今日は後醍醐天皇が隠岐へ配流された日です。此の時当方の故郷の児嶋高徳の故事が生まれています。
・「太平記」「先帝遷幸事」
「明れば(元弘二年1332)三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、七条を西へ、東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て、『正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。』と所憚なく云声巷に満て、只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して、警固の武士も諸共に、皆鎧の袖をぞぬらしける。桜井の宿を過させ給ける時、八幡を伏拝御輿を舁居させて、二度帝都還幸の事をぞ御祈念有ける。八幡大菩薩と申は、応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも、定て擁護の御眸をぞ廻さる覧と、憑敷こそ思召けれ。湊川を過させ給時、福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握て、平安城を此卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡しも、偏に上を犯さんとせし侈の末、果して天の為に被罰ぞかしと、思食慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過させ給へば、昔源氏大将の、朧月夜に名を立て此浦に流され、三年の秋を送りしに、波只此もとに立し心地して、涙落共覚ぬに、枕は浮許に成にけりと、旅寝の秋を悲みしも、理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成行淡路嶋、寄来る浪も高砂の、尾上の松に吹嵐、迹に幾重の山川を、杉坂越て美作や、久米の佐羅山さらさらに、今は有べき時ならぬに、雲間の山に雪見へて、遥に遠き峯あり。御警固の武士を召て、山の名を御尋あるに、『是は伯耆の大山と申山にて候。』と申ければ、暫く御輿を被止、内証甚深の法施を奉らせ給ふ。或時は鶏唱抹過茅店月、或時は馬蹄踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出有て、十三日と申に、出雲の見尾の湊に着せ給ふ。爰にて御船を艤して、渡海の順風をぞ待れける。」
「備後三郎高徳事付呉越軍事」
「其比備前国に、児嶋備後三郎高徳と云者あり。主上笠置に御座有し時、御方に参じて揚義兵しが、事未成先に、笠置も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失て黙止けるが、主上隠岐国へ被遷させ給と聞て、無弐一族共を集めて評定しけるは、「志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁。(志士仁人は生を求めて以て仁を害するなし(「論語」衛霊公))といへり。されば昔衛の懿公が北狄の為に被殺て有しを見て、其臣に弘演と云し者、是を見るに不忍、自腹を掻切て、懿公が肝を己が胸の中に収め、先君の恩を死後に報て失たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸の路次に参り会、君を奪取奉て大軍を起し、縦ひ尸を戦場に曝す共、名を子孫に伝へん。」と申ければ、心ある一族共皆此義に同ず。「さらば路次の難所に相待て、其隙を可伺。」とて、備前と播磨との境なる、舟坂山の嶺に隠れ臥、今や今やとぞ待たりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸を成奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。此にて待奉んとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力此より散々に成にけるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潛行して時分を伺ひけれ共、可然隙も無りければ、君の御坐ある御宿の庭に、大なる桜木有けるを押削て、大文字に一句の詩をぞ書付たりける。
天莫空勾践。時非無范蠡。(天、勾践を無しゅうするなかれ、時に范蠡なきにしも非ず)
御警固の武士共、朝に是を見付て、「何事を何なる者が書たるやらん。」とて、読かねて、則上聞に達してけり。主上は軈て詩の心を御覚り有て、竜顔殊に御快く笑せ給へども、武士共は敢て其来歴を不知、思咎る事も無りけり。
