龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

自分のことばを持つということ(つづき)

2011年05月26日 21時46分38秒 | 大震災の中で
こういう時、私はいつもトム・ハンクスの言葉を思い出す。著名な俳優や監督を招いて、アクターズスクールの学生たちと語り合うたぶん有名なTV番組(題名失念)の中で、彼は

売れない俳優だったころ、タクシードライバーのバイトをしていて、
「オレは俳優なんだろうか、それとも元俳優がドライバーをしてるんだろうか」
と自問することがあった。それでもなおオファーがあったときに仕事ができるよう準備しておくことが大切だったんだ

と語っている。
モーガン・フリーマン(この人も遅咲きでしたよね、たしか)も同趣のことを言っていた。

つまりはそういうことなんだと思う。
成功した俳優の側からみたトーナメント理論的独善とはことなった、前向きの姿勢の称揚といった話とも違う、「隙間」「裂け目」の話に近いんじゃなかろうか。

そういうところにしか、「自分のことば」は宿らない。つまりは、開かれた裂け目を持つ、ズレ、痕跡、としてことばは繰り返しその場所へ向かっていくのだ。たどり着かない手遅れの身振りとして、ね。

だから、気がついたら俳優だった、というのはアメリカンドリームの話じゃなくて、自分なんて消えろ、忘れろっていう呟きや、自分ってなんなんだ?という呻きの方にちかい、いわばむしろ傷とか業とか、そんなもんに近いんじゃないかなぁ。わかんないけど。



自分のことばを持つということ

2011年05月26日 21時23分22秒 | 大震災の中で
 自分のことばを持つということは、自分が自立しているということではないのだ、と分かる。
 自分のことば、とは、自分という事件の現場から、発せられることば、ということで、別に自分が物語の主体になることでもなければ、発話主体であれば自分のことばを持っているということでもない。

当たり前のことだが。

友人から、メールをもらって考えさせられた。彼のメールにはこうあった。

>こんなとき思想家も政治家も、技術者も、もちろん科学者もですが、言葉に鋭敏でなければならないと思う。
池澤夏樹が朝日ジャーナルに寄せている原稿の文章が良かった、という話。

池澤夏樹の小説は、私にとって「当たり外れ」が激しくてびっくりすることが多いのだけれど、むしろエッセイはアベレージが高い印象を持っている。
これから本屋さんに行ってみます。

自分のことばを持つ、とはもちろん「文体」の話で、文体っていうのは「人の中」にはないものだろう。

もう、人の中から出てくるものに興味はない。
自然に還るというのでもない。

もちろん「外側」にむかって格好をつけた、という話でもなくて。

世界の磁場の偏差に対して瞳を閉じるのではなく、主語と述語がほどよくバランスして何かを叙述してしまうことに満足して何かを忘却する装置から、身を半ばズラして瞳を凝らすこと。
いや、そんな面倒はどうでもいいのです。

人為がもはや「人」に還元しえないズレとして改めて受け止めることになった「不可避」の現実を、他の何かと取り違えずに見て、考えて、その現場で言葉を発すること。

たとえば、海水注入の中断があったとかなかったとか、指示をしたとかしないとか、指示に従ったとか従わなかったとか、助言したとかしないとか、どうしてもそうなっちゃうんだろうか。


「意思の疎通が不十分なまま発表してしまったから」
みたいな枝野氏のコメントが他人事の極みに聞こえて失笑した。

枝野官房長官の言葉は、弁護士の水準としてはよくできています、という印象をずっと持っている。
他の政治家の言葉があまりに頼りないから。
だが、良くも悪くも「そこ」から動かない。

言説についての言説。言葉によって状況定義をしようとする「三百代言」のことばが広がる。

別の友人は、

「私のできることは~です。だから精一杯~します」
(サッカーでも歌でも料理でもいいんだけどね)
ってのは、たとえばサッカー選手は震災があろうがなかろうがサッカーするわけで、歌いますっていうのは何もしませんと同義語じゃなかろうかと……

とことばについてコメントしていた。正鵠を得た指摘だと思う。

主語と述語が簡単に一致するなんて、誰が保障していたんだろう、とつくづく思う。
「私は歌手ですから歌います」
じゃなくて、「歌うことによって私はヒト=歌手」なんだよね。
「私はサッカー選手だからサッカーで勇気を与えたい」
じゃなくて「サッカーをすることによって私はサッカー選手になる」
んだと思う。

「私」は同一性ではなく、むしろ「差異」において成り立っている。
大震災は「そういうこと」を教えてくれたはずなのにね。

できることをやるしかない、のです。できることがそれなら、それをやるしかない。
大震災の後、ヒトは何者でもなくなったのですね、瞬間。
そういうことを忘れた「歌手」や「料理人」「サッカー選手」そして「詩人」は、必要な言葉に対する鋭敏さが足りない、かもしれません。

いや、「ことば」のプロじゃないから、それでいい、とヒトはいうだろうか。
「ことばが足りない」んだったら、それでもちろんいいんだ。
表現なんて、ほどよいところでバランスしないから。
主語と述語のほどよい出会いと同一性の回復に、しがみついていなければ、それでいい。
「私は歌手だから」
という言葉が、どこから出ているのか。

歌うしか能がない「歌バカ」ってことなのかもしれないよね。サッカーバカってことかもしれない。

それが不安へのいいわけになっていないことを、私はサッカー選手でも歌バカでもないけれど、祈りたくなります。無論それこそもちろん、余計なお世話。

でも、歌で、あるいはサッカーでヒトを勇気づける、なんてそんな「ことば」はそれこそそれも余計なお世話、だろう。

そのズレ、その差異を承知で放たれたことばなのか?
知人二人のいいたいことは、そのあたりにありそうな気がする。

私は、そういうボールを私に投げてくれる友人を持っていることを、密かにとてもありがたく思う。
もう、言っちゃったから「密か」じゃないんだけどね(苦笑)。

ことばは自分の中から出てくるってことを信用しないっていうのは、そういうことでもある。

出会いであり、偶有性を持った、でもそこにあらかじめ存在する基盤がなければ成立しない、にも関わらずそれは同一性を保障されていない、そんな亀裂の走った場所で発せられることば。

間の抜けたお人好しの詩人や批評家でないかぎり、その裂け目の意味は脇腹あたりで感じると思うのだけれど。