龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『現代思想』2011年5月号「特集東日本大震災」を読む

2011年05月21日 18時19分56秒 | 大震災の中で
『現代思想』2011年5月号「特集東日本大震災」を読む

読まなければいいのに、と自分でも思いながら、ついつい読んでしまった。

読んだ後で苦しい気持ちになった。

これは、AERAの増刊号だったか、高村薫氏の文章で、ほとんど共感して読んでいたのに一カ所だけ、海辺に住むヒトはもはや高台に移り住むべきだ、という結論を読んだときと同じ苦しさであった。そのとおりなんだけどね。

難しい話ではない。

フクシマの人々は愚民政策で放射能の危険を十分に認識し得ていない、故郷に住みたい気持ちは分かるが、そこにとどまっていては危険だ、政府の「安全神話」に思考停止してはならない……

と言った方向の記述がいたるところに見られるわけです。

まあ、そりゃそうだよなあ。
「ばかじゃないの、いきなり放射線の年間累積被曝量限度がいきなり何倍にも跳ね上がり、平常の何十倍(短期的には何百倍とか)にまで飛散放射能線量が上がってるのに、自分の慣れ親しんだ土地に住みたいとか……〓」

と考えるよね、普通。

「また、こんな津波が来たんだから、もう海岸に住むのは止めて、高台に住む決断をしなきゃいけないでしょ?」

と考えるのはまともだよね。

そういう「まとも」や「普通」の良識が、この特集本にはあふれている。

悪いけれど、こういう人たちと共に生きることはもうできないんだろうな、と私は実感した。

無論、長崎から安全神話の語り部としてフクシマにやってきた教授さんよりは100万倍も頼りにはなると思うよ、現代思想に原稿書いてる人達のほうが。

だって、原発事故の危険意識は共有できるんだから。

そして、年間の限度量をを突如ゆるめたお手盛り政府の基準を「信頼」するバカがどこにいる?というスタンスも賛成。

でもね。

この人たちの正しさは、原発を止めることができなかった愚かさを抱えているという点では私たち「フクシマ」と同じ「ニッポン」と同じなのに、にもかかわらずなんだか「正しさの国」の国民みたいなんですもの。その空疎さは、フクシマのスティグマを受けたモノの僻みにすぎないのかしらん?それともこのひとたちが無邪気に原発=悪みたいな図式にに寄りかかって書いている知的怠惰のせいでイライラするのかしら。

何度も書くけれど「フクシマ」は、自分たちのもっとも大切な生活圏域を守ることができずに、こんな事態になるのを手をこまねいて見ているだけだったのだから、たしかに「愚か」だったに違いない。

「何にも悪いことをしていないのになんで避難なんかしねばなんねんだ」

「おれらはとにかく漁がしてえのよ。旨い魚捕って自分でも食べて、みんなにも食わせてぇのよ、それだけなのよ」

なんていくら素朴にいってみても、もう戻れない場所に立ってしまった。
スティグマを受けて、その傷をこれから先ずっと抱えて生きなければならない。

その愚かさを他人ごとにしないためにね。

翻って雑誌の特集記事で、納得がいったのは、
柄谷行人の

「地震がもたらしたものは、日本の破滅ではなく、新生である。おそらく、人は廃墟の上でしか、新たな道に踏み込む勇気を与えられないのだ」

ということばと、

森達也のインタビュー形式の記事

「もしも以前に戻すことをデベロップメントと定義するなら、今回は絶対無理です。従来の意味での復興はあり得ない。多くの遺体は捜索されないままに終わるでしょう。放射能汚染だって消えません。上に土が盛られたとしても、そこに同じ都市文化が繁栄するとは思えない。
(中略)今回の衝撃のみで今の日本が変わるとは僕はあまり考えていません。(中略)ただし、傷は残ります。そして時折疼きます。行政もエネルギー政策も社会システムも、そして何よりも一人ひとりの考え方も、長いスパンでは変わるでしょうね。」

「(ドイツは原発を)ゆっくり減らそうとしている。日本はそれがなかなかできなくて、『イチかゼロか』というダイコトミー(二者択一)にすぐ陥ってしまう。これはメディアの問題でもあるのだけれど。」

だった。

それ以外は、いかに地域住民や日本人が愚かで、そして政府がひどいか、みたいな感じで、そこだけ精緻に書かれてもなあ、という感想を持ちました。

逃げろっていう話は、聞き飽きた。
フクシマが愚民だって話も聞き飽きた。

無論逃げるのは逃げないよりは圧倒的に良いし正しいことだろう。

安全だなんてどの面下げて言ってるんだ?!危険じゃないか!
と声高に糾弾するのは「正しい」ことだ。うん。

でもね、みんな原発捨てて作業員も一緒に逃げられるのかなあ?

それから、年寄り世帯とかは、おそらく低線量長期被曝の不利益よりは、避難所リスクとか移転にともなう環境変化コストがずっと高いと思うよ。

強制退去を半径50キロに設定したり、年間累積被爆線量1ミリシーベルトれべるでの避難となったら、実際はコントロールもむずかしいし、資金的にもかなり莫大になるでしょう。その社会的了解を取り付ける政治的な困難とその乗り越えの方向性を示しえている論文はほぼ皆無。

人間の命の値段(また不謹慎なことをいうけれど)を考えても、影響のある地域住民の全員「避難」とか、全部丸ごと補償とか、原発即日停止とか、難しいよねえ。

ソノナカデいちばん可能性が高いのは、全部の原発停止かな。
これはやろうと思えばやれる。

でも、政治的抵抗は、この雑誌でのんきに書いてる人達が示すビジョンじゃノリコエラレナイでしょう。

それも政府の愚民政策のせい、といわれても、「愚民」としては挨拶に困る。
大学の先生とかとかジャーナリストとか、批評家とか、って、その無力の責任はとらないのかなあ。

