今回はせりふでストーリーを追っていきます。
★「都の要石がはずれた」
孝明天皇(市川染五郎)の死を知った覚馬(西島秀俊)の言葉ですが、上手い表現ですね。
これで影でうごめいていたものが動き出す。
覚馬は実際にグラバー邸で薩摩と長州が同席しているのを目撃するし、今回の後半では岩倉具視(小堺一機)の動きも。
この作品が非常に抑制が利いているのは、<会津視点>にこだわっている点ですね。
影でうごめく者たちの描写も、今回のグラバー邸のようにあくまで覚馬視点で描かれる。
会津視点では追い切れない岩倉具視などの描写は短い時間でサラリと。
主人公の八重(綾瀬はるか)に至っては、遠い会津の地にいて、世の中の情勢からははるかにかけ離れている。
主人公が都に行って情勢を目の当たりにするなんてことを決してしない。(『江』とかはしてました……)
この抑制の利いた筆は、歴史描写としては正しいのだけれど、物語のダイナミズムには欠ける。
どちらが好きかは視聴者の好みの問題ですが。
★「たとえ光を失ったとしても銃を知るこの手がある。学んだ知識や身に染み込んだ魂を会津のために使えばいい」
失明を知らされて自棄になった覚馬への神保修理(斎藤工)の言葉。
<手><知識><見に染み込んだ魂>
そうですね、人は自分に与えられたものすべてを使って生きていけばいいんですよね。
何かが欠けたり、欠けていたりするのは当たり前のこと。
貧乏な家に生まれてお金のない所からスタートしなければならない人もいるだろうし、事故で歩けなくなってしまう人もいる。
しかし、持っていないことや失われたものを嘆くのではなく、それらを補う方法を見出して全力で生きていく。
その姿は美しくて崇高。
実に気高い。
実際、視覚を失った覚馬が今後どう生きていくか楽しみです。
★「よくやってくれた」
国禁を犯したドイツの商人カール・レーマンに会いにいった田中土佐(佐藤B作)にかけた、容保(綾野剛)の言葉。
容保と言えば、「ならぬものはならぬ」の頭のかたい融通のきかない人だと思っていましたが、こういう柔らかい面も持っていたんですね。
何の澱みもためらいもなく、この言葉をサラリと言った容保に名君の風格を感じました。
一方、自分がしたことを正直に話した土佐も見事。
いい主君関係だと思います。
覚馬にしても、容保にしても、土佐にしても、会津の人間は背筋がピンと伸びて<私心>がないんですよね。
上に昇りたいという野心もないし、お金や美女を手に入れたいという欲望もないし、家族に会いたいという普通の欲求さえ抑えてしまう。
彼らが人間として面白いかと言えば、?がついてしまうのですが、これが脚本・山本むつみさんの美学なのでしょうか。
逆にもっと俗っぽい人間が出て来てもいい気もする。
それにしても、この作品は溜めに溜めまくりますね。
史実なので仕方がないのでしょうが、もし今回、覚馬が会津に戻って家族と対面していたらそれなりのドラマになっていたはず。
しかし、それをしない。
対面は戊辰戦争の時になるのでしょうが、それまでドラマを溜めている。
やはり筆が非常に抑制されていますね。
★「覚馬さんが戻れないはずだ。こうした銃を西国諸藩が大量に買い入れているなら、いくさの火種はもはや長州だけではない」
スペンサー銃を見た時の川崎尚之助(長谷川博己)の言葉。
銃を見て無邪気に喜ぶ八重とは対照的に、尚之助はひとつの銃からこんなことを読み取っている。
八重の弟・三郎の「丘の上から城が見渡せる」という言葉にもすぐに反応。
何という洞察力!
