北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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当別駅~2~

2022-05-26 19:15:22 | 石狩・空知地方

 

昨日に続いて、JR当別駅の構内。

 

 

構内はアート作品が多く、小さな美術館のような様相です。

 

 

 

 

ステンドグラスの絵と同じタイトルですが、田端優子さんという方は、山梨県にアトリエを構える彫刻家さんだそうです。

ステンドグラスの絵の方は、調べてみたけど詳細は分かりませんでした。

当別町の鳥に認定されているフクロウが描かれているので、この辺りの自然を描いた作品なのでしょう。

「道民の森」という森が町内にあるけど、そこが舞台なのかな?

 

 

 

へぇ~、「歴史兄弟都市」というのがあるんですね。

胆振管内の伊達市は、その名のとおり、仙台藩一門の亘理伊達氏一族に由来する町だけど(伊達市の記事はこちら)、実はこの当別町も、伊達一族とは深い縁がある町なのです。

その辺は、後日関連スポットの記事を書く予定なので、そのときにでも。

 

 

 

三木勝さんという方は、神奈川県藤沢市在住の彫刻家さんだそうです。

 

 

 

ああ、やっぱり絵と彫刻は関連があるんでしょうねきっと。

 

 

 

タイムカプセルかぁ・・・。

そういえば、小学校を卒業するとき(昭和61年(1986年)3月)、卒業生一同で埋めた記憶があるのだけど、どうなったのかな・・・。

設置されてから28年。当時の当別町のことは知らないけど、私が勤務していたのは平成13年(2001年)、設置されてから7年後なので、その頃を思い浮かべてみると、当別町は、札幌のベッドタウンとして発展していると思います。

 

 

 

南安廣さんという方は検索してもそれほど情報が得られないようですが、南は鹿児島県にも野外彫刻が設置されているそうです。

 

 

 

あ、もう一つ田端優子さんの作品がありました。

当別駅が現在の橋上駅となった1994年に、町の更なる発展という願いを込めて設置された作品の数々。

これからも、駅を利用するたくさんの人たちの思いを受け止めながら、町の発展を見守っていくことでしょう。

 

 

 

 

 

「岩出山」という地名は初めて聞きました。

現在では合併して「大崎市」となっていますが、かの伊達政宗が、米沢城から移って一時拠点を構えていた、伊達家にとって大変由緒深い町だそうです。

 

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当別駅~1~

2022-05-25 20:19:51 | 石狩・空知地方

 

札幌の隣町、当別町に行ってきました。

こちらは、JR学園都市線の「当別」駅。

 

 

 

おや、「石狩」という文字が塗り潰されていますね。

 

 

実はこの駅は、今年3月のダイヤ改正までは、「石狩当別」という名前でした。

昭和9年(1934年)に、札幌市内の桑園駅から分岐する路線が開業したとき、渡島管内の上磯町(現北斗市)に「渡島当別」という駅が既にあったことから、「石狩国」というこの辺りの旧国名を冠して「石狩当別」という駅名にしていたのだけど、隣接する「石狩市」にあると勘違いされる傾向にあったとの理由から、地元とJR北海道が協議した結果、今般、「石狩」を取って「当別」という駅名になったということです。

このバス停は、まだその変更に追い付いていないということなんですね。

因みに、このように旧国名を冠した駅というのは他にもあり、例えば、オホーツク海に面した宗谷管内枝幸(えさし)町にあった旧国鉄の駅は、「北見国」という旧国名を冠して、現在の北見市からは遠く離れているにも関わらず、「北見枝幸」という駅名としていたというエピソードがあります。

 

 

当別町は、住んだことはないのだけど、平成13年(2001年)4月から一年間、町内にある出張所に勤務していたことがあります。

なので、駅周辺は、多少は土地勘があります。

このモニュメントは、当別町の鳥に認定されている「フクロウ」をモチーフにしています。

 

 

 

勤務していた当時は、札幌の職場から当別まで送迎という通勤体系だったのだけど、それに乗れなかったときは自腹でJRを利用したこともあったので、駅構内の光景も記憶に残っていました。

 

 

 

学園都市線は、二年前までは空知管内新十津川町まで走っていたのだけど、現在は、当別の隣の「北海道医療大学」駅までとなっています。

 

 

駅構内には、こんな銘板が残されていました。

歴史を後世に伝える物として、大切に保存されていってほしいと思います。

 

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八軒のルーツ

2022-05-24 20:22:16 | 札幌

 

昨日の「二十四軒」に続いて、今日は「八軒」について。

明治4年(1871年)、現在の南4条通以南に、開拓使が近在の入植者を集めて作った「辛未一ノ(しんびいちの)村」がその年のうちに移転、分散し、全部で五十戸のうち八戸が移住したという、二十四軒と同様のことに由来するとされていることを以前書きました(こちら)が、では、その八戸が移住したのは具体的にどの辺りか。

昨日に続き、「札幌郡西部図」のリンクを貼ります。昨日の二十四軒と違って、こちらは、はっきりと「八戸」という表記があるので、拡大してみてください。

 

 

その「八戸」が移住してきたのは、JR琴似駅に近い、この辺りとされています。

 

 

 

近くに高層マンションもあり、ゆったりと歩ける広い歩道が整備されている道路。

ここは「チツフトラシ」と呼ばれていた川の跡で、この川の左岸(写真の左側)に沿って、八戸が軒を連ねていたそうです。

川の跡が道路に・・・、何だか「ブラタモリ」っぽくなってきましたね。タモリさんだったらやっぱり一発で分かっちゃうのかな?

