龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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間にあるもの、もしくは絶対的差異

2011年05月24日 21時41分43秒 | 大震災の中で
鈴木文科省副大臣のコメントが気になっている。
それについての再論を少し。

BSフジ午後8時プライムニュースのインタビューに答えて、副大臣が言っていたこと。

100ミリシーベルト/年でも安全だという説もある。もちろん諸説あって、1ミリリーベルト/年という考え方もある。
疎開がいいかというと、子どもの精神に与える不安も国際機関から強く指摘されてもいる。
そこでもろもろを勘案して20ミリシーベルト/年という基準になった

そういう内容のことをコメントしていた(要約がまずかったらすまんですが)。

ここには、昨夜も指摘したが、
「『イチかゼロか』というダイコトミー(二者択一)にすぐ陥ってしまう」(森達也)
ことを前提とした「折衷案」としての間を取った20ミリシーベルト/年が示されているばかりだ。

むろん、口頭ではできるだけ1ミリシーベルト/年に限りなく近づけるよう線量低減に向けて「支援」をしていくとのコメントもあった。

でもね。安全基準を多めにとって、あとは自治体の責任において気になるならより少ないのはいいことだから支援します……っていうのは、国の姿勢としてどうなんだろう。税金使わけりゃいいってもんじゃないだろうと思うよ。
原発事故だぜぇ。今国民を救済しないで、いつ救済するんだい?もしかして納税者は全国にいるから、福島県にだけお金を使うと他の納税者と不公平が生じるから、なんてつもり?まさかねえ。

ま、そんなつもりではないでしょう。ただ「責任」の所在があきらかにならない仕組みで「ここの国」の政治は動くのですね。

それは、「安全か/危険か」という二者択一に傾きがちな「極端さ」をこの国の言説空間=権力空間は持っていて、そのどちらかに傾斜する傾向をもちつつ、それに納得する人も、納得しない人も、結論さえ出ればあとは各自が「心理的忘却装置」に身を委ねて日常に帰っていく「癖」みたいなものがあるからじゃないか、と思えてくる。

ただし、今はその機能が幸いなことに十分には働かない。ダイコノミーと裏腹の忘却装置は、繰り返し大震災の津波の現実、余震のおそれ、飛散し続ける放射能、安定化しない原子炉事故などによって、絶えず脅かされ続けているのだ。

この事態を見ると、頼りになるのは「原発事故」の方じゃないのか?と逆説的なことを呟いてみたくもなる、というものだ。
これは、二者択一を推し進める、反対派テロとか、這っても黒豆的に安全を言い立てる推進派の間抜けぶりとも違う、「裂け目」の話である。

どちらか半分に回収されえず、繰り返し「絶対的差異」の喚起を「反復」によって示し続ける「裂け目」=「痕跡」。
私は、同一性の形而上学、偏った知=権力、に回収されまいとし、その裂け目、その差異、その「実在」の傍らに踏みとどまって瞳を凝らし続けた「哲学」たちを、今こそ喚起して思考を徹底する必要があると、個人的に考えている。
たとえばドゥルーズ。たとえばスピノザ。たとえばフーコー。
加えて、日本人としては、その傍らに天皇を置いて考えなければなるまい。

(本当は日本人限定のお土産物みたいな扱いじゃなく天皇を考えたいんだけれど、それはさておき)

鈴木副大臣の話に戻れば、1ミリ以下を目指すのか、100ミリ以下は全然楽勝なのか、その極端な二者択一の前で、現在の「政治」は「間」を取って政府がリスクを回避する方向で20ミリシーベルト・年という「折衷」を進めていく。

それは、結果として、
「どうなるか分からない1ミリ~20ミリ/年のリスクはフクシマが個別的に背負ってね」
ってことだ。

するとどうなるか。

もっと危険なら、助けてくれるの?って話になるでしょうが。
あるいは、じゃ、助けてくれないなら安全だという話に乗るしかないね、って話になるでしょうが。

私達の態度も引き裂かれていくのです。
どうして、できることをできるかぎり全部やって、心配に応えていこうってならないのかなあ。
離れているように見えても、様々にバラバラな方向で小さな「方向性」をもった動きがてんでに蠢きひしめきつつ、それがある瞬間地下茎で繋がっているかのように出会う。そういう分散型の「仕事」が結果として「集約」されていくのが、ほんまの「力」の集約になるのじゃないか。

