道長(柄本佑)、ついに絶対的な権力を手に入れた。
三条天皇(木村達成)は譲位、そして亡くなった。
結果、道長の孫・敦成親王が帝・後一条天皇に。
長男・頼通(渡邊圭祐)は摂政に。
娘・彰子(見上愛)は太皇太后。
娘・妍子(倉沢杏菜)は皇太后。
娘・威子(佐月絵美)は皇后(中宮)に。
つまり三后の独占だ。
そして祝いの席。
道長の盃を、頼通から始まって重臣たちがまわし合う。
つまり道長を中心に結束していくという意味だ。
そんな状況で道長が詠んだ歌が──
『この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』
道長はこの歌の返歌を実資(秋山竜次)に求める。
実資は三条天皇に通じていた半分・反道長派だ。
そんな実資は返歌を求められて「返す歌がない。復唱するしかない」と答える。
つまり実資も道長に屈した。
清少納言(ファーストサマーウィカ)が男性でこの場にいたら、皮肉を込めた歌を返しただろう。
絶対的な権力を手に入れた道長。
しかし、この場に集った人たちの思いはさまざまだ。
素直に共感した者もいただろうが、道長の権勢の道具にされた妍子と威子は納得していない。
彰子は「女子の心をお考えになったことがあるのか?」と責めたが、一定の理解はしている様子。
「当りを引いた」倫子(黒木華)は嬉しそう。
そして、まひろ・藤式部(吉高由里子)。
最初にこの歌を聴いた時は、「我が世の春を謳歌している」と解釈して怪訝な表情をしていたが、
後に別の解釈をした様子。
道長はこの歌を通してまひろに「月の夜にかわしたおまえとの約束をついに果たしたぞ」という
メッセージをおくったのだ。
この場合、「この世」とは「この夜」
「わが世」の意味は「わたしの生涯」
大胆に意訳すると、
「今夜はわたしの生涯で最高の夜だ。月は欠けていない。まひろとの約束を交わした夜の月のように」
さらに今作の流れで真意を解釈すると、
「絶対的な権力をもった自分は政敵を気にせずに、思いきり民のための政治ができる。
おまえとの約束を果たしたぞ」
このメッセージに微笑むまひろ。
台詞で語られなかったが、
「道長様、お疲れ様でした」
「三郎、やったわね」
みたいなことを思っていたのかもしれない。
『望月の歌』をこう解釈してドラマにしてしまう脚本・大石静さん、お見事です。
同じ歌でも見方を変えると、違った姿が見えてくる。
※追記
『望月の歌』を次のように解釈している学者さんもいる。
平安文学研究者の山本淳子さんだ。
山本教授の解釈によると、
「この世」とは「この夜」
「望月」は「盃」と「后」
意訳すると、
「この夜はわが人生の最高の時だ。
盃を交わす仲間も三人の皇后たちも誰ひとり欠けることなく集っているのだから」
山本教授が「望月」を「満月」と解釈しない根拠は、道長がこの歌を詠んだ日が暦学・天文学的に
「満月」ではなかったかららしい。
三条天皇(木村達成)は譲位、そして亡くなった。
結果、道長の孫・敦成親王が帝・後一条天皇に。
長男・頼通(渡邊圭祐)は摂政に。
娘・彰子(見上愛)は太皇太后。
娘・妍子(倉沢杏菜)は皇太后。
娘・威子(佐月絵美)は皇后(中宮)に。
つまり三后の独占だ。
そして祝いの席。
道長の盃を、頼通から始まって重臣たちがまわし合う。
つまり道長を中心に結束していくという意味だ。
そんな状況で道長が詠んだ歌が──
『この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』
道長はこの歌の返歌を実資(秋山竜次)に求める。
実資は三条天皇に通じていた半分・反道長派だ。
そんな実資は返歌を求められて「返す歌がない。復唱するしかない」と答える。
つまり実資も道長に屈した。
清少納言(ファーストサマーウィカ)が男性でこの場にいたら、皮肉を込めた歌を返しただろう。
絶対的な権力を手に入れた道長。
しかし、この場に集った人たちの思いはさまざまだ。
素直に共感した者もいただろうが、道長の権勢の道具にされた妍子と威子は納得していない。
彰子は「女子の心をお考えになったことがあるのか?」と責めたが、一定の理解はしている様子。
「当りを引いた」倫子(黒木華)は嬉しそう。
そして、まひろ・藤式部(吉高由里子)。
最初にこの歌を聴いた時は、「我が世の春を謳歌している」と解釈して怪訝な表情をしていたが、
後に別の解釈をした様子。
道長はこの歌を通してまひろに「月の夜にかわしたおまえとの約束をついに果たしたぞ」という
メッセージをおくったのだ。
この場合、「この世」とは「この夜」
「わが世」の意味は「わたしの生涯」
大胆に意訳すると、
「今夜はわたしの生涯で最高の夜だ。月は欠けていない。まひろとの約束を交わした夜の月のように」
さらに今作の流れで真意を解釈すると、
「絶対的な権力をもった自分は政敵を気にせずに、思いきり民のための政治ができる。
おまえとの約束を果たしたぞ」
このメッセージに微笑むまひろ。
台詞で語られなかったが、
「道長様、お疲れ様でした」
「三郎、やったわね」
みたいなことを思っていたのかもしれない。
『望月の歌』をこう解釈してドラマにしてしまう脚本・大石静さん、お見事です。
同じ歌でも見方を変えると、違った姿が見えてくる。
※追記
『望月の歌』を次のように解釈している学者さんもいる。
平安文学研究者の山本淳子さんだ。
山本教授の解釈によると、
「この世」とは「この夜」
「望月」は「盃」と「后」
意訳すると、
「この夜はわが人生の最高の時だ。
盃を交わす仲間も三人の皇后たちも誰ひとり欠けることなく集っているのだから」
山本教授が「望月」を「満月」と解釈しない根拠は、道長がこの歌を詠んだ日が暦学・天文学的に
「満月」ではなかったかららしい。