放射線管理区域でさえ、1.3mSv/3ヶ月が限度。
年間累積被曝線量20mSv以下なら大丈夫という基準、そして学校の校庭の線量が3.8μSv/hなら大丈夫、という基準は、果たして妥当なのだろうか。
それに関して、今日毎日新聞のサイトにこんな記事が掲載されていた。
特集ワイド:子供の屋外活動制限、基準放射線量 年間20ミリシーベルトって大丈夫?
問題視する側の視点は分かりやすい。
閾値(それ以下とそれ以上で結果が明らかに異なるような境界線の値)がないとするなら、被曝線量は少なければ少ないほどいいに決まっている。
それに対して
引用開始-------------------------------
「問題はない」と主張するのは、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーを務める山下俊一・長崎大教授(被ばく医療)だ。「100ミリシーベルト以下は白黒がはっきりしないグレーゾーンで、この緊急事態に議論しても仕方がない。放射性物質に汚染された環境の中でどう生きていくかを優先的に考えれば、『20』は許容範囲。仮に、慢性的に年100ミリシーベルト以下の被ばくが続いたとしても、他にもがんの誘発因子はあり、この数値を超えたら危ないとは言えない。我々の体はそんなに柔ではない。しかし個々が判断して嫌ならば、遠くに避難するしかない」と話す。
引用終了-------------------------------
これ、ちょっと発話主体に問題あり、という印象を持ちます。「この緊急事態」とは、誰にとっての緊急事態なのか?
第一義的には原発事故に最も近く、飛散放射能の放射線を浴び続けている「フクシマ」県民にとっての緊急事態、でしょう。それと第一原発で事態の収拾に向けて作業をしている人々ですね。
「この緊急事態」という発話は、自分の研究における判断に基づいて、「安全だ」という言説を繰り返している過ぎない。
これは、決して当然のことではない。
「科学的」とは何か、なんて話をここで書くつもりはありません。こういうときの「知」としての「科学」は、すぐれて権力性と基盤を共有していることを、フーコーは適切に分析してきたのです。
つまり、「知的な言説」は、すでに「権力的」な姿勢と、基盤を共有しているのです。
山下氏は「この緊急事態」だから低線量にはこだわるな、といいます。
しかし、氏の定義しようとする「緊急事態」は、明らかに「現状適応優先」を欲望しています。
100mSvの線量以下は、閾値以下だから影響はない、砂遊びしても安全、一気に浴びても100人に一人か二人癌が増える程度だから問題ない……そんな風にもこの科学者は語っています。
その「科学性」を疑い得るかどうか、は、一義的には科学の問題ではありません。
だって、100mSv以下の低線量長期被曝については明確な結果が出ていないのですから。
この言説がその内にはらむ「権力」のありようについて見ていかなければならない。
つまりは、権力=言説分析のレベルで考えるべき事柄です。
「緊急事態」に「議論しても仕方がない」というのは、百歩譲って「フクシマ」の住民が言うのなら分かる。
哀しいサバルタン的発想ですがね。
むしろ問題は、さまざまな学者を招聘することが可能であっただろうに、「現状安全」を声高に語る種類の学者を招聘した県知事の「安全言説」を欲望する政治的姿勢の薄っぺらさでしょう。
この学者は、その学者なりの「信念」を、もしかすると「非政治的に」語っているつもりかもしれませんよ。
十分に「政治的」であったならば、これほど責任を取れない安請け合いはしないと思う。
だからむしろ、「科学的」であると本人は信じているからこそ、「知」と「権力」がリンクし得るのだ、という視点が、ここではどうしても必要になってくるのです。「科学的言説」がその基盤において抱えてしまう「権力性」への危険に気づいていないか、その「権力性」を振るうことこそが「科学的言説」の使命だとでも思っているとしか考えられません。
そうでなければどうして
「我々の体はそんなに柔ではない。しかし個々が判断して嫌ならば、遠くに避難するしかない」
という「恫喝」ができるのでしょうか。
これは本人の判断が「科学的」知見に基づいているかどうか、ではなく、言説の品性の問題でさえあります。
そして、品性の問題ということは単に言葉尻ではなく、「そのことばたちが何を欲望しているのか」に注目すべきだ、という意味です。
つまり、山下氏の言説は、自分の「安全」認識を言っているばかりではなく、「非常事態」と脅した上で、住民の不安を、「好き」か「嫌か」という情動的行動に「勝手に」書き換えようとする言説なのです。
「安全だって科学者が言ってるのに、信じないなら勝手にコストをかけて逃げれば?安全なのにさ」
分かりやすく翻訳すると、上記のような「欲望」をこの言説からはくみ取ることができます。
そりゃないよ、知事さん。
バカと科学者は使いようなんだから、この使い方はないと思うなあ。
「安全ていってくれたから、これはしてやったり」とか思ってないですよね?まさかねぇ。
いわき市長と福島県知事の、政治的言説に対する限界がうかがえる、「安全神話」の哀しい現実です。
これじゃあ、なんでもかんでも「不安だ」といってヒステリーを起こす反対派と一緒じゃないですかっ!
