覚海法橋法語
(覺海は1142~1232(以下密教大辞典等に依ります。)
高野山華王院の学僧。和泉守雅隆の子。高野山大乗院寛秀の室に入り事教を究め、醍醐山定海座主に随い傳法灌頂を受け、随心院親厳・石山寺朗澄に重ねて受法。後高野山に還り草庵を結び名けて華王院とす。時の俊傑寶性院法性、正智院道範、心南院尚祚、十輪院眞弁等その門下に集まる。高野山検校をつとめ、承久二年職を辞して華王院に退居。下品の悉地を欣求。貞応二年八月十七日大日の秘印を結びて入寂。世寿八十二。仏法の護持のため天狗(狗名:横川覚海坊)になり、中門の扉を翼にして天に飛び去ったという伝説も高野山内に残っている。この伝説を基に、谷崎潤一郎が『覚海上人天狗になる事』という短編を執筆。)
覚海法の物語に云く、真言教の習ひ、普通の人情に同不同の二義あり。この教意にて、真実に無情菩提を願ふとは、すべて何れの処に生まれて何れの身とならむと思わず、自心を常に清めて随身転色の即事而真の観をなすべきなり(どういう境涯に生まれても即事而真として心を清めよ・・即事而真とは「事に即して而も真なり」と読み、現実の一つ一つにこそ真理がある、との意)。所期の浄土とは須弥山の九山八海を密厳道場とするなり。色相の仏身に於いては、十界悉く曼荼の聖衆なり。(希望する浄土というのは、須弥山世界である。即ち、現実の、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏、すべての人々が曼荼羅の中の諸仏なのである)。覚(覚海)が身なりとも仏身にあらざるべきにあらず。心を改むるを仏と云ふことなれば、五大成身観 熟しなば即ち曼荼の聖衆とこそいほうずれ(即身成仏に到る五つの観法が熟したならば、曼荼羅の中の佛であるといえよう)相続の依身によって九界と佛界と分別することは、流転生死の間なり。生界と佛界と格別の思は別執の甚だしき也。(現実の、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の身と仏の身を分離する考えは、流転して迷っている間の考えである。衆生界と仏界を分けるのは執着心の甚だしいものである。)現覚の諸法本初不生なるときに、草室の棟柱に至る迄これ法界宮殿の材木なり。須弥山九山八海等に於いて、華厳世界を観ずるといふは、この世界において即事而真の法界道場を建立する故也(華厳でいう、時間も空間もそれぞれが相互に無限に入り組んでいるという世界観をもつということは、現実の一つ一つが真理であるという法界道場観を作り上げることである)。真実には我が居りたる房舎を密厳浄土と観じて、自身の左右前後に四智四行を布列し、乃至九会十三大会法界胎蔵界の曼荼羅の上に、金剛界三十七尊塵刹聖衆、各々に自證の月輪に坐したまふと思ふべきなり。(真実には自分がいる家を密厳浄土と観じて、自分の周りに居る人々を胎蔵曼荼羅の十三の各院の佛と思い、金剛界曼荼羅の三十七尊が月輪の上に入らっしゃると思え)。因位のときに起こす所の心・心所は観法坐禅の間に、金剛界の中に入って心王大日の各々智印三昧と顕るるなり。(修行時におこす心や心の対象は観法や坐禅をしているときに、金剛界の中にはいって大日如来の悟り・印となるのである。)実我固執の心を改めて、依他縁生の法に於いて、実相常住の思ひを為すべきなり。世の中に後世を欣ふ人々幾ばかりそ。併しながら執心いまだ蕩けざる故に、都率極楽において、難易の不同を論じ、密厳華蔵においては思いを絶ちて望む人は一人も無きなり。自宗の真言教を習ふ人もただ事相真言の人は常見也。教相を立てる人は空見なり。近代のありさま、事相教相一体無二と思い定むる人やなからむ。
