龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

5月15日(日)<もっとも大切な視点>

2011年05月15日 19時37分19秒 | 大震災の中で
日曜の午後、ようやく落ち着いてネットを眺める時間が取れた。
ここでも天皇の慰問に関連して触れた問題であるけれど、こういうブログに出会った。

  弯曲していく日常
     
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110504#p3

そこからの引用です。
引用開始----------------------
放射能を浴びるという非常に危険であるが故に短時間しか従事できないという仕事に誰が従事するのか、というのが、現在大きな問題になっている。
 解決策は、作業者を固定しサバルタン化し圧力を掛け死に至る放射能を浴びる覚悟を自発的に抱かせるというもの。もう一つは全ての人が対等に交代で仕事につくというヴィジョンだ。あるいは50代以上の男性エリートをすべて交代で作業させよ、といった案もありうる。

 現実には、東電の従来の下請けに対する身分制的支配による前者の方法に頼っているようだが、非人間的である。

「中止して討論する」ヒマはない原発事故は、と怒鳴りながら、ヴィジョンについても、方針についても掘り下げた討論を一切せずに二ヶ月が過ぎようとしている。

私たちが前提にしている事、例えば原発推進体制や会社の存続といったものは、実は当然変わりうるものであり、危機の時こそそれを考慮に入れた真に深い〈討論〉がなされなければならない。

 権力者が情報を隠蔽し庶民の恐怖心、不安をコントロールすることにより支配を維持するという三文芝居を止めさせなければならない。
引用終了---------------

この問題、どう考えても考え抜くべき最重要課題の一つです。
「サバルタン」はサーバントの元かな?「従属者」の意味で、被支配を受けている者たちは自らを「語り得るのか」という問題設定でよく用いられる社会学の用語、ですかね。

つまり、黙って黙々と被曝線量を累積させながら原発事故収拾と沈静化に向けて「働いている人々」は、「被支配的立場」に置かれていて、有形無形にその被曝線量を増大させられる仕事をする覚悟を「内面化」させられてしまっているのではないか?という問題提起ですね。

それに対する有効な対抗提案がどこからも為されていない現実は、「フクシマ」の聖痕を受けた「被害者」である福島県民ばかりでなく、日本国民あるいは全世界が直視し、乗り越えねばならないことだと感じます。

「じゃあおまえやれ!」
と言われても困ることは事実。ぎりぎり追い詰められたら、私も「やる覚悟」を持ってしまうと思うけれど。
「絶対やだ、フクシマがどうなろうが日本がどうなろうが世界がどうなろうがオレは世界の果てまで逃げる」
っては、人はならないのですね、そう簡単には。
現に、「普通なら逃げ出す超高線量の作業を、黙々と日々行っている作業員の方々がいるわけだから。
責任かプライドかあきらめか、立場か使命感か。

いや、現実には東電→協力企業→下請け企業→人集め担当→作業員、みたいなヒエラルヒーが厳然として存在していて、その中で「被支配的な立場」で「言葉を持たない」=サバルタン化した状況に追い込まれた人々が現実に作業しているのじゃないでしょうか。

現に、福島県いわき市内の原発から数十キロ離れた温泉に宿泊して、朝、Jビレッジというサッカー施設に向かってバスで移動し、そこで装備を着装して危険地域に入って作業するのだ、という話があります。
そこに行ってインタビューしてこいって話ですよね、せめて。

でも、私達はそこに触れないまま、汚染物質や汚染水を外にまき散らし続けている原発事故の責任を東電に背負わせておしまい、みたいな報道になっている。

たしかに、作業員の方は大変だっていう報道はあります。

でも、それでおしまい。避難民の方とか、災害に遭った方とかのドキュメントは丁寧に見ることができるようになった。

今最前線で闘っている人の志気をくじいてでも彼らの命を守ることは
「反戦=非国民」的な短絡発想、ってことになるのかどうか。

あるいは国民がそういう重すぎる話題を避けるとメディアが判断しているのかどうか分からないけれど、本当は日本の将来の命運を握っている、大変な仕事をしている現場の作業員の方の「声」は、全くといっていいほど届かないのが実情です。

インタビューでも匿名がほとんど。

原発事故区域で、最も危険な作業をした自衛隊員は、イラク派兵の時よりも高い一日4万円超の手当を出す、という報道が今日ありました。

でもたぶん、ずーっとぎりぎりまで危険な作業をしている人は、自衛隊員ばかりじゃないはず。

「声を持たない」人の代弁なんてそうたやすくはできない。

でも、瞳を凝らし、耳を澄ませて「フクシマ」という「傷」を抱えていく、というつもりなら、今も作業を続けている人々に、私達が果たしてどんな「言葉を持ち得るのか」、自問しなければならないだろう。

