一 「過去世において、われは有ったか、また、無かったか」など、「これらの世界は常住である」などという二種の四つの見解は、過去の一方的見解に依っている。
二 未来の世においてわれは存在しないのであろうか、あるいは他のものとして存在するのであろうか、また、【世界は】有終である、などというもろもろの見解(他の二種の四見)は、後の【未来の】一方的見解に依っている。
三 「過去世において、われは有った」というこのことは成立しない。何となれば前の生涯において有ったものは、そのままこの【われ】ではないからである。
四 しかしながら【前の世にあった】アートマンがいまこのわれとなっているのであるというならば、執著のもと(個人存在を構成している五要素)が【アートマンとは】区別されてしまう。では、執著のもとを離れた【それとは異なった】いかなるアートマンが汝に存するのでろうか。
五 「執著のもとをはなれた【別の】アートマンは存在しない」ということが成立したならば、アートマンとは執著のもとであるということになる。では汝にとっては「アートマンは存在しない」ということになる。
六 また執著のもとがそのままアートマンなのではない。その執著のもととなるものは消失し、また興起する。実に執著のもとが執著して取る主体であるということが、どうしてありえようか。
七 また執著のもとと異なる執著の主体なるものはありえない。何となれば、もし両者が異なるならば、執著のもとをもたない【主体】なるものが認識されるはずである。しかし【そのようなものは】認識されない。
八 このように、そのアートマンは、執著のもとと異なったものでもないし、また執著のもとと同一でもない。執著のもとをもたないアートマンは存在しない。またそのようなアートマンが存在しないというのでもない。―――このように決定される。
九 「過去世において、われは存在しなかった」ということは、ありえない。何となれば、前の生涯において有ったもの
は、【今のわれと】異なったものではないからである。
一〇 もしも【いま現在ある】この【アートマンが】【前世のそれと】異なったものであるならば、以前の生涯におけるアートマンを捨てて存在するのであろう。しからば、以前からのアートマンがそのまま存続することになるであろう。あるいは、不死のものでありながら、また生まれるということになるであろう。
一一 しからば、個人存在の断滅、もろもろの業が果報を実現することなしに滅びてしまうこと、また他人のなした業の報いを別の他人が享受することになるなどの欠点が付随して起こるであろう。
一二 【アートマンは】以前には存在しないでいま生起したのではない。何となれば【もしもそうだとすると】、欠点が付随して起こることになる。あるいは【アートマンは】つくられた本性のものとなってしまうだろう。あるいは原因がないのに生起したものとなってしまうだろう。
一三 このように「過去においてわれは無かった」とか「過去においてわれは有った」とか「われは両者であった」とか「われは両者ではなかった」とかいうこの見解は成立しない。
一四 「未来の世においてわれは存在するであろうか」とか、「未来の世においてわれは存在しないであろう」とかいうこの見解は、過去世【に関するもの】と同様である。
一五 もしも神であったものがこの人間となるのであるならば、【このような見解は】常住【を執するものである】。また神は生じないものとなるであろう。何となれば、常住なるものは生ずるということがないから。
一六 もしも人間が神と異なったものであるならば、しからば【このような見解は】無常【を執するもの】となるであろう。もしも人間が神と異なったものであるならば、個体としての連続はありえない。
一七 もしも【連続している個人存在が】一部分は神的で、一部分は人間的であるならば、無常でもあり、常住でもあることになるであろう。しかしそういうことは理に合わない。
一八 もしも無常と常住との両者が成立するならば、<常住でもなく、無常でもない>ということが、欲するままに成立するであろう。
一九 もしも或る人が、どこから来て、またどこかへ行くというのであるならば、その故に輪廻は無始の者となるであろう。しかしながら、そのようなものは存在しない。
二〇 もしも、(一)いかなる常住なるものも存在しないのであるならば、(二)いかなる無常なるものが存在するであろうか。また(三)いかなる常住にして無常なるものが存在しうるであろうか。また(四)両者を離れて【常住でもなく無常でもない】いかなるものが存在しうるであろうか。
二一 もしも世界が時間的に有限なるものであるならば、どうして他の世界(来世)が存在するであろうか。またもしも世界が時間的に無限であるとしても、どうして他の世界(来世)が存在するであろうか。
二二 個体のもろもろの構成要素よりなるこの連続は、灯火の光輝の連続のようにつづいて存在しているから、それ故に、時間的に有限であるとか無限であるとかいうことは、理に合わない。
二三 もしも個体を構成している、以前の諸要素が壊滅し、そうして個体を構成しているこの諸要素に縁って後の諸構成要素が生起しないのであるならば、世界は有限なるものとなるであろう。
二四 もしも個体を構成している、以前の諸要素が壊滅しないで、そうして個人を構成しているこの諸要素に縁って後の諸構成要素が生起するのでないならば、しからば、世界は時間的に無限となるであろう。
二五 もしも(世界が)一部分は有限で、また一部分は無限であるというならば、世界は時間的に有限にしてかつ無限なるものであるということになるであろう。しかし、そのことは理に合わない。
二六 まず、執著して取る主体の一部分が消滅して、他の一部分が消滅しないということが、どうしてありえようか。そうだとするならば、このことは理に合わない。
二七 また執著のもとの一部分が消滅して、他の一部分が消滅しないということが、どうしてありえようか。このことは成立しえない。
二八 もしも、時間的に有限であることと無限であることとの両者が成立するのであるならば、<時間的に有限でもなく、無限でもない>ということもなるほど成立するであろう。
二九 あるいはまた、一切のものは空であるから、<常住>などの諸見解は、いずれが、どこで、だれのために、何故に起こるのであろうか。
三〇 一切の【誤った】見解を断ぜしめるために憐憫をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命(きみょう)したてまつる。