私に聞いて云はく、「御身などは何れの佛、何れの浄土をか期し思食候や。御心とけて真実に思食被れそうろう覧こと、ありのままに仰せ給へ」と云ふ。誠に流転生死の串執蕩けがたく、覚分晴れやらぬ歎き、愚意無間にこのことを思い候。かやうに法門の深義御身の自證をたずねて承はり候事は、度世名利前途後栄の為に非ず。唯無上菩提の為なり。小僧(筆者覚海上人のこと)若し言葉いつはり候ならば、大師・明神の御罰を蒙り候はん。無始より己來、自他の別執重き故に生界仏界を隔て候なり(無始以来、自他を峻別してきたために衆生界と仏界が隔てられている。)設ひ、阿僧祇劫を経るともこの心は蕩けがたく候なり。南(覚海)云く、「まことに出離得脱の道、常に心に懸けて、たびたび此の如くに云はる、哀れにこそ覚ゆれ。設ひ心を明めずといえども、然のごとく思ふは即ち併しながら善心なり。その心許りにても三悪道(地獄・餓鬼・畜生)ははなれなむ。その上、宗義の大旨をば、意得されたり。誰も未證の凡夫なれば、さやうの心のおこるをこそは相憑む事にてあれ。但だ諸法の縁起縁滅を倩々せいぜい案ずるに、真実にあながちに都率極楽をも執せず、また密厳・華蔵においても、偏執あるべからず。しずかに思ふ時には、何に生まれて何にならむとも思わず、心だにも浄めつるならば、龍・夜叉等の身となりたりとも苦しからず。内證かしこき雑類の棲む所は、我等が住所には似ず。彼はみな浄土にてあるなり。人体は吉し、雑類・異形は悪しと偏執するは,悟り無き故なり。相続の依身はいかなりとも苦しからず。臨終に如何なる印を結ぶとも思わず。思ふやうに四威儀(行・住・坐・臥)に住すべし。動作いずれか三昧にあらざらん。念念声声は悉地の観念真言なり。實に心に妄念あらばこそ、この念を止めてとこそ観ずべけれども、思わず。況や身・口の二業をや。又此の如し。但だ行者の用心は常に出入りの息に阿字を唱え、心に縁生実相の観念をなすべきなり。臨終なんど強ちに人に知られず、善智識をも用ふべからず。自他の意格別なれば同じ観念すれども、さすがに我意に同ぜず。我意に同ぜざる人はなかなか無きはよきなり。意だにも静かになりなば、心を以て善智識と為すべきなり。五智坊なんどの臨終に、人にも知られず、正念に住して入滅せられたるは哀れに貴くこそ覚ゆれ。彼の人は争ひなく密厳浄土をねがはれし人なり。すべての人の問には何れの佛ともあからさまにはいわれざるなり。私に曰く、止むこと無くんば、人々はすべて十界において執心なく、さすがに相続の依身、無量にして、或は人中・天上、或は都率・極楽・鬼・畜・修羅等の果報を受くることは、何によって受くると心得え候や。南云く、十界において執心なきゆえに、九界の間遊びあるくほどに、念念の改変によって依身を受くるなり。さやうになりぬれば十界住不住自在なり。偏執着心によって九界雑類の身なんど感じたるもの、此の業力所感の故に、業の尽不尽によって、生を改めて、所生の処に憶持不忘の人の為には、人中・天上即浄土なり。密号名字を知れば、鬼畜修羅の棲も密厳浄土なり。ふたり枕を並べてねたるに、一人は悪夢をみ、一人は善夢を見るが如く、同行同法として一師に同じ法文を習へども、心に随ってその益不同なり。六欲天は楽に着いて諸天に仏法なけれども、都率には一生補処の菩薩の浄土あり。娑婆世界は五濁の境なれども西方浄土あるなり。心浄ければ即ち佛法土と云ふ、これなり。凡心を転ぜば、業縛の依身即ち所依住の正報の浄土なり。その住所もまたこの如し。三阿僧祇の間は、此の理を知らんがために修行して時節を送るなり。
南山第三十七世執行検校法橋上人位覚海傳 金剛峰寺沙門 維寶 編輯
