日曜の午後、ようやく落ち着いてネットを眺める時間が取れた。
ここでも天皇の慰問に関連して触れた問題であるけれど、こういうブログに出会った。
弯曲していく日常
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110504#p3
そこからの引用です。
引用開始----------------------
放射能を浴びるという非常に危険であるが故に短時間しか従事できないという仕事に誰が従事するのか、というのが、現在大きな問題になっている。
解決策は、作業者を固定しサバルタン化し圧力を掛け死に至る放射能を浴びる覚悟を自発的に抱かせるというもの。もう一つは全ての人が対等に交代で仕事につくというヴィジョンだ。あるいは50代以上の男性エリートをすべて交代で作業させよ、といった案もありうる。
現実には、東電の従来の下請けに対する身分制的支配による前者の方法に頼っているようだが、非人間的である。
「中止して討論する」ヒマはない原発事故は、と怒鳴りながら、ヴィジョンについても、方針についても掘り下げた討論を一切せずに二ヶ月が過ぎようとしている。
私たちが前提にしている事、例えば原発推進体制や会社の存続といったものは、実は当然変わりうるものであり、危機の時こそそれを考慮に入れた真に深い〈討論〉がなされなければならない。
権力者が情報を隠蔽し庶民の恐怖心、不安をコントロールすることにより支配を維持するという三文芝居を止めさせなければならない。
引用終了---------------
この問題、どう考えても考え抜くべき最重要課題の一つです。
「サバルタン」はサーバントの元かな?「従属者」の意味で、被支配を受けている者たちは自らを「語り得るのか」という問題設定でよく用いられる社会学の用語、ですかね。
つまり、黙って黙々と被曝線量を累積させながら原発事故収拾と沈静化に向けて「働いている人々」は、「被支配的立場」に置かれていて、有形無形にその被曝線量を増大させられる仕事をする覚悟を「内面化」させられてしまっているのではないか?という問題提起ですね。
それに対する有効な対抗提案がどこからも為されていない現実は、「フクシマ」の聖痕を受けた「被害者」である福島県民ばかりでなく、日本国民あるいは全世界が直視し、乗り越えねばならないことだと感じます。
「じゃあおまえやれ!」
と言われても困ることは事実。ぎりぎり追い詰められたら、私も「やる覚悟」を持ってしまうと思うけれど。
「絶対やだ、フクシマがどうなろうが日本がどうなろうが世界がどうなろうがオレは世界の果てまで逃げる」
っては、人はならないのですね、そう簡単には。
現に、「普通なら逃げ出す超高線量の作業を、黙々と日々行っている作業員の方々がいるわけだから。
責任かプライドかあきらめか、立場か使命感か。
いや、現実には東電→協力企業→下請け企業→人集め担当→作業員、みたいなヒエラルヒーが厳然として存在していて、その中で「被支配的な立場」で「言葉を持たない」=サバルタン化した状況に追い込まれた人々が現実に作業しているのじゃないでしょうか。
現に、福島県いわき市内の原発から数十キロ離れた温泉に宿泊して、朝、Jビレッジというサッカー施設に向かってバスで移動し、そこで装備を着装して危険地域に入って作業するのだ、という話があります。
そこに行ってインタビューしてこいって話ですよね、せめて。
でも、私達はそこに触れないまま、汚染物質や汚染水を外にまき散らし続けている原発事故の責任を東電に背負わせておしまい、みたいな報道になっている。
たしかに、作業員の方は大変だっていう報道はあります。
でも、それでおしまい。避難民の方とか、災害に遭った方とかのドキュメントは丁寧に見ることができるようになった。
今最前線で闘っている人の志気をくじいてでも彼らの命を守ることは
「反戦=非国民」的な短絡発想、ってことになるのかどうか。
あるいは国民がそういう重すぎる話題を避けるとメディアが判断しているのかどうか分からないけれど、本当は日本の将来の命運を握っている、大変な仕事をしている現場の作業員の方の「声」は、全くといっていいほど届かないのが実情です。
インタビューでも匿名がほとんど。
原発事故区域で、最も危険な作業をした自衛隊員は、イラク派兵の時よりも高い一日4万円超の手当を出す、という報道が今日ありました。
でもたぶん、ずーっとぎりぎりまで危険な作業をしている人は、自衛隊員ばかりじゃないはず。
「声を持たない」人の代弁なんてそうたやすくはできない。
でも、瞳を凝らし、耳を澄ませて「フクシマ」という「傷」を抱えていく、というつもりなら、今も作業を続けている人々に、私達が果たしてどんな「言葉を持ち得るのか」、自問しなければならないだろう。
ことばをもたないのは果たして本当に「サバルタン」と呼ばれる人々だけなのか、と。