お金や権力を統合し集約して「状況定義力」を発揮できるのは、平常時に限られる。
集約された権力や機構には対応できないことがあるのだ。

もちろん、原発の冷却をバケツリレーでやるわけにはいかない。
(それをパフォーマンスとして自衛隊や消防の人にやらせた責任は重いとおもうけどねえ)
大規模な事故の対応やインフラ整備と維持は、なんといっても行政府の責任で行うべき仕事だ。
高度システム化されたものを、個人や少人数で維持管理することはできない。

でも、「非常事態における個」に関わるものは、逆に集約された権力は対応しきれないのだ、としだいに分かってきた。

人為の裂け目に感応できるのは、あくまで「個人」なのだ。それはPTSDとか「心理的な癒されるべき傷」の範疇に収まる話ではないと思う。
私達はやはり、瞳をこらし、全身で「絶対的な差異」、「人為のリミットとしての裂け目」を何度も何度も反復して確かめていく必要があるのだ。

反復が日常の忘却装置として働くような「差異」→「同一性」への回収の道筋ではなく、繰り返しなぞることが、収斂を不可能にして、広がりをもって全ての場所に「実在」の表現をもたらしていくような種類の反復、痕跡をなぞり続けることがたったひとつの「正解」に帰結せず、傷つく危険を冒すことで始めて不可触なものに触れていくことが可能になるような身振り。

2ヶ月を超えて、そんなことを考えている。

5月24日(火)「野菜から花へ植え替えられた我が家の庭」

2011年05月24日 20時39分25秒 | 大震災の中で
生前父親は、暇さえあれば庭に出て、野菜や草花、庭木の手入れに余念がなかった。

今でも天気の良い休日の午後、母親と居間でお茶を飲んでいると、一仕事終えた父親が縁側から上がってきそうな気がする。

父が亡くなってからは、母が一人で庭いじりをしている。けれど、大きく変わったことが一つ。
ホームセンターに行くたび、いつも浅めの段ボール箱に一杯花の苗を買ってくるのだ。
母親は連れあいの霊前に供えるから、と今は言っているけれど、そうなるまでには二ヶ月かかった。

それまでは、父が春先にむけて作っていた菜の花やほうれん草を取ってきては、
「よく洗えば食べられるよね」
と自分に言い聞かせるようにおひたしにしようとし、何度かは食べていた。

そうはいいつつも、彼女なりに気にしているのだろう。
80歳になる自分一人ならば全部食べても平気なのだろうけれど、一緒に暮らす者のことを考えると無理はできない。
結局収穫したのはごく少量。ほとんどは庭の肥やしになってしまった。


付着した放射能の放射線量の多寡は、自宅なので計測もしていないから分からない。
このままではいつ「野菜作り」を再開できるのかも分からないままだ。

けれど、花ならば、目で楽しめる。

今、家の裏の畑は、父親が野菜を植えていた畝を埋め尽くして、綺麗な草花がびっしりと植えられている。
無理に庭で取れた野菜を食べる必要があるわけではないし、花でも野菜でもいずれ年寄りの手すさびにすぎない。

けれども、父親の死と放射能飛散と地震とが同時に3重の「ズレ」として、母親の前に立ち現れている。

「こんなことは戦争以来だね」

笑いながら、歯止めがかからないかのように彼女は花を買い続けている。今週の日曜日にベコニアや日日草を大量購入してきた(その前はマリーゴールドとペチュニアだった)。
今度はサルビアとコスモスを買いに行くのだそうだ。
アメリカシロヒトリ用のスプレーも必要だし、除草剤も撒かねばならないという。

野菜は身体の中に取り込んで新たな「生への促し」になるけれど、放射能は「死への促し」にしかならない。
うちの庭で花を愛でることは、幾重にも「死」のイメージが重なることになってしまった。

ただし、それは必ずしも悪いことばかりを象徴している、というわけでもないのだ。

年老いた母と、初老の息子が二人、老父を失って暮らすには、大量の野菜より花のあふれた庭がむしろふさわしいだろう。そして、夏になってさらに花が溢れれば、そこを我が物顔に歩くもう「一人の家族」、老いた柴犬にとっても、大根やキュウリよりも楽しめる草むらになるかもしれない。

やっぱり、富士には月見草、じゃあないが、

「放射能は老後によく似合う」

若い人には酷な現実だよね、当然ながら。