「師諱は覚海、南勝と号す。但馬の国朝来郡の人なり。氏族未詳。夙に祝髪して内外の典籍を習ひ、晨夕に勤めて瑜伽の妙極を究む。ついに建の屋の興光寺の學頭となる。恭しく大師の旧跡を慕ひ、紀陽高野山に樊さいして勝地を求めて、草庵を構す。明師を選びて事業を受け、二転の妙果(菩提と涅槃)を期す。故に院に開敷華王の称号あり。生を北陸に受け、南山において励行す。故に自ら南方寶部南勝の名字を呼ぶ。南渓・南勝はみなこれ大悲萬行勤修寶部の内證と為す也。碩に大師深密の教義を学び、ひろく釈尊闡演(せんえん・・ひらくこと)の幽頤(ゆうい・・微妙な教え)を曉る(さとる)。三部五部(三部は胎蔵界の佛部・蓮華部・金剛部のこと。五部は、金剛界の佛部・宝部・金剛部・蓮華部・羯磨部のこと)の法水、心臓に淘湧し、五臓八臓の教風、器界に飄颻(ひょうよう・・つむじかぜ)す。大楽院寛秀法印の室に入って、受職灌頂の印璽を蒙り、瑜伽の奥義に徹し、常に最上無上の微密を談ず。闔山の浄侶を導引して四蔓(宇宙の森羅万象たる大・三・法・羯の曼荼羅)の覚蘂(かくずい・・覚心)を賁り(かざり)、普天の信人を誘提して三密の果実を授く。深慈亭毒(ていどく・・そだてやしなう)鄙少を漏らすことあるに非ず。宏悲憐愍ひとしく貴老に及ぶ。宝性の法性、正智の道範(いずれも人の名)、その徳澤を受け、心南の尚祥、十輪の真弁(いずれも人の名)、彼の余光を挑く。しかるに法性等の四豪傑、同じく流れを一源に汲み、ともに心を三密にあそばしむ。覚海の金波を分って醍醐の法味を嘗む。しかるに四傑の所伝、同一なるあるに非ざるに似たる所以んはなんぞや。曰く、法性の如きは唯、海師の深義を用ひ、真弁はすなわち浅略の義を編み、道範及び尚祥は深浅両義あわせて述ふ。弁深を傳へざるに非ざるなり。性なんぞ浅をもらさんや。範等の四豪、各々海師の瓶水を汲みて、全く各自の諸器に潟ぐなり。四資ともに密象の全体を伝えたり。だれか箕帚(きそう・・みの、ほうき)の異執を謂んや。ついに我が朝順徳院建保五年丁丑にあたって、執行検校法橋上人の位に擢らる(抜擢された)。六年戊寅、高野と吉野相論あって、春正月吉野山天台春賢僧正、領地の郷民を引率して高野山所領花園の荘内大滝の郷に於いて、牓爾(ぼうじ・・ふだ)を標し、吉野領といふ高札を設く。ならびに御廟の橋下においても、吉野領と標榜す。而しより精進結界の霊場を以て殺生汚穢の猟地となす。幾ばかりの狼藉不道、枚挙にいとまあらず。ついに乃ち院奏を経て厳重の起請文を捧げて、非理の事業を制禁すといえども、成敗決断の糾明無きによって、一山の大衆憤懣して曰く、「夫れ当山は三鈷點着の霊蹟、日域無双の禅窟なり。常恒に一天の静慮君臣の豊穣を祝祷するといえども、理非分別分明の賞罰無き,則ち、僧侶の機縁既に尽くるか。法滅の時候すでに至れるか。國界運傾くか。天魔便りを得るかと衆議評決して大小の仏事を廃絶し、離山逐電を催す。承久元年己卯八月五日、大衆蜂起して一味の神水を飲み、丹生高野両大明神に誓って,曰く、三千衆徒の臆念を合糅して速疾に怨敵を退散し、再び仏法を興隆せん。すなわち許多の鉄釘を以て、室扉を緘閇(かんぺい・・とざす)し、大塔の庭上に僉議して、愁涙袍袖を沾す。即日まさに山門を出で去らんとなり。ここにおいて検校法橋(覚海)、忽ちに大悲伝法のまさに絶滅せんとして曰く、「老法師は年来大師密法の擁護助扶の者なり。齢すでに九旬に垂んとす。命終最も近し。一日今離山を引て我閻魔の庁に至って、我が辞によって大師の仏法寿命一日延存するなり。これをもって一善を証せんとなり。(自分が閻魔の庁におもむいて一日の高野山の延命をおねがいしてくる)」ここによって引いて両日を延べおわりぬ(この覚海のことばで高野山の大衆の離山を2日延期した)。八日辰の刻奥の院の廟扉を閉塞し、巳の上刻、大衆一同に山門を出で去る。同二十三日備前の僧都長海正別当を以て使者として請によって院宣くだされおわんぬ。之によって同二十七日、老輩少々還り住す。大衆漸漸帰山の志を発す。是れ乃ち海検校の大善巧方便力による。非法張本の春賢僧正は同十二月俄かに夭滅す。乃至月卿雲客も正理を抑止して、吉野の非義を揚褒する。