作品というものは純粋にその作品世界に浸って楽しめばいいのだが、僕はどうしても<意味>にこだわってしまう。
「銀河鉄道の夜」もそう。
この豊かなイメージ世界を楽しむ。これだけで十分。しかし引っかかってしまう。
例えばインディアンが現れて矢で鶴を射るシーンが出て来る。
なぜ<インディアン>で<鶴>なのか?
調べてみると新しい星座で<インディアン座><鶴座>というのがあるらしいんですね。
あるいは大学士に鳥捕り。
宮沢賢治はなぜ彼らを登場させたのか?
調べてみると大学士は<学問探究者>の象徴。
学問探究に生きることは賢治の生き方のひとつの理想であったらしい。
鳥捕りは<生きているものを殺して生きていく人間>の象徴。
生き物を殺して生きている鳥捕りは決して救われることがなく銀河鉄道を乗って降りての生活を送っている。
キリスト教的救いのイメージもある。
途中で乗ってきたタダシ、かほる、家庭教師の描写だ。
大西洋で沈む船。
救命ボートの数が足りない。自分たちが乗ったら乗れなかった人達が死んでしまう。だから自分たちはボートに乗らずに犠牲になる。
結果かほるたちがたどり着いたのは南の十字架(サウザンクロス)。
「ハレルヤ、ハレルヤ」
そこで神様に出会い天国に行く。
当然そこには大学士や鳥捕りはたどり着けない。
一方主人公のジョバンニやカムパネルラは?
南の十字架で降りて神に救いを求めることをしない。
カムパネルラが行き着いたのは、その次の石炭袋、空の孔(あな)。
ブラックホールを思わせる無の世界。
ここでカムパネルラはこんなことを言う。
「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。あそこが本当の天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ」
カムパネルラのお母さんは生きている。
なのになぜお母さんがいるのか?
意味を考えるに石炭袋は元素の世界。
この世にあるものは人間、生物、物を問わず元素で出来ている。
カムパネルラは死んで元素に戻ったのだ。
だから「あすこにいるのはぼくのお母さん」。
元素はあらゆる存在の始まりだからだ。
これが宮沢賢治の死生観?
天国も地獄もなく人間は死んだら元素に戻るだけ?
ラストは蠍(さそり)のエピソード。
いたちに食べられそうになって逃げる蠍。
蠍は逃げて井戸に落ちる。
井戸の水で溺れて蠍は思う。
「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったのだろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神様。私の心をご覧下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」
これが賢治の人生観。倫理観。
かほるやタダシ、あるいはザネリを助けるために川へ飛び込んだカムパネルラに通じる生き方。
みんなの幸いのために生きる。
その事によって何も得ようとは思わない。
これが賢治の生き方。
かほるやタダシはみんなの幸いのために生きて天国への切符を得るが、賢治はそれを求めない。
みんなの幸いのために生きてもとの元素に戻るだけ。
宮沢賢治は実に強い。
僕には到底出来そうもないが、このメッセージと格闘してみようとは思う。
「銀河鉄道の夜」もそう。
この豊かなイメージ世界を楽しむ。これだけで十分。しかし引っかかってしまう。
例えばインディアンが現れて矢で鶴を射るシーンが出て来る。
なぜ<インディアン>で<鶴>なのか?
調べてみると新しい星座で<インディアン座><鶴座>というのがあるらしいんですね。
あるいは大学士に鳥捕り。
宮沢賢治はなぜ彼らを登場させたのか?
調べてみると大学士は<学問探究者>の象徴。
学問探究に生きることは賢治の生き方のひとつの理想であったらしい。
鳥捕りは<生きているものを殺して生きていく人間>の象徴。
生き物を殺して生きている鳥捕りは決して救われることがなく銀河鉄道を乗って降りての生活を送っている。
キリスト教的救いのイメージもある。
途中で乗ってきたタダシ、かほる、家庭教師の描写だ。
大西洋で沈む船。
救命ボートの数が足りない。自分たちが乗ったら乗れなかった人達が死んでしまう。だから自分たちはボートに乗らずに犠牲になる。
結果かほるたちがたどり着いたのは南の十字架(サウザンクロス)。
「ハレルヤ、ハレルヤ」
そこで神様に出会い天国に行く。
当然そこには大学士や鳥捕りはたどり着けない。
一方主人公のジョバンニやカムパネルラは?
南の十字架で降りて神に救いを求めることをしない。
カムパネルラが行き着いたのは、その次の石炭袋、空の孔(あな)。
ブラックホールを思わせる無の世界。
ここでカムパネルラはこんなことを言う。
「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。あそこが本当の天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ」
カムパネルラのお母さんは生きている。
なのになぜお母さんがいるのか?
意味を考えるに石炭袋は元素の世界。
この世にあるものは人間、生物、物を問わず元素で出来ている。
カムパネルラは死んで元素に戻ったのだ。
だから「あすこにいるのはぼくのお母さん」。
元素はあらゆる存在の始まりだからだ。
これが宮沢賢治の死生観?
天国も地獄もなく人間は死んだら元素に戻るだけ?
ラストは蠍(さそり)のエピソード。
いたちに食べられそうになって逃げる蠍。
蠍は逃げて井戸に落ちる。
井戸の水で溺れて蠍は思う。
「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったのだろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神様。私の心をご覧下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」
これが賢治の人生観。倫理観。
かほるやタダシ、あるいはザネリを助けるために川へ飛び込んだカムパネルラに通じる生き方。
みんなの幸いのために生きる。
その事によって何も得ようとは思わない。
これが賢治の生き方。
かほるやタダシはみんなの幸いのために生きて天国への切符を得るが、賢治はそれを求めない。
みんなの幸いのために生きてもとの元素に戻るだけ。
宮沢賢治は実に強い。
僕には到底出来そうもないが、このメッセージと格闘してみようとは思う。