白村江の戦いで唐の捕虜となった日本人が観音様の霊験で無事帰国できた話二話
・其の1、「今昔物語集巻十六・伊予国の越智の直、観音の助けによりて震旦より返り来れる語第二」
今昔、・・(天智か?天智二年に白村江の戦いが始まる)天皇の御代に、伊予の国越智の郡の大領が先祖に、越智の直と言ふ者有けり。
百済国の破れける時、彼の国を助けむが為に、公け、数(あまた)の軍を遣す。中に此の直を遣しけり。直、彼の国に至りて、助けむとするに、堪へずして、唐の方の軍に取られて、唐に将行ぬ。此の国の人、八人同くあり。一の洲に籠め置きたれば、同じ所に八人有て、泣き悲む事限無し。今は本朝に返らむ事、望み絶へたる事なれば、おのおの父母・妻子を恋ふる程に、其の所にして、観音の像一躯を見付奉たり。
八人、同く此れを喜て、心を発して念じ奉る様、「観音は一切の衆生の願を満(み)て給ふ事、祖(おや)の子を哀ぶが如し。而るに、此れ有難き事也と云ふとも、慈悲を垂給て、我等を助て本国に至らしめ給へ」と、泣々く申して日来を過る程に、此の所は余の方は皆逃ぐべき様無く、皆人有る方也。只後ろの方、深き海にして、辺りに多の木有り。八人、同く議して、構へ謀る様、「密に此の後ろの海の辺に有る、大なる松の木を伐て、此れを船の形に刻て、其れに乗て、密に此を出でて、人通わぬ海也と云ふとも、只海の中にて死なむ。此にて死なむよりは」と議して、八人して此の木を伐て、忽に刻りつ。
此れに乗て、此の観音の像を船の内に安置し奉て、各の願を発して、泣く泣く念じ奉る事限無し。国の人、後ろを疑ふ事無くして、此れを知らず。而る間、おのずから西の風出来て、船を箭を射るが如く直しく筑紫に吹き着けたり。「此れ偏に観音の助け給ふ也」と思ひて、喜び乍ら岸に下て、各家に返ぬれば、妻子、此れを見て、喜び合へる事限無し。事の有様を語て貴びけり。
其の後、公(おほやけ)、此れを聞食して、事の有様を召問はるるに、有し事を落さず具に申す。これを公(おほやけ)聞し食て、哀び貴び給ひて、申さむ所の事を恩(ゆる)し給はむと為るに、越智の直、申して云く、「当国に一の郡を立て、堂を造て、此の観音の像を安置し奉らむ」と。而るに、公、「申すに随ふべし」と仰下されぬれば、直、思の如く、郡を立てて堂を造て、其の観音の像を安置し奉けり。
其より後、今に至るまで、其の子孫、相伝へつつ、此の観音を恭敬し奉る事絶へず。亦、其の国の越智の郡、此より始りけりとなむ語り伝へたるとや。」
・其の2,「日本霊異記 上巻 兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬したてまつり、現報を得し縁 第十七」
「伊予国越知郡の大領の先祖、越智直、当に百済を救はむが為に、遣はされて到り運(めぐ)りし時に、唐の兵に偪(やぶ)られ、其の唐国に至りき。我が八人同じく洲に住む。○として観音菩薩の像を得て、信敬し尊重したてまつる。八人心を同じくして、竊に松の木を截りて以て一舟を為る。其の像を請け奉りて、舟の上に安置し、各誓願を立てて、 彼の観音を念じたてまつる。爰に西風に随ひて、直ちに筑紫に来れり。
朝庭(みかど)之を聞きて召して、事の状を問ひたまふ。天皇、忽に矜(あはれ)びて、楽(ねが)ふ所を申さしめたまふ。是に越智直言さく、「郡を立てて仕へまつらむ」とまうす。天皇許可(ゆる)したまふ。然る後に郡を建て寺を造りて、即ち其の像を置けり。時より今の世に迄るま で、子孫相続ぎて帰敬したてまつる。
蓋し是れ観音のカにして、信心之を至せるならむ。丁蘭の木母すら猶し生ける相(すがた)を現じ、僧の感ずる画女すら尚し哀形に応へき。何にか況や是の菩薩にして応へたまはざらむや。」
天智2年8月(663年10月)白村江の戦いがはじまります。
「日本書記」には、伊予国風早郡の人、物部薬は白村江の戦いの時に出兵し、その結果、三〇余年の長期間にわたって唐に抑留され、帰国した後、朝廷は彼の忠節を賞して持統一〇年(六九六)に追大弐を授け、絁四匹・絲一〇絢・布二〇端・鍬二〇口・稲千束・水田四町を与えたと記されています。当時から朝鮮半島との関係で日本人も苦労していたのです。