もみぢばの ちりしくときは ゆきかよふ あとだにみえぬ やまぢなりけり
もみぢ葉の 散りしくときは 行きかよふ 跡だに見えぬ 山路なりけり
紅葉の葉が散って敷き詰めたようになるときは、人が行き来した跡さえも見えない山路であるよ。
第二句の「しく」は「頻く」と「敷く」の掛詞。065 の「降りしける」と同じレトリックですね。私は勅撰集時代の和歌しかまともに読んだことがないのですが、「掛詞」「枕詞」といった修辞法は現代短歌の世界にも残っているものなのでしょうか。ちょっと興味があります。
もみぢばの ちりしくときは ゆきかよふ あとだにみえぬ やまぢなりけり
もみぢ葉の 散りしくときは 行きかよふ 跡だに見えぬ 山路なりけり
紅葉の葉が散って敷き詰めたようになるときは、人が行き来した跡さえも見えない山路であるよ。
第二句の「しく」は「頻く」と「敷く」の掛詞。065 の「降りしける」と同じレトリックですね。私は勅撰集時代の和歌しかまともに読んだことがないのですが、「掛詞」「枕詞」といった修辞法は現代短歌の世界にも残っているものなのでしょうか。ちょっと興味があります。
おくものは ひさしきものを あきはぎの したばのつゆの ほどもなきかな
おくものは 久しきものを 秋萩の 下葉の露の ほどもなきかな
ものを置くと本来そこに永くあり続けるのに、秋萩の下葉に置く霜はすぐに消えてしまうのであるなあ。
「置く」という言葉の意味の違いに着目した詠歌ですが、やや理屈っぽいですかね。やはり心、思いがあふれ出るような歌が個人的には好みのようです。
やへむぐら おひにしやどに からころも たがためにかは うつこゑのする
八重葎 おひにし宿に 唐衣 たがためにかは うつ声のする
雑草の生い茂った宿で、誰のために打っているのか、衣を打つ音が聞こえる。
「葎」は、山野や道ばたに茂るつる草の総称で、それが「八重」、つまり幾重にも重なって生い茂っているさまを表します。特定の草木の名前ではないんですね。今頃になって初めて知りました ^^;;;
遠隔地に遠征中の夫を、その衣を砧で打ちながら思いやる妻を詠んだ歌です。
はなすすき ほにはおけども はつしもの いろはみえずぞ きえぬべらなる
花薄 穂にはおけども 初霜の 色は見えずぞ 消えぬべらなる
花薄の穂に置いた初霜は、色も見えないままに消えていくのであるなあ。
誰にも見とがめられないまま消えて行く初霜は、ためらいがちに少しだけ表に出した切ない女心の象徴でしょうか。この歌が添えられた屏風には、女性の姿が描かれていたのかいなかったのか。実際の屏風絵を見たくなる一首ですね。
をみなへし うつろひがたに なるときは かりにのみこそ ひとはみえけれ
女郎花 うつろひがたに なるときは かりにのみこそ 人は見えけれ
女郎花が色褪せてきた時には、かりそめにしか人は来てくれなくなってしまうのですね。
狩をする男と、色褪せた女郎花が描かれた屏風に添えられた歌とのこと。第四句の「かり」は「狩り」と「仮」の掛詞になっています。色褪せた女郎花は、年齢を重ねて衰えた女性の見立てで、その女性の心を詠んだものですね。275 にも類歌が登場します。
かりにのみ ひとのみゆれば をみなへし はなのたもとぞ つゆけかりける
かりにのみ 人の見ゆれば 女郎花 花の袂ぞ 露けかりける