数輩はすべて三地両所の冥罰を蒙る。野山記にみえたり。有る時師みずから誓ひて懇祷していわく「吾既に産を鄙北に受け、遮那法を南山に習ふ。現に今山頭にあって務職に任ず。奇縁思うべからず、測るべからず。唯願わくは三世の勃駄(仏陀)、十方の索多(薩埵)、およびわが大師、吾にわが前世を示したまへ。如何が、此の如くの得難き人身を得、遇ひがたき密法に逢うことを得るや。冒地(悟り)の得難きには非ず、この教えに逢うことの易からざるなり」と。一心に精誠を抽て、五体を地に擲ち、目に血涙を流し、身の所在を忘る。誠を盡して命根の絶えなんとするにいたる。ときに大師欻爾(たちまち)に真形を現わす。和柔類まれに容顔霊威あり、和雅の梵音を挙げて幽声耳に徹す。「汝、はじめは是、摂州の南海に産し、形を小蛤に現わす。波にただよひ、砂石に交糅して流回幾千載ぞ。たまたま唄音風に順って碧波に入る。蛤聞熏の力によって海浪激揚して自ら天王寺西の浜畔に著く。童僕あり、戯れ抛ちて天王寺金堂の前の床に提げ置く。誦経読誦の声を聞くによって第二生に牛身を受く。重きを負うて遠きに到る。牧童鞭をくわえ蚊蚋(ぶんぜい・・か・ぶよ)肉を噛む。余縁なお朽ちず。一日大乗般若を書する料紙を荷負す。故に生を転じて第三生に赤馬の身を受く。順縁熏発して幸いに信輩、熊野に詣する所乗となる。更に生を転じて第四生に柴燈を燃やすの人身と成ることを得て常に火の光を以て道路を照らす故に智度の浄行漸漸に熏増して第五生に吾が廟前密供修法の給仕者となることを得たり。晨天には閼伽を汲み運び、昏には浄花を採り摘み、香を抹して熏煙を凝らし、飯を炊いて滋味を調ふ。耳には常に三密の理趣を聞き、目にはみずから五観の妙相を見る。是の如きの冥熏加持の力用によって現に今、第六生に法門の棟梁南山検校の鴻職を感受す。第七生には必ず秘密の法を護るの威猛の依身を受けん。身体羽翼を生じて飛行自在なり。修鼻突出して彎笋(わんじゅん・・曲がった筍)の如く、遍身赤黒にして毛髪銅針に類す。是乃ち我が末弟驕慢放逸にして酒食に耽り、仏法王法を軽んじて他の財宝を貪り、汚穢不浄の身を以て、伽藍に渉登し、高歌狂乱信者の機嫌を毀ふ。引いては吾密法を壊し、猥りに狂族を夥すなり。此の如くの異容にあらずんば則いかでか治罰賞正の誘進を為さんや。魔佛一如、生佛不二、修羅即遮那なり。汝常に是れ憶念するところなり」。言おわって麗麗たる遺韻山谷に伝わり、馥郁たる異香野外に薫ず。感涙肝に銘じ、身心忙昧たり。故に世人称して「南山の碩学、七生を悟れる人」といふ。貞応二年八月十七日、毘盧の印を結んで、滅を唱ふ。春秋八十二、境内の池辺に葬る。廟塔を構へ、奠賽を設く。或は云う、遍照岡の傍らに葬ると。現に今、崇祠あって廟窟と号す。後人毎月十七日、燈燭を掲げて、如在の祭祀を厳かにす。霊威往々に懲賞を示すなり。
賛に曰く、律に、仏、蛤の縁を説きたまふ。池中を出でて草根に依託して仏の説法を聞く。牧童誤って杖をもって之を殺す。聞法の縁をもって忉利天に生ず。遂に初果を得たりと。海師の前縁、頗る類することあり。畏をあらわし、法を護り、猛をもって凶を罰す。菅相の火雷、愛宕の神魂、琳賢の目精、維範の修蛇、神農の牛頭、周公の断菑だんし、大聖大賢形貌をもって見るべからず。火を吐き、風を起こし、雨を灑そそぎ、水に激す、却って止めて能く静かにす。空を凌ぎ、地を透る、自ら魔界に入って悪波旬を拒き、災を攘ひ、福を迎ふ。但し國建の屋の輿光の旧址、土俗郷民寸も耕すことを許さず。遍照が岡崗、枯枝落葉毫釐もこれを採れば、則ち厳祟を施す。その威その霊、信ずべし怖るべし。その悉地を成すること上か中か下か、すべて即身の佛なり。嗚呼奇なるかな。遊戯三昧。
右覚海傳、本書は高野山花王院にあり。余借覧し、寫し得おわんぬ。
明治三十一年三月八日 長谷宝秀