ここでも天皇の慰問に関連して触れた問題であるけれど、こういうブログに出会った。
弯曲していく日常
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110504#p3
そこからの引用です。
引用開始----------------------
放射能を浴びるという非常に危険であるが故に短時間しか従事できないという仕事に誰が従事するのか、というのが、現在大きな問題になっている。
解決策は、作業者を固定しサバルタン化し圧力を掛け死に至る放射能を浴びる覚悟を自発的に抱かせるというもの。もう一つは全ての人が対等に交代で仕事につくというヴィジョンだ。あるいは50代以上の男性エリートをすべて交代で作業させよ、といった案もありうる。
現実には、東電の従来の下請けに対する身分制的支配による前者の方法に頼っているようだが、非人間的である。
「中止して討論する」ヒマはない原発事故は、と怒鳴りながら、ヴィジョンについても、方針についても掘り下げた討論を一切せずに二ヶ月が過ぎようとしている。
私たちが前提にしている事、例えば原発推進体制や会社の存続といったものは、実は当然変わりうるものであり、危機の時こそそれを考慮に入れた真に深い〈討論〉がなされなければならない。
権力者が情報を隠蔽し庶民の恐怖心、不安をコントロールすることにより支配を維持するという三文芝居を止めさせなければならない。
引用終了---------------
この問題、どう考えても考え抜くべき最重要課題の一つです。
「サバルタン」はサーバントの元かな?「従属者」の意味で、被支配を受けている者たちは自らを「語り得るのか」という問題設定でよく用いられる社会学の用語、ですかね。
つまり、黙って黙々と被曝線量を累積させながら原発事故収拾と沈静化に向けて「働いている人々」は、「被支配的立場」に置かれていて、有形無形にその被曝線量を増大させられる仕事をする覚悟を「内面化」させられてしまっているのではないか?という問題提起ですね。
それに対する有効な対抗提案がどこからも為されていない現実は、「フクシマ」の聖痕を受けた「被害者」である福島県民ばかりでなく、日本国民あるいは全世界が直視し、乗り越えねばならないことだと感じます。
「じゃあおまえやれ!」
と言われても困ることは事実。ぎりぎり追い詰められたら、私も「やる覚悟」を持ってしまうと思うけれど。
「絶対やだ、フクシマがどうなろうが日本がどうなろうが世界がどうなろうがオレは世界の果てまで逃げる」
っては、人はならないのですね、そう簡単には。
現に、「普通なら逃げ出す超高線量の作業を、黙々と日々行っている作業員の方々がいるわけだから。
責任かプライドかあきらめか、立場か使命感か。
いや、現実には東電→協力企業→下請け企業→人集め担当→作業員、みたいなヒエラルヒーが厳然として存在していて、その中で「被支配的な立場」で「言葉を持たない」=サバルタン化した状況に追い込まれた人々が現実に作業しているのじゃないでしょうか。
現に、福島県いわき市内の原発から数十キロ離れた温泉に宿泊して、朝、Jビレッジというサッカー施設に向かってバスで移動し、そこで装備を着装して危険地域に入って作業するのだ、という話があります。
そこに行ってインタビューしてこいって話ですよね、せめて。
でも、私達はそこに触れないまま、汚染物質や汚染水を外にまき散らし続けている原発事故の責任を東電に背負わせておしまい、みたいな報道になっている。
たしかに、作業員の方は大変だっていう報道はあります。
でも、それでおしまい。避難民の方とか、災害に遭った方とかのドキュメントは丁寧に見ることができるようになった。
今最前線で闘っている人の志気をくじいてでも彼らの命を守ることは
「反戦=非国民」的な短絡発想、ってことになるのかどうか。
あるいは国民がそういう重すぎる話題を避けるとメディアが判断しているのかどうか分からないけれど、本当は日本の将来の命運を握っている、大変な仕事をしている現場の作業員の方の「声」は、全くといっていいほど届かないのが実情です。
インタビューでも匿名がほとんど。
原発事故区域で、最も危険な作業をした自衛隊員は、イラク派兵の時よりも高い一日4万円超の手当を出す、という報道が今日ありました。
でもたぶん、ずーっとぎりぎりまで危険な作業をしている人は、自衛隊員ばかりじゃないはず。
「声を持たない」人の代弁なんてそうたやすくはできない。
でも、瞳を凝らし、耳を澄ませて「フクシマ」という「傷」を抱えていく、というつもりなら、今も作業を続けている人々に、私達が果たしてどんな「言葉を持ち得るのか」、自問しなければならないだろう。
ことばをもたないのは果たして本当に「サバルタン」と呼ばれる人々だけなのか、と。