございます」

 妍子(倉沢杏菜)はあれも欲しいこれも欲しいと贅沢三昧。

 まひろの娘・賢子(南沙良)は双寿丸(伊藤健太郎)に出会った。
 このふたりは、まひろと直秀(毎熊克哉)と同じような関係になるのだと思う。
 歴史は繰り返す。

 そして彰子。
「なにゆえ、わたくしに一言の相談もなく、敦成を東宮にお決めになったのですか!?」
「父上はどこまでわたしを軽んじておいでなのですか!」
「中宮など何もできぬ」
「なにゆえオンナは政に関われるのだ?」
 この思いにまひろ直伝の新楽府の政治理論が加わって、彰子は政治にどのように関わっていくのか?
 おそらく彰子の行動が道長に返ってくる罪になるのだろう。

 さまざまな思いが渦巻く宮中。
 話数も残りわずかになって来たが、これらをどのように収拾していくのか?

 今後、女性たちがたくましくどんどん自己主張していく気がする。
 現に彰子、清少納言、妍子は反道長だ。
 和泉式部、赤染衛門の言葉も道長の言葉に対するカウンターだった。
 光源氏が晩年、女性たちに相手にされなくなったように、
 道長も女性たちに総スカンを食らうのかもしれない。

 選挙特番のため次回は19時10分からのオンエア。


※追記
 ちなみに僕が好きな辞世の句は十返舎一九のこの句だ。

「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら」

 死を感傷ではなく笑い飛ばしている。
・おいとまにせん→せん香
・はい左様なら →灰左様なら
 と掛けている所も上手い。

「この世をば」で思い出すのは──
 道長の句「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」だが、
 十返舎一九はこの道長の句を意識しているのであろうか。
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「坂の上の雲」 第3話「国家鳴動」~東学党の乱から日清戦争へ。首相・伊藤博文を沈黙させた「統帥権」

2024年10月19日 | 大河ドラマ・時代劇
「坂の上の雲」第3話「国家鳴動」(前・後編)を見た。

 海軍に入った真之(本木雅弘)は父が死去。
 父に「勝ち負けの運は本当のいくさの時に取っておけ」と諭されてケンカをやめる。

 陸軍の好古(阿部寛)はフランスの留学から戻り結婚。家庭を持つ。

 正岡子規(香川照之)は肺病で喀血するが、何とか治まり、帝国大学をやめて
 陸羯南(佐野史郎)が主催する新聞「日本」に就職する。

 青年から大人へ。
 それぞれが自分の道を歩んでいく。

 大人になったのは日本という国家も同じだ。
 維新で西洋化を進めた日本は列強が覇を競う世界という荒波に出て行く。
 たとえれば、本格的な社会人デビューだ。もはや学生ではいられない。
 ……………………………………………………

 日本という国家が最初に受けた荒波は朝鮮問題だった。
 東学党の乱。
 東学とは西学(キリスト教)に敵対する、儒教・仏教・道教の三教を合わせた新興宗教だ。
 これが乱を起こし、政府軍を撃ち破り、韓国政府を揺るがした。

 日本はこれに対して、朝鮮出兵を決めた。
 出兵の表向きの理由は「日本の公館、居留民の保護」だが、
 裏の理由としては「朝鮮を清国やロシアに取られてはまずい」という理由がある。
 当時、政府の首脳は「朝鮮を取られたら、敵が喉もとに迫り、日本の防衛は成立しない」と
 考えていた。
 当時、朝鮮は一応独立国家であったが、清の属国化しており、
 日本は、清が東学党の乱に乗して朝鮮を支配するのを怖れていた。
 その結果が朝鮮派兵である。
 この派兵をめぐる総理大臣・伊藤博文(加藤剛)と陸軍参謀次長・川上操六(國村隼)のやりとりが
 興味深い。
 清国と戦争になることを怖れる伊藤博文は大規模派兵に否定的だ。
 一方、川上操六は──
「伊藤首相はゆるすまい。かれはあたまからの平和主義者である」
「そこをごまかすのだ」
「首相に対しては一個旅団をうごかすといっておく。
 一個旅団の兵数は二千である。これならば首相もゆるす」
「二千は平時の兵数である。しかし旅団が戦時編制をすれば七、八千になる。
 首相はそこまで気づかぬはずだ」
 川上操六は伊藤博文を騙したのだ。
 騙された伊藤が抗議すると、
「出兵するかどうかについては閣議がそれを決めますし、閣下ご自身それを裁断なさいました。
 しかし出兵がきまったあとは参謀総長の責任であります。
 兵数はわれわれにおまかせください」(原作2巻P58~60)

 川上の論理は大日本帝国憲法に記された「統帥権」である。
 陸海軍を統率する権利は天皇にあり、首相にはない。
 作戦は首相の権限外なのである。

 この川上の言葉に伊藤は「憲法だな」と苦い顔でつぶやくだけで反論できない。

 この朝鮮出兵をめぐるやりとりは、後の昭和の戦争を物語っている。
 すなわち
・朝鮮を取られたら日本の防衛は成立しない→満州を取られたら日本の防衛は成立しない。
 朝鮮も満州も列強の侵攻を阻む緩衝地帯なのだ。
・川上操六の派兵→日清戦争
 関東軍の暴走→日中戦争
 統帥権で軍のすることに口出しできない政府。

 まさに歴史は繰り返すだ。
 このエピソードが示すとおり、憲法は重要なのだ。
 だから安易な改正に乗ってはいけない。

 さて次回は「日清戦争」
 大国・清はお金持ちで、北洋・南洋・福建・広東の四艦隊を持っている。
「定遠」「鎮遠」という二隻の戦艦もある。
 真之たちはどう戦うのか?


※追記
 伊藤博文は派兵を決めた外務大臣・陸奥宗光(大杉漣)にこんなことを語っていた。
「楽観論はもうよい!
 負けたらどうなるのか、おまえは考えたことがあるか?
 財政は破綻、国際的に孤立して、わが国は列強の餌食になる。
 そうさせんためにこそ、わしやおまえがおるんじゃ」

 原作にないテレビ版オリジナルの台詞だが、現在のタカ派政治家に聞かせたい言葉だ。


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