第三〇課 愛・憎
愛しようと努めたとて、なかなか愛し得るものではありません。愛は花のようなものです。ひとりでに心の中に咲かなければならないものです。花は温かい季節に多く咲きます。心の季節の温かい人は愛の花を多く心に持つわけです。心のあたたか味は何から湧くでしょうか。理解からだと思います。理解を広くしようと心がけている人が世の中を最も広く愛し得るわけなのでありますが……しかし、ここに、感覚というものがあります。感覚の非常に強い人は、なまなかの理解ぐらいでは愛し得ざるものに愛は起し得ません。その人の愛は「道徳の愛」とは違うのですから。ですからそういう人は狭くとも深く愛して行くその人の傾向にまかせるよりほかはありません。詩人などにこういう性分の人は適当するのですが、一般人のなかに立ち交って随分不自由しなければならない性質でしょう。人間はいろいろな性質につくられているのですから仕方がありません。道元禅師という昔の禅宗の高僧は「この感覚」の自由さえみとめられました。仏教が「道徳教」でない証拠です。生きた、自由な、真実な軌道に添っている宗教である証拠です。
憎みは大概、自分にとって都合の悪い対象者に向って湧く人情です。たとえば、自分の子をいじめる他所よその子は憎い、自国に敵対する他国が憎い、自分の位置を凌駕する競争者が憎いなど。
ことごとく自分に都合の悪いものを憎むのは人間の本能の利己的感情がそうさせるのでありますが、世の中は自分に都合の悪い存在者が一ぱい居るといって好いほどです。その者達をいちいち憎んでいては、第一自分の気持ちが苦しくてやり切れないでしょう。一歩利己的感情から退いて理解の上に停って見たらどうでしょう。よしんば自分の立場から見て都合の悪い存在者でも、その者にはまたその者の立場があり理由があって生存していることが判るでしょう。
といっても利己主義や、憎みはやはり人情の本能ですから、なかなか全部たちどころに捨て切れるものではありません。憎みは憎みとして胸に持ちつつ、少しでも理解の掌でその胸を撫でながらとにかく自分の立場を保って行くことです。すると、ただの憎みの結果とはよほど違う余裕をもってその対象者にも好感を与え、それがやがて、自分の立場を保つ立派な砦となるかも知れない。ただの憎みは獣の憎みです。相手に牙を剥かせるばかりです。却ってますます身を危地におとしいれるだけです。
この憎みにもまた変態があります。たとえば、手におえないやくざ息子などあります。母親はそのやくざに欺され欺されして常にむだ使いのお金などねだり取られます。それにも拘らず、孝行な他の賢い子より、そのやくざで嘘つきな息子の方が可愛ゆくて憎もうとしても憎めない。
これは仏教でいう「人間の無明」といって心のなかに無智な感情がある。そこへ巣喰う一種の盲愛があり、それがために自分を欺く憎むべき者をも憎み得ない。いわばその「憎めない」は盲愛の変形でありますから、愛についての検討の部に属するものですが、しかし、普通の憎みの感情に対して変態的なもの、つまり憎み能わない憎みとでも強しいていえばいえましょう。変態人情のおもしろみの立場から見れば、一がいに悪いことともいえませんが、それでは母も子もほろびてしまう。滅びても変態人情の美に殉ぜよという強いての好みを持つならばとにかく、人生の本道を歩もうとすれば、「無明」を憎む憎しみは、やはり生かさなければなりません。
(仏教では『愛』は貪瞋痴のうちの貪に入れられ、「貪愛」とされ迷いとされます。それは他者との差別感にもとずくものだからでしょう。そうはいっても若い時はこの「愛」にひかれて結婚もするし、子育てもするわけです。これを迷いといわれてもなかなか納得できません。一方他者全てを愛するのは「慈悲」といいます。この愛をさらに広げて慈悲にまで高めるというのが仏教徒の務めでもあるのかもしれません。
親鸞聖人は正信偈で「摂取せっしゅの心光しんこう、常に照しょう護ごしたまう。すでによく無む明みょうの闇あんを破はすといえども、貧愛とんない・瞋憎しんぞうの雲霧うんむ、常に真実信心しんじんの天に覆おおえり。たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」
(阿弥陀如来の救いの光に照されて「無明」の闇は、すでに破られている。ところが「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のようにわき立ち、私どもの心に立ち込めて、「真実信心」を覆い隠してしまっている。 しかしこれは日光が雲に覆われても本当は雲の下は明るく照らされているようなもので阿弥陀様の救いは遮られることがない。)といっておられます。愛憎に責め苛まれてもちゃんと御仏は救ってくださっているぞとのお言葉です。)