第五に、上生経は最も易きがゆえにとは、
一には国土同界の故に。
二には、末世の凡夫を按ずるが故に。
三には修因最も易きがゆえに。
一に国土同界の故にとは唐の三蔵の云く、西方の道俗並びに弥勒の業を作す。同じく欲界なれば其の行なり易し。大小乗の師、みな此の法を許す。弥陀の浄土は恐らく凡鄙穢にして修行成し難し。旧経論の如きは十地已上の菩薩分に随って報身の浄土を見ると。新論の意に依れば三地の菩薩、始めて報佛の浄土を見ることを得る。豈に下品の凡夫即ち往生を得るや(文)。
二には末世の凡夫を摂するがゆえにとは、上生経に曰く、未だ道を得ざる者各々誓願を発す(文)。疏に云ふ、未得道とは但凡夫を挙ぐ。聖は願に随ふが故に。不還無学等は神通にて往くべし、末代を励勧するが故に。唯だ凡を挙げて聖の往くことを論ぜず(觀彌勒上生兜率天經賛)。又いわく、仏を去ること、時遥かにして病重く行闕く。佛の付嘱を受けて當佛の度を欣ふは末代の津梁なり。真に正観と為す。業浅く識微に智量疎拙にして報土に往くことを欣ふは分を越たる所望也と(觀彌勒上生兜率天經賛 「津梁眞爲正觀業淺識微智量疎拙欣生報土越分所望)
三には修因最も易きがゆえにとは、内院に九品の生あり。上品は六事法(戒行・塔行・供養行・等持行・誦経行・読経行)を行ず。上生の疏に云く、六事法とは一に精勤して福を修し、敬と恩と悲との田の中に作すところの業等なり。二には威儀不缺、堅く諸の戒行を守り自ら軌則に住する等なり。三には塔を払ひ地を塗り道場を修飾し正しく制多を理むるなど也。四には香華を供養し四事什物随って給済する等なり。五には凡夫三昧を行ず聞思等の定なり。聖人は正受に入る、得るところの禅に随ふなり。凡の三昧は六行定には非ず、六行定なれば必ず上生す。故に深く聞思に住するを亦三昧と名く。六には読誦経典なり。十法行等を演説し修習するなり。(弁中辺論に「此大乘に十法行有り。一に書寫。二に供養。
三に施他。四に若し他の誦讀するあれば專心に諦聽す。五に自ら披讀す。六に受持す。七に正に他の爲に文義を開演す。八に諷誦。九に思惟。十に修習を行ず。十法行は。福を獲幾す。頌して曰く。十法を行ずる者は 福聚を獲ること無量なり。」)且く偏に勝れて行じやすきを挙げるに、此の六事あり。その中の一に具に衆業を摂す。若し具に六を修し或は能く五を修することは上上品の生なり。若し三四を修するは上中品の生なり。若し一二を修するは上下品の生なり(觀彌勒上生兜率天經賛)。中品は三業修行なり。疏に云く、名を聞て心に喜び、語に恭敬を発し、身に礼拝する者乃至具に三業を具する者は中上品の生なり。唯だ二業を具するは中中品の生なり。若し唯だ一業は中下生なり(觀彌勒上生兜率天經賛)。下品は懺悔と及び十行なり。懺悔とは疏に云く、一には戒禁を受けて而して後に之を犯す。二には先に戒を受けずして衆の悪業を造る。名を聞きて帰し禮し両手二足及び頭首の五体を以て地に投じて至誠に懺悔すれば罪速やかに清浄なり(觀彌勒上生兜率天經賛)。十行とは疏に云く、但十行を修すれば定めて彼に生を得ること、一には名を聞いて称し、二には形像を造り、三には香を供し、四には華を供し、五には衣服を供し、六には絵蓋を供し、七には幢を供し、八には幡を供し、九には身つねに礼拝す。十には心口に繋念するなり(觀彌勒上生兜率天經賛)又云、此の中に三あり。懺悔し像を造り供養し礼拝し及び繋念する者は下品上生なり。懺悔し供養し礼拝すれども恒に繋念せざる者は下品中生なり。懺悔し像を造り供養するのみにて恒に礼拝せず恒に念じざる者は下品下生なり。帰し懺悔し罪錆除することを得ると雖も、形像を造り供養礼拝せざる、或いは但形像のみ、或いは但供養のみ、或いは但礼拝のみ、或いは但繋念のみ、或いは一たび名を称するも亦下下品なり。設ひ彼に生ぜざるものも三会の中に亦度脱を得(觀彌勒上生兜率天經賛)。已上九品の修因皆凡夫に被らしむる行あんり。故に上品の六行すら尚皆凡夫に被らしむる福善なり。第一義を解する等の因を説かず。
中品の中にて中上品は三業具足の行為りと雖も中中品と中下品おは疏に釈するが如きは三業不具の行なり。下品は破戒造悪の悪機なるがゆえに誰か其の機に非ざらん。下も一たび名を称する者に至るまで下下品の生に摂す。誰か其の行を成せざらんや。