抑此詩の心は、昔異朝に呉越とてならべる二の国あり。此両国の諸侯皆王道を不行、覇業を務としける間、呉は越を伐て取んとし、越は呉を亡して合せんとす。如此相争事及累年。呉越互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成て共に天を戴く事を恥。周の季の世に当て、呉国の主をば呉王夫差と云、越国の主をば越王勾践とぞ申ける。或時此越王范蠡と云大臣を召て宣ひけるは、「呉は是父祖の敵也。我是を不討、徒に送年事、嘲を天下の人に取のみに非ず。兼ては父祖の尸を九泉の苔の下に羞しむる恨あり。然れば我今国の兵を召集て、自ら呉国へ打超、呉王夫差を亡して父祖の恨を散ぜんと思也。汝は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌め申けるは、「臣窃に事の子細を計るに、今越の力を以て呉を亡さん事は頗以可難る。其故は先両国の兵を数ふるに呉は二十万騎越は纔に十万騎也。誠に以小を、大に不敵、是呉を難亡其一也。次には以時計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ秋冬は陰の時にて刑罰を専にす。時今春の始也。是征伐を可致時に非ず。是呉を難滅其二也。次に賢人所帰則其国強、臣聞呉王夫差の臣下に伍子胥と云者あり。智深して人をなつけ、慮遠くして主を諌む。渠儂呉国に有ん程は呉を亡す事可難。是其三也。麒麟は角に肉有て猛き形を不顕、潛竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待。君呉越を合られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申ければ、
去程に越王夫枡県に打臨で、呉の兵を見給へば、其勢僅に二三万騎には過じと覚へて所々に磬へたり。越王是を見て、思に不似小勢なりけりと蔑て、十万騎の兵同時に馬を河水に打入させ、馬筏を組で打渡す。比は二月上旬の事なれば、余寒猶烈くして、河水氷に連れり。兵手凍て弓を控に不叶。馬は雪に泥で懸引も不自在。され共越王責鼓を打て進まれける間、越の兵我先にと双轡懸入る。呉国の兵は兼てより敵を難所にをびき入て、取篭て討んと議したる事なれば、態と一軍もせで夫椒県の陣を引退て会稽山へ引篭る。越の兵勝に乗て北るを追事三十余里、四隊の陣を一陣に合せて、左右を不顧、馬の息も切るゝ程、思々にぞ追たりける。日已に暮なんとする時に、呉兵二十万騎思ふ図に敵を難所へをびき入て、四方の山より打出て、越王勾践を中に取篭、一人も不漏と責戦ふ。越の兵は今朝の軍に遠懸をして人馬共に疲れたる上無勢なりければ、呉の大勢に被囲、一所に打寄て磬へたり。進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。され共越王勾践は破堅摧利事、項王が勢を呑、樊蠡勇にも過たりければ、大勢の中へ懸入、十文字に懸破、巴の字に追廻らす。一所に合て三処に別れ、四方を払て八面に当る。頃刻に変化して雖百度戦、越王遂に打負て、七万余騎討れにけり。勾践こらへ兼て会稽山に打上り、越の兵を数るに打残されたる兵僅に三万余騎也。其も半ば手を負て悉箭尽て鋒折たり。勝負を呉越に伺て、未だ何方へも不着つる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳加はりければ、呉の兵弥重て三十万騎、会稽山の四面を囲事如稲麻竹葦也。
越王帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我運命已に尽て今此囲に逢へり。是全く非戦咎、天亡我。然れば我明日士と共に敵の囲を出て呉王の陣に懸入り、尸を軍門に曝し、恨を再生に可報。」とて越の重器を積で、悉焼捨んとし給ふ。又王■与とて、今年八歳に成給ふ最愛の太子、越王に随て、同く此陣に座けるを呼出し奉て、「汝未幼稚なれば、吾死に殿れて、敵に捕れ、憂目を見ん事も可心憂。若又我為敵虜れて、我汝より先立ば、生前の思難忍。不如汝を先立て心安く思切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底迄も、父子の恩愛を不捨と思ふ也。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に、大夫種と云臣あり。越王の御前に進出て申けるは、「生を全くして命を待事は遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事は近くして安し。君暫く越の重器を焼捨、太子を殺す事を止め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王の死を救ひ、本国に帰て再び大軍を起し、此恥を濯んと思ふ。今此山を囲んで一陣を張しむる呉の上将軍太宰否は臣が古の朋友也。久く相馴て彼が心を察せしに、是誠に血気の勇者なりと云へ共、飽まで其心に欲有て、後の禍を不顧。