(覺海は1142~1232(以下密教大辞典等に依ります。)
高野山華王院の学僧。和泉守雅隆の子。高野山大乗院寛秀の室に入り事教を究め、醍醐山定海座主に随い傳法灌頂を受け、随心院親厳・石山寺朗澄に重ねて受法。後高野山に還り草庵を結び名けて華王院とす。時の俊傑寶性院法性、正智院道範、心南院尚祚、十輪院眞弁等その門下に集まる。高野山検校をつとめ、承久二年職を辞して華王院に退居。下品の悉地を欣求。貞応二年八月十七日大日の秘印を結びて入寂。世寿八十二。仏法の護持のため天狗(狗名:横川覚海坊)になり、中門の扉を翼にして天に飛び去ったという伝説も高野山内に残っている。この伝説を基に、谷崎潤一郎が『覚海上人天狗になる事』という短編を執筆。)
覚海法の物語に云く、真言教の習ひ、普通の人情に同不同の二義あり。この教意にて、真実に無情菩提を願ふとは、すべて何れの処に生まれて何れの身とならむと思わず、自心を常に清めて随身転色の即事而真の観をなすべきなり(どういう境涯に生まれても即事而真として心を清めよ・・即事而真とは「事に即して而も真なり」と読み、現実の一つ一つにこそ真理がある、との意)。所期の浄土とは須弥山の九山八海を密厳道場とするなり。色相の仏身に於いては、十界悉く曼荼の聖衆なり。(希望する浄土というのは、須弥山世界である。即ち、現実の、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏、すべての人々が曼荼羅の中の諸仏なのである)。覚(覚海)が身なりとも仏身にあらざるべきにあらず。心を改むるを仏と云ふことなれば、五大成身観 熟しなば即ち曼荼の聖衆とこそいほうずれ(即身成仏に到る五つの観法が熟したならば、曼荼羅の中の佛であるといえよう)相続の依身によって九界と佛界と分別することは、流転生死の間なり。生界と佛界と格別の思は別執の甚だしき也。(現実の、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の身と仏の身を分離する考えは、流転して迷っている間の考えである。衆生界と仏界を分けるのは執着心の甚だしいものである。)現覚の諸法本初不生なるときに、草室の棟柱に至る迄これ法界宮殿の材木なり。須弥山九山八海等に於いて、華厳世界を観ずるといふは、この世界において即事而真の法界道場を建立する故也(華厳でいう、時間も空間もそれぞれが相互に無限に入り組んでいるという世界観をもつということは、現実の一つ一つが真理であるという法界道場観を作り上げることである)。真実には我が居りたる房舎を密厳浄土と観じて、自身の左右前後に四智四行を布列し、乃至九会十三大会法界胎蔵界の曼荼羅の上に、金剛界三十七尊塵刹聖衆、各々に自證の月輪に坐したまふと思ふべきなり。(真実には自分がいる家を密厳浄土と観じて、自分の周りに居る人々を胎蔵曼荼羅の十三の各院の佛と思い、金剛界曼荼羅の三十七尊が月輪の上に入らっしゃると思え)。因位のときに起こす所の心・心所は観法坐禅の間に、金剛界の中に入って心王大日の各々智印三昧と顕るるなり。(修行時におこす心や心の対象は観法や坐禅をしているときに、金剛界の中にはいって大日如来の悟り・印となるのである。)実我固執の心を改めて、依他縁生の法に於いて、実相常住の思ひを為すべきなり。世の中に後世を欣ふ人々幾ばかりそ。併しながら執心いまだ蕩けざる故に、都率極楽において、難易の不同を論じ、密厳華蔵においては思いを絶ちて望む人は一人も無きなり。自宗の真言教を習ふ人もただ事相真言の人は常見也。教相を立てる人は空見なり。近代のありさま、事相教相一体無二と思い定むる人やなからむ。
