・宝亀四年773十一月二十日には行基大菩薩修行の院四十か所のうちの六院が荒廃しているので朝廷はこの六院に対し各田三町等を施入しています。これは「真筌秘典が永洽東流、金輪は寶位に恒齊北極に風雨順時に年穀豐稔にと願ってである」とされます。(続日本紀・宝亀四年773十一月壬申朔辛卯,敕:「故大僧正-行基法師,戒行具足,智德兼備.先代之所推仰,後生以為耳目.其修行之院,惣卌餘處.或先朝之日,有施入田,或本 . . . 本文を読む
「御室相承記」「長和入道親王(師明親王・性信・號大御室)、結縁灌頂の事・・万寿元年1024十一月二十日、甲辰、観音院において之を行ぜらる」性信入道親王は、平安時代中期の皇族・真言僧。三条天皇第4皇子。真言宗仁和寺の第二世門跡。通称は大御室。諱は師明、号は光明寿院、密号は金剛行。仁和寺の済信から伝法灌頂を受けた。高野山に参詣して、護摩を800余日間行い、高野山山上に灌頂院造営を発願した。1073年( . . . 本文を読む
理永は 後小松天皇第一皇女で「護渓理永女王」と諡号。
皇親系によれば、応永二十六年(1419)十一月廿日大聖寺入寺とされます。
(大聖寺は南北朝時代の北朝初代天皇光厳天皇の妃・無相定円禅尼が亡くなった後、その住まいであった「花の御所 . . . 本文を読む
「日本書紀・天武天皇五年(677)十一月」「甲申(廿日)、使ひを四方の国につかはして、金光明経・仁王経を説かしむ。」
(50年後の天平十三年(741)二月十四日、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出され、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めるとされています。) . . . 本文を読む