龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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オープンカーに乗るという選択(3)

2011年05月08日 09時28分48秒 | 大震災の中で
補足を一つ。
車に屋根がついたのは、歴史的にはむしろ後のことで、初期の自動車は、みな「オープン」だったはず。
馬車の代わりに人工的な動力源として、蒸気機関がつかわれたり、電気もつかわれたりしつつ、現行ガソリン「エンジン」になっていく。

幌がついたのは、その後だ。

よく「人馬一体」なるコピーがライトウェイトオープンスポーツカーに用いられるが、それはバイクにこそ相応しい、と私は思う。
オープンスポーツカーは、一端実用的な文化の側にある「馬車」から発展してきたものを、敢えて「人為」の極みにおいてなおも、速度や、あるいはコーナーのG、屋根を持たない形態によって「自然」と向き合おうとする営みなのだ。

疾走する風が気持ちいいなら、自分の足で走ればいい。
自転車でもバイクでものればよい。コーナリングの一体感なら、絶対的にバイクの方がスリリングだし、体感的だろう。

自明のことだ。

それでも人は「人為」の中で「自然」となおも「出会おう」とする。それが人間の営みの「ある部分」における「本質」だ。

そこで営まれる「人為」的社会生活の中で、状況適応型の心性「女」と呼ばれるように、「敢えて」ないものを求める心性が「男」と呼ばれるに過ぎない。

魅力的な「男前」が女に多かったり、時に「腐った」と軽蔑される現状追随型のスタイルや、わかりもしないのに鈍感に強がるバカが男に多かったりもする。

現実の性別のことではなくて。

「死」をくぐり抜けて私たちは生き延びた。それは偶然的に「死に遅れた」ことでもあるだろう。
とすれば、わたしたちはその手遅れになってしまった大惨事を目の前に、また「人為」を尽くして世界と向き合い、なお同時に「人間の可能性」を信じる信仰告白を迫られるだろう。

一人の力が目の前の現実として無力であり、なおかついまだ見えない闇を抱えて生きのびていかねばならないと知ったのだから。

ひととき力を合わせるのは社会的脳みそを持った「ヒト」という動物なら当たり前のことだ。

ひとつなのは脳みその機能であって、別に「日本」とか「日本人」のせいじゃねえだろう。天皇のおかげでもない。
とはいっても、文化遺産的「人為」の資産としてそういう装置をもちいることは無論あっていい。資産を総動員すべき時だものね。人間を単純に動員するのじゃなくて。

でも、それだけがすべてだと思うなよな、と、オープンスポーツカーから見上げた飛散放射能を含んだきれいな五月の「フクシマ」の空は教えてくれる。

「人間」が歯を食いしばってでも手を挙げて求めようとすることのその先に何を見るのか。

日常生活に戻って危機を忘却し得る安寧な世界を人々に提供する力か。

孤独を乗り越えた「共同体」のビジョンを描く想像力とそれを実現する指導力なのか。

壊れたからには理想を実現するチャンスだと新たなビジョンを提示し、実行する力なのか。

断片化のこのリアルを前提としつつなおも開かれた「公共性」を求める強度なのか。

水平分散型における「男前」とは?

また課題ばかりが増えてしまう。

まあでも、まさか子どもっぽいガジェット収集やモノフェチになること、ブランドや権威・権力を振り回した自己顕示、無知による鈍感な強がりや粗暴性だけが「男」フラグの「意味」でもあるまい。

「大人」の「男」は難しい。
「大人」の「女」は難しい。

ただ「大人」は、世界を単純に見えることと見えないことに二分法で区分してどちらか一方に安住する、なんて真似はしないぞ、きっと。


オープンカーに乗るという選択(その2)

2011年05月08日 02時10分36秒 | 大震災の中で
ENGINEのオープンカー特集は4つ。
1,初心者向け
2,50代向け
3,ファミリー向け
4,ゴージャス仕様

もちろん注目は50歳代のオープンは?という第2特集。
選ばれた車は4つ。

1,ポルシェ・ボクスター
2,マツダロードスター
3,BMW Z4
4,ロータス・エリーゼ

ちなみに我が愛車のマツダロードスターは
「ノーマルでこの車を乗る50代は辛い。とくにATはありえない」
「本当にいい物を求めたら、これはちょっと。価格の割に、とか50代がいっちゃだめでしょう」
と、問題外な批評。

余計なお世話です、ぷんぷん(笑)。

だって、国産リトラクタブルハードトップ(軽のコペン以外)でのオープンスポーツカーの選択肢は、唯一このマツダロードスターしかないのです。他にはレクサスIS250Cぐらいか。しかしこっちは4座でジャンルが違う値段も倍。
それに、20代にオープンを経験している人は別だけれど、「大人」になってから初めてオープンに乗るには、最適解の一つだと思う。

到達点、ではたしかになくて、現行ロードスターのリトラクタブルハードトップ+AT仕様は、
下駄のように年配の私のような者が、日常気取らずにオープンで走る露天風呂を楽しむクルマ、なのでしょう。

「ENGINE」的「大人」の「男」の理想とは違う。

でも、書いてあることには納得。
BMWのZ4はいいクルマだけれど乗り手を向上させない、老化を早めるという批評は、ノーマルロードスターが「痛い」という批評と同様、なるほどね、と思う部分もありました。
ロータス・エリーゼが「偉い」っていうのは、もうエンスージアストというかプロパーの議論で、普通にその話には乗れない。

