「フーコー再考」大澤真幸・萱野稔人
4/30 15:30~
朝日カルチャーセンターの講座を受講した。
雑誌「O」の提携講座、ということなので、いずれ雑誌になるのでしょう。
営業妨害しない程度に中身の紹介を下記でしています。
メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/
しばらく「メディア日記」の方をお休みしていましたが、どちらもご愛顧ください。
講座の中身は上記「メディア日記」のメモを見ていただくとして、ここでは私の関心に引きつけた「曲解」の方を書き付けておきます。
大澤真幸さんは、フーコーの晩年の研究はちょっと違うんじゃないか、と疑念を呈している。
フーコー自身が、自分の「権力」という視点をつきつめていった結果「プレ・フーコー」的な研究になってしまった。ギリシア古典研究に引きこもって「パレーシア」とかいっても、現代の状況には対応できないじゃないか。という視点です。
萱野さんはそれに対して、「分からない」といってました。
こういう対談で「分からない」というのは、「微妙」ってことかなって私は勝手に解釈します(笑)。単純な否定ではなく、まだ道筋がついていない、ってことでしょうか。
萱野さんはとりあえずフーコー物語は許さん、といいます。
つまり
「権力論の研究によって袋小路に入ったフーコーは、6年間の沈黙ののち、新たな地平を求めて晩年の研究に至った」
みたいな物語です。
その上で晩年のフーコーの、倫理に言及したりしている側面をどう解釈するかは「分からない」といいつつも、ドゥルーズの研究が今のところ一番納得できるものだ、というのです。
「権力とは微分的な力の働きかけ」
「知は統合的なもの」
知と権力の外延は一致している。
そして、世界には様々な「力」があふれている。そこでマイノリティとなること。様々な諸力をつかって変わっていくこと」
そういうドゥルーズの分析は見事だと思う。
けれど、ほとんどフーコー論ではあってもドゥルーズの思想そのものなので……。
といった大澤さんと萱野さんのやりとりを見ていて思ったことを以下に書いておきます。
断っておきますが(苦笑)、私はドゥルーズのフーコー論を読んでいないのでここから先は全く怪しい話です。
さて、フーコーの晩年を否定的にみる大澤さんのお話は、「正しい」かもしれないけれど、いささかフーコーをみる視点の方が「縮減」しているような印象を持つ。
もしかすると、フーコーを論じる近年のフーコー研究者のヲタクぶりを大澤さんが批判していて、その批判の対象が、大澤さんの晩年フーコーの否定的見解に「転写」されているのではないか、という疑いも持つが、それは失礼かな(苦笑)。
また、私は、フーコーが袋小路に陥って、ギリシャ古典の分析に行ったっていう物語は、フーコーとは無縁であってもとりあえず受け取っておいてもいい、と思う。
大澤さんも萱野さんも、現代の震災後の状況がポスト・フーコー的状況だ、ということは合意している。
私も、それは「半分」同意。
でも、フーコーの延長線上にそのポスト・フーコー的状況を位置づけて考えようとすると、私は晩年の営みに、むしろフーコー自身の可能性を読みとっていくことも可能なのではないか、とも思っているのです。
それは講座でも指摘された「テクネー」の問題です。
ハイデガーが考えた「テクノロジー」の問題をフーコーは継承した、という指摘が講座の会話の中でなされていたと思います。
この「テクネー」の問題はもちろん単なる技術論ではなく、
「人為」の問題、テクノロジー(たとえば東電=原発)と政治(地方自治体=政府)の重ねられた問題として考えることができるのではないか、というヒントを感じるのです。
「知」と「権力」が相互に複雑に関連しつつ、ぎりぎりのせめぎ合いのところでそれが裂け目を生じ、「自然」が顔を出す。
その裂け目の空白は、フーコーが突き詰めていった「権力」分析のリミットとして、瞳を凝らして思考すべき対象だと思うのです。
裂け目をもたらした「人為」と「自然」の関係は、実はフーコーが瞳を凝らしていた「知」と「権力」の基盤にあるものの動き。まなざすときにはすでに「視線の条件」が結論を招いてしまっているような形で作動する「知」と「権力」。
そういうものリミットだからこそ「空白」として、「裂け目」としてそれは私たちに見えないものとして登場するんじゃないかな。
フーコーとスピノザ。
「人為」と「公共性」
「断片化」と「共振」をキーワードにして、全く関係もないようなその二つを、頭の中でぐだぐだといじりつづけています。
ハイデガーの「テクネー」を継承したフーコー、というところも勉強になりました。
ドゥルーズを介在させて、っていうのはスピノザ解釈の問題にもなりますね。
大澤さんが最後に言っていた、今は「
真理」や「基準」が問題なのではなくてその「解釈」が問題になってしまっている、という。
揚げ足をとるつもりはなくて、私にはむしろそれはポスト・フーコー的状況、フーコーの分析の範囲を越えた状況であるというより、フーコーの分析を徹底的に深めていかなければならない状況、という風に感じます。
スピノザを読んでもドゥルーズのテキストを薦められ、フーコーをみてもドゥルーズの読み、
を紹介され、どちらの紹介も「ドゥルーズは何を書いてもドゥルーズだからね」と言われ、なんだか困りつつ、さらに面白くなってきています。
あれ、ドゥルーズのフーコー論って本棚になんかなかったかな。
家に戻ったら漁ってみよう。
連休中、ドゥルーズのスピノザ論、平凡社文庫本じゃない方の未読を開かねばならないかしらん。
