人間というのは簡単に理解し合えないもの。
冒頭のスタークウェザー先生と女生徒たちがそうだ。
一方は淑女になるためのマナーを教えたいと思い、一方は男性並みに学問をしたいと考えている。
お互い生きてきた文化や風習も違う。
八重(綾瀬はるか)と薩摩の女学生・小松リツ(大後寿々花)の場合はもっと複雑。
会津VS薩摩という仇敵同士。
おまけに八重はリツの父親を殺している。
さて、このふたりはどのようにして心を通わせていったか?
まずは<痛みの共有>。
お互い、戦争で肉親を亡くした者同士という共通の痛みがふたりの距離を縮める。
そう、悪いのは個人ではなく、戦争なのだ。
しかし、八重の場合は少し事情が違う。
「いや、私は違う。私は戦ったんだから。人を撃ったんだ、会津のために弟の仇を討つために戦った。迷いはなかった。私の父はなじょして死んだ。弟の三郎はなじょして殺された。そう、思っていたけんじょ、私は同じ罪を背負っている。この罪は決して消えることはねえ」
いくさに巻き込まれた庶民よりも自分の方が罪が重いと八重は考えているのだ。
これに対し、リツは歩み寄る。
「じゃっとん、罪のなか人間なんち、おっとごわすかい」
<人はみな罪人(つみびと)>。
この点で繋がろうとするリツ。
そして
「先生、あたいの看病をしっくいやって、命おば救ってくいやって。ありがとなし」
最後の「ありがとなし」が会津の言葉だとすると、リツの最大の感謝の表れと言える。
リツが少し物分かりが良すぎる気もするが、自分の罪を認めて謝罪し、必死の看病をした八重に心を動かされたのだろう。
キリスト教信仰も影響していたかもしれない。
「人はみな罪人」
あるいは襄(オダギリジョー)が言った
「あなたは私たちの子ども」
こういう気持ちを皆が持っていたら、世の中はもっとやさしくなるはずなのですが、現実はなかなか上手くいかない。
どうしても<怒りには怒りを><憎しみには憎しみを>で対応してしまう。
八重たちのような<やさしさからやさしさが生まれる>連鎖が行われるといいのですが……。
冒頭のスタークウェザー先生と女生徒たちがそうだ。
一方は淑女になるためのマナーを教えたいと思い、一方は男性並みに学問をしたいと考えている。
お互い生きてきた文化や風習も違う。
八重(綾瀬はるか)と薩摩の女学生・小松リツ(大後寿々花)の場合はもっと複雑。
会津VS薩摩という仇敵同士。
おまけに八重はリツの父親を殺している。
さて、このふたりはどのようにして心を通わせていったか?
まずは<痛みの共有>。
お互い、戦争で肉親を亡くした者同士という共通の痛みがふたりの距離を縮める。
そう、悪いのは個人ではなく、戦争なのだ。
しかし、八重の場合は少し事情が違う。
「いや、私は違う。私は戦ったんだから。人を撃ったんだ、会津のために弟の仇を討つために戦った。迷いはなかった。私の父はなじょして死んだ。弟の三郎はなじょして殺された。そう、思っていたけんじょ、私は同じ罪を背負っている。この罪は決して消えることはねえ」
いくさに巻き込まれた庶民よりも自分の方が罪が重いと八重は考えているのだ。
これに対し、リツは歩み寄る。
「じゃっとん、罪のなか人間なんち、おっとごわすかい」
<人はみな罪人(つみびと)>。
この点で繋がろうとするリツ。
そして
「先生、あたいの看病をしっくいやって、命おば救ってくいやって。ありがとなし」
最後の「ありがとなし」が会津の言葉だとすると、リツの最大の感謝の表れと言える。
リツが少し物分かりが良すぎる気もするが、自分の罪を認めて謝罪し、必死の看病をした八重に心を動かされたのだろう。
キリスト教信仰も影響していたかもしれない。
「人はみな罪人」
あるいは襄(オダギリジョー)が言った
「あなたは私たちの子ども」
こういう気持ちを皆が持っていたら、世の中はもっとやさしくなるはずなのですが、現実はなかなか上手くいかない。
どうしても<怒りには怒りを><憎しみには憎しみを>で対応してしまう。
八重たちのような<やさしさからやさしさが生まれる>連鎖が行われるといいのですが……。