一方、八重は素朴で目の前の出来事に一喜一憂するばかり。
もともと大河ドラマで女性を主人公にすることは難しいのだが、「八重の桜」の場合は先にも述べた<抑制の利いた描写>であるため、主人公の影が薄くなってしまっている。
まあ、これも物語の溜めで、戊辰戦争になった時に八重が主人公として爆発するのでしょうね。
★「都の要石がはずれた」
孝明天皇(市川染五郎)の死を知った覚馬(西島秀俊)の言葉ですが、上手い表現ですね。
これで影でうごめいていたものが動き出す。
覚馬は実際にグラバー邸で薩摩と長州が同席しているのを目撃するし、今回の後半では岩倉具視(小堺一機)の動きも。
この作品が非常に抑制が利いているのは、<会津視点>にこだわっている点ですね。
影でうごめく者たちの描写も、今回のグラバー邸のようにあくまで覚馬視点で描かれる。
会津視点では追い切れない岩倉具視などの描写は短い時間でサラリと。
主人公の八重(綾瀬はるか)に至っては、遠い会津の地にいて、世の中の情勢からははるかにかけ離れている。
主人公が都に行って情勢を目の当たりにするなんてことを決してしない。(『江』とかはしてました……)
この抑制の利いた筆は、歴史描写としては正しいのだけれど、物語のダイナミズムには欠ける。
どちらが好きかは視聴者の好みの問題ですが。
★「たとえ光を失ったとしても銃を知るこの手がある。学んだ知識や身に染み込んだ魂を会津のために使えばいい」
失明を知らされて自棄になった覚馬への神保修理(斎藤工)の言葉。
<手><知識><見に染み込んだ魂>
そうですね、人は自分に与えられたものすべてを使って生きていけばいいんですよね。
何かが欠けたり、欠けていたりするのは当たり前のこと。
貧乏な家に生まれてお金のない所からスタートしなければならない人もいるだろうし、事故で歩けなくなってしまう人もいる。
しかし、持っていないことや失われたものを嘆くのではなく、それらを補う方法を見出して全力で生きていく。
その姿は美しくて崇高。
実に気高い。
実際、視覚を失った覚馬が今後どう生きていくか楽しみです。
★「よくやってくれた」
国禁を犯したドイツの商人カール・レーマンに会いにいった田中土佐(佐藤B作)にかけた、容保(綾野剛)の言葉。
容保と言えば、「ならぬものはならぬ」の頭のかたい融通のきかない人だと思っていましたが、こういう柔らかい面も持っていたんですね。
何の澱みもためらいもなく、この言葉をサラリと言った容保に名君の風格を感じました。
一方、自分がしたことを正直に話した土佐も見事。
いい主君関係だと思います。
覚馬にしても、容保にしても、土佐にしても、会津の人間は背筋がピンと伸びて<私心>がないんですよね。
上に昇りたいという野心もないし、お金や美女を手に入れたいという欲望もないし、家族に会いたいという普通の欲求さえ抑えてしまう。
彼らが人間として面白いかと言えば、?がついてしまうのですが、これが脚本・山本むつみさんの美学なのでしょうか。
逆にもっと俗っぽい人間が出て来てもいい気もする。
それにしても、この作品は溜めに溜めまくりますね。
史実なので仕方がないのでしょうが、もし今回、覚馬が会津に戻って家族と対面していたらそれなりのドラマになっていたはず。
しかし、それをしない。
対面は戊辰戦争の時になるのでしょうが、それまでドラマを溜めている。
やはり筆が非常に抑制されていますね。
★「覚馬さんが戻れないはずだ。こうした銃を西国諸藩が大量に買い入れているなら、いくさの火種はもはや長州だけではない」
スペンサー銃を見た時の川崎尚之助(長谷川博己)の言葉。
銃を見て無邪気に喜ぶ八重とは対照的に、尚之助はひとつの銃からこんなことを読み取っている。
八重の弟・三郎の「丘の上から城が見渡せる」という言葉にもすぐに反応。
何という洞察力!
一方、八重は素朴で目の前の出来事に一喜一憂するばかり。
もともと大河ドラマで女性を主人公にすることは難しいのだが、「八重の桜」の場合は先にも述べた<抑制の利いた描写>であるため、主人公の影が薄くなってしまっている。
まあ、これも物語の溜めで、戊辰戦争になった時に八重が主人公として爆発するのでしょうね。