5月7日付けの産経新聞サイトを見てびびびひっくり。
首相が浜岡原発の停止を求めたことが、世界の信頼を失う信用失墜行為だ、というのだ。
詳細はこちらを参照。
へえ、そうきたか、と思った。
私は直ちに全ての原発を止めるのは難しいと考えているので、必ずしも思いは単純ではない。
が、この産経新聞の記事は、決定的にレトリックがひどい。
自民党の推進派の表現と同じたぐいの愚かさなのだ。
産経新聞は「全部止めるなら理屈は通るが」という主張を推進派の引用で語らせて、浜岡原発停止要請に疑問を投げかけている。
これでは自民党の推進派が河野太郎に「原発反対なら社民党に行け」と極論をふっかけたのと同じだ。
むしろ、全面停止を声高に叫ぶ原発反対派の尻馬に乗って議論を補強しなければ自分の論が立てられないかのような印象さえ抱かせる。
「3/11」以降、何でもかんでも「変わってしまった」とは必ずしも思わないが、原子力発電についてはもはや議論の基盤が大きく変化してしまったのだ、ということに、早く気づいてほしい。
反対か賛成か、稼働か停止か、という0/1の問題の立て方自体が、決定的に事象を見誤っている。
電力供給量の一定量確保が必要なのは分かっている。
他方「フクシマ」の原発事故で、危険性の認識は全世界が共有した。
この状況で逆に日本が原発を稼働し続けたからといって、世界が信頼感を抱く、というものではないだろう。
バカバカしいにもほどがある。
むしろ平気で全部を稼働させ続けたら「正気を疑われる」おそれさえあるとおもうよ。
浜岡原発を止めるよう要請したのは、東京に近いから被害が甚大になるため、に決まってるでしょう。
政権浮揚策とか、米軍基地が横須賀にあるから、とか穿った見方はそれこそ☆の数ほどあって、それはそれで面白くないこともないが(笑)、我々が納得して実現するフィクションを理由とするのだとすれば、そこに無理矢理菅首相の「意図」の「真実」を読み込んでいるうちは、その鏡に自己の欲望を映すだけだろう。
それでも、その言葉が政治的に説得力があるかどうか、が問題なのだとすれば、浜岡原発の停止要請は政治的フィクションとしての説得力を「一定程度」持っていると私の瞳には映っている。
ま、地方は人口密度が低いから後回し、というのが現実なんだけどさっ。
だから、その首相の判断が特別に「正しい」とは思わない。むしろやっぱり後出しじゃんけんの手遅れな手当ではあり続けている。
だって、結果としてフクシマは事故が起こるまで放置され、東京は事故が起こる前に防衛されるわけだし、おそらく、さらに後回しにされるのはまたぞろ地方の人口密度が低い、そして行政の補助の依存度が高い、「麻薬依存」が高まった植民地状態の地域なのだろうから。
現実っていうのはひどいものだ。でもね。
すべてを平等に検討してから、とか風呂敷を大きく広げてもことは進むまい。
逆に中部電力が赤字になるかも、なんて些細なことを心配してみせる産経の報道も、物事を動かしたくない欲望の反映にすぎまい。
だから、今は敢えて首相の決定を支持しておきたいのである。
それはもしかすると、私が聖地「フクシマ」と向き合うことによって生じた「信仰告白」なのかもしれない。
私たち「フクシマ」人は、「フクシマ」が自ら不可避的に選択してきた「現状追認」の結末を、この悲惨な原発事故にみいだした。
そしてその結果私達は「フクシマ以後」人となったのだ。
私という「フクシマ人」=&≠「フクシマ以後人」は、自らの受けた傷において、あるいは第一原発という「負の聖地」の名において、浜岡原発停止を支持するだろう。
まあそれでもなおグローバルな経済を「信仰」し、原発推進を謳う企業や国に与するものはいるに違いない。
それはそれでいい。私は反対だけど。
しかし、それもまた「フクシマ」という「負の聖地」の「光」照らされるとき、不可避的に逆照射された影絵のような形を示すという意味で、ある種の「信仰告白」の意味を帯びるだろう。
「フクシマ」の被害は、中央の政策放棄によって、被らなくてもよいモノを被った側面があると私は考えている。
そしてだからこそ今は、もうその危険を無視して同じことを繰り返すのだけは見たくないのだ。
もう一つ別件です。
さてでは、人口密集した都市部に対して、人口密度の低い田舎はどこまで植民地的に奉仕し続けるのだろうか。
たとえば、最近になって「飯舘村に風向きからいって高濃度の飛散放射能が降り注ぐことは予測できたが混乱をおそれて発表を控えた」とかいった5月2日の会見政府の人(細野豪志)の発言を聞くと、ああ、実に人(ここではフクシマのイイタテ)というものは軽く適当に扱われているのだなあ、とシミジミ思う。