観経の説を見るに、造悪の者臨終に名を称する功徳に依って極楽に往生すと雖も、下品中生は六劫を歴、下品下生は十二大劫を歴て蓮華初めて開き佛を見、法を聞く。苦海を出でて楽邦の生を感ずること誠に希有なりと雖も、徒に蓮台に処して佛を見ること遅し。兜率あ下品生の経文に云く、此の人命終せんと欲する時弥勒菩薩眉間白毫大人相の光を放ちて諸の天子とともに曼荼羅華を雨ふらして此の人を来迎したまふ。此の人須臾に即ち往生することを得て弥勒に値遇し頭面に禮敬す。いまだ頭を挙げざる頃に便ち法を聞くことを得て即ち無上道に於いて不退転を得tと(觀彌勒上生兜率天經賛)。弥勒は慈深きが故に凡夫の麁行を捨てずして頓に無上菩提に引入するものか。西方の下品生の者も亦定めて此の義無きに非ざるか。
問、中品の中にて中中品と中下品とを三業不具の行と為すは願求の心等は真実ならずと雖も上生を得べきや。
答、上品経の経文に云く、是の如き等の人は応當に至心なるべし。(佛説觀彌勒菩薩上生兜率天經 「正受讀誦經典如是等人應當至心雖不斷結如得六通」)
下品生の文に云く、誠心に懺悔すと(上生経「若し善男子善女人、諸の禁戒を犯し衆の悪業を造らんに是の菩薩の大悲の名号を聞きて五体を投地し誠心に懺悔すれば是の諸の悪業速やかに清浄なることを得。」)至誠の願求なからんには恐らくは生しがたき乎。西方の三心を以て此れに例して知るべし。
問、兜率の修因は戒を以て本と為るが故に下品生は破戒を接すと雖も必ず懺悔を用ゆ。西方は弥陀の本願にて専ら十悪五逆を接す。故に下品の造悪の類に懺悔の文なし。是直に造悪破戒の者を摂取するが故也。末代悪世の衆生は戒行を具し難し。懺悔真実なること能はざれば唯弥陀の本誓を信ずべし。何ぞ生し難き兜率を期するや。
答、戒を以て基本と為は佛家の通軌也。安養兜率何ぞ差別有ん。世間流布の説は且く置て而て論ぜず。経と釈との文の如きは両土戒と無戒とを摂すること全く相違なし。云何となれば両土の経文に共に上品と中品とには破戒造悪の者を明かさず。下品に至って之を明かす。而して観経の下品は皆臨終に善智識に遇へば法を聞く時短きが故に、別に懺悔を説かずと雖も説法を聞きて仏名を称して罪除きて往生す。即ち懺悔自ら其の中に在り。上品経の下品は平生の修因なるが故に誠心の懺悔を説く。善導和尚の云く、貪瞋煩悩を以て来し間しへざれ。随って犯すれば随って懺し、念を隔て時を隔て日を隔てしめざれと(樂邦文類「 修又若貪瞋癡來間者但隨犯隨懺不令隔念隔日隔時常使清淨)。
兜率の行人も亦別に懺悔を用ひざること有り。上品の疏に云く、設ひ罪の懺悔を作さざるとも生せんと願って但十行を修すれば定めて彼に生を得と(觀彌勒上生兜率天經賛)
但念じて修行すれば罪滅するが故に別の懺を用ずと雖も自ら懺悔となる。観経の下品もこの類なり。若し然らば両土の修因実に差別なし。兜率は戒を本となし、安養はしからずというは甚だ不可なり。懐感禅師等両土の勝劣難易を判ずと雖も然れども此の義を論ぜず(懐感 - 新纂浄土宗大辞典 - 浄土宗全書)。明らかに知る今どきの俗談なることを。
問、上生経に五因を説く。一には五戒。二には八戒。三には具足戒。四には身心精進して断結を求めず。五には十善の法なり。五の内に四は戒善也。戒を以て本と為すこと分明なる乎。答、上生経の疏の如きは経に外果内果を説く。外果は弥勒未だ彼の天に生ぜざる以前に五百億の天子並に一大神、天の福力を以て内外の院を建立す。外の依報荘厳なるが故に外果と云ふ乎。内果は慈尊閻浮に没して彼の天に生ずる也。教主正報の果なるが故に内果と云か。此の内外二果の下に共に彼に生ずる行を説く。五因は外果の下に之を説きたまふ。九品の行は内果の下に説きたまふ。外果の下は慈尊未だ生ぜざる前なるが故に佛に帰する行を説かず(称名・供養・礼拝等也)。唯生天の福業に約して之を説く故に五戒十善等の業を本と為るか。上生の疏に云く、今且く凡夫の散心五麁の因行、内外院の増上果を感ずるの業を論ず。未だ是巨細に彼に生ずる業因を分別し解釈せず。広く生を勧むる中に具に教示すと(觀彌勒上生兜率天經賛)。広く生を勧むる中とは下品の九品の行を指す也。是の故に外果の中の修因は強て彼に生ずる業因を解釈せざるべからず。広く生を勧むる中に方に具に教示すと(觀彌勒上生兜率天經賛)。広く生を勧むる中とは下の九品の行を指す也。是の故に外果の中の修因は強いて今の上生の因と為すべからざるか。