 

 

その道路からちょっと分かれて、琴似と北区麻生を結ぶ「琴似本通」方面へ。

 

 

 

 

現在の「八軒まちづくりセンター」があるその場所には、旧琴似村の役場跡があります。

解説板には書かれていませんが、「八軒」発祥の地とされるこのエリアに、当時の行政の中枢があったというのは、偶然なのか、それとも意識的なことなのかということも興味深い気がします。

 

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二十四軒のルーツ

2022-05-23 20:00:35 | 札幌

 

札幌市西区にある「二十四軒」。

明治4年(1871年)、開拓使が、近隣の農民や出稼ぎ者を集めて、現在の南4条以南に作った「辛未(しんび)一の村」から、24軒の移民が入植したことに由来するという話は、以前書いたことがあります(こちら)が、現在の「二十四軒」はそこそこ広い町なので、そのエリア内の一体どの辺りなのかということは、以前から気になっていました。

 

 

調べてみたところ、どうやら↑の辺りのようです。

明治6年の「札幌郡西部図」という資料をリンクします(こちら)が、拡大していくと、「琴似村」と書かれている辺りです。

 

 

 

この道路、「市道二十四軒第1横線」は、その当時からある古い道路で、この両脇に、二十四戸の家が集まって、集落を形成していました。

 

 

「大念寺」というお寺があるのだけど、ここ、以前にも紹介したことがあります。

かつて二十四軒でラベンダーを栽培していた「曽田香料」の札幌工場があったとされている場所です。

期しくも、二十四軒という地域の発祥の地付近に工場ができていたということなんですね。

 

 

 

ところで、西区民として普段当たり前に見ている「二十四軒」という表記ですが、実は、これとは違う表記になっている所もあることを先日知りました。

 

 

 

おやおや、「二十四軒」ではなく「24軒」になっていますよ。

数年前まで「ちびまる子ちゃん」のEDテーマだった、PUFFYの「すすめナンセンス」の歌詞じゃないけど、「なんでこうなったの いつからこうなったの」って思います。(笑)

場所はこちら。↓

 

 

 

住宅街に入ってみました。

 

 

 

 

あれま、電柱まで「24軒」になっています。

この電柱が建ったのは平成14年(2002年)か・・・、先ほどの漢数字標記のは平成22年(2010年)・・・、何ゆえこうなっているのか、興味深いです。

 

※NTTの電柱は、全部が全部じゃないけど、「H14」「H22」のように、建てられた年次が書かれています。

 

最後に、二十四軒にある電柱について、以前こんなのを紹介していました。

 

 

 

この辺りで見つけた「日の丸」と書かれた電柱。

この「日の丸」って何なんだろうと以前書いていました(こちら)が、どうやらその答えに辿り着けそうです。

次の週末にでも、図書館で資料を探して、確証を得たいと思います。

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夕張鉄道跡地を歩く

2022-05-22 16:19:40 | 石狩・空知地方

 

「きらら街道」を更に進んで、江別市野幌へ。

 

 

そこに、夕張鉄道の歴史を伝える解説板が設置されていました。

 

 

江別市は、夕張鉄道のみならず、例えば現在も操業している製紙工場への引込み線や、火力発電所への石炭専用線、隣にある当別町との間を結んでいた軌道線など、旧国鉄以外にも沢山の私鉄が走っていた、道内でも有数の鉄道の町だったのだけど、一つまた一つと廃止され、結局一番最初に開業した、現在のJR函館本線だけが今でも残り続けています。

そんな私鉄の跡地も、場所は分かっている所もあるので、計画的に回ってみようと思っています。

 

 

 

で、ここに残されているこの施設は何かというと、これは「腕木式信号機」という、レバーを操作して切り替えを行う、手動式の信号機です。

 

 

手動で操作することにより、このように腕木が45度(と、検索したサイトに書いてありました)傾いていたら、青信号、つまり進めの状態で、腕木が水平になっていたら、赤信号、つまり進んではいけないということを示しています。

 

 

 

 

そこから少し進んだこの辺りは、「北海鋼機前」という駅のあった場所。

「北海鋼機」という会社は、現在も江別市内で操業を続ける鉄鋼メーカーで、昭和50年(1975年)の夕張鉄道廃止後も、同62年(1987年)まで、専用線が残っていたそうです。

 

 

更に進んだ所にあるのが、夕鉄バスのターミナル。

かつての夕張鉄道は、現在のJR野幌駅から分岐する形になっていましたが、現在はここが、江別市内における(というより運行区間全体における)拠点となっています。

 

 

 

 

 

待合室もしっかりと整備されています。

 

 

 

 

 

夕鉄バスって一度も乗ったことがないんですよね。

ぜひ近いうちに、計画を立てて路線バスの旅をしてみようと思います。

 

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