補足を一つ。
車に屋根がついたのは、歴史的にはむしろ後のことで、初期の自動車は、みな「オープン」だったはず。
馬車の代わりに人工的な動力源として、蒸気機関がつかわれたり、電気もつかわれたりしつつ、現行ガソリン「エンジン」になっていく。
幌がついたのは、その後だ。
よく「人馬一体」なるコピーがライトウェイトオープンスポーツカーに用いられるが、それはバイクにこそ相応しい、と私は思う。
オープンスポーツカーは、一端実用的な文化の側にある「馬車」から発展してきたものを、敢えて「人為」の極みにおいてなおも、速度や、あるいはコーナーのG、屋根を持たない形態によって「自然」と向き合おうとする営みなのだ。
疾走する風が気持ちいいなら、自分の足で走ればいい。
自転車でもバイクでものればよい。コーナリングの一体感なら、絶対的にバイクの方がスリリングだし、体感的だろう。
自明のことだ。
それでも人は「人為」の中で「自然」となおも「出会おう」とする。それが人間の営みの「ある部分」における「本質」だ。
そこで営まれる「人為」的社会生活の中で、状況適応型の心性「女」と呼ばれるように、「敢えて」ないものを求める心性が「男」と呼ばれるに過ぎない。
魅力的な「男前」が女に多かったり、時に「腐った」と軽蔑される現状追随型のスタイルや、わかりもしないのに鈍感に強がるバカが男に多かったりもする。
現実の性別のことではなくて。
「死」をくぐり抜けて私たちは生き延びた。それは偶然的に「死に遅れた」ことでもあるだろう。
とすれば、わたしたちはその手遅れになってしまった大惨事を目の前に、また「人為」を尽くして世界と向き合い、なお同時に「人間の可能性」を信じる信仰告白を迫られるだろう。
一人の力が目の前の現実として無力であり、なおかついまだ見えない闇を抱えて生きのびていかねばならないと知ったのだから。
ひととき力を合わせるのは社会的脳みそを持った「ヒト」という動物なら当たり前のことだ。
ひとつなのは脳みその機能であって、別に「日本」とか「日本人」のせいじゃねえだろう。天皇のおかげでもない。
とはいっても、文化遺産的「人為」の資産としてそういう装置をもちいることは無論あっていい。資産を総動員すべき時だものね。人間を単純に動員するのじゃなくて。
でも、それだけがすべてだと思うなよな、と、オープンスポーツカーから見上げた飛散放射能を含んだきれいな五月の「フクシマ」の空は教えてくれる。
「人間」が歯を食いしばってでも手を挙げて求めようとすることのその先に何を見るのか。
日常生活に戻って危機を忘却し得る安寧な世界を人々に提供する力か。
孤独を乗り越えた「共同体」のビジョンを描く想像力とそれを実現する指導力なのか。
壊れたからには理想を実現するチャンスだと新たなビジョンを提示し、実行する力なのか。
断片化のこのリアルを前提としつつなおも開かれた「公共性」を求める強度なのか。
水平分散型における「男前」とは?
また課題ばかりが増えてしまう。
まあでも、まさか子どもっぽいガジェット収集やモノフェチになること、ブランドや権威・権力を振り回した自己顕示、無知による鈍感な強がりや粗暴性だけが「男」フラグの「意味」でもあるまい。
「大人」の「男」は難しい。
「大人」の「女」は難しい。
ただ「大人」は、世界を単純に見えることと見えないことに二分法で区分してどちらか一方に安住する、なんて真似はしないぞ、きっと。
車に屋根がついたのは、歴史的にはむしろ後のことで、初期の自動車は、みな「オープン」だったはず。
馬車の代わりに人工的な動力源として、蒸気機関がつかわれたり、電気もつかわれたりしつつ、現行ガソリン「エンジン」になっていく。
幌がついたのは、その後だ。
よく「人馬一体」なるコピーがライトウェイトオープンスポーツカーに用いられるが、それはバイクにこそ相応しい、と私は思う。
オープンスポーツカーは、一端実用的な文化の側にある「馬車」から発展してきたものを、敢えて「人為」の極みにおいてなおも、速度や、あるいはコーナーのG、屋根を持たない形態によって「自然」と向き合おうとする営みなのだ。
疾走する風が気持ちいいなら、自分の足で走ればいい。
自転車でもバイクでものればよい。コーナリングの一体感なら、絶対的にバイクの方がスリリングだし、体感的だろう。
自明のことだ。
それでも人は「人為」の中で「自然」となおも「出会おう」とする。それが人間の営みの「ある部分」における「本質」だ。
そこで営まれる「人為」的社会生活の中で、状況適応型の心性「女」と呼ばれるように、「敢えて」ないものを求める心性が「男」と呼ばれるに過ぎない。
魅力的な「男前」が女に多かったり、時に「腐った」と軽蔑される現状追随型のスタイルや、わかりもしないのに鈍感に強がるバカが男に多かったりもする。
現実の性別のことではなくて。
「死」をくぐり抜けて私たちは生き延びた。それは偶然的に「死に遅れた」ことでもあるだろう。
とすれば、わたしたちはその手遅れになってしまった大惨事を目の前に、また「人為」を尽くして世界と向き合い、なお同時に「人間の可能性」を信じる信仰告白を迫られるだろう。
一人の力が目の前の現実として無力であり、なおかついまだ見えない闇を抱えて生きのびていかねばならないと知ったのだから。
ひととき力を合わせるのは社会的脳みそを持った「ヒト」という動物なら当たり前のことだ。
ひとつなのは脳みその機能であって、別に「日本」とか「日本人」のせいじゃねえだろう。天皇のおかげでもない。
とはいっても、文化遺産的「人為」の資産としてそういう装置をもちいることは無論あっていい。資産を総動員すべき時だものね。人間を単純に動員するのじゃなくて。
でも、それだけがすべてだと思うなよな、と、オープンスポーツカーから見上げた飛散放射能を含んだきれいな五月の「フクシマ」の空は教えてくれる。
「人間」が歯を食いしばってでも手を挙げて求めようとすることのその先に何を見るのか。
日常生活に戻って危機を忘却し得る安寧な世界を人々に提供する力か。
孤独を乗り越えた「共同体」のビジョンを描く想像力とそれを実現する指導力なのか。
壊れたからには理想を実現するチャンスだと新たなビジョンを提示し、実行する力なのか。
断片化のこのリアルを前提としつつなおも開かれた「公共性」を求める強度なのか。
水平分散型における「男前」とは?
また課題ばかりが増えてしまう。
まあでも、まさか子どもっぽいガジェット収集やモノフェチになること、ブランドや権威・権力を振り回した自己顕示、無知による鈍感な強がりや粗暴性だけが「男」フラグの「意味」でもあるまい。
「大人」の「男」は難しい。
「大人」の「女」は難しい。
ただ「大人」は、世界を単純に見えることと見えないことに二分法で区分してどちらか一方に安住する、なんて真似はしないぞ、きっと。