私達は、生活もしていかなければならない。フクシマも背負っていかねばならない。
フクシマ人のほとんどは、釈然としないままスティグマをせおわされちゃった、状態なんです。
だからこそ、簡単に「安全」と決めつけたり「不安」だと決めつけたりするのは、私達の立場にとってどちらも「胡散臭い」。
彼らが絶対普遍的一般的科学的に「胡散臭い」と言いたいのではないのです。
決めつけられるほど簡単な問題じゃないってこと。生きることと安全とがガチンコでぶつかってるんですよ。
日本だけでも、かつて年間1万人死んでいたからといってクルマ文化を捨てたりしませんでした。
しかもクルマの事故は日常的にその辺の道ばたで起きているにもかかわらず、です。
だからといって、私達は自動車事故はやむを得ない、必要なんだから事故死は我慢なんて考えずに、人類は共通してさまざまな努力と工夫を凝らし、年間6000人ぐらい(切りましたっけ?)まで事故死を減らすことに成功しているじゃないですか。
なんとかどこでぎりぎりのせめぎ合いが成立しえるのかを、リスクを最低限にするよう努力しつつ安全側に振った上で、それでもなお、フクシマに生活し続ける可能性を丁寧に模索していきたいのです。
ほうら見たことか、原発はやっぱり悪魔だったというような言説、フクシマ県民ヲワタ、的言説と同様、「緊急事態」だから、とか「安全に決まってる、びびるやつはどっかに逃げろ」とは、どこからかやってきた学者が当事者に得々として語るべき言葉の質ではないと思うのですが。
フクシマ県民がどこかで「愚かさ」を抱えていることは認めましょう。本当に神のごとく賢かったなら、原発がこんな風になる前に、原発保有国(じゃなかった県)から降りていればよかったのですから。残念ならが私達フクシマ人は、神様のようには賢くなかった。その通り。日本国民も、だけどさっ。
だからといって、山下教授の言を、そのまま鵜呑みにして「安心」て言われたから「安心」だっていうほど「賢く」=「愚か」にはなりたくないものです。「危険度は超強烈に高い」とまでは思わない。そうだったらもうとっくに逃げ出しています。そうじゃないから悩ましい。
境界線上のせめぎ合いを、どこで保ち続けるのか。どういう戦線を保持するのか。
少なくても私は、「緊急事態なのに、、オレが安全だっていうのが嫌ならならどっかに行け」なんていう「品質」の言説は、言葉の受け取り手のプロとしては、その「投球」、受けとるわけにはいかない、と強く主張しておきます。
さてでは、どこまで「逃げますか」と問われたら、私はフクシマに止まりつづけるでしょう、と答えておきます。
しょうがないから?他に行くところがないから?実は高をくくってる点で上記教授の思うつぼ?あるいは実は同類?