又彼呉王夫差の行迹を語るを聞しかば、智浅して謀短く、色に婬して道に暗し。君臣共に何れも欺くに安き所也。抑今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡が諌めを用ひ不給故に非ずや。願は君王臣が尺寸の謀を被許、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌申ければ、越王理に折て、「「敗軍の将は再び不謀」と云へり。自今後の事は然大夫種に可任。」と宣て、重器を被焼事を止、太子の自害をも被止けり。大夫種則君の命を請て、冑を脱ぎ旗を巻て、会稽山より馳下り、「越王勢ひ尽て、呉の軍門に降る。」と呼りければ、呉の兵三十万騎、勝時を作て皆万歳を唱ふ。大夫種は則呉の轅門に入て、「君王の倍臣、越勾践の従者、小臣種慎で呉の上将軍の下執事に属す。」と云て、膝行頓首して、太宰否が前に平伏す。
太宰否床の上に坐し、帷幕を揚させて大夫種に謁す。大夫種敢て平視せず。低面流涙申けるは、「寡君勾践運極まり、勢尽て呉の兵に囲れぬ。仍今小臣種をして、越王長く呉王の臣と成、一畝の民と成ん事を請しむ。願は先日の罪を被赦今日の死を助け給へ。将軍若勾践の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃の妾たらしめ、一日の歓娯に可備。若夫請、所望不叶遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼棄、士卒の心を一にして、呉王の堅陣に懸入、軍門に尸を可止。臣平生将軍と交を結ぶ事膠漆よりも堅し。生前の芳恩只此事にあり。将軍早く此事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の裏に知しめ給へ。」と一度は忿り一度は歎き、言を尽して申ければ、太宰■顔色誠に解て、「事以不難、我必越王の罪をば可申宥。」とて軈て呉王の陣へぞ参りける。太宰■即呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大に忿て、「抑呉と越と国を争ひ、兵を挙る事今日のみに非ず。然るに勾践運窮て呉の擒となれり。是天の予に与へたるに非や。汝是を乍知勾践が命を助けんと請ふ。敢て非忠烈之臣。」宣ひければ、太宰■重て申けるは、「臣雖不肖、苛も将軍の号を被許、越の兵と戦を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝事を快くせり。是偏に臣が丹心の功と云つべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、豈一日も尽忠不傾心や。倩計事是非、越王戦に負て勢尽ぬといへ共、残処の兵猶三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士也。呉の兵雖多昨日の軍に功有て、自今後は身を全して賞を貪ん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへ共志を一にして、而も遁れぬ所を知れり。「窮鼠却噛猫、闘雀不恐人」といへり。呉越重て戦はゞ、呉は必危に可近る。不如先越王の命を助け、一畝の地を与て呉の下臣と成さんには。然らば君王呉越両国を合するのみに非ず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云事有べからず。是根を深くし蔕を固する道也。」と、理を尽て申ければ、呉王即欲に耽る心を逞して、「さらば早会稽山の囲を解て勾践を可助。」宣ひける。太宰■帰て大夫種に此由を語りければ、大夫種大に悦で、会稽山に馳帰り、越王に此旨を申せば、士卒皆色を直して、「出万死逢一生、偏に大夫種が智謀に懸れり。」と、喜ばぬ人も無りけり。
越王已に降旗を被建ければ、会稽の囲を解て、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践即太子王■与をば、大夫種に付て本国へ帰し遣し、我身は白馬素車に乗て越の璽綬を頚に懸、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に降り給ふ。斯りけれ共、呉王猶心ゆるしや無りけん、「君子は不近刑人」とて、勾践に面を不見給、剰勾践を典獄の官に被下、日に行事一駅駆して、呉の姑蘇城へ入給ふ。其有様を見る人、涙の懸らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着給へば、即手械足械を入て、土の楼にぞ入奉りける。夜明日暮れ共、月日の光をも見給はねば、一生溟暗の中に向て、歳月の遷易をも知給はねば、泪の浮ぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。」