今日、天平勝宝4年(752年)4月9日 は東大寺大仏(毘盧遮那仏)開眼法要が行われた日です。
続日本紀巻十八に「天平勝宝四年(752)四月乙酉【丁丑朔九】》○夏四月乙酉。盧舍那大仏像成。始開眼。是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設斎大会。其儀一同元日。五位已上者著礼服。六位已下者当色。請僧一万。既而雅楽寮及諸寺種種音楽、並咸来集。復有王臣諸氏五節。久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西発声。分庭而奏。所作奇偉、不可勝記。仏法東帰。斎会之儀。未嘗有如此之盛也。」と。
「東大寺大仏堂縁起碑文(大日本仏教全書)」には「・・・(天平勝宝四年)同年四月九日大会を儲け開眼し奉る也。大小灌頂二十六旒、呉楽・胡楽・中散楽・高麗楽・珍宝等を入れ奉る・・」
田中智学の「日本国体の研究」には以下のように、聖武天皇は東大寺を世界戒壇にするお考えであったということです。まさに華厳経の一切を包摂する世界観からすれば当然のことと思われます。大仏様の無数の蓮弁にそれぞれ無数の仏さまが描かれていることもそれを雄弁に物語っていると思います。聖武天皇は世界を華厳の教えのもとに包摂するお考えであったと思われます。
ウキペヂア等によれば「大仏開眼供養会には正倉院文書では内外の要人「1万数千人」が参列し開眼導師はインドの菩提僊那が担当し、大安寺の隆尊律師が講師を、元興寺の延福法師が読師を務めた。開眼の筆には長い緒が繋がれ、参列者はその緒を握って結縁した。その後、楽人によって日本、唐、高麗の楽舞が大仏に奉納された。開眼の際に使用した筆(天平宝物筆)や、筆に結び付けられた紐である開眼縷(る)、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存している。『続紀』は当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。」ということですが、これは田中智学の「日本国体の研究」によれば聖武天皇の世界の信仰を統一したいという深いお考えから来ているということです。「・・大仏建立は単に御自身一個の信仰を表現せられたものではない。即ち之に因って海内の信仰を統一すべく、東大寺は国立の戒壇として国家的に建立されたものである。其れと同時に又一面には此挙によって世界文明の疎通を図ろうとの深い思召しがあったのである。(聖武天皇の)思召しというのは・・終には東大寺の戒壇を世界戒壇にしようという広大な抱負をおもちになっていたのである。それゆえ大仏開眼の導師にはわざわざ印度から婆羅門僧といふ名僧を招待せられた。其の外支那からも高僧大徳がこの儀式に参列した。つまり印度、支那、日本三国の名僧大徳が立会って大仏の開眼供養を行ったといふ、これが実に世界的大戒壇も抱負である。・・」とあります。
吾々も世界戒壇の壮大な構想をお持ちであった聖武帝の末裔として「強弩の末魯縞に入る能わず」とならないようにそのお志だけでも再度思い起こし日々自戒する必要があります