福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真理は一つであるのになぜ無量の諸法を説くのか?

2019-07-04 | 諸経
Q「仏の覚っておられる真理は、ただ一つであるのに、どういうわけで仏は、無量の諸法を説かれるのか?」
A「それは大地は一つであるのによく異なった種々の芽を出さしめるようなものである。衆生が自己の因縁により様々に捉えているに過ぎない。」

以下、華厳経・明難品・第4段落「説法甚深」の項の和訳と原文。

 文殊菩薩は、徳首菩薩に問うていはく、
「仏子よ、仏のさとっておられる真理は、ただ一つであるのに、どういうわけで仏は、無量の諸法を説き、
無量の世界の音声を満たし、無量の身をあらわし、無量の衆生の心を了知し、無量の神通をしめし、無量無辺の世界を示現し、無量のすぐれた荘厳を示現し、無量の種々の境界を示現したまふのか?
しかも法性のなかに、このような差別を求めても不可得である。」
 そのとき、徳首菩薩はつぎのように答える。
「仏子よ、よくぞ甚深微妙の法を尋ねた。智慧ある人が、もしこれを知ったなら、つねに喜んで仏の功徳をもとめるであろう。
 それはあたかも、大地の性は一つであるがよく万物を載せて一・異をわかたぬようなもので、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、火の性は一つであっても、一切のものを焼きつくし、火自身にはなんの分別もないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、大海には、無数の川の水が流れ入っているが、その味にはかわりがないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、風の性は一つであって、一切のものを吹き払うが、風そのものには異なることがないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
あたかも龍が雷鳴を轟かし一切の地に雨降らすが雨滴に差別は無いように諸法もまたそれと同じ。
大地は一つであるがよく種々の芽を出さしめ地の性に別異がないように諸法もまたそれと同じ。妙法蓮華経第五薬草喩品に、仏の説法は一つで雨が平等に潤す如くであるが、草木は繁り方が異なる様に衆生も様々に受け取る。三草とは小草(人・天乗)中草(声聞・縁覚乗)大草と二木は菩薩乗に対応。」
また、太陽はあまねく十方を照らしながら、その光に差別はないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。 
また、空中の明月は、みなひとしくこれを仰ぐが、月には別にそこにいたるという意識はないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
大梵王はあまねく三千世界に応現するがその身に差があるわけではないように諸仏の法もまた、それとおなじである。」

(原文・華厳経明難品・説法甚深の部分
爾時、文殊師利は徳首菩薩に問うて言く「佛子よ、如來は唯だ一法を覚るのみなるに云何んが乃ち無量の諸法を説き、音聲は無量世界に遍滿し悉く能く無量の衆生を教化し、無量の聲を出し、無量の身を現じ、無量の衆生の心意を了知し、無量の神足自在を示現し、無量無邊世界を示現し、無量の殊勝莊嚴を示現し、無量の種種の境界を示現したまふや。而も法性は分別するに實に不可得なり。」
爾時、徳首菩薩は偈を以て答て曰く、
「佛子よ、乃ち能く 甚深微妙義を問へり
智者は若し此を知らば 常に樂ひて功徳を求ん。
猶ほ地性は一なれども 能く種種の物を持し
一異を分別せざるがごとし 諸佛の法も如是なり。
猶ほ火性は一なれども 能く世間の物を焼き
火性に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大海の水の 注ぐに百の川流を以てするも
其味は別異無記が如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ風性は一なれども一切の物を吹動し、
風性に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ龍の雷震して 普く一切の地に雨ふらすも
雨渧に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大地は一なれども 能く種種の芽を生じ
地性に別異無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ日に雲曀無く 普く能く十方を照らし
光明に異性無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ空中の月の 世間に見ざることなけれども
一切處に至らざる無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大梵王の 普く大千に應現すれども
其身に別異無きが如く 諸佛の法も如是なり。」

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