政治的権力の悪と庶民の無知ラインでどこたまで押すのか。

そういう論調が多くて、苦しかったです。

くどいですが、それでも「原発は将来にわたって日本のエネルギー政策の基盤です」みたいな話をされるよりは、被害を被っている立場としては100万倍もありがたいんですがね。

難しい。

そうそう、「とにかくオレは娘を連れて逃げるぜ」っていう内田樹的な個人的処世に徹する矢部史郎の「東京を離れて」はなんだか笑えた。内田の文章より腑に落ちる。
娘にも説明しないところとか。とにかく、逃げる決断をしたらガンガン逃げたらいいのです。人生いたるところ青山ならぬ、生きる豊かさをもたらす土地やはあるし人もいるからね。若い人、これから将来の長い子供たちは、新しいところでも生きていける。

すくなくても、内容空疎な「ニッポンはひとつ」
とかよりずっといい。

ま、私は飛散放射能の放射線量&累積値とにらめっこをしつつ、ギリギリまでここフクシマで、地震と津波と原発事故による「人為」の裂け目を見つめつづけ、廃墟で新生を選びます。
それは私の「てんで」な選択。

フクシマに残るのは、政府や東電の思うつぼ的「愚民」的行為かな?

そうかもしれない。そうではないかもしれない。

少なくても、啓蒙っていうことの意味を、この特集を読むことで改めて考えさせられました。

権力は、均質化した人々を確率や統計によってより多くより適切に、生かそうとするわけです。でも、決して一人一人を守ったりはしない。
原発全部止めてまで絶対的な安全など求めるはずはない。
安全基準を示し、原発事故による不可視の放射線をも馴致しえるかのように、その中にヒトを囲い込む。

さてでは、権力って、どこで発動し続けているのか。

それに抵抗し、ずらすにはどうすればいいのか?負け続けの愚かな?日本人の一人として、あるいは日本人の選択した(させられた?)政策をどう止めるのか?
「生権力」の話でもあるか。ああ、また課題が増えるなあ。



5月21日(日)のこと

2011年05月21日 15時35分13秒 | 大震災の中で
佐々木敦『ニッポンの思想』を読んで
久しぶりに新書を読んだ。

職業柄、と言うのも変だが、普段から本は手当たり次第に読む。

ところが、3/11の大震災以降、それまではスポーツ中継(欄)ぐらいだったTV・新聞を毎日かじりつくようにして注視し、台所にいても、トイレにいても、水が出るようになってからはお風呂に入って、てさえフクシマの文字や音と出会うたび、その都度画面や紙面に瞳と耳を奪われ続けるようになった。

同時にそれと反比例して、本を読まなくなる。以前書いたようにアマゾンの被災地向け配達が止まっていたこともあるし、書店でも新刊(特に雑誌)の流通が完全に止まっていたのも大きかった。
はじめたばかりのTwitterもお休み。

父親の看護と葬儀、家と家族の被災、そしてフクシマの状況。それでもう十分すぎる状況だった。

病院での看護を綱渡りでしている小状況、
被災の中で自宅・家族・仕事場・顧客について考える状況、
原発事故・震災という大状況

それらを交通整理しながらなんとかやっていくためには、私にとって読むことよりもむしろ「書くこと」が必要だったのかもしれない。

ゴールデンウイークにこの土地を離れて事物をながめ、土地を訪ね、人と出会うことによってようやくそれらをもう一度頭の中で再配置し直し、考え直すことができるようになってきた。

本が読めるようになるまで、たっぷり二ヶ月はかかったことになる。

リアルタイムで傷口を広げ続ける「裂け目」に、五感を奪われ続けていた、とでも言えばいいのか。

昨日も縦にドドドドォーッと揺れる地震が午後4時過ぎにあった。
後で聞いたところでは、フクシマのいわきでは震度1程度のごく弱い地震だったらしい。
しかし会議中のメンバーたちは、怯えてこそいないものの、
「ああ、こういう縦揺れがこのまま続いて大きな余震になればいよいよ全ては崩壊するのだね」
といった「了解」の空気が確かに流れていた。単なる杞憂と笑うなかれ。1000年に一度とまで大上段に構えるまでもなく、これだけ「人為的営為」が高度化した中を切り裂く天災は、何年ぶりか、というより、それ自体が「未曾有」の事態なのだから(天変地異が未曾有だったかどうか、なんてわかりゃしないですよね。私達の「人為」に起きた「裂け目」が未曾有なんです。当たり前、なんだけどね)。

スティグマと敢えて繰り返すのは、例えばそういうことでもある。

今日の午前中犬の予防注射をしに動物病院に犬(11歳柴・雌)を連れて行ったところ、休日でごった返していたのだが、犬たちが一様におびえていたのが印象的だった。

今時の犬は人間の中だけで育てられるから、犬の接近遭遇になれていないせいか、と軽く考えていたが、どうもそうではないらしい。

地震からこのかた情緒不安定で……とか、

3/11以来、地震がある度怯えてはドアの金属フレームをかじって外に出ようとし、歯が欠けてしまった……とか、

どちらもうちの犬に共通する症状だったのに驚いた。

言葉で説明することができないから、彼らを安心てあげるためには、そばにいてやるほかにない。言葉では癒せないのだから。

あ、そうか。
もしかすると僕らだって犬と同じじゃないか?

逆にいえば犬たちの生活にも、しっかりと震災のスティグマは刻まれているのだ。
放射能の危険は、彼らが永遠に知ることのない世界だけれど。


ちなみに、本の感想は下記まで。

メディア日記
々木敦『ニッポンの思想』講談社新

を読んで

http://blog.foxydog.pepper.jp/