さて、どうなんだろう。自分でもその辺りはよく分かっては居ません。
「フラガール」で、失業する炭鉱夫のセリフが今も耳に残っています。
「なんでオレらが変わらねばなんね?変わっちまったのは時代のほうだべ」
そういうつぶやきを抱えながら、大きな変化に飲み込まれていきます。
「ずっとフクシマに住んできたんだ。なんでいまさらどっかにいかねばなんね?放射能まきちらしたのは原発のほうだべ」
そこに、「安全だ」と言われれば、変化に対応できない人ほど、あるいは高齢の人ほど、上のような気持ちで「安全言説」にしがみつくでしょう。容易に想像できます。
だから、問題は、「科学的」に安全か危険かが証明されるかどうか、の決着ではない。「緊急事態」なんだから、そんな決着はつかないのです。
それを頭から自分の主張を「決着」だと言い張るのは、科学者同士ならいざしらず、心の揺れる住民に、「科学」として与えるのは、やっぱりいかがなものかと思われますね。
原発「踊り」を、「安全だー、安全だ-」とかけ声をかけながら観客として居座り続けるよりは。あるいは、「危険だから」とこの土地を見捨てるのではなしに。
リスクを正面から見つめて、耳を澄ませてどのあたりに「妥当な臆病さ」があるのかを、探していきたいのです。
私はむしろ、今こそそういう「あえかな」「フラダンス」を踊りたいのです。
通じねえかなあ、やっぱり。
フクシマ人のあなたは、安心したいですか?
それともフクシマ人のあなたは、不安だからフクシマを去りますか?
あるいは、もう考えないで開き直りますか?
私はびくびくしつづけながら、それでもなお、ここに住み続けるにはどうすればいいのか、を、開き直ったりおびえたり、実は安全なのかも、と揺れたりもしながら、この土地に50年住んできた者として、その可能性を探していきたいです。
フクシマに住んでおられない方は、どうですか?
フクシマ市民はどうすればいいと思いますか?
ま、すくなくても許容量の限界を跳ね上げたのは、科学的なことじゃなくて、政治的な事柄に属するのは元々自明なんだけどね。それにこの山下さんは利用されたがってるだけです。正しいか正しくないか、を議論しすぎると、私は別の「罠」に嵌ると思う。
公害問題でも、「科学的証明」とか、その場では絶対無理だったはず。
でも歴史がその「政治性」を証明していく。
戦争でも「この非常時に」と戦争が終わるまではいいつづけていた人々は、結果としてみれば「状況適応」したに過ぎなかったことが分かる。戦争が終わると口をぬぐって次の戦後民主主義に「状況過剰適応」していったのでしょう。
私達は、その断層を、「歴史」として学んできている。
だから、「知」もまた「権力性」(これは必ずしも政府とか国とかいうレベルの話じゃありません)と無縁ではいられない、いやむしろ基盤を共有して共犯関係にある、と見ていくべきだと考えています。
どれだけ安全側に振って思考しつづけられるのか?
コストの計算だってそりゃしなきゃならないよ。平常の年間被曝量1.5mSv以内に、とかいったら、フクシマ人の過半を移動させなきゃならなかったりするわけで、そりゃあ無理。受け入れ先だってないし。
だからといって、だよね。
明示的な権力関係の被支配に置かれた人だけが「声を持たない」のではないのです。
私達はみな、どこかで「声を失って」いる。
そしてどこかで自分のものではない「誰かの声」でしゃべっている。
でも、その「声」の力学に耳を澄ませ続けることが必要だから、これを書いています。
安全/危険
の二分法でいえば、原発事故は「危険」です。その中で少しでも安全を高めつつ、フクシマを背負い続けたいのです。
校庭の土を掘り返すことだって、その一つ。
累積線量に注目しつつ、生活をコントロールしていこうとするのも、その一つ。
誰かの言葉をオウム返しに言うのではなく、ね。
「安全だ」という言葉にこそ、敢えてリスクを引き受ける当事者の矜持というフィクション性の自覚がほしい。どこぞの学者さんに慰撫されて安心するのじゃあ、目も当てられない。
安易な「安全」を内面化しない生き方が、フクシマ人にはとりあえず求められていると思うよ。
どんな言葉を外部から「規律」内面化の圧力としてかけられているのか、敏感でありたいですね。
年間累積被曝線量20mSv以下なら大丈夫という基準、そして学校の校庭の線量が3.8μSv/hなら大丈夫、という基準は、果たして妥当なのだろうか。
それに関して、今日毎日新聞のサイトにこんな記事が掲載されていた。
特集ワイド:子供の屋外活動制限、基準放射線量 年間20ミリシーベルトって大丈夫?
