『ENGINE』(新潮社)という雑誌がある。
都会派の、無理をしてでも本当のものを求める硬派な「こだわり」層の代表格ような雑誌だ。
主な対象はクルマと時計。そして最初から視野は世界のブランド。
基本的にはこれ、車雑誌なんだろうけれども、めくってもめくっても日本のものはほぼ出てこない。
つまりは、クルマならミニバンとか有り得ないし、時計ならクォーツとか、有り得ない(笑)。
ようやく「大人」の仲間入りをしはじめた私としては、たまには覗くけれど、こんなにまで格好をつけ、「すかした」金のかかる、面倒くさくていかにも「ホモソーシャル」な世界はついていけない、と思うことが多い。
そんな雑誌である。
そのフィールドでは、流行とかトレンドとかだけではなく、モノと自分との距離をどうとるか、そしてそのモノと自分との関係をどう世界に提示するか、が必須課題となる。
たとえばクルマも時計も「男の」「自己表現」であり、社会の中で、男たちの中で、トレンドの嵐の中で、どんなポジショニングがあり得るのかを考えてモノとつきあわなきゃならないわけだ。
ということは、もはやここでは、モノは単なるフェティシズムの対象でさえない。
まあ、田舎の原発=エンガチョ(穢れ、ですね)聖痕的感覚を裏返せば、ここでのクルマは、むしろ男たちにとっての世界と自分との裂け目をどうドライヴするか、が賭けられた、ある種の動く「裂け目」と見立てられないこともない。
わざわざ面倒な手続きを踏み、モノにおいて大文字の他者を召喚する、みたいな。
読んでるとしょっちゅう意味の分からないブランドに対するこだわりが出てきて、いちいち「大人」とか「男」とか、お前らうぜえ~って、嫌になることもしばしばなんどけどね。
さて、なんだか男雑誌を眺めては放り出す若いお姉ちゃんみたいな感想を連ねてしまったが、ここは男雑誌に対するフェミニズム批評展開の場ではなかった。
さて、その「ENGINE」2011年5月号はオープンカーの特集。
その広告を見たのが震災前だったのか、後なのか今となっては思い出せないのだが、今日はようやく届いたそのオープンカー特集の話を書きたいのである。
都会派の、無理をしてでも本当のものを求める硬派な「こだわり」層の代表格ような雑誌だ。
主な対象はクルマと時計。そして最初から視野は世界のブランド。
基本的にはこれ、車雑誌なんだろうけれども、めくってもめくっても日本のものはほぼ出てこない。
つまりは、クルマならミニバンとか有り得ないし、時計ならクォーツとか、有り得ない(笑)。
ようやく「大人」の仲間入りをしはじめた私としては、たまには覗くけれど、こんなにまで格好をつけ、「すかした」金のかかる、面倒くさくていかにも「ホモソーシャル」な世界はついていけない、と思うことが多い。
そんな雑誌である。
そのフィールドでは、流行とかトレンドとかだけではなく、モノと自分との距離をどうとるか、そしてそのモノと自分との関係をどう世界に提示するか、が必須課題となる。
たとえばクルマも時計も「男の」「自己表現」であり、社会の中で、男たちの中で、トレンドの嵐の中で、どんなポジショニングがあり得るのかを考えてモノとつきあわなきゃならないわけだ。
ということは、もはやここでは、モノは単なるフェティシズムの対象でさえない。
まあ、田舎の原発=エンガチョ(穢れ、ですね)聖痕的感覚を裏返せば、ここでのクルマは、むしろ男たちにとっての世界と自分との裂け目をどうドライヴするか、が賭けられた、ある種の動く「裂け目」と見立てられないこともない。
わざわざ面倒な手続きを踏み、モノにおいて大文字の他者を召喚する、みたいな。
読んでるとしょっちゅう意味の分からないブランドに対するこだわりが出てきて、いちいち「大人」とか「男」とか、お前らうぜえ~って、嫌になることもしばしばなんどけどね。
さて、なんだか男雑誌を眺めては放り出す若いお姉ちゃんみたいな感想を連ねてしまったが、ここは男雑誌に対するフェミニズム批評展開の場ではなかった。
さて、その「ENGINE」2011年5月号はオープンカーの特集。
その広告を見たのが震災前だったのか、後なのか今となっては思い出せないのだが、今日はようやく届いたそのオープンカー特集の話を書きたいのである。