私に聞いて云はく、「御身などは何れの佛、何れの浄土をか期し思食候や。御心とけて真実に思食被れそうろう覧こと、ありのままに仰せ給へ」と云ふ。誠に流転生死の串執蕩けがたく、覚分晴れやらぬ歎き、愚意無間にこのことを思い候。かやうに法門の深義御身の自證をたずねて承はり候事は、度世名利前途後栄の為に非ず。唯無上菩提の為なり。小僧(筆者覚海上人のこと)若し言葉いつはり候ならば、大師・明神の御罰を蒙り候はん。無始より己來、自他の別執重き故に生界仏界を隔て候なり(無始以来、自他を峻別してきたために衆生界と仏界が隔てられている。)設ひ、阿僧祇劫を経るともこの心は蕩けがたく候なり。南(覚海)云く、「まことに出離得脱の道、常に心に懸けて、たびたび此の如くに云はる、哀れにこそ覚ゆれ。設ひ心を明めずといえども、然のごとく思ふは即ち併しながら善心なり。その心許りにても三悪道(地獄・餓鬼・畜生)ははなれなむ。その上、宗義の大旨をば、意得されたり。誰も未證の凡夫なれば、さやうの心のおこるをこそは相憑む事にてあれ。但だ諸法の縁起縁滅を倩々せいぜい案ずるに、真実にあながちに都率極楽をも執せず、また密厳・華蔵においても、偏執あるべからず。しずかに思ふ時には、何に生まれて何にならむとも思わず、心だにも浄めつるならば、龍・夜叉等の身となりたりとも苦しからず。内證かしこき雑類の棲む所は、我等が住所には似ず。彼はみな浄土にてあるなり。人体は吉し、雑類・異形は悪しと偏執するは,悟り無き故なり。相続の依身はいかなりとも苦しからず。臨終に如何なる印を結ぶとも思わず。思ふやうに四威儀(行・住・坐・臥)に住すべし。動作いずれか三昧にあらざらん。念念声声は悉地の観念真言なり。實に心に妄念あらばこそ、この念を止めてとこそ観ずべけれども、思わず。況や身・口の二業をや。又此の如し。但だ行者の用心は常に出入りの息に阿字を唱え、心に縁生実相の観念をなすべきなり。臨終なんど強ちに人に知られず、善智識をも用ふべからず。自他の意格別なれば同じ観念すれども、さすがに我意に同ぜず。我意に同ぜざる人はなかなか無きはよきなり。意だにも静かになりなば、心を以て善智識と為すべきなり。五智坊なんどの臨終に、人にも知られず、正念に住して入滅せられたるは哀れに貴くこそ覚ゆれ。彼の人は争ひなく密厳浄土をねがはれし人なり。すべての人の問には何れの佛ともあからさまにはいわれざるなり。私に曰く、止むこと無くんば、人々はすべて十界において執心なく、さすがに相続の依身、無量にして、或は人中・天上、或は都率・極楽・鬼・畜・修羅等の果報を受くることは、何によって受くると心得え候や。南云く、十界において執心なきゆえに、九界の間遊びあるくほどに、念念の改変によって依身を受くるなり。さやうになりぬれば十界住不住自在なり。偏執着心によって九界雑類の身なんど感じたるもの、此の業力所感の故に、業の尽不尽によって、生を改めて、所生の処に憶持不忘の人の為には、人中・天上即浄土なり。密号名字を知れば、鬼畜修羅の棲も密厳浄土なり。ふたり枕を並べてねたるに、一人は悪夢をみ、一人は善夢を見るが如く、同行同法として一師に同じ法文を習へども、心に随ってその益不同なり。六欲天は楽に着いて諸天に仏法なけれども、都率には一生補処の菩薩の浄土あり。娑婆世界は五濁の境なれども西方浄土あるなり。心浄ければ即ち佛法土と云ふ、これなり。凡心を転ぜば、業縛の依身即ち所依住の正報の浄土なり。その住所もまたこの如し。三阿僧祇の間は、此の理を知らんがために修行して時節を送るなり。
南山第三十七世執行検校法橋上人位覚海傳 金剛峰寺沙門 維寶 編輯