問題視する側の視点は分かりやすい。
閾値(それ以下とそれ以上で結果が明らかに異なるような境界線の値)がないとするなら、被曝線量は少なければ少ないほどいいに決まっている。
それに対して
引用開始-------------------------------
「問題はない」と主張するのは、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーを務める山下俊一・長崎大教授(被ばく医療)だ。「100ミリシーベルト以下は白黒がはっきりしないグレーゾーンで、この緊急事態に議論しても仕方がない。放射性物質に汚染された環境の中でどう生きていくかを優先的に考えれば、『20』は許容範囲。仮に、慢性的に年100ミリシーベルト以下の被ばくが続いたとしても、他にもがんの誘発因子はあり、この数値を超えたら危ないとは言えない。我々の体はそんなに柔ではない。しかし個々が判断して嫌ならば、遠くに避難するしかない」と話す。
引用終了-------------------------------
これ、ちょっと発話主体に問題あり、という印象を持ちます。「この緊急事態」とは、誰にとっての緊急事態なのか?
第一義的には原発事故に最も近く、飛散放射能の放射線を浴び続けている「フクシマ」県民にとっての緊急事態、でしょう。それと第一原発で事態の収拾に向けて作業をしている人々ですね。
「この緊急事態」という発話は、自分の研究における判断に基づいて、「安全だ」という言説を繰り返している過ぎない。
これは、決して当然のことではない。
「科学的」とは何か、なんて話をここで書くつもりはありません。こういうときの「知」としての「科学」は、すぐれて権力性と基盤を共有していることを、フーコーは適切に分析してきたのです。
つまり、「知的な言説」は、すでに「権力的」な姿勢と、基盤を共有しているのです。
山下氏は「この緊急事態」だから低線量にはこだわるな、といいます。
しかし、氏の定義しようとする「緊急事態」は、明らかに「現状適応優先」を欲望しています。
100mSvの線量以下は、閾値以下だから影響はない、砂遊びしても安全、一気に浴びても100人に一人か二人癌が増える程度だから問題ない……そんな風にもこの科学者は語っています。
その「科学性」を疑い得るかどうか、は、一義的には科学の問題ではありません。
だって、100mSv以下の低線量長期被曝については明確な結果が出ていないのですから。
この言説がその内にはらむ「権力」のありようについて見ていかなければならない。
つまりは、権力=言説分析のレベルで考えるべき事柄です。
「緊急事態」に「議論しても仕方がない」というのは、百歩譲って「フクシマ」の住民が言うのなら分かる。
哀しいサバルタン的発想ですがね。
むしろ問題は、さまざまな学者を招聘することが可能であっただろうに、「現状安全」を声高に語る種類の学者を招聘した県知事の「安全言説」を欲望する政治的姿勢の薄っぺらさでしょう。
この学者は、その学者なりの「信念」を、もしかすると「非政治的に」語っているつもりかもしれませんよ。
十分に「政治的」であったならば、これほど責任を取れない安請け合いはしないと思う。
だからむしろ、「科学的」であると本人は信じているからこそ、「知」と「権力」がリンクし得るのだ、という視点が、ここではどうしても必要になってくるのです。「科学的言説」がその基盤において抱えてしまう「権力性」への危険に気づいていないか、その「権力性」を振るうことこそが「科学的言説」の使命だとでも思っているとしか考えられません。
そうでなければどうして
「我々の体はそんなに柔ではない。しかし個々が判断して嫌ならば、遠くに避難するしかない」
という「恫喝」ができるのでしょうか。
これは本人の判断が「科学的」知見に基づいているかどうか、ではなく、言説の品性の問題でさえあります。
そして、品性の問題ということは単に言葉尻ではなく、「そのことばたちが何を欲望しているのか」に注目すべきだ、という意味です。
つまり、山下氏の言説は、自分の「安全」認識を言っているばかりではなく、「非常事態」と脅した上で、住民の不安を、「好き」か「嫌か」という情動的行動に「勝手に」書き換えようとする言説なのです。
「安全だって科学者が言ってるのに、信じないなら勝手にコストをかけて逃げれば?安全なのにさ」
分かりやすく翻訳すると、上記のような「欲望」をこの言説からはくみ取ることができます。
そりゃないよ、知事さん。
バカと科学者は使いようなんだから、この使い方はないと思うなあ。
「安全ていってくれたから、これはしてやったり」とか思ってないですよね?まさかねぇ。
いわき市長と福島県知事の、政治的言説に対する限界がうかがえる、「安全神話」の哀しい現実です。
これじゃあ、なんでもかんでも「不安だ」といってヒステリーを起こす反対派と一緒じゃないですかっ!