ことばをもたないのは果たして本当に「サバルタン」と呼ばれる人々だけなのか、と。



5月15日(日)のこと<やっぱりネットの存在はありがたい!>

2011年05月15日 19時08分06秒 | 大震災の中で
最初、混乱の中でネットを検索しただけでは、さまざまな声が錯綜していて、何をどう信頼して考える材料とすればよいのか、が正直分からなかった。

だから、政府と新聞・TVの報道を基本にしながらこの2ヶ月は考え、行動してきた。

原発事故発生から2ヶ月がたって、ようやく全体を振り返ることができるようになってきて、うろうろしていたら、

宇宙線実験の覚え書き

というブログに行き当たる。
こういう仕事をしてもらえること、そしてネットでその仕事を共有できることに感謝。福島県内の人で、まだ未読の方は是非にも一度閲覧をお薦めしておきます。
公開されているデータを集めて入力して、福島県内放射線量の地図上での可視化を行い、併せて年間被曝量の推定図も作成してくれています。

そこからの引用。詳しくはoxon氏のサイトへ。

引用開始-----
この頃(3/23:foxydog注)、福島市でさえ放射線量が 5 μSv/h くらいありました。放射線量の測定に加えて、その成分の 1~10% 程度が半減期 30 年の Cs 137 であるということも、KEK の測定なんかで分かりつつありました。ということは、福島市より数倍程度高い放射線量の地域では、0.5 μSv/h 程度が長期にわたり継続するということです。0.5 μSv/h が 3 ヶ月間継続すると、約 1 mSv になります。一方で、日本の法律で定められている放射線管理区域が 3 ヶ月で 1.3 mSv の場所なので、この数値を超えるような場所はいくらでも出てくるということです。法律をそのまま適用すると、居住不可能な地域がボコボコ出てきます。
引用終了-------

情報は隠されているわけじゃない。上記oxon氏のサイトは可視的に一目瞭然の形に整えてくれているけれど、線量測定は、3月15日ぐらいから、ずっと県内各地のものが公開されつづけているはずだ。

問題は政府の扱い方における「権力性」なんだよねえ。

校庭使用可能基準がたしか3.8μSv/h。こうしてみると、改めて、高い。

高すぎる。
使える校庭の数を確保できるように文部省が丁寧に考慮して後出しじゃんけんした値か?と思われる。

データが信用できないんじゃないんだよね。
政府がデータをコントロールしているわけじゃない。
嘘を言っているわけじゃない。

問題は、大澤・萱野対談でも指摘されていたが、その「水準設定」や「解釈」において発動する「知」と「権力」の共犯的な関係性なのだと思う。

学校が大丈夫だと一度宣言してしまえば、たとえ市民がその基準に反対しても、過半の子どもが学校に登校すれば、より「安全」に振った対応を求める市民やその子どもは、「学校」という規律訓練の場から退場させられてしまうことになる。

「不安なら転校なさいませ、安全なんだけどね」
ってスタンスじゃあ、大多数の市民は抵抗できないだろう。
でもさ、どう考えても、普通に法律で、「3ヶ月で1.3mSv」が放射線管理区域の「上限値」と設定されていたのに、
校庭に寝そべって1年間生きてく人はそりゃあいないけれども、校庭の基準値が3.8μSv/h。

3.8μSv/h×24×30×12=30mSv/y

計算するとあきれます。
あまりにたやすく基準が緩められていることに茫然とする。

市民の避難基準となっている累積線量20mSv/yっていうのも、放射線管理区域(平時における貯蔵施設とか放射線治療施設の人を対象とした概念ですからねえ)の設定にくらべていかにも高いのでは?


むろん、放射線管理区域の設定は、安全マージンを取っているのだろう。平常時だからね。
じゃあ今は何時?「戦時下」?
少なくても「非常時だからは我慢しなきゃねっ」て話になるのかなあ。

「安全だ、っていわれているから安全」
「考えてもしょうがないから考えないようにしてる」
「まあ、みんな同じく生活してるんだし」

どうですか?累積線量推計の比較的高いところに居る人は、平時における線量設定から比べてかなり高いところにいることを十分自覚つづけられているのでしょうか。
同じ「フクシマ」に住む住民としていささか心配になります。