「師諱は覚海、南勝と号す。但馬の国朝来郡の人なり。氏族未詳。夙に祝髪して内外の典籍を習ひ、晨夕に勤めて瑜伽の妙極を究む。ついに建の屋の興光寺の學頭となる。恭しく大師の旧跡を慕ひ、紀陽高野山に樊さいして勝地を求めて、草庵を構す。明師を選びて事業を受け、二転の妙果(菩提と涅槃)を期す。故に院に開敷華王の称号あり。生を北陸に受け、南山において励行す。故に自ら南方寶部南勝の名字を呼ぶ。南渓・南勝はみなこれ大悲萬行勤修寶部の内證と為す也。碩に大師深密の教義を学び、ひろく釈尊闡演(せんえん・・ひらくこと)の幽頤(ゆうい・・微妙な教え)を曉る(さとる)。三部五部(三部は胎蔵界の佛部・蓮華部・金剛部のこと。五部は、金剛界の佛部・宝部・金剛部・蓮華部・羯磨部のこと)の法水、心臓に淘湧し、五臓八臓の教風、器界に飄颻(ひょうよう・・つむじかぜ)す。大楽院寛秀法印の室に入って、受職灌頂の印璽を蒙り、瑜伽の奥義に徹し、常に最上無上の微密を談ず。闔山の浄侶を導引して四蔓(宇宙の森羅万象たる大・三・法・羯の曼荼羅)の覚蘂(かくずい・・覚心)を賁り(かざり)、普天の信人を誘提して三密の果実を授く。深慈亭毒(ていどく・・そだてやしなう)鄙少を漏らすことあるに非ず。宏悲憐愍ひとしく貴老に及ぶ。宝性の法性、正智の道範(いずれも人の名)、その徳澤を受け、心南の尚祥、十輪の真弁(いずれも人の名)、彼の余光を挑く。しかるに法性等の四豪傑、同じく流れを一源に汲み、ともに心を三密にあそばしむ。覚海の金波を分って醍醐の法味を嘗む。しかるに四傑の所伝、同一なるあるに非ざるに似たる所以んはなんぞや。曰く、法性の如きは唯、海師の深義を用ひ、真弁はすなわち浅略の義を編み、道範及び尚祥は深浅両義あわせて述ふ。弁深を傳へざるに非ざるなり。性なんぞ浅をもらさんや。範等の四豪、各々海師の瓶水を汲みて、全く各自の諸器に潟ぐなり。四資ともに密象の全体を伝えたり。だれか箕帚(きそう・・みの、ほうき)の異執を謂んや。ついに我が朝順徳院建保五年丁丑にあたって、執行検校法橋上人の位に擢らる(抜擢された)。六年戊寅、高野と吉野相論あって、春正月吉野山天台春賢僧正、領地の郷民を引率して高野山所領花園の荘内大滝の郷に於いて、牓爾(ぼうじ・・ふだ)を標し、吉野領といふ高札を設く。ならびに御廟の橋下においても、吉野領と標榜す。而しより精進結界の霊場を以て殺生汚穢の猟地となす。幾ばかりの狼藉不道、枚挙にいとまあらず。ついに乃ち院奏を経て厳重の起請文を捧げて、非理の事業を制禁すといえども、成敗決断の糾明無きによって、一山の大衆憤懣して曰く、「夫れ当山は三鈷點着の霊蹟、日域無双の禅窟なり。常恒に一天の静慮君臣の豊穣を祝祷するといえども、理非分別分明の賞罰無き,則ち、僧侶の機縁既に尽くるか。法滅の時候すでに至れるか。國界運傾くか。天魔便りを得るかと衆議評決して大小の仏事を廃絶し、離山逐電を催す。承久元年己卯八月五日、大衆蜂起して一味の神水を飲み、丹生高野両大明神に誓って,曰く、三千衆徒の臆念を合糅して速疾に怨敵を退散し、再び仏法を興隆せん。すなわち許多の鉄釘を以て、室扉を緘閇(かんぺい・・とざす)し、大塔の庭上に僉議して、愁涙袍袖を沾す。即日まさに山門を出で去らんとなり。ここにおいて検校法橋(覚海)、忽ちに大悲伝法のまさに絶滅せんとして曰く、「老法師は年来大師密法の擁護助扶の者なり。齢すでに九旬に垂んとす。命終最も近し。一日今離山を引て我閻魔の庁に至って、我が辞によって大師の仏法寿命一日延存するなり。これをもって一善を証せんとなり。(自分が閻魔の庁におもむいて一日の高野山の延命をおねがいしてくる)」ここによって引いて両日を延べおわりぬ(この覚海のことばで高野山の大衆の離山を2日延期した)。八日辰の刻奥の院の廟扉を閉塞し、巳の上刻、大衆一同に山門を出で去る。同二十三日備前の僧都長海正別当を以て使者として請によって院宣くだされおわんぬ。之によって同二十七日、老輩少々還り住す。大衆漸漸帰山の志を発す。是れ乃ち海検校の大善巧方便力による。非法張本の春賢僧正は同十二月俄かに夭滅す。乃至月卿雲客も正理を抑止して、吉野の非義を揚褒する。