聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発さられました。
続日本記には「天平十五年冬十月辛巳、詔して曰く、『「朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志兼済に存して勤めて人物を撫す。率土の浜、已に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳は癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となし、遂には同じく利益を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易く、心や至り難し。但恐らくは、徒に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪を生じて罪辜に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各(おのおの)介(おおいなる)福を招き、宜く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当に念を存し各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情に願う者有らば、恣にこれを聴せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾して強に収斂せしむること莫れ。遐邇(かじ)に布告して、朕が意を知らしめよ。』」とあります。
聖武天皇の時代、渤海と唐・新羅が対立関係にある中、渤海が山東半島の海上交通路を制圧したり日本に接近策をとったことで唐、新羅が日本を攻めるのではないかとおそれられていました。聖武天皇は 天平4年(734)には第9次遣唐使を任命するとともに、節度使に西辺の武備を固めさせ、四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命じています。
こういう極度に緊迫した対外関係の中、
・天平13年(741年)には国分寺建立の詔をだしています。「国分寺を建て金光明経を護持することにより四天王が国土を守ってくださるから」といっておられます。
国分寺建立の詔です。「朕、薄徳を以って忝くも重き任を承たまはる。政化弘まらず・・・経(金光明最勝王経)を案ふるにいわく『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し恭敬供養し、流通せしむときには、我等四王(四天王のこと)、つねにきたりて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめん。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。所願心に遂げて恒に歓喜を生ぜしめむ』といへり。天下の諸国をして各七重の塔一区を敬ひ造らしめ、あわせて金光明最勝王経、妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕またべつに擬りて金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各々一部を置かしめむ。ねがわくは聖法の盛、天地とともに永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は兼ねて國華とせむ。かならず好き処を択びて実に久しく長かるべし。・・・僧寺は必ず廿僧有らしめよ。其の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。其の名は法華滅罪之寺とせよ。・・・」
・続いて天平16年(743年)にこの東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出されています。
・大仏建立は神仏一体の国造りにより世界に冠たる日本国にしようとの高い理想があったと思われます。田中智学の「日本国体の研究」によれば大仏建立は聖武天皇の世界の信仰を統一したいという深いお考えから来ているといっています。「・・大仏建立は単に御自身一個の信仰を表現せられたものではない。即ち之に因って海内の信仰を統一すべく、東大寺は国立の戒壇として国家的に建立されたものである。其れと同時に又一面には此挙によって世界文明の疎通を図ろうとの深い思召しがあったのである。(聖武天皇の)思召しというのは・・終には東大寺の戒壇を世界的戒壇にしようという広大な抱負をおもちになっていたのである。それゆえ大仏開眼の導師にはわざわざ印度から婆羅門僧といふ名僧を招待せられた。其の外支那からも高僧大徳がこの儀式に参列した。つまり印度、支那、日本三国の名僧大徳が立会って大仏の開眼供養を行ったといふ、これが実に世界的大戒壇も抱負である。・・」とあります。
そして、大仏建立は神仏一体の信仰に基ずいていました。
そもそも聖武天皇は行基菩薩を伊勢神宮にお参りさせ、その結果、大仏建立は天照大神の御心なりとの神勅により出したものです。また宇佐八幡神からは「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」という協力の託宣を受けやがて陸奥国から金が献上されてきています。そして建立後の天平勝宝元(749)年12月には八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)・大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりこれが「神輿(みこし)」の始まりとされています。三年後の天平勝宝4(752)年に行われた東大寺大仏開眼法要について、『東大寺縁起(えんぎ)』では聖武太上天皇・孝謙天皇に続いて八幡神も入御になりそのとき、「神明霊威」により内裏に「天下太平」の文字が出現し、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したといわれています。(宇佐八幡ホームページ)。天平勝宝元年(749年)には東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡神が勧請され現在でも手塚山八幡として残っています。
続日本記には「天平十五年冬十月辛巳、詔して曰く、『「朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志兼済に存して勤めて人物を撫す。率土の浜、已に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳は癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となし、遂には同じく利益を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易く、心や至り難し。但恐らくは、徒に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪を生じて罪辜に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各(おのおの)介(おおいなる)福を招き、宜く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当に念を存し各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情に願う者有らば、恣にこれを聴せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾して強に収斂せしむること莫れ。遐邇(かじ)に布告して、朕が意を知らしめよ。』」とあります。
聖武天皇の時代、渤海と唐・新羅が対立関係にある中、渤海が山東半島の海上交通路を制圧したり日本に接近策をとったことで唐、新羅が日本を攻めるのではないかとおそれられていました。聖武天皇は 天平4年(734)には第9次遣唐使を任命するとともに、節度使に西辺の武備を固めさせ、四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命じています。
こういう極度に緊迫した対外関係の中、
・天平13年(741年)には国分寺建立の詔をだしています。「国分寺を建て金光明経を護持することにより四天王が国土を守ってくださるから」といっておられます。
国分寺建立の詔です。「朕、薄徳を以って忝くも重き任を承たまはる。政化弘まらず・・・経(金光明最勝王経)を案ふるにいわく『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し恭敬供養し、流通せしむときには、我等四王(四天王のこと)、つねにきたりて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめん。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。所願心に遂げて恒に歓喜を生ぜしめむ』といへり。天下の諸国をして各七重の塔一区を敬ひ造らしめ、あわせて金光明最勝王経、妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕またべつに擬りて金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各々一部を置かしめむ。ねがわくは聖法の盛、天地とともに永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は兼ねて國華とせむ。かならず好き処を択びて実に久しく長かるべし。・・・僧寺は必ず廿僧有らしめよ。其の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。其の名は法華滅罪之寺とせよ。・・・」
・続いて天平16年(743年)にこの東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出されています。
・大仏建立は神仏一体の国造りにより世界に冠たる日本国にしようとの高い理想があったと思われます。田中智学の「日本国体の研究」によれば大仏建立は聖武天皇の世界の信仰を統一したいという深いお考えから来ているといっています。「・・大仏建立は単に御自身一個の信仰を表現せられたものではない。即ち之に因って海内の信仰を統一すべく、東大寺は国立の戒壇として国家的に建立されたものである。其れと同時に又一面には此挙によって世界文明の疎通を図ろうとの深い思召しがあったのである。(聖武天皇の)思召しというのは・・終には東大寺の戒壇を世界的戒壇にしようという広大な抱負をおもちになっていたのである。それゆえ大仏開眼の導師にはわざわざ印度から婆羅門僧といふ名僧を招待せられた。其の外支那からも高僧大徳がこの儀式に参列した。つまり印度、支那、日本三国の名僧大徳が立会って大仏の開眼供養を行ったといふ、これが実に世界的大戒壇も抱負である。・・」とあります。
そして、大仏建立は神仏一体の信仰に基ずいていました。
そもそも聖武天皇は行基菩薩を伊勢神宮にお参りさせ、その結果、大仏建立は天照大神の御心なりとの神勅により出したものです。また宇佐八幡神からは「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」という協力の託宣を受けやがて陸奥国から金が献上されてきています。そして建立後の天平勝宝元(749)年12月には八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)・大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりこれが「神輿(みこし)」の始まりとされています。三年後の天平勝宝4(752)年に行われた東大寺大仏開眼法要について、『東大寺縁起(えんぎ)』では聖武太上天皇・孝謙天皇に続いて八幡神も入御になりそのとき、「神明霊威」により内裏に「天下太平」の文字が出現し、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したといわれています。(宇佐八幡ホームページ)。天平勝宝元年(749年)には東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡神が勧請され現在でも手塚山八幡として残っています。