引っ越しを機に本棚の奥から出てきた本がいくつかありましたが、それらの本を新しい本棚の前の方に置いて、時々引っ張り出しては拾い読みをしています。
佐藤春夫の『退屈読本』は、初版が出たのが大正15年。私が持っているのは冨山房から出た文庫判です。(但し、裏表紙のメモ書きを見ると、これを買ったのは1993年ですから、今も出ているかどうかは知りません。)
恐らく一度は通して読んでいるのですが、都合のよいことにすっかり忘れていますから、どこを読んでも楽しめます。文学論や芸術論が多いのですが、私が特に好きなのは、数は多くはありませんが、さりげない日常や昔の思い出を描いた随筆。
こんな話があります。
筆者が12歳だった頃のある日、学校の授業で先生から「自分の友だちを5~6人挙げなさい」という課題が出されました。割と気難しい性格だった佐藤少年は、とりたてて仲の良い友だちというのがおらず、仕方がないので周りに座っている級友の名前を挙げたそうです。
あとで周りの連中が集まって「お前、誰の名前書いたんや?」という話をしている時も、佐藤少年にそう尋ねる者はなかったそうです。
ここからは原文で行きましょう。
「すると、いつものやうに黙ってゐる私のところへ来て、ひとりの子供が話しかけた-「あんた。誰書いたんな?」
その子は快活な口調で言った。それは教室で私のすぐうしろに居た子供であった。きさくな性質で、気むづかしげな私に対しても常から最も多く口を利いてゐた。彼に対して私は答へた-
「おれはあんたの名を書いたんぢや」
その答へとともに、彼のはしゃいでゐた顔は一刹那にがらりと変化した。しばらく無言だった彼は、やっと私に言った。-
「こらへとおくれよ。なう、わあきやあんたをわすれたあった。わあきやあ、ぎやうさんつれがあるさか」
二十年を経た今日、彼のその言葉を、私はそっくりとその田舎訛のままで思い出す。さうして私は彼のこの正直な一言に、今も無限の友情を見出すのです。ひょっとすると、これが私のうけた第一の友情ではないかとさへ思はれるくらゐです。
貴問に対して私は、仮に三四の名を挙げることも出来るでせう。しかし、その人たちが数へ上げた名のなかに私が無かった時に、彼等は私に対して、果して、
「恕せ、友よ、予は君を失念しゐたり。予は多くの友を持つが故に」
と、さうはっきりと私に言ってくれるだらうか。どうも覚束ないやうな気がするのです。」 (『好き友』)
子供の頃の思い出というのは、それが印象深いものであればあるほど鮮やかに覚えているものですが、この文章を読むと、まるで自分もその時の教室に居るような気がしてきます。無駄な言い回しのない、すっきりとした文章。どこかのほほんとしたなかにも、きらりと鋭い、その目線。随筆を読む楽しさここに極まれり、という感じです。
こんな調子で、本棚がちっとも片付かないのですが、まぁそれもまた良し。こうして夜が更けていきます。
佐藤春夫『退屈読本』(冨山房百科文庫)
確かに、印象に残りそうなセリフです。
しばらく思い出しもしなかったですが、
断片的に浮かんでは消える教室の記憶に身を任せてみました…。
読んだことがあるのかもしれないのですが、
何度読んでも、いい随筆だと思うのです。
小学校の頃の思い出に浸っていると、
時間を忘れてしまいますよね・・・懐かしい
解説に古典的完美という表現があり、形式や韻の美しさのみならず、美に対する厳粛さを感じました。
沢山の小説も書いてらっしゃるとのこと詩人だと思ってました…随筆いいですね
詩は情景を思い浮かべるだけでなく、五感(例えば香り)を刺激しますね…
黄ばんでしまった新潮文庫(上中下)又、読んでみようかな?
それに付随する心象や情景をを連想させますよね。
詩はその究極の形だという気がします。
私も岩波文庫(緑帯)の詩集や随筆集は今も本棚の
一番手前に置いてありますが、ぱらぱらと拾い読み
してもいつも新しい発見があって、楽しいですね。
文士という言葉がぴったりですね。
読み進むのがもったいないくらいです。
薄田泣菫、探してみます