紀野 一義師(日本の仏教学者、真如会主催)は 2013年 12月28日91歳で死去されています。わたしも昔谷中の全生庵で師の「清風仏教文化講座」に通い多くの著書を拝読しました。仏教入門者にはうってつけのお話が多くありました。師は東大印哲を途中で学徒動員され不発弾を命がけで千発も処理して復員すると原爆で両親と姉妹が跡形もなく消えていました。また紀野師は、昭和34年には生まれて3日目の赤ちゃんを亡くされています。そういう過酷な運命にあっても仏さまを信じて在家の者に法を説き続けられているそのお姿はまさに菩薩さまでした。
紀野一義著『禅―現代に生きるもの』の一節です。
「・・(復員してすぐ広島で両親や姉妹が原爆で跡形もなくなっているのを確かめた後)岡山県の津山という山間の域下町に嫁いでいた姉を頼って行った。姉はわたしが沖縄の戦場で死んだと思っていたから、玄関に棒立ちになって、幽霊でも見るように上から下まで見上げ見下して、台所へ飛んで行って泣き出す。仕方がないのでわたしはひとり仏間へ入って過去帳を一枚ずつめくって六日のところを披(ひら)いた。その過去帳の一枚一枚の重さをわたしはまだ指の先に覚えている。眼をつぶって、思いきって(八月)六日のところを披いたら、見たこともない戒名が四つ、ずらっと並んでいた。しばらく身動きもできず、黙っていた。それからのろのろと立ち上り、持って来た甘いものなどを供えて法華経をよんだ。
その晩は早く寝みなさいというので、少し離れた客殿というところに寝た。今でもよく覚えているが、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましたのである。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がして、びっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら、背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、恥ずかしい話だが二時間ばかり獣のように泣いた。人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるそうであるが、その時がそうだったのかも知れぬ。布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。
それが、不思議なことに、四時になって時計がボーンボーンポーンポーンと四つ鳴ると同時に、それこそ憑き物ものが落ちるように、ストッと一時になにかが抜け落ちた。それを境にして、さびしくもかなしくもなくなったのである。父も母も姉も株も、死んだという感じがまるでしなくなったのである。体の中からなにかが脱け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。そのとき思い出したのが、死んだ父親の教えてくれたことぱである。子供のときから教えられたことばである。
「人間というものはな、死んだら仏のいのちに帰るんだ。死ぬんじゃない 。仏のいのちに帰るんだ」
それまでどういうことなのかよく分らないでいたそのことぱが、はじめて、ずしいんと体の底までこたえた。
人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるぱかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
この二時間の慟哭の中で感じとったのは、なんともいえぬむなしさであった。死ぬべきはず の者が生きのぴ、生きであるはずの者たちが死ぬ。せっかく生きのぴて故国に還って来たのに、愛する者たちはみな死んでいたというこのむなしさは忘れられぬ。同時に、このむなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界も忘れられぬ。わたしの心の中にはいつもこの二つのものがある。空しさの方は「虚空」、大らかさの方は「空」。わたしの心の奥には、虚空と空とが重なり合っているようである。・・」
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