私達は、生活もしていかなければならない。フクシマも背負っていかねばならない。
フクシマ人のほとんどは、釈然としないままスティグマをせおわされちゃった、状態なんです。
だからこそ、簡単に「安全」と決めつけたり「不安」だと決めつけたりするのは、私達の立場にとってどちらも「胡散臭い」。
彼らが絶対普遍的一般的科学的に「胡散臭い」と言いたいのではないのです。
決めつけられるほど簡単な問題じゃないってこと。生きることと安全とがガチンコでぶつかってるんですよ。
日本だけでも、かつて年間1万人死んでいたからといってクルマ文化を捨てたりしませんでした。
しかもクルマの事故は日常的にその辺の道ばたで起きているにもかかわらず、です。
だからといって、私達は自動車事故はやむを得ない、必要なんだから事故死は我慢なんて考えずに、人類は共通してさまざまな努力と工夫を凝らし、年間6000人ぐらい(切りましたっけ?)まで事故死を減らすことに成功しているじゃないですか。
なんとかどこでぎりぎりのせめぎ合いが成立しえるのかを、リスクを最低限にするよう努力しつつ安全側に振った上で、それでもなお、フクシマに生活し続ける可能性を丁寧に模索していきたいのです。
ほうら見たことか、原発はやっぱり悪魔だったというような言説、フクシマ県民ヲワタ、的言説と同様、「緊急事態」だから、とか「安全に決まってる、びびるやつはどっかに逃げろ」とは、どこからかやってきた学者が当事者に得々として語るべき言葉の質ではないと思うのですが。
フクシマ県民がどこかで「愚かさ」を抱えていることは認めましょう。本当に神のごとく賢かったなら、原発がこんな風になる前に、原発保有国(じゃなかった県)から降りていればよかったのですから。残念ならが私達フクシマ人は、神様のようには賢くなかった。その通り。日本国民も、だけどさっ。
だからといって、山下教授の言を、そのまま鵜呑みにして「安心」て言われたから「安心」だっていうほど「賢く」=「愚か」にはなりたくないものです。「危険度は超強烈に高い」とまでは思わない。そうだったらもうとっくに逃げ出しています。そうじゃないから悩ましい。
境界線上のせめぎ合いを、どこで保ち続けるのか。どういう戦線を保持するのか。
少なくても私は、「緊急事態なのに、、オレが安全だっていうのが嫌ならならどっかに行け」なんていう「品質」の言説は、言葉の受け取り手のプロとしては、その「投球」、受けとるわけにはいかない、と強く主張しておきます。
さてでは、どこまで「逃げますか」と問われたら、私はフクシマに止まりつづけるでしょう、と答えておきます。
しょうがないから?他に行くところがないから?実は高をくくってる点で上記教授の思うつぼ?あるいは実は同類?