二 未来の世においてわれは存在しないのであろうか、あるいは他のものとして存在するのであろうか、また、【世界は】有終である、などというもろもろの見解(他の二種の四見)は、後の【未来の】一方的見解に依っている。
三 「過去世において、われは有った」というこのことは成立しない。何となれば前の生涯において有ったものは、そのままこの【われ】ではないからである。
四 しかしながら【前の世にあった】アートマンがいまこのわれとなっているのであるというならば、執著のもと(個人存在を構成している五要素)が【アートマンとは】区別されてしまう。では、執著のもとを離れた【それとは異なった】いかなるアートマンが汝に存するのでろうか。
五 「執著のもとをはなれた【別の】アートマンは存在しない」ということが成立したならば、アートマンとは執著のもとであるということになる。では汝にとっては「アートマンは存在しない」ということになる。
六 また執著のもとがそのままアートマンなのではない。その執著のもととなるものは消失し、また興起する。実に執著のもとが執著して取る主体であるということが、どうしてありえようか。
七 また執著のもとと異なる執著の主体なるものはありえない。何となれば、もし両者が異なるならば、執著のもとをもたない【主体】なるものが認識されるはずである。しかし【そのようなものは】認識されない。
八 このように、そのアートマンは、執著のもとと異なったものでもないし、また執著のもとと同一でもない。執著のもとをもたないアートマンは存在しない。またそのようなアートマンが存在しないというのでもない。―――このように決定される。
九 「過去世において、われは存在しなかった」ということは、ありえない。何となれば、前の生涯において有ったもの
は、【今のわれと】異なったものではないからである。
一〇 もしも【いま現在ある】この【アートマンが】【前世のそれと】異なったものであるならば、以前の生涯におけるアートマンを捨てて存在するのであろう。しからば、以前からのアートマンがそのまま存続することになるであろう。あるいは、不死のものでありながら、また生まれるということになるであろう。
一一 しからば、個人存在の断滅、もろもろの業が果報を実現することなしに滅びてしまうこと、また他人のなした業の報いを別の他人が享受することになるなどの欠点が付随して起こるであろう。
一二 【アートマンは】以前には存在しないでいま生起したのではない。何となれば【もしもそうだとすると】、欠点が付随して起こることになる。あるいは【アートマンは】つくられた本性のものとなってしまうだろう。あるいは原因がないのに生起したものとなってしまうだろう。
一三 このように「過去においてわれは無かった」とか「過去においてわれは有った」とか「われは両者であった」とか「われは両者ではなかった」とかいうこの見解は成立しない。
一四 「未来の世においてわれは存在するであろうか」とか、「未来の世においてわれは存在しないであろう」とかいうこの見解は、過去世【に関するもの】と同様である。
一五 もしも神であったものがこの人間となるのであるならば、【このような見解は】常住【を執するものである】。また神は生じないものとなるであろう。何となれば、常住なるものは生ずるということがないから。
一六 もしも人間が神と異なったものであるならば、しからば【このような見解は】無常【を執するもの】となるであろう。もしも人間が神と異なったものであるならば、個体としての連続はありえない。
一七 もしも【連続している個人存在が】一部分は神的で、一部分は人間的であるならば、無常でもあり、常住でもあることになるであろう。しかしそういうことは理に合わない。
一八 もしも無常と常住との両者が成立するならば、<常住でもなく、無常でもない>ということが、欲するままに成立するであろう。
一九 もしも或る人が、どこから来て、またどこかへ行くというのであるならば、その故に輪廻は無始の者となるであろう。しかしながら、そのようなものは存在しない。
二〇 もしも、(一)いかなる常住なるものも存在しないのであるならば、(二)いかなる無常なるものが存在するであろうか。また(三)いかなる常住にして無常なるものが存在しうるであろうか。また(四)両者を離れて【常住でもなく無常でもない】いかなるものが存在しうるであろうか。
二一 もしも世界が時間的に有限なるものであるならば、どうして他の世界(来世)が存在するであろうか。またもしも世界が時間的に無限であるとしても、どうして他の世界(来世)が存在するであろうか。
二二 個体のもろもろの構成要素よりなるこの連続は、灯火の光輝の連続のようにつづいて存在しているから、それ故に、時間的に有限であるとか無限であるとかいうことは、理に合わない。
二三 もしも個体を構成している、以前の諸要素が壊滅し、そうして個体を構成しているこの諸要素に縁って後の諸構成要素が生起しないのであるならば、世界は有限なるものとなるであろう。
二四 もしも個体を構成している、以前の諸要素が壊滅しないで、そうして個人を構成しているこの諸要素に縁って後の諸構成要素が生起するのでないならば、しからば、世界は時間的に無限となるであろう。
二五 もしも(世界が)一部分は有限で、また一部分は無限であるというならば、世界は時間的に有限にしてかつ無限なるものであるということになるであろう。しかし、そのことは理に合わない。
二六 まず、執著して取る主体の一部分が消滅して、他の一部分が消滅しないということが、どうしてありえようか。そうだとするならば、このことは理に合わない。
二七 また執著のもとの一部分が消滅して、他の一部分が消滅しないということが、どうしてありえようか。このことは成立しえない。
二八 もしも、時間的に有限であることと無限であることとの両者が成立するのであるならば、<時間的に有限でもなく、無限でもない>ということもなるほど成立するであろう。
二九 あるいはまた、一切のものは空であるから、<常住>などの諸見解は、いずれが、どこで、だれのために、何故に起こるのであろうか。
三〇 一切の【誤った】見解を断ぜしめるために憐憫をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命(きみょう)したてまつる。