若し兜率の因行に傍正を論ぜば、念仏を正行と為し余行を助行と為す。如何んとなれば上生経に上品を明かす中に六行を説き畢って云く、是の如き等の人は當に至心なるべし。結を断ぜずと雖も六通を得るが如し。応當に念を繋て佛の形像を念じ弥勒の名を称すべし。(佛説觀彌勒菩薩上生兜率天經 「斷結如得六通應當繋念念佛形像稱彌勒名如是等輩若一念頃受八戒齋修諸淨業發弘誓願命終之後譬如壯士屈申臂頃即得往生」)疏に釈して云く、復た修行すと雖も仍ほすべからく正念にして心に形容を想ひ口に恒に称念すべしと(觀彌勒上生兜率天經賛 )當に知るべし、念仏は是れ正行也。
問、経六行の中に云く、威儀缺けずと。故に之を釈して曰く、堅く諸の戒行を守ると。経の称名の下に云く、是の如き等の輩ら若し一念の頃だも八戒斉を受くと。疏に釈して云く、六事を行ずる輩ら極めて少なきは但だ能く一念の頃に於いて至心にして犯さず八戒斉を持つと(觀彌勒上生兜率天經賛)
六行の中既に広く戒行を勧む。称名の下に復た何ぞ一念の斉戒を勧むる耶。
答、観経に云く、下品往生の人命終の時善智識に遇ふて十二部経の首題の名字を聞きて千劫の極重悪業を除郤(じょきゃく)す。佛名を称する故に五十億劫の生死の罪を除くと。導和尚釈して云く、善人多経を説くと雖も飡受の心浮散す。心散ずるに由るが故に罪を除くこと稍軽し。又仏名は是れ一に即ち能く散を摂して以て心を住sせしむ。復教て正念に名を称せしむ。心重きに由るが故に即ち能く罪を除くこと多劫也と(選擇本願念佛集 。」⁽雖説多經飡受之心浮散由心散故除罪稍輕又佛名是一即能攝散以住心復教令正念稱名由心重故即能除罪多」)これに例して知るべし。今の経は称名は心一にして罪を滅すること多きが故に恒に称ふることを明かし、戒行は心散じて罪を滅するの功少なきが故に極略を用ゆ。称名の功多きことを顕はさんがために此の説あるか。上品の行は称名を以て本と為す也。中品は経に曰く、若し弥勒菩薩摩訶薩の名を聞くを得る者あらば、聞き已って歓喜し恭敬し礼拝すと(佛説觀彌勒菩薩上生兜率天經)
歓喜し供養し礼拝するは名を聞ききし上の業也。下品経に云く、是の菩薩の大悲の名字を聞きて五体を地に投げ,誠心に懺悔すと(佛説觀彌勒菩薩上生兜率天經 「造衆惡業聞是菩薩大悲名字五體投地誠心懺悔是諸惡業速得清淨」)。
又、十行を説くに称名を以て第一と為す。明らかに知る三品の行皆称名を以て本と為すことを。称名は行じ易く而して功徳最も深し。勤めて之を修すべし。
問、諸行品多し、何ぞ独り称名を以て正行と為すや。
答、密教の意に依るに名字即ち実相なるが故に、名字の外に其の体無し。曼荼羅の諸尊皆名字を以て真言と為す。各各本尊の行因証果無辺の功徳但だ一の名号の中に摂す。是の故に一心に名号を称すれば本尊の三昧に入りやすし。大日経の第三の偈に云く、
観世蓮華眼は 即ち一切の佛に同じ 無尽荘厳の身なり。 或いは世の導師の 諸法に自在なる者を以て 随って一の名号を取りて 本性加持を作す。(大毘盧遮那成佛神變加持經「眞言事業品第五」)
佛名は皆内証秘密の名号なるが故に本来能く一切衆生の本性を詮す。能詮即ち能加也。所詮即ち能持也。佛此の甚深の義趣を知見したまひて加持三昧に住し、秘密号を以て世間の文字を加持して衆生に授与したまふ。衆生之を称念すれば速に自心の本性に還帰す。如何となれば本性加持を作すが故也。是の故に名号最も深妙と為す也。
問、文は観音段にある也。何ぞ弥勒の証に擬する耶。
答、観音と弥勒とは是一体なり。是の故に慈氏の儀軌に云く、八地観自在の三莽地を証得して便ち入りて一生補所尊の身に同じて常に無生の三莽地を説く、と。(「慈氏菩薩略修愈誐念誦法」「入體内外明徹。状如七歳童眞之形。證得八地觀自在三莽地。便入同一生補處尊身。常説無生三莽地」)二尊同体なること此の文に見えたり。上宮王の所造の観音像の下に記して云く、南無當来導師弥勒慈尊と。智証大師釈して云く、大慈大悲猶膠漆の如しと。皆是弥勒観音同体の証拠なり。