さて、どうなんだろう。自分でもその辺りはよく分かっては居ません。
「フラガール」で、失業する炭鉱夫のセリフが今も耳に残っています。
「なんでオレらが変わらねばなんね?変わっちまったのは時代のほうだべ」
そういうつぶやきを抱えながら、大きな変化に飲み込まれていきます。
「ずっとフクシマに住んできたんだ。なんでいまさらどっかにいかねばなんね?放射能まきちらしたのは原発のほうだべ」
そこに、「安全だ」と言われれば、変化に対応できない人ほど、あるいは高齢の人ほど、上のような気持ちで「安全言説」にしがみつくでしょう。容易に想像できます。
だから、問題は、「科学的」に安全か危険かが証明されるかどうか、の決着ではない。「緊急事態」なんだから、そんな決着はつかないのです。
それを頭から自分の主張を「決着」だと言い張るのは、科学者同士ならいざしらず、心の揺れる住民に、「科学」として与えるのは、やっぱりいかがなものかと思われますね。
原発「踊り」を、「安全だー、安全だ-」とかけ声をかけながら観客として居座り続けるよりは。あるいは、「危険だから」とこの土地を見捨てるのではなしに。
リスクを正面から見つめて、耳を澄ませてどのあたりに「妥当な臆病さ」があるのかを、探していきたいのです。
私はむしろ、今こそそういう「あえかな」「フラダンス」を踊りたいのです。
通じねえかなあ、やっぱり。
フクシマ人のあなたは、安心したいですか?
それともフクシマ人のあなたは、不安だからフクシマを去りますか?
あるいは、もう考えないで開き直りますか?
私はびくびくしつづけながら、それでもなお、ここに住み続けるにはどうすればいいのか、を、開き直ったりおびえたり、実は安全なのかも、と揺れたりもしながら、この土地に50年住んできた者として、その可能性を探していきたいです。
フクシマに住んでおられない方は、どうですか?
フクシマ市民はどうすればいいと思いますか?
ま、すくなくても許容量の限界を跳ね上げたのは、科学的なことじゃなくて、政治的な事柄に属するのは元々自明なんだけどね。それにこの山下さんは利用されたがってるだけです。正しいか正しくないか、を議論しすぎると、私は別の「罠」に嵌ると思う。
公害問題でも、「科学的証明」とか、その場では絶対無理だったはず。
でも歴史がその「政治性」を証明していく。
戦争でも「この非常時に」と戦争が終わるまではいいつづけていた人々は、結果としてみれば「状況適応」したに過ぎなかったことが分かる。戦争が終わると口をぬぐって次の戦後民主主義に「状況過剰適応」していったのでしょう。
私達は、その断層を、「歴史」として学んできている。
だから、「知」もまた「権力性」(これは必ずしも政府とか国とかいうレベルの話じゃありません)と無縁ではいられない、いやむしろ基盤を共有して共犯関係にある、と見ていくべきだと考えています。
どれだけ安全側に振って思考しつづけられるのか?
コストの計算だってそりゃしなきゃならないよ。平常の年間被曝量1.5mSv以内に、とかいったら、フクシマ人の過半を移動させなきゃならなかったりするわけで、そりゃあ無理。受け入れ先だってないし。
だからといって、だよね。
明示的な権力関係の被支配に置かれた人だけが「声を持たない」のではないのです。
私達はみな、どこかで「声を失って」いる。
そしてどこかで自分のものではない「誰かの声」でしゃべっている。
でも、その「声」の力学に耳を澄ませ続けることが必要だから、これを書いています。
安全/危険
の二分法でいえば、原発事故は「危険」です。その中で少しでも安全を高めつつ、フクシマを背負い続けたいのです。
校庭の土を掘り返すことだって、その一つ。
累積線量に注目しつつ、生活をコントロールしていこうとするのも、その一つ。
誰かの言葉をオウム返しに言うのではなく、ね。
「安全だ」という言葉にこそ、敢えてリスクを引き受ける当事者の矜持というフィクション性の自覚がほしい。どこぞの学者さんに慰撫されて安心するのじゃあ、目も当てられない。
安易な「安全」を内面化しない生き方が、フクシマ人にはとりあえず求められていると思うよ。
どんな言葉を外部から「規律」内面化の圧力としてかけられているのか、敏感でありたいですね。