『現代思想』2011年5月号「特集東日本大震災」を読む
読まなければいいのに、と自分でも思いながら、ついつい読んでしまった。
読んだ後で苦しい気持ちになった。
これは、AERAの増刊号だったか、高村薫氏の文章で、ほとんど共感して読んでいたのに一カ所だけ、海辺に住むヒトはもはや高台に移り住むべきだ、という結論を読んだときと同じ苦しさであった。そのとおりなんだけどね。
難しい話ではない。
フクシマの人々は愚民政策で放射能の危険を十分に認識し得ていない、故郷に住みたい気持ちは分かるが、そこにとどまっていては危険だ、政府の「安全神話」に思考停止してはならない……
と言った方向の記述がいたるところに見られるわけです。
まあ、そりゃそうだよなあ。
「ばかじゃないの、いきなり放射線の年間累積被曝量限度がいきなり何倍にも跳ね上がり、平常の何十倍(短期的には何百倍とか)にまで飛散放射能線量が上がってるのに、自分の慣れ親しんだ土地に住みたいとか……〓」
と考えるよね、普通。
「また、こんな津波が来たんだから、もう海岸に住むのは止めて、高台に住む決断をしなきゃいけないでしょ?」
と考えるのはまともだよね。
そういう「まとも」や「普通」の良識が、この特集本にはあふれている。
悪いけれど、こういう人たちと共に生きることはもうできないんだろうな、と私は実感した。
無論、長崎から安全神話の語り部としてフクシマにやってきた教授さんよりは100万倍も頼りにはなると思うよ、現代思想に原稿書いてる人達のほうが。
だって、原発事故の危険意識は共有できるんだから。
そして、年間の限度量をを突如ゆるめたお手盛り政府の基準を「信頼」するバカがどこにいる?というスタンスも賛成。
でもね。
この人たちの正しさは、原発を止めることができなかった愚かさを抱えているという点では私たち「フクシマ」と同じ「ニッポン」と同じなのに、にもかかわらずなんだか「正しさの国」の国民みたいなんですもの。その空疎さは、フクシマのスティグマを受けたモノの僻みにすぎないのかしらん?それともこのひとたちが無邪気に原発=悪みたいな図式にに寄りかかって書いている知的怠惰のせいでイライラするのかしら。
何度も書くけれど「フクシマ」は、自分たちのもっとも大切な生活圏域を守ることができずに、こんな事態になるのを手をこまねいて見ているだけだったのだから、たしかに「愚か」だったに違いない。
「何にも悪いことをしていないのになんで避難なんかしねばなんねんだ」
「おれらはとにかく漁がしてえのよ。旨い魚捕って自分でも食べて、みんなにも食わせてぇのよ、それだけなのよ」
なんていくら素朴にいってみても、もう戻れない場所に立ってしまった。
スティグマを受けて、その傷をこれから先ずっと抱えて生きなければならない。
その愚かさを他人ごとにしないためにね。
翻って雑誌の特集記事で、納得がいったのは、
柄谷行人の
「地震がもたらしたものは、日本の破滅ではなく、新生である。おそらく、人は廃墟の上でしか、新たな道に踏み込む勇気を与えられないのだ」
ということばと、
森達也のインタビュー形式の記事
「もしも以前に戻すことをデベロップメントと定義するなら、今回は絶対無理です。従来の意味での復興はあり得ない。多くの遺体は捜索されないままに終わるでしょう。放射能汚染だって消えません。上に土が盛られたとしても、そこに同じ都市文化が繁栄するとは思えない。
(中略)今回の衝撃のみで今の日本が変わるとは僕はあまり考えていません。(中略)ただし、傷は残ります。そして時折疼きます。行政もエネルギー政策も社会システムも、そして何よりも一人ひとりの考え方も、長いスパンでは変わるでしょうね。」
「(ドイツは原発を)ゆっくり減らそうとしている。日本はそれがなかなかできなくて、『イチかゼロか』というダイコトミー(二者択一)にすぐ陥ってしまう。これはメディアの問題でもあるのだけれど。」
だった。
それ以外は、いかに地域住民や日本人が愚かで、そして政府がひどいか、みたいな感じで、そこだけ精緻に書かれてもなあ、という感想を持ちました。
逃げろっていう話は、聞き飽きた。
フクシマが愚民だって話も聞き飽きた。
無論逃げるのは逃げないよりは圧倒的に良いし正しいことだろう。
安全だなんてどの面下げて言ってるんだ?!危険じゃないか!
と声高に糾弾するのは「正しい」ことだ。うん。
でもね、みんな原発捨てて作業員も一緒に逃げられるのかなあ?