結局、ポルシェ・ボクスターがいいね、というところは納得。
どういう生活を送っている人が2座のオープンスポーツに800万も900万も出すんだい?
と言うところもあるけれど、別に新車で乗らなくてもクルマの良さは分かる。
中古でも十分よく整備されたクルマは、その持っている文化を、直接ハンドルを握る者にはしっかりと伝えてくれるものだ。

私は今のところマツダ・ロードスターに深い満足を覚えているけれど、とくにこのクルマが到達点だとは思わない。
だいたい、3代目ロードスターのNC前期型は、直進性が極端に悪く、高速道路を乗っているとハンドル任せではまっすぐ走らない。これはハンドリングがクイックというより、何かの間違いじゃないか、と最初から思っていた。
後期型は屋根をしめると直進性が極めていい、というこの特集記事の中の情報を見て、「はーん、やっぱり改良されたか」と素人ながら納得がいった。
また、ロードスターの楽しみの延長線上には、ベンツのSLKやBMWZ4ではなく、やっぱりポルシェのボクスターかな、という漠然とした思いはあるけれど、それはまだ、オープンスポーツカーを乗り始めてから見えてきた遠い風景の中の「点景」にすぎない。

また、クルマにおいて、世界と自己の関係における「到達点」を求めようとは思っていない。

でも、死ぬまでに一度中古で十分だからボクスターぐらい乗れたらいいな、とも思わないではない。
面倒臭いことをいろいろ言うなあ、とは思うけれど、そういう場所を敢えて指し示すこの雑誌の意義はあるのだろう。

さてそれにしても、「敢えて」オープンで乗る、という行為は、この放射線が飛散しつづける「いわき」で、どれほどの現実性と妥当性と共感性とを持つのだろうか?

言い換えれば、オープンカーは、この原発事故後において、世界と自己の関係をどのように書き換えうるのだろうか。

飛散放射能の危険のため、屋根開け文化は萎縮するのだろうか。あるいは自粛の波にのまれるのだろうか。
安全だと繰り返され、忘却装置と連動して、何も考えずにまた屋根を開けて走るようになる、だけのことだろうか。

馬鹿馬鹿しいと人は笑うかもしれないが、オープンカー乗りの「フクシマ」人としては、
「開けるべきか、開けざるべきか、それは大問題」
なのである。
最終的には己の快楽ポイントの問題になる、ともいえる。
でも、開けて走ったことのある人なら分かると思うけれど、オープンカーの上に広がる空は、ただそこに立って見上げる空とは決定的に違う。

「人為」的に閉じられた箱であるクルマから、もう一度それを開き直した結果として立ち現れる「空」=「自然」だ。
つまり、ちと大げさにいえば
「人為」の裂け目にあらわれる「自然」を、敢えて自分の車に「聖痕」として招来するのがオープンカーという概念なのである。

だから、ある意味で、オープンカーについて語ることは、
「自然」と「人為」の関係におけるprofession de foi(プロフェッション・ド・フォア=信仰告白)
と言ってみることもできる。
自然の中にいる動物に信仰告白は不要だろう。また自然の外、「人為」の中にのみ生きる人間にも信仰告白は不要だ。
「人為=自然」の中で、裂け目から敢えてその関係を見つめようとする者にとってだけ、信仰告白は意味を持つ。
それは人為と自然の関係を、ぎりぎりのところで同時に問い直すことだ。

だから、「ENGINE 5月号」のオープンカー特集は、「期せずして」3/11以後の信仰告白たりえているのかどうか、が興味深かったのだ。

答えはそれぞれ読んでみるのが一番だと思う。
でも、私はこの雑誌の編集をしている鈴木正文という人を全然知らないのだけれど、面白いと思う。
自分とは全く別の場所にいるのに、こちら側を挑発してくる力がある、とでもいったらまるで対等みたいでおかしいかなあ。

ところで。
さっきまで、20代の女性二人と酒飲みをしていた。
そこでいろいろ話をした挙げ句に、
「最後にはポルシェ・ボクスターに乗ってみたいねえ」
という話をちらっとしたら、えらくたまげられた挙げ句、
「本を周囲に積んでる感じがしてたのに、イメージが全く違う」
と口を揃えて軽く非難されてしまった。
ポルシェに乗る、というのは軽く口にするだけでもそうとう「イメージ抵抗」の強いことらしい。

別に高い収入があるわけでもないし、クルマだけの人生を送るつもりもないけれど、ハンドルを握って走る曲がる止まるが高性能で、しかもオープンで運転が楽しいならそれは乗ってみてもいい。

人は優れた「道具」があれば、それを手にして、使ってみたいと思うものではないか。

支払う対価に見合ったものなのかどうか、は議論もあるだろう。お金持ちのブランド、という「イメージ抵抗」は大きいものなのかもしれない。でも別にフェラーリとかランボルギーニに乗りたいというわけではないんだし……といっても、普通の女性にそんな区別はないか。
中古で300万円台ぐらいで買える車なら、ミニバンの高級新車よりは安いのにね。

ま、値段じゃないんだけどさ(笑)。

最近ネットで、少々高めの包丁を買った。高いと言っても6、7000円のものだ。
でも、全然違う。今まで使っていた3000円代の包丁とは切れ味が違う。切れ味が違うと、腕が上がるとまでは言わないが、確実に料理が楽しくなる。

イギリスの宗教ファンタジー『神秘の短剣』(『ライラの冒険』シリーズ第2巻)じゃないけれど、世界の「裂け目」についてはさまざまに考えることがありそうだ。

原発の建屋や格納容器にしても、包丁の使い勝手にしても、キリストの手に刻まれた聖痕についても、オープンカーに乗ることのprofession de foiについても(笑)。