大震災が私達にもたらしたものを考えると、本当にさまざまな側面があるのだとつくづく感じます。
個人的体験で恐縮ですが、震災の真っ只中で被災者になりつつ父親を看取ったこの二ヶ月の日々は、人と人との関係を感じかつ考える、貴重な機会になりました。
日々の営みの中で病院の一室に閉じこもったまま身近な人間の「死」と向き合いながら、あまりにも大きい自然の圧倒的な力を感じると、その人間の営みの極小の芥子粒のように消えていこうとする命(はかないけれどかけがえのないもの)と、その芥子粒たちが営々と営んで築きあげた人間世界の崩壊とを、同時に「自然の営み」との関係で受け止めることになります。
それは、結果として、私達家族をよりいっそう深いところで響き合わせることになりました。
単純に絆が深まった、ということでもありません。
それがうまく表現できなくて、この日記を書き始めました。
他方、知人や元同僚の中には、精神のバランスを崩して休養を取らざるを得なくなった人もいると聞きます。
あるいは、ぎりぎりのところでバランスを取っていた人間関係が、被災によって決定的に離れてしまった話も聞こえてきます。
安定していたはずの世界像が、ぱっくり裂け目を見せ、ガラガラと音を立てて崩壊し、地面がぐにゃぐにゃになってしまったのですから。比喩でなく。
まるで今までの日常生活が何かの仮象ででもあったかのように、感じられても不思議はありません。
でも、帰るべき安全な場所などどこにもありません。
そんなことを考えると、ふと、
「慌てずに、もう少し茫然としていませんか」と、隣に座った人を誘いたくなる瞬間があります。
しないけどね(笑)。
不安であることは、安心を求める根拠にはならないのかもしれない、と、そんな気もしています。
ほっとする瞬間がほしいのは事実ですが、忘却装置に身を委ねて過剰に「安心」はしたくないのです。
「人為」のリミットとしての「自然との遭遇」による「人為」の崩壊。
えらいこっちゃ、ですよねえ。
でも、そのことによって獲得させられた、この奇妙な水平的開放性は、私達がこの大震災から受け取った貴重な感覚でもあると思うのです。
不謹慎でしょうか。この非常時に。
傷を背負い、その有徴性故に日本中あるいは世界中から「見られる」存在になった「フクシマ」の民としては、この大震災がみせた「人為」の真っ只中の「裂け目」に、空白の中に描かれるべき図像を夢想せずにはいられないのかもしれません。
垂直的な積み重ねの「人為」像とは全く違った、「白描」とでも言うべきような、ありうべき倫理の姿の描線を、その空白の傍らに立ってぎりぎりのところで探していかねばならないようにも。
個人的体験で恐縮ですが、震災の真っ只中で被災者になりつつ父親を看取ったこの二ヶ月の日々は、人と人との関係を感じかつ考える、貴重な機会になりました。
日々の営みの中で病院の一室に閉じこもったまま身近な人間の「死」と向き合いながら、あまりにも大きい自然の圧倒的な力を感じると、その人間の営みの極小の芥子粒のように消えていこうとする命(はかないけれどかけがえのないもの)と、その芥子粒たちが営々と営んで築きあげた人間世界の崩壊とを、同時に「自然の営み」との関係で受け止めることになります。
それは、結果として、私達家族をよりいっそう深いところで響き合わせることになりました。
単純に絆が深まった、ということでもありません。
それがうまく表現できなくて、この日記を書き始めました。
他方、知人や元同僚の中には、精神のバランスを崩して休養を取らざるを得なくなった人もいると聞きます。
あるいは、ぎりぎりのところでバランスを取っていた人間関係が、被災によって決定的に離れてしまった話も聞こえてきます。
安定していたはずの世界像が、ぱっくり裂け目を見せ、ガラガラと音を立てて崩壊し、地面がぐにゃぐにゃになってしまったのですから。比喩でなく。
まるで今までの日常生活が何かの仮象ででもあったかのように、感じられても不思議はありません。
でも、帰るべき安全な場所などどこにもありません。
そんなことを考えると、ふと、
「慌てずに、もう少し茫然としていませんか」と、隣に座った人を誘いたくなる瞬間があります。
しないけどね(笑)。
不安であることは、安心を求める根拠にはならないのかもしれない、と、そんな気もしています。
ほっとする瞬間がほしいのは事実ですが、忘却装置に身を委ねて過剰に「安心」はしたくないのです。
「人為」のリミットとしての「自然との遭遇」による「人為」の崩壊。
えらいこっちゃ、ですよねえ。
でも、そのことによって獲得させられた、この奇妙な水平的開放性は、私達がこの大震災から受け取った貴重な感覚でもあると思うのです。
不謹慎でしょうか。この非常時に。
傷を背負い、その有徴性故に日本中あるいは世界中から「見られる」存在になった「フクシマ」の民としては、この大震災がみせた「人為」の真っ只中の「裂け目」に、空白の中に描かれるべき図像を夢想せずにはいられないのかもしれません。
垂直的な積み重ねの「人為」像とは全く違った、「白描」とでも言うべきような、ありうべき倫理の姿の描線を、その空白の傍らに立ってぎりぎりのところで探していかねばならないようにも。