それから、年寄り世帯とかは、おそらく低線量長期被曝の不利益よりは、避難所リスクとか移転にともなう環境変化コストがずっと高いと思うよ。
強制退去を半径50キロに設定したり、年間累積被爆線量1ミリシーベルトれべるでの避難となったら、実際はコントロールもむずかしいし、資金的にもかなり莫大になるでしょう。その社会的了解を取り付ける政治的な困難とその乗り越えの方向性を示しえている論文はほぼ皆無。
人間の命の値段(また不謹慎なことをいうけれど)を考えても、影響のある地域住民の全員「避難」とか、全部丸ごと補償とか、原発即日停止とか、難しいよねえ。
ソノナカデいちばん可能性が高いのは、全部の原発停止かな。
これはやろうと思えばやれる。
でも、政治的抵抗は、この雑誌でのんきに書いてる人達が示すビジョンじゃノリコエラレナイでしょう。
それも政府の愚民政策のせい、といわれても、「愚民」としては挨拶に困る。
大学の先生とかとかジャーナリストとか、批評家とか、って、その無力の責任はとらないのかなあ。
政治的権力の悪と庶民の無知ラインでどこたまで押すのか。
そういう論調が多くて、苦しかったです。
くどいですが、それでも「原発は将来にわたって日本のエネルギー政策の基盤です」みたいな話をされるよりは、被害を被っている立場としては100万倍もありがたいんですがね。
難しい。
そうそう、「とにかくオレは娘を連れて逃げるぜ」っていう内田樹的な個人的処世に徹する矢部史郎の「東京を離れて」はなんだか笑えた。内田の文章より腑に落ちる。
娘にも説明しないところとか。とにかく、逃げる決断をしたらガンガン逃げたらいいのです。人生いたるところ青山ならぬ、生きる豊かさをもたらす土地やはあるし人もいるからね。若い人、これから将来の長い子供たちは、新しいところでも生きていける。
すくなくても、内容空疎な「ニッポンはひとつ」
とかよりずっといい。
ま、私は飛散放射能の放射線量&累積値とにらめっこをしつつ、ギリギリまでここフクシマで、地震と津波と原発事故による「人為」の裂け目を見つめつづけ、廃墟で新生を選びます。
それは私の「てんで」な選択。
フクシマに残るのは、政府や東電の思うつぼ的「愚民」的行為かな?
そうかもしれない。そうではないかもしれない。
少なくても、啓蒙っていうことの意味を、この特集を読むことで改めて考えさせられました。
権力は、均質化した人々を確率や統計によってより多くより適切に、生かそうとするわけです。でも、決して一人一人を守ったりはしない。
原発全部止めてまで絶対的な安全など求めるはずはない。
安全基準を示し、原発事故による不可視の放射線をも馴致しえるかのように、その中にヒトを囲い込む。
さてでは、権力って、どこで発動し続けているのか。
それに抵抗し、ずらすにはどうすればいいのか?負け続けの愚かな?日本人の一人として、あるいは日本人の選択した(させられた?)政策をどう止めるのか?
「生権力」の話でもあるか。ああ、また課題が増えるなあ。
読まなければいいのに、と自分でも思いながら、ついつい読んでしまった。
読んだ後で苦しい気持ちになった。
これは、AERAの増刊号だったか、高村薫氏の文章で、ほとんど共感して読んでいたのに一カ所だけ、海辺に住むヒトはもはや高台に移り住むべきだ、という結論を読んだときと同じ苦しさであった。そのとおりなんだけどね。
難しい話ではない。
フクシマの人々は愚民政策で放射能の危険を十分に認識し得ていない、故郷に住みたい気持ちは分かるが、そこにとどまっていては危険だ、政府の「安全神話」に思考停止してはならない……
と言った方向の記述がいたるところに見られるわけです。
まあ、そりゃそうだよなあ。
「ばかじゃないの、いきなり放射線の年間累積被曝量限度がいきなり何倍にも跳ね上がり、平常の何十倍(短期的には何百倍とか)にまで飛散放射能線量が上がってるのに、自分の慣れ親しんだ土地に住みたいとか……〓」
と考えるよね、普通。
「また、こんな津波が来たんだから、もう海岸に住むのは止めて、高台に住む決断をしなきゃいけないでしょ?」
と考えるのはまともだよね。
そういう「まとも」や「普通」の良識が、この特集本にはあふれている。
悪いけれど、こういう人たちと共に生きることはもうできないんだろうな、と私は実感した。
無論、長崎から安全神話の語り部としてフクシマにやってきた教授さんよりは100万倍も頼りにはなると思うよ、現代思想に原稿書いてる人達のほうが。
だって、原発事故の危険意識は共有できるんだから。
そして、年間の限度量をを突如ゆるめたお手盛り政府の基準を「信頼」するバカがどこにいる?というスタンスも賛成。
でもね。
この人たちの正しさは、原発を止めることができなかった愚かさを抱えているという点では私たち「フクシマ」と同じ「ニッポン」と同じなのに、にもかかわらずなんだか「正しさの国」の国民みたいなんですもの。その空疎さは、フクシマのスティグマを受けたモノの僻みにすぎないのかしらん?それともこのひとたちが無邪気に原発=悪みたいな図式にに寄りかかって書いている知的怠惰のせいでイライラするのかしら。
