第六七課 光明中のハイキング
米国の詩人ホイットマンが、動物を詠んだものの中にこういうのがあります。
「全大地において、一疋も体裁よき彼らはあらず。また不幸のものもあらず」
何となく、ほほ笑まれる詩句であります。いかにも動物を明るく扱った詩句であります。仏天の加護を信じ、この世の中を光明裡に過す人も、何から何まで有難ずくめ、結構ずくめで暮せるというわけではありません。寧ろ一方に理想の光をかかげているだけに、却って現実の生活の痛々しさは眼につき、身に強く感ずるのであります。中にも自分の性格の弱さなどは、その第一に数え入れられるのであります。
けれどもそれが不幸というわけではないのであります。それは曇りがちな心の空であるにしても、どこかに陽が射しているのであります。曇り空でも洩れる陽射しが、温かくて明るさを運んでくれるのであります。
ひょっとして、霹靂へきれき一声、俄雨にわかあめが来たあとは、たちまち晴れて、冴え冴えした月影が心の空に磨き出るのであります。
「嬉しきにつけ、悲しきにつけ」と、信仰を教うる聖者は体験を以て教えられます。「仏名を唱えよ。そは遮さえられぬ光なればなり」
嬉しきときばかり親しまれる光ならば、それは祭りの提燈の灯ひであります。悲しき場合には点されません。悲しきときばかり懐かしめる光ならば、それは獄屋の庇に洩れる燈盞ひあかりであります。健康な社会の部屋の照らしにはなりません。いつ、いかなる場合に唱えても、晴れみ、曇りみに拘らず、心に染むる光の影です。それ故にこそ遮られぬ光なのであります。
「光明、十方世界を照らす」「光明、河砂のごとく遍あまねし」「光明、日月を勝過す」等の言葉があります。
教えられてみれば、なるほど、遮られぬ光はもとよりこの天地に在るところの光であります。急に点したり、どこに据え付けたりした光ではないのであります。それゆえ、無量光むりょうこう、無辺光むへんこう、無対光むたいこう、不断光ふだんこう、難思光なんじこう、清浄光しょうじょうこうなどあらゆる形容の言葉を使っているのであります。それでいて、なかなか表し切れない絶対の光であります。それほどの光ですから、私たちの安易な考え慣れた光明とはかなり勝手が違うのであります。従って、そんなに在ることは判然はっきりしていながら、判然在るようには感じられないのであります。ただ、信ずる一念が明るみを心に染み亘らせます。
この頃、ハイキングが流行はやります。なるべく質素、素朴に足で歩く旅です。欧州ではクラブが出来ていて、クラブ会員同志は、家庭へ迎え合い、泊めたりし合います。
私たちは誰でも、光明のハイキング倶楽部クラブの会員であります。会員資格のマークは仏名であります。このマークを帯びていれば、天地到るところが好意を持って泊めてくれる宿であります。到るところの生活が、光り輝く山河であります。たとえこちらの眼が曇っていて、直ぐにはその好風景は味わえなくとも。
歌人西行も、この倶楽部の会員でありました。そしてその好風景をうたった歌に、
道のべの清水流るる柳かげ
しばしとてこそたちとまりつれ
同じく会員で、あまりにこの光明の殊妙なのに歓喜よろこび禁とどめあえず、躍り上り躍り上り仏名を唱えつつ当時の日本国内六十万人を目標めやすに「光明」の文字を書いた賦算ふだを配って歩いた時宗の開祖一遍上人(延応元年に生れ正応二年に歿す)があります。上人の歌に、
とも跳ねよかくても踊れこころ駒
弥陀のみのりときくぞうれしき
いかに遮られぬ光に悦び充ち足りたか覗うことが出来ます。
以上は、ちょっと思いついた特色ある二人を挙げただけでありますが、実はこの事実を信ずる人も信じない人も、みな光明中のハイキングをなしつつあるのであります。あなたも、あなたも、誰も、彼も、です。
さて、冒頭に書いたホイットマンの詩句でありますが、「動物は無意識に単純に、天地間の無量光、無辺光、無対光、不断光、難思光、清浄光の裡なかに暮している。たとえ見た姿は体裁よからずとも、彼らは兎に角、光明裡に在る。ほのぼのとした光を感じつつ逞しく生きている」と、彼らの生存を光明的に見た詩句であります。これに反して、心を腐らし、自分から宇宙に遍満する光明方面を遮って暮している人間は、一見体裁よくとも、生命の底の幸福や逞しさに欠けている惨めな救われ難い存在であるというのです。
(ヘレン・ケラーも「何でも明るく見る心、光明主義は物事を成しとげる本である。」というのがあるそうです。トマス・ペイン は『コモン・センス』で「わたしは困難な中で笑える者、苦しみを通して強くなる者、非難されて勇気を出す者を愛する。」といったといいます。「困難な時ほど笑いを」ということも言われます。金剛界曼荼羅には「金剛笑菩薩」様という方もいらっしゃいます。「笑い」は仏様なのです。)