第六六課 現実と理想
世間では、仏教以外のある宗教や、ある哲学や、ある思想および道徳などは、理想と現実とを一緒に致しません。理想とは抽象的のもの、現実を超越したものだとして、理想を必ず現実から引き離して、高く上にかかっているとかあるいは将来その理想が遂げられるだろうという期待だけして、今直ぐ手が届かんと決めてかかっております。
これに反して、仏教では、私たちの平常の生活が取りも直さず理想であって、この現在の生活の上に無上の幸福、絶大な理想があるのに早く気付けと教え勧めております。
何故仏教はそんな事を大胆に断言するのでしょう。それは、仏教が物事を深くかつ正確に考え、本当の真理を知っているからであります。仏教が、私たちの日常の生活を視るのに、通り一ぺんの表面うわつらの現実とか、あるいは現世の支離滅裂な乱脈の方面ばかりを現実だとするような、そんな安っぽい見方をしないのです。
現実として日常私たちが見聞みききするものは、ただ表面に現れた仮りの姿で、実はその根源があって、しかもその根源は、私たちの通俗な知識ではちょっと感付けないのです。それはちょうど、氷山のようなもので、海上に一部分頭を出しているが、その氷山の本体は海水中に隠れていて、しかも何十倍、何百倍も大きいのです。
仏教は、この隠れていても実は私達の日常見聞する現実のあらゆるものをあやつっている根本をも、一緒にくっつけて現実を見詰めるのですから、表面うわべだけの変化や矛盾撞着に瞞着だまされません。根本になる実体に充分注意しておりますので、それから出て来た現実の動き方や現れ方は、根本の命令どおりに秩序整然と条道すじみちが立っているのがよく解ります。私たちもその現実の中の仲間ですから、根本によって理想的にあやつられているのです。その真理を信じ、しっかり知った上で、私たちの毎日の生活を眺めると、生活そのものが理想であり、理想が実は私たち毎日の生活そのものであるということが解ります。
簡単で解りやすい例を以て説明しますと、いま、私が立っていて、無意識に何の気もなしに歩き出したとします。その歩くことは現実で、仮りの相すがたでありますが、その歩き出したのに、本人が知らなくとも実は大変な意味があるのです。私をして歩き出さしめた根本があるのです。それは、大自然の万物を哺はぐくみ、かばい、育てて行く力が私を歩かせたのです。私がじっと同じ場所に同じ姿勢で立ち続けるよりも、歩いて体を運動させた方が余計に私の体をうまく調節させて健かになれるので、無意識ではあれ、自然と歩き出したのです。それを反射運動とか、本能とかの言葉で片付けるなら、その反射運動こそ、またその本能も理想的のものだとして置きましょう。それは大自然の大理想の一部分が現れたのです。この場合私の歩き出した現実が取りも直さず心身にとって理想的のことです。私たちは毎日、知らないで大自然の要求、勧告する理想的のことを行っているのです。もしそうでなかったら、とっくの昔に病気になり、死んでしまっていたでしょう。しかし人間にはこの理想的の発展を妨げる欲望や馬鹿な性質がありますから、これらの妨害物を上手に処分しないと現実の生活が理想生活になりません。
誠に現実生活の中には立派に理想が含まれているのですから、たとい不平、不幸、残酷にさえ見える私たちの毎日の生活に対しても、決して恐れず逃避にげかくれせず、その根本理由を見究め、まっしぐらにこれに割って入り、本当に価値のある理想を刻々に取り出すのです。そうすることによって、悲しかったことも自分を喜ばせることであったことが解り、不満であったことも自分を進歩させるもとであったことが解りましょう。そこに仏教のいわゆる「安心立命」(悟り)があります。
この現実と理想との考え方は、釈尊はじめ後代無数の名僧知識たちが、現実生活のあらゆる辛酸を嘗め尽し、あらゆる困難を克服した強い意志や体験から見つけ出した真理であり、積極的な処世法であります。これは現代のように人類の文化が進んで、いろいろの欲望煩悶の多い時代には持って来いの処世法です。皆さんこの考え方、このやり方は本当にしっかりしたものと思いませんか。また、何と勇ましい態度ではありませんか。
(現実の厳しさが、お釈迦様、お大師様等の修行とお覚りの原動力です。どのようにして現実に悩み苦しむ衆生を救っていくかということがお釈迦様、お大師様の御修行の動機なのです。)