そこから考えてくと、たとえば、避難区域から福島市ははずれたし、いわき市も外れたことの理由も推測できる。
年間20ミリシーベルトの蓄積線量という基準はむしろ、科学的な定量的分析の結果としての判断ではなく、ジオグラフィカルな人口分布を踏まえて政治的に決定されたのだろう、と。
たしかに基準はどこに線を引くかが難しい。
現在避難地域は約20万人ぐらいだろうか。それに福島市といわき市が入ったら、80万人を軽く越えてしまう。
だから、その中の範囲で決定されたと推測するのはむしろ自然だろう。
同様に、3.8マイクロシーベルト/時
という校庭活動許可の線量も、後出しじゃんけんで最後に出てきたやり方からすれば、数字を見て基準を決めたのだろうな、と推測できる。
なぜなら、行政は学校によって決定的に市民をコントロールできるからだ。
おそらく、フーコーの規律訓練分析の成果の一つは、ここにまざまざと鮮やかに現れている。
大量の人間をコントロールするためには、規範が必要だ。そしてその基準は、大きな権力の「意図」というよりは、むしろテクノロジーによって決定される。そして、それは「知」の姿をしていながら、すでに「権力的」な振る舞いにならざるをえないのだ。
学校の校庭が「安全だ」と言われれば、その活動をする生徒はそこにとどまるだろう。
子どもの学区に、ほぼその親たちは実質的に「縛られる」
だから、学校から生徒を逃がさなければ、市民を「意図」したかしないかは別にして、あまりにもたやすく制御できてしまうのだ。
普段私達は、「安全です」とか「危険です」という判断は科学的知見によって示されるモノだと認識しているし、そうあるべきだともおもっている。
しかし、科学による予測は、初期条件によって将来像が全く異なるものだ。変数設定だって、十分な過去のデータ分析による蓄積範囲を所詮は越えられない。
政府の基準を巡る様々な公表(もしくは非公表)は、地理的な人口条件を踏まえた「後出しじゃんけん」としか考えられない。
だって20ミリシーベルト/年よりは10ミリシーベルト/年の方が安全だし、原発は浜岡だけ止めるより全部止めた方が安全だ。
そんなことは子どもでも分かるさ。
別に「原発止めたきゃ社民党に行け」と推進派に言われなくても誰だって分かっている。
でも、全部いきなりはなかなか止められないだろうその理由も分かる。
ここでは、権力中枢が真理それ自体を隠蔽したり、恣意的にお手盛りしている、と考えるだけでは済まない事態が進行している。
行政であれ、政治であれ、過失を犯した企業であれ、科学であれ、第一原発で現在進行中の事故の総体を、「真理」の名の下に定義しきることなど無理だろう。
「比較的低濃度の汚染水を流します」
と、白昼堂々、日常的感覚なら超高濃度の汚染水を海に流す決定を記者会見で発表する保安員の人の顔を見ながら、「人為」があられもなく裂け目をべろっと人前にさらした瞬間の空白を味わった。発表する人が心なしか「笑って」いるようにさえ見えるのは、私達がその人の表情をもはや「読める」ものとして判断できないからだろう。
よくtvを観ながら記者会見に出てくる人を見て、「へらへらして報告すんなよ」と突っ込んでいる人が最近いるが、それは自分の困惑をあのこわばった表情に投影して、それを「へらへら」と「受容」しているだけのことにすぎないのではないか、という疑いを持つ。
きっと、決定的な瞬間は、「空白」「へらへら」としか映らないことって多いんじゃないかな。
そしていつだって、後からしか世界は見えてこない。
決定的なことはいつだって、あらかじめ準備していて起こらなかったことの向こう側から、その準備していた「人為」を引き裂いてたち現れる。
よく科学者は正しく恐れて冷静に対応しなさい、という。
でも、そんなことは、与えられた初期値が変われば、「冷静さ」はたちまち「愚かさ」に転落するのだ。
「科学」や「正しさ」を買いかぶりすぎてはいけない。
むろん微細なところから、大きなシステムまで「知性」や「科学」や「権力」の意味をしっかりと分析・理解することも大事だろう。
しかし同時に、その基盤の偏りやゆらぎ、裂け目を注意深く、「正しさ」の中から微細な揺れや歪みとして嗅ぎつけ、肌で感じ、瞳を凝らす力を持たねばなるまい。
ああでも、こういう「言い方」は、見えないものを観る超能力みたいな話として聞こえてしまうんだろうか。
分かる人には分かるっていう話じゃないつもりなんだけれど、難しいね。