この項目も、続く、ですね。
4/30 15:30~
朝日カルチャーセンターの講座を受講した。
雑誌「O」の提携講座、ということなので、いずれ雑誌になるのでしょう。
営業妨害しない程度に中身の紹介を下記でしています。
メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/
しばらく「メディア日記」の方をお休みしていましたが、どちらもご愛顧ください。
講座の中身は上記「メディア日記」のメモを見ていただくとして、ここでは私の関心に引きつけた「曲解」の方を書き付けておきます。
大澤真幸さんは、フーコーの晩年の研究はちょっと違うんじゃないか、と疑念を呈している。
フーコー自身が、自分の「権力」という視点をつきつめていった結果「プレ・フーコー」的な研究になってしまった。ギリシア古典研究に引きこもって「パレーシア」とかいっても、現代の状況には対応できないじゃないか。という視点です。
萱野さんはそれに対して、「分からない」といってました。
こういう対談で「分からない」というのは、「微妙」ってことかなって私は勝手に解釈します(笑)。単純な否定ではなく、まだ道筋がついていない、ってことでしょうか。
萱野さんはとりあえずフーコー物語は許さん、といいます。
つまり
「権力論の研究によって袋小路に入ったフーコーは、6年間の沈黙ののち、新たな地平を求めて晩年の研究に至った」
みたいな物語です。
その上で晩年のフーコーの、倫理に言及したりしている側面をどう解釈するかは「分からない」といいつつも、ドゥルーズの研究が今のところ一番納得できるものだ、というのです。
「権力とは微分的な力の働きかけ」
「知は統合的なもの」
知と権力の外延は一致している。
そして、世界には様々な「力」があふれている。そこでマイノリティとなること。様々な諸力をつかって変わっていくこと」
そういうドゥルーズの分析は見事だと思う。
けれど、ほとんどフーコー論ではあってもドゥルーズの思想そのものなので……。
といった大澤さんと萱野さんのやりとりを見ていて思ったことを以下に書いておきます。
断っておきますが(苦笑)、私はドゥルーズのフーコー論を読んでいないのでここから先は全く怪しい話です。
さて、フーコーの晩年を否定的にみる大澤さんのお話は、「正しい」かもしれないけれど、いささかフーコーをみる視点の方が「縮減」しているような印象を持つ。
もしかすると、フーコーを論じる近年のフーコー研究者のヲタクぶりを大澤さんが批判していて、その批判の対象が、大澤さんの晩年フーコーの否定的見解に「転写」されているのではないか、という疑いも持つが、それは失礼かな(苦笑)。
また、私は、フーコーが袋小路に陥って、ギリシャ古典の分析に行ったっていう物語は、フーコーとは無縁であってもとりあえず受け取っておいてもいい、と思う。
大澤さんも萱野さんも、現代の震災後の状況がポスト・フーコー的状況だ、ということは合意している。
私も、それは「半分」同意。
でも、フーコーの延長線上にそのポスト・フーコー的状況を位置づけて考えようとすると、私は晩年の営みに、むしろフーコー自身の可能性を読みとっていくことも可能なのではないか、とも思っているのです。
それは講座でも指摘された「テクネー」の問題です。
ハイデガーが考えた「テクノロジー」の問題をフーコーは継承した、という指摘が講座の会話の中でなされていたと思います。
この「テクネー」の問題はもちろん単なる技術論ではなく、
「人為」の問題、テクノロジー(たとえば東電=原発)と政治(地方自治体=政府)の重ねられた問題として考えることができるのではないか、というヒントを感じるのです。
「知」と「権力」が相互に複雑に関連しつつ、ぎりぎりのせめぎ合いのところでそれが裂け目を生じ、「自然」が顔を出す。
その裂け目の空白は、フーコーが突き詰めていった「権力」分析のリミットとして、瞳を凝らして思考すべき対象だと思うのです。
裂け目をもたらした「人為」と「自然」の関係は、実はフーコーが瞳を凝らしていた「知」と「権力」の基盤にあるものの動き。まなざすときにはすでに「視線の条件」が結論を招いてしまっているような形で作動する「知」と「権力」。
そういうものリミットだからこそ「空白」として、「裂け目」としてそれは私たちに見えないものとして登場するんじゃないかな。
フーコーとスピノザ。
「人為」と「公共性」
「断片化」と「共振」をキーワードにして、全く関係もないようなその二つを、頭の中でぐだぐだといじりつづけています。
ハイデガーの「テクネー」を継承したフーコー、というところも勉強になりました。
ドゥルーズを介在させて、っていうのはスピノザ解釈の問題にもなりますね。
大澤さんが最後に言っていた、今は「
真理」や「基準」が問題なのではなくてその「解釈」が問題になってしまっている、という。
揚げ足をとるつもりはなくて、私にはむしろそれはポスト・フーコー的状況、フーコーの分析の範囲を越えた状況であるというより、フーコーの分析を徹底的に深めていかなければならない状況、という風に感じます。
スピノザを読んでもドゥルーズのテキストを薦められ、フーコーをみてもドゥルーズの読み、
を紹介され、どちらの紹介も「ドゥルーズは何を書いてもドゥルーズだからね」と言われ、なんだか困りつつ、さらに面白くなってきています。
あれ、ドゥルーズのフーコー論って本棚になんかなかったかな。
家に戻ったら漁ってみよう。
連休中、ドゥルーズのスピノザ論、平凡社文庫本じゃない方の未読を開かねばならないかしらん。
この項目も、続く、ですね。