何度も書くけれど「フクシマ」は、自分たちのもっとも大切な生活圏域を守ることができずに、こんな事態になるのを手をこまねいて見ているだけだったのだから、たしかに「愚か」だったに違いない。
「何にも悪いことをしていないのになんで避難なんかしねばなんねんだ」
「おれらはとにかく漁がしてえのよ。旨い魚捕って自分でも食べて、みんなにも食わせてぇのよ、それだけなのよ」
なんていくら素朴にいってみても、もう戻れない場所に立ってしまった。
スティグマを受けて、その傷をこれから先ずっと抱えて生きなければならない。
その愚かさを他人ごとにしないためにね。
翻って雑誌の特集記事で、納得がいったのは、
柄谷行人の
「地震がもたらしたものは、日本の破滅ではなく、新生である。おそらく、人は廃墟の上でしか、新たな道に踏み込む勇気を与えられないのだ」
ということばと、
森達也のインタビュー形式の記事
「もしも以前に戻すことをデベロップメントと定義するなら、今回は絶対無理です。従来の意味での復興はあり得ない。多くの遺体は捜索されないままに終わるでしょう。放射能汚染だって消えません。上に土が盛られたとしても、そこに同じ都市文化が繁栄するとは思えない。
(中略)今回の衝撃のみで今の日本が変わるとは僕はあまり考えていません。(中略)ただし、傷は残ります。そして時折疼きます。行政もエネルギー政策も社会システムも、そして何よりも一人ひとりの考え方も、長いスパンでは変わるでしょうね。」
「(ドイツは原発を)ゆっくり減らそうとしている。日本はそれがなかなかできなくて、『イチかゼロか』というダイコトミー(二者択一)にすぐ陥ってしまう。これはメディアの問題でもあるのだけれど。」
だった。
それ以外は、いかに地域住民や日本人が愚かで、そして政府がひどいか、みたいな感じで、そこだけ精緻に書かれてもなあ、という感想を持ちました。
逃げろっていう話は、聞き飽きた。
フクシマが愚民だって話も聞き飽きた。
無論逃げるのは逃げないよりは圧倒的に良いし正しいことだろう。
安全だなんてどの面下げて言ってるんだ?!危険じゃないか!
と声高に糾弾するのは「正しい」ことだ。うん。
でもね、みんな原発捨てて作業員も一緒に逃げられるのかなあ?
それから、年寄り世帯とかは、おそらく低線量長期被曝の不利益よりは、避難所リスクとか移転にともなう環境変化コストがずっと高いと思うよ。
強制退去を半径50キロに設定したり、年間累積被爆線量1ミリシーベルトれべるでの避難となったら、実際はコントロールもむずかしいし、資金的にもかなり莫大になるでしょう。その社会的了解を取り付ける政治的な困難とその乗り越えの方向性を示しえている論文はほぼ皆無。
人間の命の値段(また不謹慎なことをいうけれど)を考えても、影響のある地域住民の全員「避難」とか、全部丸ごと補償とか、原発即日停止とか、難しいよねえ。
ソノナカデいちばん可能性が高いのは、全部の原発停止かな。
これはやろうと思えばやれる。
でも、政治的抵抗は、この雑誌でのんきに書いてる人達が示すビジョンじゃノリコエラレナイでしょう。
それも政府の愚民政策のせい、といわれても、「愚民」としては挨拶に困る。
大学の先生とかとかジャーナリストとか、批評家とか、って、その無力の責任はとらないのかなあ。
政治的権力の悪と庶民の無知ラインでどこたまで押すのか。
そういう論調が多くて、苦しかったです。
くどいですが、それでも「原発は将来にわたって日本のエネルギー政策の基盤です」みたいな話をされるよりは、被害を被っている立場としては100万倍もありがたいんですがね。
難しい。
そうそう、「とにかくオレは娘を連れて逃げるぜ」っていう内田樹的な個人的処世に徹する矢部史郎の「東京を離れて」はなんだか笑えた。内田の文章より腑に落ちる。
娘にも説明しないところとか。とにかく、逃げる決断をしたらガンガン逃げたらいいのです。人生いたるところ青山ならぬ、生きる豊かさをもたらす土地やはあるし人もいるからね。若い人、これから将来の長い子供たちは、新しいところでも生きていける。
すくなくても、内容空疎な「ニッポンはひとつ」
とかよりずっといい。
ま、私は飛散放射能の放射線量&累積値とにらめっこをしつつ、ギリギリまでここフクシマで、地震と津波と原発事故による「人為」の裂け目を見つめつづけ、廃墟で新生を選びます。
それは私の「てんで」な選択。
フクシマに残るのは、政府や東電の思うつぼ的「愚民」的行為かな?
そうかもしれない。そうではないかもしれない。
少なくても、啓蒙っていうことの意味を、この特集を読むことで改めて考えさせられました。
権力は、均質化した人々を確率や統計によってより多くより適切に、生かそうとするわけです。でも、決して一人一人を守ったりはしない。
原発全部止めてまで絶対的な安全など求めるはずはない。
安全基準を示し、原発事故による不可視の放射線をも馴致しえるかのように、その中にヒトを囲い込む。
さてでは、権力って、どこで発動し続けているのか。
それに抵抗し、ずらすにはどうすればいいのか?負け続けの愚かな?日本人の一人として、あるいは日本人の選択した(させられた?)政策をどう止めるのか?
「生権力」の話でもあるか。ああ、また課題が増えるなあ。