これも宿題として考えていかねば。
首相が浜岡原発の停止を求めたことが、世界の信頼を失う信用失墜行為だ、というのだ。
詳細はこちらを参照。
へえ、そうきたか、と思った。
私は直ちに全ての原発を止めるのは難しいと考えているので、必ずしも思いは単純ではない。
が、この産経新聞の記事は、決定的にレトリックがひどい。
自民党の推進派の表現と同じたぐいの愚かさなのだ。
産経新聞は「全部止めるなら理屈は通るが」という主張を推進派の引用で語らせて、浜岡原発停止要請に疑問を投げかけている。
これでは自民党の推進派が河野太郎に「原発反対なら社民党に行け」と極論をふっかけたのと同じだ。
むしろ、全面停止を声高に叫ぶ原発反対派の尻馬に乗って議論を補強しなければ自分の論が立てられないかのような印象さえ抱かせる。
「3/11」以降、何でもかんでも「変わってしまった」とは必ずしも思わないが、原子力発電についてはもはや議論の基盤が大きく変化してしまったのだ、ということに、早く気づいてほしい。
反対か賛成か、稼働か停止か、という0/1の問題の立て方自体が、決定的に事象を見誤っている。
電力供給量の一定量確保が必要なのは分かっている。
他方「フクシマ」の原発事故で、危険性の認識は全世界が共有した。
この状況で逆に日本が原発を稼働し続けたからといって、世界が信頼感を抱く、というものではないだろう。
バカバカしいにもほどがある。
むしろ平気で全部を稼働させ続けたら「正気を疑われる」おそれさえあるとおもうよ。
浜岡原発を止めるよう要請したのは、東京に近いから被害が甚大になるため、に決まってるでしょう。
政権浮揚策とか、米軍基地が横須賀にあるから、とか穿った見方はそれこそ☆の数ほどあって、それはそれで面白くないこともないが(笑)、我々が納得して実現するフィクションを理由とするのだとすれば、そこに無理矢理菅首相の「意図」の「真実」を読み込んでいるうちは、その鏡に自己の欲望を映すだけだろう。
それでも、その言葉が政治的に説得力があるかどうか、が問題なのだとすれば、浜岡原発の停止要請は政治的フィクションとしての説得力を「一定程度」持っていると私の瞳には映っている。
ま、地方は人口密度が低いから後回し、というのが現実なんだけどさっ。
だから、その首相の判断が特別に「正しい」とは思わない。むしろやっぱり後出しじゃんけんの手遅れな手当ではあり続けている。
だって、結果としてフクシマは事故が起こるまで放置され、東京は事故が起こる前に防衛されるわけだし、おそらく、さらに後回しにされるのはまたぞろ地方の人口密度が低い、そして行政の補助の依存度が高い、「麻薬依存」が高まった植民地状態の地域なのだろうから。
現実っていうのはひどいものだ。でもね。
すべてを平等に検討してから、とか風呂敷を大きく広げてもことは進むまい。
逆に中部電力が赤字になるかも、なんて些細なことを心配してみせる産経の報道も、物事を動かしたくない欲望の反映にすぎまい。
だから、今は敢えて首相の決定を支持しておきたいのである。
それはもしかすると、私が聖地「フクシマ」と向き合うことによって生じた「信仰告白」なのかもしれない。
私たち「フクシマ」人は、「フクシマ」が自ら不可避的に選択してきた「現状追認」の結末を、この悲惨な原発事故にみいだした。
そしてその結果私達は「フクシマ以後」人となったのだ。
私という「フクシマ人」=&≠「フクシマ以後人」は、自らの受けた傷において、あるいは第一原発という「負の聖地」の名において、浜岡原発停止を支持するだろう。
まあそれでもなおグローバルな経済を「信仰」し、原発推進を謳う企業や国に与するものはいるに違いない。
それはそれでいい。私は反対だけど。
しかし、それもまた「フクシマ」という「負の聖地」の「光」照らされるとき、不可避的に逆照射された影絵のような形を示すという意味で、ある種の「信仰告白」の意味を帯びるだろう。
「フクシマ」の被害は、中央の政策放棄によって、被らなくてもよいモノを被った側面があると私は考えている。
そしてだからこそ今は、もうその危険を無視して同じことを繰り返すのだけは見たくないのだ。
もう一つ別件です。
さてでは、人口密集した都市部に対して、人口密度の低い田舎はどこまで植民地的に奉仕し続けるのだろうか。
たとえば、最近になって「飯舘村に風向きからいって高濃度の飛散放射能が降り注ぐことは予測できたが混乱をおそれて発表を控えた」とかいった5月2日の会見政府の人(細野豪志)の発言を聞くと、ああ、実に人(ここではフクシマのイイタテ)というものは軽く適当に扱われているのだなあ、とシミジミ思う。