数輩はすべて三地両所の冥罰を蒙る。野山記にみえたり。有る時師みずから誓ひて懇祷していわく「吾既に産を鄙北に受け、遮那法を南山に習ふ。現に今山頭にあって務職に任ず。奇縁思うべからず、測るべからず。唯願わくは三世の勃駄(仏陀)、十方の索多(薩埵)、およびわが大師、吾にわが前世を示したまへ。如何が、此の如くの得難き人身を得、遇ひがたき密法に逢うことを得るや。冒地(悟り)の得難きには非ず、この教えに逢うことの易からざるなり」と。一心に精誠を抽て、五体を地に擲ち、目に血涙を流し、身の所在を忘る。誠を盡して命根の絶えなんとするにいたる。ときに大師欻爾(たちまち)に真形を現わす。和柔類まれに容顔霊威あり、和雅の梵音を挙げて幽声耳に徹す。「汝、はじめは是、摂州の南海に産し、形を小蛤に現わす。波にただよひ、砂石に交糅して流回幾千載ぞ。たまたま唄音風に順って碧波に入る。蛤聞熏の力によって海浪激揚して自ら天王寺西の浜畔に著く。童僕あり、戯れ抛ちて天王寺金堂の前の床に提げ置く。誦経読誦の声を聞くによって第二生に牛身を受く。重きを負うて遠きに到る。牧童鞭をくわえ蚊蚋(ぶんぜい・・か・ぶよ)肉を噛む。余縁なお朽ちず。一日大乗般若を書する料紙を荷負す。故に生を転じて第三生に赤馬の身を受く。順縁熏発して幸いに信輩、熊野に詣する所乗となる。更に生を転じて第四生に柴燈を燃やすの人身と成ることを得て常に火の光を以て道路を照らす故に智度の浄行漸漸に熏増して第五生に吾が廟前密供修法の給仕者となることを得たり。晨天には閼伽を汲み運び、昏には浄花を採り摘み、香を抹して熏煙を凝らし、飯を炊いて滋味を調ふ。耳には常に三密の理趣を聞き、目にはみずから五観の妙相を見る。是の如きの冥熏加持の力用によって現に今、第六生に法門の棟梁南山検校の鴻職を感受す。第七生には必ず秘密の法を護るの威猛の依身を受けん。身体羽翼を生じて飛行自在なり。修鼻突出して彎笋(わんじゅん・・曲がった筍)の如く、遍身赤黒にして毛髪銅針に類す。是乃ち我が末弟驕慢放逸にして酒食に耽り、仏法王法を軽んじて他の財宝を貪り、汚穢不浄の身を以て、伽藍に渉登し、高歌狂乱信者の機嫌を毀ふ。引いては吾密法を壊し、猥りに狂族を夥すなり。此の如くの異容にあらずんば則いかでか治罰賞正の誘進を為さんや。魔佛一如、生佛不二、修羅即遮那なり。汝常に是れ憶念するところなり」。言おわって麗麗たる遺韻山谷に伝わり、馥郁たる異香野外に薫ず。感涙肝に銘じ、身心忙昧たり。故に世人称して「南山の碩学、七生を悟れる人」といふ。貞応二年八月十七日、毘盧の印を結んで、滅を唱ふ。春秋八十二、境内の池辺に葬る。廟塔を構へ、奠賽を設く。或は云う、遍照岡の傍らに葬ると。現に今、崇祠あって廟窟と号す。後人毎月十七日、燈燭を掲げて、如在の祭祀を厳かにす。霊威往々に懲賞を示すなり。
賛に曰く、律に、仏、蛤の縁を説きたまふ。池中を出でて草根に依託して仏の説法を聞く。牧童誤って杖をもって之を殺す。聞法の縁をもって忉利天に生ず。遂に初果を得たりと。海師の前縁、頗る類することあり。畏をあらわし、法を護り、猛をもって凶を罰す。菅相の火雷、愛宕の神魂、琳賢の目精、維範の修蛇、神農の牛頭、周公の断菑だんし、大聖大賢形貌をもって見るべからず。火を吐き、風を起こし、雨を灑そそぎ、水に激す、却って止めて能く静かにす。空を凌ぎ、地を透る、自ら魔界に入って悪波旬を拒き、災を攘ひ、福を迎ふ。但し國建の屋の輿光の旧址、土俗郷民寸も耕すことを許さず。遍照が岡崗、枯枝落葉毫釐もこれを採れば、則ち厳祟を施す。その威その霊、信ずべし怖るべし。その悉地を成すること上か中か下か、すべて即身の佛なり。嗚呼奇なるかな。遊戯三昧。
右覚海傳、本書は高野山花王院にあり。余借覧し、寫し得おわんぬ。
明治三十一年三月八日 長谷宝秀