そこから考えてくと、たとえば、避難区域から福島市ははずれたし、いわき市も外れたことの理由も推測できる。
年間20ミリシーベルトの蓄積線量という基準はむしろ、科学的な定量的分析の結果としての判断ではなく、ジオグラフィカルな人口分布を踏まえて政治的に決定されたのだろう、と。
たしかに基準はどこに線を引くかが難しい。
現在避難地域は約20万人ぐらいだろうか。それに福島市といわき市が入ったら、80万人を軽く越えてしまう。
だから、その中の範囲で決定されたと推測するのはむしろ自然だろう。
同様に、3.8マイクロシーベルト/時
という校庭活動許可の線量も、後出しじゃんけんで最後に出てきたやり方からすれば、数字を見て基準を決めたのだろうな、と推測できる。
なぜなら、行政は学校によって決定的に市民をコントロールできるからだ。
おそらく、フーコーの規律訓練分析の成果の一つは、ここにまざまざと鮮やかに現れている。
大量の人間をコントロールするためには、規範が必要だ。そしてその基準は、大きな権力の「意図」というよりは、むしろテクノロジーによって決定される。そして、それは「知」の姿をしていながら、すでに「権力的」な振る舞いにならざるをえないのだ。
学校の校庭が「安全だ」と言われれば、その活動をする生徒はそこにとどまるだろう。
子どもの学区に、ほぼその親たちは実質的に「縛られる」
だから、学校から生徒を逃がさなければ、市民を「意図」したかしないかは別にして、あまりにもたやすく制御できてしまうのだ。
普段私達は、「安全です」とか「危険です」という判断は科学的知見によって示されるモノだと認識しているし、そうあるべきだともおもっている。
しかし、科学による予測は、初期条件によって将来像が全く異なるものだ。変数設定だって、十分な過去のデータ分析による蓄積範囲を所詮は越えられない。
政府の基準を巡る様々な公表(もしくは非公表)は、地理的な人口条件を踏まえた「後出しじゃんけん」としか考えられない。
だって20ミリシーベルト/年よりは10ミリシーベルト/年の方が安全だし、原発は浜岡だけ止めるより全部止めた方が安全だ。
そんなことは子どもでも分かるさ。
別に「原発止めたきゃ社民党に行け」と推進派に言われなくても誰だって分かっている。
でも、全部いきなりはなかなか止められないだろうその理由も分かる。
ここでは、権力中枢が真理それ自体を隠蔽したり、恣意的にお手盛りしている、と考えるだけでは済まない事態が進行している。
行政であれ、政治であれ、過失を犯した企業であれ、科学であれ、第一原発で現在進行中の事故の総体を、「真理」の名の下に定義しきることなど無理だろう。
「比較的低濃度の汚染水を流します」
と、白昼堂々、日常的感覚なら超高濃度の汚染水を海に流す決定を記者会見で発表する保安員の人の顔を見ながら、「人為」があられもなく裂け目をべろっと人前にさらした瞬間の空白を味わった。発表する人が心なしか「笑って」いるようにさえ見えるのは、私達がその人の表情をもはや「読める」ものとして判断できないからだろう。
よくtvを観ながら記者会見に出てくる人を見て、「へらへらして報告すんなよ」と突っ込んでいる人が最近いるが、それは自分の困惑をあのこわばった表情に投影して、それを「へらへら」と「受容」しているだけのことにすぎないのではないか、という疑いを持つ。
きっと、決定的な瞬間は、「空白」「へらへら」としか映らないことって多いんじゃないかな。
そしていつだって、後からしか世界は見えてこない。
決定的なことはいつだって、あらかじめ準備していて起こらなかったことの向こう側から、その準備していた「人為」を引き裂いてたち現れる。
よく科学者は正しく恐れて冷静に対応しなさい、という。
でも、そんなことは、与えられた初期値が変われば、「冷静さ」はたちまち「愚かさ」に転落するのだ。
「科学」や「正しさ」を買いかぶりすぎてはいけない。
むろん微細なところから、大きなシステムまで「知性」や「科学」や「権力」の意味をしっかりと分析・理解することも大事だろう。
しかし同時に、その基盤の偏りやゆらぎ、裂け目を注意深く、「正しさ」の中から微細な揺れや歪みとして嗅ぎつけ、肌で感じ、瞳を凝らす力を持たねばなるまい。
ああでも、こういう「言い方」は、見えないものを観る超能力みたいな話として聞こえてしまうんだろうか。
分かる人には分かるっていう話じゃないつもりなんだけれど、難しいね。
これも宿題として考えていかねば。